第17話 固茹で卵には早過ぎる 問題編



参考:モーリス・ルブラン原作『八点鐘(原題:Les huit coups de l'horloge)』より、『水びん(La Carafe d'eau)』

   アガサ・クリスティ原作『ミス・マープルと13の謎(原題:Miss Marple and the Thirteen Problems)』より、『動機対機会(原題

:Motive v Opportunity)』





 週刊誌記事(筆者:鳴滝歩)より抜粋―――


「ひょっとしたら、天罰だったのかもしれない」。

 そう語ったのは近所に住む主婦、A子さん(五十二)だった。何のことかは言うまでもない。十月十二日の昼時に起こった広沢家全焼事件についてだ。室内にいた坂田裕康さん(四十四)が焼死したこの事件、近隣の反応は冷たいものだった。ニュースでは「内縁の夫だった」と報道されている坂田裕康さんだが、実態はもっと酷いものだったという。居候、穀潰し、寄生虫……。住民が語る坂田裕康さん像は散々なものだった。

「夜中に子どもの泣き叫ぶ声やガラスが割れるような音が聞こえたり……。やっぱDVだったんじゃないですかね、あれ」。

 斜向かいのマンションに住む大学生(二十)もそう証言している。警察は発火の原因は煙草の不始末であると発表しているが、二人の子どもは学校におり、内縁の妻はパートに出ている時間を狙い澄ましたかのように起きた事件は三人を苦しめる男に対して神が下した天罰だったのではないかと思えて仕方がない。天罰は何も、雷ばかりではない。いや、秋晴れの日なればこそ天の上からでも苦しむ人が見えるのだろう。警察は素知らぬ顔で乾燥する時期の火の始末には十分気を付けるようにと会見で語っていたが、理不尽な暴力に苦しむ子どもを救わなかった警察がどの面を下げてそんなことを言えるのか甚だ疑問である……







「やあ、今日も来たね。プリンを買ってきたんだけど……食べる?」


 窓際に佇むリンネさんはいつも通り柔らかな笑みを僕に向けて、そう言った。


 彼が指し示した机の上には何処かの洋菓子店のロゴが入った白い箱がある。

 前はケーキが入っていたその箱の中に今日はプリンがあるのだろう。


 ……しかし、それにしてもこの人、最低でも二週間に一回、多い時は週二回もアルマお姉さんの病室に来ているけど、ちゃんと仕事をしているんだろうか?

 挨拶とお礼を言い終えた僕はそんなことを疑問に思いながら来客用の椅子に腰掛け、プリンを取り出した。


 もう半年以上の付き合いになるけれど、未だに僕はリンネさん――鞍馬輪廻という人がどういう仕事をしているのか分かっていなかった。

 一度訊いてみないとなあ。

 綺麗な焦げ茶色の表面にプラスチック製のスプーンを突き刺しながら、ぼんやりと考える。


「先に言っておきますが眼帯君、今日は謎はないそうですよ」

「なーんだ」


 鞍馬輪廻。

 別名、僕達のレストレード警部。


 時折はこの退屈極まりない閉鎖空間に刺激的な謎を持ち込んでくれるけれど、今日はそういう日ではないらしい。

 御陵あるまのワトソンである僕としては残念な限りだった。


「ただしそのプリンは美味しいです」

「……ホントだ。すっごく美味しいよ、これ!」

「喜んでくれたなら良かった。やっぱり美味しい物を食べて幸せそうな顔をしている女の子は可愛いね」


 不意にそう笑い掛けられて、思わず僕は赤くなった顔を背ける。

 リンネさんがそういうことを誰にでも言う――少なくともアルマお姉さんには同じようなことを言うことは分かっているけれど、たまに褒められるとどうしても照れてしまう。


「まったく……。いつも思うのですが、恥ずかしくないんですか? そういうことを躊躇いなく口に出して」

「自分に正直でありたいだけだよ。好きなものは好きと、美味しいものは美味しいと、可愛いものは可愛いと言いたいだけだ」

「仕事柄、わざとそうしているだけでしょう?」


 アルマお姉さんの厳しい言葉にも彼は笑う。


「僕みたいな仕事をしている人は目が不自由な人と接することも多いから、声だけで自分の感情が伝わるように工夫していることも多いけれど、僕はそこまで器用じゃないよ。単に、感情が表に出やすいだけだ」

「そうですか。では、そういうことにしておいてあげましょう」

「手厳しいなあ」


 いつも通りシニカルなお姉さんの物言い。

 リンネさんの見る者をふっと緩ませる笑みも安心させるような雰囲気も、彼女には通用しないようだった。


「それにしても京都の人間――特に、あの碁盤の目の中に住んでおられる方々は本音を言わないと聞きますが、リンネさんは常に本音という感じですね」

「僕がどう見えているかはともかく、そういう評判に対しては懐疑的だね。少なくとも僕の知り合いは皆良い人だったよ」

「リンネさんって、京都市内出身なの?」

「いや、大学時代に住んでいたことがあるだけだよ。それでも丸四年間住んでいたし、学校やバイトや実習で少なくはない人と知り合った。実際に暮らしていた限りはテレビやネットで言われているような陰険な印象は受けなかったかな。人は沢山いるから、そりゃ揉め事や事件は他の街に比べれば多い――でも、大阪市内や東京二十三区内に比べれば少ないと思うよ。ただの印象論だけど」


 僕の問いに首を振ってから、この社会人のお兄さんはそう答えた。

 リンネさんが大卒ということは知っていたけれど、京都の大学出身らしい。

 いつだったかお姉さんが「京都は学生の街なんですよ」と言っていたことを思い出す。

 今は何をしているのか分からない彼も、つい数年前までは毎日大学に通い、恐らくは真面目に勉学に勤しんでいたのだ。


「揉め事や事件は他の街に比べれば多い、ですか」


 興味深そうにリンネさんの言葉を繰り返して、お姉さんは笑みを浮かべた。

 嘲りの感情を隠し切れていない、天才らしい微笑を。


「それは例えば、あなたが関わったというあの火災――とか?」


 ―――その瞬間に起こったことを僕は一生忘れられないだろう。


 いや、そう表現すると語弊がある。

 実際は何も起こらなかった。

 ただ僕は感じた。

 分かってしまった。


 お姉さんがその一言を口にした瞬間、鞍馬輪廻という存在を成していた穏やかさが瞬間的に霧散し、大きな目が細められその眼光が鋭く変わり、燃え盛る炎のような激しい感情がその瞳の奥を過ぎり――最後に明らかな敵意を伴った視線がお姉さんを射抜いたことを。


「何の話かな、アルマさん」


 刹那の変化を信じられず目を擦ると、リンネさんはもう既にいつものような優しいお兄さんに戻っていた。

 そのことが何よりも恐かった。

 あんな激しい感情に苛まれた直後でも、何事もなかったかのように笑みを浮かべることができる鞍馬輪廻という人が、とても。


 ……京都市内に住んでいる人に裏表があるというのは本当のことなのかもしれない。


「誤魔化し方が下手過ぎます。動揺しているんですね。細かな事情は私が知ったことではないですが、触れられたくない事柄だったのならば謝罪しますよ」


 お姉さんは笑みを浮かべたまま、平然とそう言った。

 あの強烈な視線を浴びてもいつも通りであることを称賛すべきなのか、それとも全く悪びれる様子のないことに呆れるべきなのか、僕には分からない。

 分かることは、お姉さんがリンネさんの触れられたくない過去に触れたということだけだった。


「……そういうわけじゃないよ。ただ、いきなりだったから驚いただけだよ」

「そうですか?」

「最近知り合った、ここ数年ずっと入院していたという相手に、いきなり自分の大学時代のことを――しかも、それほど有名でないはずのことを言われれば、誰だって驚く」

「ふふ、それもそうです。何故知っているのかと言われれば、そうですね……。私は別に探偵ではありませんが、探偵のように調査や推理をほとんど習慣的に行ってしまう、と思っていてください。私の友人達もそういう詮索好きが多いもので」


 第一、とお姉さんは続けた。


「あなたは確かにあの事件の被害者でも加害者でも傍観者でも、下手をすれば関係者ですらありませんが、探偵役ではあったわけですから。その時の評判を知っている人間がいたとしてもおかしくはないでしょう?」

「それは……!」


 と、彼が何かを言い掛けたその時、低い振動音が聞こえ始めた。

 僕が携帯のバイブレーター音だと気付くのとほぼ同時に、リンネさんが折りたたみ式のスマートフォンを取り出していた。

 珍しいガラケー型の電話を手に彼は手刀を切る。


「ごめん、仕事の電話みたいだ。話の続きは今度にさせてもらっていいかな?」

「ええ、構いませんよ。勤務時間中に病院で油を売っていたことは黙っておきます」

「手厳しいね、アルマさんは」


 そうして苦笑いをし、僕達二人にもう一度謝罪してからリンネさんは扉の方へと歩いて行く。


「……もしもし? ああ、なんですか? ……預かった手紙が摩り替えられた? 『いつの間にか白紙になってた』って……。落ち着いて、最初から説明してください……」


 携帯で通話をしながら彼は早足で病室を出て行った。


 ……なんだか謎がありそうな会話だったけど、内容はまた今度聞くことにしよう。

 多分また近い内に来るだろうから。


 そう、そんなことよりも僕はお姉さんに訊かなければならないことがあるのだ。


「ねえお姉さん」

「なんでしょうか。概ね予想は付きますが」

「予想通りだと思うけど、訊きたいから訊くね。……さっき言ってたのって、どういうこと?」

「どういうことも何も、リンネさんの過去のお話です。眼帯君だって、あの人が人並み以上の洞察力や思考力――言い換えれば、探偵としての素質を持っていることは知っているでしょう?」

「そりゃ知ってるけどさ……」

「ならば話は単純そのものです。今から何年か前、大学生鞍馬輪廻は一つの事件を解決した。それだけですよ」

「それだけ、って……」


 ミステリマンガじゃないんだから、そんな風に簡単に事件に巻き込まれるなんて信じられない。

 僕がそう言うと、彼女はふんと鼻で笑ってから続ける。


「先ほどリンネさんがおっしゃっていたじゃないですか。『揉め事や事件は他の街に比べれば多い』と」

「言ってたけど、だからって、」

「それに――それにですよ? 京都は学生の街、歴史情緒溢れる都という側面を持ちますが、同時に名探偵の宝庫でもあるんです。ミステリーの名所揃いですよ」

「そうなの?」

「そうじゃありませんか? あの京都日報のヒラ記者さんが走り回っているのは京都ですし、京都地方検察庁には名物検事が、鴨川東警察署資料課には名刑事がいらっしゃいます。記憶が正しければ学生に人気の河原町にある警察署には管理職なのに捜査を行う副所長もおられますね。上京区の京都警察本部の科学捜査研究所には非常に優秀な法医学研究員がいたはずです。舞台は関東でも、あの陰陽師兼古本屋の屋号は元は京都にあったものです。北森鴻の小説はタイトルからして『京都』という文字が入っていますし、他に小説の有名どころを挙げるなら、千中の骨董品みたいなアパートには紅い名探偵がよく出入りしているでしょうし、これはもう言うまでもないでしょうが、かの有名な日本探偵倶楽部の本部が中京区の交差点にあります。最近の作品なら、そうですね、市役所近くの喫茶店には聡明な童顔のバリスタがいるじゃないですか。それは二条通りですが、三条通りにだって……」


 つらつらと様々な京都の名探偵(らしきキャラ)を並び立ててみせるお姉さん。

 立て板に水、とは今の彼女のことを言うのだろう。

 アルマお姉さんはまるで常識のように語っているけれど、普通の人は『京都』というキーワードだけでそんなに沢山名探偵を挙げられない。

 僕にはほとんど分からなかった。


 というか、お姉さん。

 やっぱりなんだかんだ言いながらミステリ好きなんじゃないか。

 しかも、相当に。


「……まあ、とにかくです。京都がミステリの舞台になることが多いのは分かっていただけたと思います。では、何故京都を舞台にした推理小説や刑事ドラマが多いのか? 一つは有名な街だからでしょう。でも大きな理由の一つは、多くの人間が暮らしているからだと思います。あの碁盤の目の中に様々な人間が住んでいる。だから、事件が起こってもおかしくないですし、実際に事件は多い」

「そうなのかなあ……?」

「なんにせよ、大学生の頃のリンネさんが事件解決に一役買ったことは事実ですよ。私の知る限り、それはフィクションの中のような劇的な謎ではなく、ごく単純なものでしたが……」


 僕のホームズは窓の向こうの青空に目を遣る。

 一枚隔てた向こうにはその京都に続いている空が広がっていた。


「尤も、ドラマのように『火元はお前だ』なんて格好良く犯人を指名したりはなしかったでしょうがね」


 そうして、お姉さんは話し始める。

 リンネさんが探偵役として関わったという事件の話を。

 彼女の少し低めな、心地良い声に耳を傾けながら僕は思う。


 僕がいつか、あのワトソン博士のようにお姉さんの活躍を本にすることになったら、外伝としてこういうリンネさんの話を収録しても良いかもしれない、と。

 例えば今回の事件ならば、こんな風な書き出しにしようか。


 「それは寒さが厳しくなり始めた十月後半のことだった。その時、鞍馬輪廻は大学三回生だった」―――。







 注文したトーストが運ばれてきたのは、僕が読み終わった文庫本を閉じたその時だった。


 飲みかけのコーヒーに砂糖を一つ入れながら、テーブルに並べられる皿――遅目の朝食を見る。

 バターの乗ったトーストに茹で卵が一つ。


「ブラックへの挑戦は今日も断念かな?」


 中年の主人に話し掛けられ、思わず苦笑。


「どうして分かったんですか? 僕、言いましたっけ。苦手なコーヒーに挑戦中だって」

「言ってないけどね。でも毎週毎週うちに来て、コーヒーを頼んで一口飲んで渋い顔をして、しばらく後に砂糖とミルクを入れてる様子を見てたら、そりゃあね」

「ははは……」


 どうやら全部見られていたらしい。

 恥ずかしい限りだった。

 最初は入ることにも抵抗があった個人経営の喫茶店も、通い詰めてしまえばなんてことはなく、快適そのものだ。

 コーヒーは相変わらず苦いけれど、それもいつかは慣れるだろう。


「……でも、恥ずかしいなあ、見られてたっていうのは」

「そりゃこんな狭い店にお客さんが一人だけならね。しかし君、いつも注文してもらっていて言うことじゃないだろうけれど、苦手ならわざわざコーヒーなんて飲む必要ないだろうに」


 カウンターの向こうのご主人にそう言われ、そうですね、と僕は同意する。


「それはその通りなんですけど……。ほら、ドラマや小説の中の大人ってブラックのコーヒーとかよく飲んでるじゃないですか。もう二十一ですし、コーヒーくらいブラックで飲めないと恥ずかしいかなー、と……」

「もういい年の人間からすると、そうを考えていることが若いな、という印象だよ」

「仰る通りです……」


 言われてみれば、その通り。

 恥ずかしくて仕方がなく、また僕は笑って誤魔化した。


「コーヒーもそうだが、君は形から入る人間だよね」

「そう見えますか?」

「そう見えるよ。よくジャケットの胸ポケットに煙草を入れている割に、一度も吸っているところを見たことがない。他のお客さんが来て煙草を吸っても、吸いたそうにする様子もない。こないだなんて、お友達が目の前で煙草を吸っていたのにホットケーキを食べていたし」

「……いや、もう……。仰る通りです……」


 そろそろ笑って誤魔化すのも限界だった。

 恥ずかし過ぎて笑えない。

 この店に来れなくなりそうだ。

 そんなことを思いながら、一口コーヒーを啜り、僕は言った。


「……砂糖菓子の弾丸で戦う子どもからはそろそろ卒業して、早く大人になりたいですから」

「よく分からないけれど、それで煙草やコーヒーを?」

「はい。僕の思う、タフで優しい大人のイメージです」

「なるほどねえ……。こう言ってはなんだけど、君はそういうタイプにはなれそうにない気がするけどね、私は。良い意味で、酷く感情的なタイプだと思うよ」

「僕、ギムレットは好きですよ?」

「つくづく形から入る人間だね、君は。というか、探偵が好きなんだね」


 笑われてしまった。

 流石にギムレットは気取り過ぎだったかもしれない。


「で? そのカッコ良い大人を目指す君は今日は何処へ? 大学……いや、それとも別の用事かな」

「どうして分かるんですか? 僕が大学生だと」


 そう問い掛けて、トーストを齧りながら考える。

 この店でレポート作成のような大学生らしいことをしたことはなかった。

 京都は大学生が多いけれど、フリーターのような若い社会人だって多いはずだ。

 前に友人と来た際に学校の話をしただろうか?


「そりゃ分かるさ。春先から夏前までは毎週火曜の昼過ぎ、八月は来ず、九月は不定期。そして十月に入ってからは毎週月曜の三時以降にいつも来ている。ほぼ毎週同じ店に行くわけだから、規則正しい人間だろう。でも規則正しい割には春から夏、夏の間、秋以降で完全に生活パターンが違うことが分かる。この時点で、恐らく君は大学生だ。店に来る時間が変わったのは春夏学期と秋冬学期で時間割が変わったから。八月と九月は丸々休みだから、予定があれば全然来れないだろうし、反対に暇ならばいつでも来れる。……もっと言えば、十月の一週目にうちに来た時に大学生協のロゴが入ったビニール袋を持っていたからね。大学生協を利用するのが大学生だけとは限らないけれど、袋の中身は本のようだったし、学期が変わって教科書を新しく買ったんだろうと思ったんだ」


 コーヒー豆を挽きながら、なんてことはないようにご主人は説明を続ける。


「大学生が毎週平日の同じような時間に来るということは、きっと大学の行きか、帰りに寄り道をしているんだろう。でも君はさっき言ったように商品の入った袋を持って来ることもあるし、何よりいつも時間を気にする様子がなく、新聞や本なんかを読み終わり次第店を出る。そこから後に予定がなく、家に帰るだけということが分かるから、普段は学校帰りに来てくれているんだろうと思っていた」

「でも、今日は木曜の午前中にやって来た」

「そう。大学に行く前に気が向いたから寄り道をしたのか。でも、それにしては今日も時間を気にする様子はない。朝っぱらからこの店に来る為だけに家を出たとは考えにくいし、何処かへ、個人的な用――しかもそこまで時間を気にする必要がない用事を果たす為に外出し、その前にここに来たんじゃないかと思ってね」


 だから「今日は何処へ」か。

 昔からハードボイルドな探偵に憧れている僕だけど、このご主人の方がよほど探偵らしい気がする。

 客商売故の観察力、というものだろうか。

 トーストを食べ終わった僕は卵の殻を剥きながら質問に答えた。


「猫探しですよ」

「猫探し?」

「はい、友達に頼まれまして。見ず知らずの猫さんを歩き回って探してきます」


 探偵っぽいでしょう?

 そう僕が言ってみせると、ご主人はやれやれという具合に笑って言った。


「小説の格好の良い探偵は猫探しなんてしないだろうけどね」


 いやまったく、その通り。

 いっそのこと緑の帽子でも被ってやろうか。

 僕はまた苦笑しながら茹で卵を口にした。

 卵は完熟でも、僕自身はハードボイルドには程遠いようだった。


 言うまでもないことだが、僕鞍馬輪廻は探偵などという格好の良い職業には就いていない。

 ただの大学生である。

 何故ただの大学生である僕が見たこともない他人の猫を探すことになったのかと言えば、理由は極めて単純で、可愛らしい後輩に頼まれたらだった。


「鞍馬先輩、あの……お願いがあるんですが」


 彼女からそう切り出されたのは昨日、水曜日の三限目が始まる前のことだった。


 彼女――平野マイ。

 僕より一つ年下の二回生。

 本人曰く「紫外線が気になる」そうで年がら年中、即ち今日も長袖を着ている。

 その成果なのか、今日も透けるような白い肌と黒い髪のコントラストが綺麗だった。

 化粧っけがないことも相俟って非常に幼く見え、こんな言い方をしては悪いのかもしれないけれど、オタクにモテそうな見た目をしている。

 ついでにサークルで近所の小学校の学童保育の手伝いをしているそうで、聞いた話ではそういう部分も男受けが良いらしい。


「どうしたの、平野さん。改まって」


 ただ、僕はあまり、この平野マイという少女が好きではなかった。

 なんとなく苦手だったのだ。


 しかし苦手だからと言って邪険にする必要もない。

 後輩であることは変わらないし、僕が一方的に勝手に苦手に思っているだけで、多分良い子なのだ、彼女は。

 なので極力、愛想の良い笑みを浮かべて言葉に応じた。


「あの……先輩って、知り合いが多いですよね? 警察の偉い方とも知り合いだって聞いたんですけど……」

「確かに知り合いに警察の人間はいるけれど……」


 とりあえず答えたものの、いきなり交友関係を訊かれるなんて何のお願いだろう?


「あと、注意力や観察力も高いとか」

「低くはないと信じたいけど、一体どうしたの?」

「こんなことをお願いするのは失礼かもしれないんですが……猫を探して欲しいんです」

「猫?」

「はい」


 平野マイは現在ホームヘルパーのアルバイトをしているらしい。

 今はある独居のおばあちゃんの家に入っており、服薬管理を始めとしたちょっとした身の回りのお世話を行っているとのことだった。

 さて、そのおばあちゃんは猫を飼っているらしい。

 一人暮らしで家族と会うことも少ないため猫がおばあちゃんの心の支えにもなっていたのだが、その猫が一昨日から帰ってきていないそうなのだ。


「昨日私が家に行くと、凄く落ち込んでいて……」

「そんなに心配するってことは普段は滅多に出掛けない猫なんだ」

「いえ、出掛けはするんですけど、すぐに戻ってくるんです。大体、半日くらいって言ってたかな……。でも今回は一日以上戻ってこなくて、おばあちゃん、もしかしたら死んじゃったんじゃないかって心配して……」

「……死んじゃった?」

「はい」


 聞くところによると、そのおばあちゃんの家は昨日――火曜日の昼間に起こった一家半焼の火事の現場のすぐ近くなのだそうだ。

 もしかしたら、火事に巻き込まれて死んでしまったのではないか。

 そう思い、おばあちゃんは酷く落ち込んでいるらしい。


「私は家出しちゃったのかなって思ってるんですけど……。ほら、猫って環境が変わるとショックを受けるって言うじゃないですか。火事に驚いて、何処か遠くへ行っちゃったのかなって」

「……それで、僕にそのいなくなった猫を探して欲しい、と」


 あるいは。

 火災現場から猫の死体が発見されなかったか、警察に訊いてみて欲しいと。

 僕に頼むということは多分、そういうことなのだろう。


「私も探してるんですけど、迷惑じゃなかったら先輩にもお願いしたいなって……」

「うん、構わないよ。力になれるかどうかは分からないけれど、知り合いに訊いてみるくらいのことはしてみよう」

「本当ですか!? ありがとうございます!」


 大声でお礼を述べる平野マイ。

 こんな声が出せたのかと驚く僕。

 本人的にも思ったよりも大きな声になってしまったようで、彼女は周囲に注目されることに気付くと恥ずかしそうにはにかんだ。


 やっぱり良い子なのだろう。

 僕は苦手だけど、彼女が他人の為に何か行動を起こせるような人間であることは確かで。

 だったら少し力を貸すのも悪くないと僕は思ったのだ。







 回想を終えた僕は改めてその場所に目を遣った。


 古い一軒家は二階から上がほぼ全焼しており、真っ黒く焼け焦げた柱が痛々しく露出し、嫌な匂いが辺りに漂っていた。

 つい一昨日の事件ということで、現場には黄色いバリケードテープが貼られ、その中では数人の警察か消防の人間が何か調査を行っている。

 火災調査、というやつだろう。

 報道によると出火箇所は二階の西側の一室ということだが、今はどの場所にあったのかすら分からない。

 また原因は煙草の不始末と推定されるとのことだった。

 現場からは一人の遺体が発見されたものの、猫らしき死体は見つかっていないらしい。

 こちらは京都府警に務める叔父さんに連絡し聞いた内部情報だ。


「……尤も火災においては現場が原形を留めていないため、正確な原因や過程を知ることは困難、か」


 電話で言われたことを一人、繰り返した。

 叔父さんが言わんとしたのは「遺体も残らないくらいに燃えてしまっていることもある」ということか。

 それとも、「今後捜査が続いていく中で見つかる可能性もある」だろうか。

 どちらにせよ、遺体が見つかっていないからと言って楽観視できないことは確からしい。


 平日の昼間、事件が起こって丸一日以上経っていることもあり、野次馬らしき人影はほとんど見当たらない。

 報道陣の姿も見えない。

 この社会にはあまりにも悲劇が多いから、テレビ局も一つの事件ばかりをずっと取材しているわけにはいかないのだ。

 近所の住人らしき主婦や高齢者も現場を一瞥して、それぞれの家に消えていく。

 必然的に何もない通りで立ち止まり、ぼーっと半焼した建物を見ている僕の姿は目立ってしまう。

 見張りの警察官に怪訝な視線を向けられて、愛想笑いと会釈を返して歩き出す。

 しまった、ヘラヘラ笑っていたら怪しく見えるかもしれないと一瞬後悔するものの、だからと言って無表情でも怪しいことに違いはない。


 暇な大学生が事件の現場を見に来た、くらいに思ってくれれば良いだろう。

 実際その通りだ。


「ねえ、ちょっとそこの背の高い君」


 そう話し掛けられたのは、移動し始めてすぐのことだった。

 なんでしょうか。

 答えながら振り返ると、そこには若い女性が立っていた。


「ええっと……」


 戸惑うフリをして、一瞬間視線を上下へと走らせる。

 軽く染められた茶髪にハンチング帽。

 胸ポケットにはペン。

 動きやすそうなパンツに革靴風のスニーカー、そして肩掛けバッグ。

 フォーマル風のファッションは中性的だが、身体付きも顔付きも非常に女性らしい。

 チャームポイントは頭一つ分より低い位置からしっかりと僕を見据える大きな黒の瞳だろう。

 好奇心の旺盛さが一目で分かる、両の瞳。


「あの、何か御用ですか? ひょっとして何処かでお会いしましたっけ?」


 恐らく、この人は記者だ。

 そして多分、平野マイとは違う感じに僕が苦手なタイプだ。

 瞬間的にそう判断する。


「いや初対面だよ。それより君、ちょっと話を聞かせてもらってもいいかな? この辺りに住んでるの?」

「いえ、近所と言えば近所ですが、そこまで近くに住んでいるわけではありません」

「いくつ? 大学生?」

「はい」


 受け答えをしながら、ゆっくりと歩き始める。

 やんわりとした拒絶の態度。

 だが相手も付いてくる。


 ナンパだったら嬉しいけれど、どう考えてもそういう感じではない。

 ジャーナリストの類はあまり好きではないけれど、この人が記者だとしたら少し話してみるのも悪くないだろう。


「お姉さんは記者の方ですか?」


 そんな思惑を持ちながら逆に問い掛ける。


「そうだよ。察しがいいね、君」

「ありがとうございます。火事の取材をしていらっしゃるんですか?」

「そうそう。で、何か知ってることがあれば話を聞かせて欲しいなって」

「大したことは答えられないですけど……。でも僕、記者の方とは一度お話をしてみたかったんですよ。いつも新聞や週刊誌の記事を読みながら、この文章は誰が書いているんだろうなあって思っていて。こんな美人の方が書かれているとは思わなかったですけど」


 さも楽しそうに、言葉に抑揚を付けて喋ってみる。

 興味を向けられたり褒められると上機嫌になってしまうのは人間の性だ。

 心を開かせる為にはこちらから歩み寄らなければならない。

 特に、得意としていることに関して好意的な反応を見せられるとつい口が軽くなってしまうもの。

 この記者のお姉さんも例外ではなかったようで、「若いくせに上手いこと言うなあ、君は!」などとのたまいながら、僕の背中をバシバシと叩いてくる。

 ノリが関西人だ。

 素が出てきてしまっているのか、イントネーションが関西よりになってきている。

 もう一押し。


「僕は大したことも話せないですが……でも、むしろお話を伺いたいくらいなんです。お時間が許すなら近くの喫茶店で話を聞かせてきただきたいのですが……」

「勿論大丈夫! うちも休みたかったところやし!」


 僕は記者という人種は酸いも甘いも噛み分け、事実を取材した上で面白可笑しく加工する、どちらかと言えばダーティな人種だと思っていたのだが……。

 うん、なんと言うか。

 この人はチョロいな。


 それが、僕が週刊誌記者――鳴滝歩と言葉を交わして得た第一印象だった。







 近場の喫茶店に入り、コーヒーを二杯頼んでテーブル席へ。

 いつもとは違う店。

 それだけで緊張してしまうが、主人らしき中年の女性の愛想の良い態度に和まされる。


「奢ってくれるの? 君に教えておいてあげると、こういう時は私達の側が奢るものなんだよ。取材のお礼も兼ねてね」

「いえ、レディーファーストですから」

「上手いこと言うなあ、君は!」


 満更ではない笑みで僕を小突いてくる記者のお姉さん。

 大丈夫なのだろうか、この人。


「……本音を言ってしまうと、僕はあの近所に住んでいるわけでも、況してや火災に遭った家庭の方と知り合いというわけでもないので、こうして時間を取らせてしまっていることが申し訳ないんです」

「ふーん……。そうなんだ」

「はい。すみません」


 失望されるかもしれないと予想していたが、彼女の態度は変わらなった。

 むしろ尚更興味深そうに言う。


「じゃあどうしてあんなにじっと現場を見てたの? ひょっとして君が犯人……とか?」

「やっぱり怪しかったですか、僕」

「うーん、そこそこね。記者としての経験上、事件当初ならともかく、数日経ってからの野次馬って友人と連れ立って来るものだから」

「なるほど……。ところで、えっと……」

「ああ、名前ね。はい名刺」


 懐から取り出された名刺を受け取る。

 そこには聞き覚えのある会社名と「鳴滝歩」という名、そして連絡先が記されている。

 彼女――鳴滝さんは週刊誌か何かの記者なのだろう。

 そして、あの火災を取材していた。


「改めまして、はじめまして鳴滝さん。僕は鞍馬と申します。大学生なので名刺は持ち合わせていませんが……」

「大丈夫、鞍馬君ね。君の話を元に記事を書くとしても『ある大学生』みたいな表記にして名前は出さないから安心して」


 で、と鳴滝さんは運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、再度訊いた。


「それで鞍馬君が犯人なの? 私の情報によると、被害者は薬でよく眠っていたそうだし」

「いやいや、違いますよ。それに報道で原因は煙草の不始末だと聞いてますけど」

「それはあくまで現時点で推定される原因が煙草ってだけ。事件の被害者がアル中でヘビースモーカーだったからそうじゃないかと考えているだけで、放火の可能性だってあるかもよ?」

「出火箇所は二階だったと聞いていますが」

「……ほら、火炎瓶とかを投げ付けられたのかもしれないし」

「窓が締め切られていたせいで煙が内側にこもり、火が大きくなるまで近所の方に気付かれなかったらしいですよ。被害者が逃げ遅れたのも煙を多く吸い込んだせい――早い段階で一酸化炭素中毒になったからじゃないかって」

「…………」

「…………」

「……そんなに色んなことを知っているとは、やっぱり君が犯人だな?」


 どうしてそうなる。

 というか、今完全に推理の稚拙さを誤魔化す為に疑われている気がする。

 とりあえず「違いますよ」ともう一度否定しておく。


「身内に府警の人間がいるので、その人に話を聞いただけです」

「ふーん……。そういう事件とかに興味があるから、現場も見に来たってこと?」

「いや、それがそういうわけでもなくて……。猫を探しているんです」

「猫を?」

「はい」


 鞄の中から写真を取り出し、机の上に置く。

 一葉に映った猫とおばあさんを見て、納得したように鳴滝さんは頷いた。


「ああ、現場近くで見たわ」

「本当ですか?」

「あ、ごめん、猫の方じゃなくておばあちゃんの方ね。つまり君は現場近くの家に住むおばあちゃんに頼まれて、この猫を探してるわけね」

「厳密にはもうワンクッションあって、そのおばあちゃんの知り合いに頼まれて猫探しをしています」


 僕自身はこのおばあさんに会ったことすらない。

 ……しかし、改めて考えてみると、知らない人の飼っている知らない猫を探して事件現場近くをうろうろしている現状は疑われても仕方ないものだと思う。

 誰が信じるのだ、そんな話。

 ただ幸いなことに鳴滝さんは信じてくれたようで、「大変ねえ」なんて笑ってみせる。

 関西の人間らしい、妙に親しげで愛郷ある笑み。


「でも、その猫の話は聞いたかも。なんだっけな……」


 彼女は懐から手帳を取り出し、ページを捲る。

 そんな記者らしい仕草を挟んでから鳴滝さんは言った。


「あったあった、思い出したよ。昨日取材してた時に猫の話をしてる人がいたっけ」

「猫の話を?」

「うん。近所のおじいちゃんによると、あの火事になった家――広沢家のベランダによく猫がいたって」

「子どもが餌付けしていた、とかですか?」

「そういうのじゃないみたいよ。……新聞読んだ?」

「え、はい。まあ」


 新聞では被害者は内縁の夫と報道されているが、鳴滝さんによると実態は程遠いものだったらしい。

 奥さんや子どもに暴力を振るうことも多かったそうだ。

 それについては平野さんからも聞いていた。

 件のおばあちゃんも大層心配していたらしい。


「昔は奥さんがあのベランダで洗濯物を干していたらしいけれど、あの男が来てからはめっきりそれもなくなって……。まあ、窓を閉めてても近所に怒号や悲鳴が聞こえるくらいだったって聞くし、窓なんか開けられないよねー」


 楽しそうに言う彼女。

 これだからジャーナリストの類は苦手なのだ。

 きっと彼女にとっては何処かの悲劇も良い飯の種でしかないのだろう。

 それが仕事だから仕方ない。

 そういう考え方は、僕にはできない。


「ああ、そうそう猫の話だったよね。事件があった日はどうか分からないけれど、少なくとも近所の人の話には出てこなかったから、多分あの日はいなかったんじゃないかな。オスの猫ならたまーにふらふらっと何処かへ行っちゃうことも多いし、その内帰ってくるって」

「……そうだといいんですけど」

「首輪もしてるみたいだし……。一応、警察と保健所にだけは連絡入れておけばいいよ。って、言うまでもなかった?」

「いえ、貴重なアドバイス、ありがとうございます」


 勿論、相談を持ち掛けられた段階でそういった手は打ってある。

 礼儀としての返答だ。


「じゃあうちはそろそろ行くわ」

「はい。どうもありがとうございました」

「いいよいいよ。こっちこそコーヒー、ご馳走様。それよりまた見掛けたら声掛けてよね」

「はい、是非」


 そんな風に告げ合って、僕と鳴滝さんは別れた。

 彼女は何処へ行くのだろう。

 会社に帰るのかもしれないし、また別の悲劇の取材へと赴くのかもしれない。

 僕の方はもう少し迷子の猫を探して、帰路に着くことにしよう。

 何処かの不幸な家族の幸福でも祈りながら。

 火災の関係者ではなく、限りなく無関係な傍観者でしかない僕にできることと言えば、それくらいのものだから。







 翌、金曜日。


 二限目終わりの教室で平野マイを見掛け、僕は一緒にいた友人に一言断りを入れ、彼女の元へと走る。

 今日も手堅いファッションの背中に声を掛け、挨拶を交わし、進捗を伝える。

 「現場からは遺体らしきものは発見されなかったこと」「保健所を始めとした各種機関に連絡は入れたこと」「事件当日は目撃情報がないことから無事であると思われること」……。

 そういった諸々の情報を伝えていくうちに平野さんの表情が穏やかなものになっていく。

 電話やメールで伝えるよりも、相手の反応が分かる直接の方が僕は好きだった。

 最後に「これからも個人的に探してみる」と伝えると、彼女は言った。


「ありがとうございます、鞍馬先輩」


 大抵の男子が勘違いしてしまうような魅力的な笑顔。

 でも、どうしてだろう。

 僕はどうしてもザラザラした感じを読み取ってしまって、彼女の笑みを好きになれないのだ。


「平野さんはこれからもヘルパーを続ける予定?」

「はい」

「なら余計なお世話かもしれないけど、火の始末には気を付けてね。高齢者の方の家って暖房器具も古いことが多いし、あんな火事が起こるくらいに最近は乾燥してるから」


 誤魔化す為の言葉にも彼女は笑ってこう返す。


「ご心配ありがとうございます、先輩。あのなんとかさんの家の火事については、谷口さん――その独居のおばあちゃんも心を痛めていらっしゃって、私も気を付けるように言われたんですよ。私、そんなにぼんやりしているように見えますか?」

「ああいや、そういうわけじゃないけど……」

「ふふ、冗談です。でも本当に、ありがとうございます、先輩」


 傍からは和やかに見えていたのだろう。

 元の席に戻ると、待っていた友人がニヤニヤと笑っていた。


「おい鞍馬クンよ。いつ平野さんと知り合ったんだ?」

「え? ああ、前にボランティアに参加した時に知り合ったんだよ。君は?」

「いやいや、俺、彼女と一緒のサークル。一緒に子ども達と戯れてる」

「ああ、なるほどね」


 大学生がサークルに参加する動機の半分くらいは「居場所作り」と「異性との出逢いを求めて」だ。

 あんな可愛らしい後輩と知り合うことができたなら、彼――川端君も嬉しい限りだろう。

 言うまでもないが冗談。


「くっそー、羨ましいなー。あんな親しそうに話しちゃってよ。平野さんはやっぱ、お前みたいな奥手なタイプが好きなのかな?」

「誰が奥手だ」


 確かに彼女はいないけれど、それは奥手だからではない。


「絶対そうだわ。サークルでも平野さん、大人しい子の担当みたいな感じだし」

「奥手を撤回してくれ」

「ほら、今日子ちゃんとかさー……って鞍馬クンは知らないんだっけ?」


 昔の作家みたいな名前の友人はそんな風にしてこっちを無視し、話を続けていく。

 彼に比べれば確かに、僕は奥手なのかもしれない。

 川端君は喋るのを止めたら死ぬタイプの人間だ。

 僕は嫌いじゃないけれど、平野さんは苦手かもしれない。


「今日子ちゃんっていうのはその学童保育に来ている女の子で、あんまり大きい声じゃ言えないけど、」


 と、急に声を小さくして川端君は続けた。


「……最近ニュースで話題の火事になった家あるじゃん。あそこの子なんだよ」

「…………え?」

「いやだから、広沢今日子っていう名前で、あの火事になった家の……」

「そう、か……。そうなのか……」


 だとしたら。

 この違和感は。

 あの引っ掛かりは。

 ……まさか。

 そんなわけが。

 でも、可能性としては――考えられる。


「ごめん川端君、今度ノート写させて」

「は?」

「急用ができた」


 それだけ告げると、僕は鞄を掴んで走り出す。

 戸惑う友人を置き去りにして、教室に入ってきた教授と入れ替わるように部屋を出て、階段を駆け下りる。

 人にぶつからないように気を付けながら名刺を取り出し、建物の外に出たところで携帯電話にその番号を打ち込んだ。

 その最悪の可能性が現実ではないようにと祈りながら。







『……はい、どちら様ですか?』

「鳴滝さんの携帯ですか? 昨日お世話になった鞍馬です」

『ああ、あの大学生君か。どうしたの? 昨日の今日で。何か良い情報が手に入った?』

「そういうことではなく、またお願いがあるんです」

『何? 頼まれるかどうかは内容によるけど、一応聞いておこうかな』


 不思議そうな鳴滝さんの声。

 昨日の喫茶店に向けて歩き出しながら、僕は言う。


「今何処にいらっしゃいますか? 今すぐ会いたいんですが」

『昨日の辺りだけど……今すぐ?』

「はい」


 彼女は。

 何かを察したらしかった。

 恐らくは、記事になりそうな事柄の気配のようなものを。


『いいよ。会ってあげるわ』


 関西のイントネーションでの返答は愉しげな雰囲気を帯びていた。

 僕にとっては少しも面白くないことだが、記者である彼女にとっては違うのだろう。

 そう、関係のない人間にとって、それは一枚隔てた向こう側のことでしかないから。

 何処までも他人事で。

 だから。


「……ありがとうございます。じゃあ、昨日と同じ喫茶店で」

『分かった。今から向かうわ』

「あと、鳴滝さん」


 電話を切る前に僕は訊いた。


「被害者は薬で眠ってたらしいですけど、それって多分睡眠薬ですよね。何か分かりますか? 大雑把な種類だけでも構いません」

『……ベンゾジアゼピン系睡眠導入剤。現場から不審な物は発見されなかったらしいけど、警察の人もそこが気になってるみたいだった』


 ベンゾジアゼピン系睡眠導入剤。

 第三種向精神薬。

 要指示薬。

 被害者は薬で眠っていた。

 窓は閉まっていた。

 だから被害者が逃げるのも周囲が気付くのも遅れた。


「やっぱり、そうですか」


 そう考えればあの違和感の説明は付いてしまう。

 やはり、そうなのか。

 僕は一人項垂れる。


 目を閉じると、走馬灯のように彼女と出会った時の会話が脳裏を過った。

 どうしてボランティアをやろうと思ったのかを問い掛けられ、僕は「早く大人になりたいからだよ」と答えた。

 僕は、早く砂糖菓子の弾丸で戦う子どもから卒業して、大人になりたくて。

 誰かを助けられる人になりたくて。

 その答えを聞いて、彼女は笑ったのだ。

 そうですね、私もそう思います、なんて。


「ちっくしょー……」


 この社会にはあまりにも悲劇が多い。

 きっと今日も明日も世界は変わらない。

 このことも、いつかは忘れられていくのだろうか?

 そんなことを思った。


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