第16話 虚ろな栄光 解答編
「私はまず、松ヶ崎さんに質問しました。『クラシックにはお詳しいですか?』と。松ヶ崎さんは音楽会社を経営しており、コンクールの審査員を務めた経験もある方です。答えは当然、『詳しい』というものでした。次に私は郷平氏に声を掛けました。今度の質問は『散歩から帰ってこられた際、ピアノの音は聞こえましたか?』というものでした。おじさまは『探偵の真似事かい?』と笑い、そうして続けました――『帰ってくる時にはまだ弾いてたかな』。最後に私は『お祖父様がピアノを演奏しておられるところを見掛けましたか?』とその場にいた全員に問い掛けていきました。結果、お祖父様を目撃されたのは高野さん一人だけだということが分かりました。
それぞれが悲しみに暮れたり、困惑したり、あるいは呆然とする様子を装いながらも近衛郷蔵氏の死によって手に入る遺産について考えている中で、思わず私は溜息を吐きました。何故か? あまりにも愚かだから、ですよ。あまりにも愚か過ぎて、笑いを通り越して呆れたんです」
妖しい笑みを見せて、僕のホームズは続けた。
「さて、時間は翌日へと飛びます。既に御陵の家に戻っていた私は――事件があった後すぐに迎えを呼んで家に帰ったのです――電話を掛けました。相手は近衛郷平氏でした。挨拶を交わし合った後、災難だったね、等と平然と宣うおじさまに私は訊きました。
『大変失礼な質問になってしまうのですが、おじさま。お祖父様を殺したのはあなたでしょう?』
おじさまはしばらく沈黙を守っていましたが、やがて言いました。どうしてそう思う?と。私は答えました。
『あなたが犯人である可能性が最も高いと考えたからです。ですが、これはただの想像に過ぎません。失礼な問い掛けをしたことを謝罪致します』
『いや、構わないよ。それより良ければ聞かせてくれないかな? 何故アレが事故死ではなく殺人だと思ったのか。そして何故僕が犯人だと考えたのか』
私は快く承諾し、話し始めました」
●
お姉さんのおじいさんである近衛郷蔵さんは事故ではなく、誰かに殺されていて。
そして、その犯人は近衛郷平さんだった。
でもどういう道筋、推理で以て僕のホームズがその結論を出したのかは僕には全く分からなかった。
「その事件にはあまりにもおかしな部分が多く、私は何処から始めるべきか迷いました。それくらいに愚かな真実でした。
『とても当たり前なことですが、誰かが殺されていた際に最も疑われるべき人間は第一発見者か、被害者と最後に会った人物です。そしてお祖父様に最後に会われたのはおじさま、あなたです』
『それはそうだね。でも、その後に父のピアノの音色を聞いた人間は沢山いるし、高野さんはピアノを弾く父を目撃している。仮に殺人だとしても、殺されたのはその後だと考えるのが妥当じゃないかな』
『そうですね』
ピアノの演奏後から夕食までの時間、誰かがこっそりと離れへ行き、お祖父様を殺害して何食わぬ顔で戻ってきた可能性は勿論あります。更に言えば、御陵家に恨みを持つ人間が山奥の別荘まで林を抜けて訪れ、お祖父様が一人になった時を見計らって殺した可能性だってあります。そのことは私も分かっています。だから、『可能性の話ですが』と前置きして、私は続けました。
『ですがおじさま、私はあの時ピアノを弾いていらっしゃったのはお祖父様ではなく、郷平おじさま、あなただと考えているのです。恐らく何かの弾みでお祖父様を死に至らしめてしまったあなたは咄嗟にピアノを弾いて、お祖父様が亡くなられた時間を誤魔化そうと考えた』
『面白い想像だけどね、アルマちゃん。仮にそうだとしても、どちらにせよ僕のアリバイはない。あまり意味のない工作じゃないかな?』
『その通りだと思います、おじさま。ですが、その時間が私が到着するタイミングと重なっていた場合は別でしょう?』
私は別荘に到着する少し前に、電話でもうすぐ到着するという旨を伝えていました。お祖父様に招かれたわけですから、何か特別な事情がなければ私は別荘に着いてすぐにお祖父様に挨拶に向かったでしょう。そう――演奏を邪魔されることを好まない、お祖父様がピアノを弾いていなければ。
『咄嗟の判断、苦肉の策だとすれば理解できないこともありません。そして事実として成功しました。私は高野さんに言われてお祖父様の挨拶を後回しにし、あなたは散歩から戻ってきたように見せ掛けて本宅へと戻ってきた。夕食の支度を終えた高野さんがお祖父様の遺体を発見し、事が明らかになった。誰もがお祖父様は先ほどまでピアノを演奏しており、その後で頭を打ったと考えた。あなたが広間で、また私の質問に対し、「散歩から帰ってくる際にピアノの音色が聞こえた」と発言したからです』
結局のところ話は単純です。ピアノを演奏されているのはお祖父様ではなかったと仮定し、ピアノがいつまで演奏されていたか、その根拠を検討し直せば良いだけです。ただあの場にいた人間は馬鹿正直に事故だと思い込んでしまったので考えることをしなかった」
ピアノを弾いていたのは、おじいさんじゃなかった。
そういう入れ替わりトリックは推理小説ではよくあるものだ。
予想できてもおかしくなかったかもしれない。
どうして僕は――あるいは当時そこに居合わせた人達は、そのピアノを弾いていた人物が近衛郷蔵さんだと思い込んでいたのだろう?
「郷平おじさまは言いました。
『でも、高野さんはピアノを弾いている父の姿を見たと言っているはずだけど?』
『単に、いつもお祖父様が座っていて、いつもお祖父様が着ていたコートを羽織った人間の背中を見ただけです。そして、目が悪い高野さんは自然と「旦那様がピアノを演奏していらっしゃる」と判断してしまった』
そもそも二月にレースカーテンだけが中途半端に閉まっている状況自体が不自然でした。寒い日でしたし、全部閉めてしまっていてもおかしくないでしょう?
『あのピアノソナタの演奏者がお祖父様であると皆さんが信じ込んでしまったのは、お祖父様がピアノを好んでおられるという事実以外にもう一つ理由があります。松ヶ崎さんが「郷蔵さんのピアノを聞いたかい?」なんて、尤もらしく言ったからです』」
ああ、そうだ。
お姉さんが別荘に到着して、応接間に入ってすぐ。
松ヶ崎という人がそう言ったから、僕は疑うことなく信じこんでしまっていたんだ。
「まったく愚かな人達だと思いつつ、私は言いました。
『あの自称クラシック好きの似非評論家の大先生が尤もらしく言うものだから、無意識の内に皆さんが信じてしまったんです。この音色はお祖父様が奏でているものだ、と』
『それは流石に横暴じゃないかな、アルマちゃん』
穏やかに郷平おじさまは私を窘めました。
『松ヶ崎さんは音楽に携わっている人間だ。その人の言うことを根拠もなしにデタラメ扱いするなんて……』
『そうですね。……ところでおじさま、アルファベットの「GP」という文字を見て、何を連想されますか?』
『「グランプリ(grand prix)」の略、かな』
『では、音楽に纏わる用語ならば?』
『「ゲネラルパウゼ(General Pause)」だろう。演奏者全員の休止を意味する音楽用語だ』
『ではもし――カレンダーに書いてあったならば?』
おじさまは溜息を吐きました。恐らくそれは呆れによるものだったでしょう。
『……「ゲネラルプローベ(Generalprobe)」。「GP(ゲーペー、ゲネプロ)」は一般的な言葉で言うところの予行練習、リハーサルを意味する略語だ』
ゲネラルプローベはクラシック等において、本番通りの手順で行われるリハーサルを差す言葉です。リハーサルなのですから本番より前に行われているはず。多くは前日ですね。さて眼帯君、思い出してください。松ヶ崎さんはおじさま達との雑談の中で郷悟お兄様のコンサートについて触れていました。『そう言えば郷悟君のコンサートはいつでしたかな。今月ですか?』と。ですが彼はそのつい数秒前までカレンダーを見ていたのです。『二月二十八日 郷悟GP』と書かれたカレンダーを。二月は二十八日までしかありません。月の最後の日にリハーサルがあるなら、必然的にコンサートは翌三月の頭。コンサートがいつかなんて、訊く必要ないじゃないですか」
説明されてみると不自然過ぎる。
その松ヶ崎という人の目が節穴じゃないとしたら、そんな略語も知らないクラシック好きを信用する方が難しい。
「そのことを説明すると、郷平おじさまは笑いました。いい加減なことを言う奴だと思っていたが、まさかそこまで無知だとは思わなかった、と。私も全くの同意見でした。音楽の才能が大してない私でも分かるほど、あの時のピアノの音色はお祖父様のそれと違っていましたから。一つだけ擁護できる点があるとすればピアノソナタ第十四番が難曲であることでしょう。あんな曲を平然と弾ける人間はそう多くはない。辨別のない人間ならば、考えなしにお祖父様が弾いていらっしゃると信じても仕方ないのかもしれません」
彼女は常々、芸術作品やそれを評価する評論家は信用ならない、という旨を述べている。
確かにそんな経験をすれば信用もできなくなるだろう。
世の評論家も、その評論家の言うことをありがたがって聞いている一般人も。
「ところで、と郷平おじさまが言いました。
『アルマちゃん、ところで、他に他殺と思った根拠があれば教えて欲しいんだが』
私は答えました。
『転倒し頭を打ったにしては血の痕が不自然だったというものもありますが、私は別に探偵ではないので、気のせいだと思いました。ですが流石に暖炉はおかしい。郷平おじさまには言うまでもないことでしょうが、お祖父様はあの暖炉を滅多に使われませんから。特に演奏中は』
そう、私が当たっていた暖炉に火が入っていたことがまずおかしかったんです。何故か分かりますか?」
「ううん……。なんで? 寒い日だったんでしょ?」
「ピアノが湿気に弱いことは有名ですが、実は過度な乾燥にも弱いんです。ピアノの上に花瓶を置くことも良くないですが、近くに除湿機を置くことも良くない。そういった事情もあり、お祖父様があの暖炉に火を入れるのは稀で、普段は使わないんです。だから寒い冬でも演奏中はコートを羽織っていたんですよ。暖房器具を使うとピアノに悪いからと我慢して。
『何故暖炉に火があったのか。一つの解答はお祖父様が郷平おじさまをもてなす為に火を入れた、というもの。もう一つは郷平おじさまが火を入れたというものです。しかし、郷平おじさまならばピアノが乾燥に弱いことはご存知でしょうし、第一人を殺してしまってすぐにでも逃げなければならない状況で暖炉に火を入れるなんて意味が分かりません。だから私はこう想像します。郷平おじさまにはその時すぐに跡形もなく処分しなければならない物があったのではないか、と。例えば――遺書、とか』
私がそう言うと、郷平おじさまは堪え切れないという風に笑い出しました。実に快活にひとしきり笑った後、彼は静かに告げました。
『……君の予想通りだよ、アルマちゃん。僕が燃やしたのは父さんの遺書だ。先日書いたばかりの遺書。あの人は言っていたよ。誕生日に血族の人間を集めたのは弁護士の先生に預ける前に、遺書の概要を伝えておこうと考えたからだと』
なるほど、と私は一人納得しました。カレンダーに書いてあった予定の意味が分かったからです。『二月二十日 先生訪問』。なんの先生がなんの為にいらっしゃるのだろうと考えていましたが、なるほど、恐らくアレは弁護士の先生が遺書を預かりに来るということだったのでしょう」
そこまで語ったところで、お姉さんは一旦言葉を紡ぐのを止めた。
そうしてもう一度溜息を吐き、「後は他愛もない話ですから要約してお伝えします」と僕に微笑みかけてから話を再開した。
「……郷平おじさまが語ったところによると、その遺書はこんな内容だったそうです。一つ、近衛家の財産の八割は御陵あるまが相続するものとする。二つ、近衛兼郷を近衛家の次期当主とするが、御陵あるまの成人後は彼女が当主を務めることとする。三つ、御陵あるまは近衛秋郷と結婚することとする」
「それって……!」
「はい。とても簡単に言ってしまうと、つまり私に近衛家の財産のほぼ全てを渡すという内容の遺書でした」
淡々とお姉さんはそう言うが、僕は驚かずにはいられなかった。
開いた口が塞がらない。
「おじさまはお祖父様に理由を問い詰めたそうですが、その理由は至極単純なものでした。曰く、『一族の中でアルマが最も経営に向いていると判断した』と。それが近衛家の繁栄の為には最も有効な手段だった。おじさまは以前、そのことを酒の席で聞き、その時は冗談だと考えていたそうですが、その日お祖父様と話してみて本気だと分かったそうです。それで、あんなことになった」
まあ愛人の子なんかに八割も遺産を持って行かれれば腸も煮えくり返るでしょうね、と彼女は妖しく笑う。
「ただ、最後にはおじさまもこう言っておられましたよ。
『遺書は正しかったのかもしれない。確かに君は優秀な人間だ。近衛家の男子の名前に含まれる「郷」の字は爵位等を表す「卿」と同じルーツらしい。「貴い人」「地位のある人間」というような意味を持つ字を私達は持っているが、なるほど、その聡明さを見るに、ラテン語で「手段(ARMA)」を意味する名前を持つ君が家を継いだ方が近衛家の為なのかもしれない』
だから私はこう返しました。
『称賛に預かり光栄の極みです、おじさま。ですが、私はあんな空っぽな家の繁栄の為の“道具(Arma)”にされるなんてお断りです。何に価値があるかは自分で決めたい。……それに、母はきっと「手段」や「方法」という意味ではなく、優しい子になって欲しいという願いを込めて「アルマ(ALMUS)」という名前を付けたのだと思いますから』
そうして私達は笑い合って、和やかに会話を終えました。……これが私の家の、大した謎もない笑い話です」
お姉さんはそう言って、話を纏めた。
彼女はこれを「笑い話」と評した。
その表現はきっと評論家の言葉を無批判に信じ、短絡的に事故だと決め付け疑うこともしなかった近衛家の人達への、皮肉だったのだろう。
●
昼下がりの病院の屋上でお姉さんはバイオリンを弾いていた。
ピアノソナタ第十四番がどんな曲か分からなかった僕もこのメロディーは知っていた。
G線上のアリアだ。
……残念ながら、僕のホームズの腕前がどれくらいのものなのかは辨別のない僕には分からない。
でも、とても綺麗に思えた。
彼女が奏でている静かな旋律も、耽溺しているような穏やかながら色気のある彼女の表情も。
青い空の下でバイオリンを演奏するお姉さんは何処までも自由だった。
精神科病院に入院しており、今いるこの屋上だって高い柵に囲まれているが、それでも近衛家にいた時よりも御陵あるまはずっと自由なのだろう。
「……お兄様が選んだにしては良い音色ですね。家にあるヴァイオリンは私が弾くには気後れするような物でしたが、これは身の丈に合っているというか、しっくりくる気がします」
「お姉さんの為に選んで買ったからじゃないの?」
拍手をやめて僕がそう言うと、お姉さんは笑った。
「だとしたら、お兄様のことを見直さなければなりませんね。やはりこのヴァイオリンは有難く頂いておくことにしましょう。……そういうわけなので眼帯君、あなたには差し上げられません」
「うん、いいよ。だって、そのバイオリン、お姉さんに似合ってたから。お姉さんが持っているべきだと思う」
「そうですか? それならば良かったです」
折角チケットがあるのだから、お兄様が所属するオケの演奏を聞きに行くのも良いかもしれませんね。
それが演奏を終えたアルマお姉さんの感想だった。
「……さて。では、戻りましょうか」
何処かの誰かが言ったことなんて、アテにならない。
きっと探偵であるお姉さんは特にそうなのだ。
疑って、考えて。
それが探偵の性分だから。
どんなことであれ、自分の理性と感性で判断を下していくしかないのだろう。
だからお姉さんが合っていると思えば、そのバイオリンはお姉さんに合っているのだ。
「そうだね。戻ろっか」
そんなことを考えながら、僕はお姉さんの後に続いて歩き出す。
花瓶に入った薔薇の花が待つ彼女の病室へと。
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