第15話 虚ろな栄光 問題編



「―――ですからお兄様、こういった物を頂いても処分に困るだけだと申し上げているでしょう?」


 お姉さんは部屋に入ってきた僕を後目に通話を続ける。

 そうして窓際に立つ彼女はガラスの向こうの景色を見ながら、コツコツと窓枠を指で叩いた。


 古い型のガラケーの向こう側にいるのはどうやらアルマお姉さんの兄らしい。

 お兄さんがいることは聞いていたけれど、まさか『お兄様』なんて風に呼んでいるとは思わなかった。

 本当に良い家の生まれなんだなあ、と実感する。

 ただその鬱陶しげな口調と指先で何かを叩くという苛ついている時の癖が出ていることから判断すると仲はあまり良くないみたいだ。


「ええ、ええ……。いえ違います。値段やブランドの問題ではありません。単に、不必要ということです。率直に言って邪魔です」


 来客用の簡素な机の上には見掛けない物が二つあった。

 一つが真っ赤な薔薇の花束。

 もう一つがバイオリンのケース。


 どうやらこの二つが、お姉さんが「不必要」「邪魔」に感じている物らしい。

 入院している相手に贈る花として薔薇を選ぶのは珍しい――というか、見たことがない。

 更にもう一方は珍しいを通り越して意味不明だ。

 アルマお姉さんはバイオリンが得意だったはずだけど、だからと言ってお見舞いの品として楽器を贈るなんて発想、普通出てこない。

 どちらも、ひょっとして嫌がらせなんじゃないだろうか?と邪推してしまいそうな選択だ。


「……はい。そうですね、チケットの方は体調が良ければ、是非。はい、はい……。分かりました、伝えておきます。では失礼します」


 通話を終えたお姉さんは溜息を吐きながらガラケーをベッドに投げ捨てた。

 次いで、僕の方を向いて言った。


「眼帯君、ヴァイオリンに興味はありませんか?」

「え? うーん、あると言えばあるかなあ。お姉さんの演奏、一度聞いてみたいと思ってたし」

「そうではなく、練習してみる気はありませんか? 興味があるならそれ、差し上げますよ」

「ええ!?」


 机の上の黒いケースを指しながら平然と告げるお姉さん。


「でも、バイオリンって凄く高いんじゃ……!」

「そうですね。ですが、それはそこまで高い物じゃありませんよ。近代のイタリア、私でも聞き覚えのある物ですから……恐らく五百万前後じゃないでしょうか」

「五百万、って……!」


 絶句。

 五百万という値段に対してではない。

 バイオリンがとても高い楽器であることくらい、僕だって知っている。

 絶句したのは、五百万のバイオリンを「そこまで高い物ではない」と表現したアルマお姉さんの金銭感覚に対してだ。


「本当にお嬢様なんだね、お姉さんって……。五百万を安いって……」

「『安い』なんて一言も言っていませんよ。『高くない』と言っただけです」

「同じでしょ?」

「全く異なります。『高くない』というのは、一般的な奏者が求める水準を充たしたヴァイオリン、という意味であって、誰でも買えるような安物、という意味ではありません。プロが持っていてもおかしくないレベルの物なので、そういう意味では一生使い続けられるような良いヴァイオリンだと思いますよ。ただ上等なヴァイオリンは一千万以上の値が付くこともザラですから、それらと比べると高くはないでしょう」


 まあ、と皮肉っぽく笑ってお姉さんは続ける。

 「私は音楽について詳しくないですし、批評家の方々も信用していませんがね」と。

 お姉さんはピアノやバイオリンが弾ける割に時折そんなことを言う。


 御陵あるまという人物は完全無欠な万能の天才だけど、本人も公言している苦手分野が二つある。

 歴史と芸術だ。

 この二つだけは疎く、勉強する気すら起きないということだ。

 だから苦手というより、嫌い、という表現が正しいかもしれない。


「私は確かにヴァイオリンもピアノも弾くことができますが、それだってお遊び程度ですし、そもそも別に好きではありません。美的なセンスが――辨別を行う能力が欠落しているんです」

「べんべつ?」

「審美眼、鑑識とでも言い替えましょうか。音楽にせよ他の何にせよ、芸術を楽しむチャンネルを持っていないんです」

「でもお姉さん、テレビ見てて、たまに『これはゴッホのナントカって作品だー』って解説してくれることあるじゃん」

「勿論、その絵を知っていれば分かりますよ。当たり前でしょう?」

「うーん……。イマイチお姉さんの言っていることが分からないんだけど……」


 小首を傾げる僕に、彼女は言った。


「眼帯君、妖怪変化や魑魅魍魎の類を信じていますか? あるいは単に幽霊」

「え? うん、まあ……幽霊くらいなら……」

「幽霊の絵は描けますか? 妖怪でも構いませんが」

「下手でも良いのなら書けると思うけど……」


 では、とお姉さんは訊いた。


「では、幽霊でも何でも構いませんが――そういう霊的な存在、見たことがありますか?」

「え? ……ない、かな」

「そういうことです。誰だって幽霊の絵は描けるでしょう。ですが、実物を見たことがある人間となると、かなり少ない。では何故大勢の人が幽霊の絵が描けるのかと言えば、幽霊を見たという人間からの伝聞のお陰です。私が有名な絵を見て作者が分かるのはそういう感じですね」


 幽霊の絵は誰でも描ける。

 でも、幽霊を見たことがある人は少ない。

 幽霊の絵が描ける人のほとんどは実際に幽霊を見たことがあるわけじゃなく、聞いた話や描かれた絵で得たイメージを元に絵を描いているに過ぎない。


 お姉さんは芸術も同じだと考えているらしい。

 つまり、ある芸術作品の魅力や凄さを見抜けるのはごく一部の人だけで、大抵の人間はその一部の人間が下した評価に従っているに過ぎないのだと。


 ごく簡単に言ってしまえば、こうだ――「これは凄い、だって誰かが言っていたから」。


「ゴッホの絵は有名ですから、私だって知っています。ですが、それは厳密には誰かが『これはゴッホの描いた素晴らしい作品だ』と評していたことを知っているに過ぎない。私には絵そのものの素晴らしさなど分かりませんし、況してやゴッホがその絵を描いた場面を目撃したわけでもありません」

「ふーん……。そう言われれば、そうかなあ……」


 そういうものなんじゃないかなあ?という思いも僕の中にはある。

 凄いから凄い。

 人気だから人気。

 そういう事柄はとても有り触れている。


 だけど、お姉さんはそういったことが許せないのかもしれない。

 彼女にとって価値があるのは、そのごく一部の芸術作品の魅力を理解できる人間だけであって、それ以外は紛い物なのだろう。


「で、どうします? いりますか、ヴァイオリン」

「い、いや、いいよ……。遠慮しておく……」

「そうですか。なら実家の倉庫にでも置いておくことにします。欲しくなったらいつでも言ってください。親愛なる私のワトソンに友情の証として差し上げます」

「その言葉は嬉しいし、その友情が形になって残ればもっと嬉しいと思うけど、それはそうとしてお兄さんが可哀想だから……」


 お兄様、なんて風に呼んでいる割に兄に対する敬意はまったくないらしい。


「ワトソン役の僕としては、バイオリンそのものよりお姉さんが演奏しているところを見てみたいなーって思うよ」

「……そうですか。なら、今度私のヴァイオリンを持って来ましょう」

「弾いてくれるの!?」

「一曲くらいなら構いませんよ。尤も、病院側の許可が取れれば、ですが」

「やった! 約束だからね、お姉さん!」


 バイオリンの生の演奏を聴くのは初めてだし、勿論、アルマお姉さんが弾いているところを見るのも初めてだ。

 きっとお姉さんが言うような音楽の真の魅力なんて僕には分からない。

 けど、でも楽しみには違いなかった。


「ところで、お姉さん」


 そこでふと浮かんだ疑問を僕は言葉にしてみる。


「そのお姉さんのバイオリンって、どれくらいの値段の物なの?」

「それも人から頂いた物なので詳しくは分かりませんが、八百万程度だったと思います。ですが久々に演奏するのですから、兄さんのファニョーラをこっそり持ち出しても良いかもしれません」

「……そっちはいくらくらい?」

「二千万前後じゃないでしょうか」

「…………」


 ああ、と僕は思った。

 そりゃそんな物が身近にあれば五百万の楽器を「高くはない」と言うだろう。

 そして、やっぱりこの人はお嬢様なんだな、と。







「そう言えばさ、お姉さん」

「なんでしょうか」


 薔薇の花束に付けられていたメッセージカードに目を通していた彼女に対し、僕は訊いた。


「アルマお姉さんって、お兄さんが二人いるの?」

「何故ですか?」

「電話の相手は『お兄様』って呼んでたのに、バイオリンの話をする時は『兄さん』って呼んでたから」


 僕のホームズは綺麗な蒼の目を細める。

 映えるようなような青じゃなく、夜明け間近の空のような深い蒼が僕を捉えた。

 そうしてショールを羽織り直してから言った。


「良い着眼点ですが、本人に対する呼び掛けと他者に対する紹介では呼び名が異なるものだと思いますよ」

「でもさお姉さん。お姉さんが前に、いつだったかお兄さんの発言を引用した時には、『私の兄』って言ってたよね? だから少し、不思議に思って」

「ふふ、素晴らしい記憶力ですね。その時の気分だ、と反論しても良いのですが、意味がないのでやめましょう。私が前に言った兄――先に述べたファニョーラの持ち主――と先ほど電話で話していた相手は別人です」

「じゃあ、僕の推理は正解?」

「半分は正解ですが、もう半分は不正解です。何故なら私が話していた相手――お兄様は、別に私の兄じゃありませんから」


 兄じゃない?

 お兄様なのに?


「年が近く、一応は兄代わりでもあったので『お兄様』と呼んでいますが、別に兄妹ではありません」

「幼馴染、ってこと?」

「いえ、実の兄ではないだけで、血の繋がりはあります」

「えっと……どういうこと?」

「少し込み入った話になりますが、それでも良ければ」


 お姉さんの家族の話。

 僕のホームズの過去の話。

 気にならないわけがなかった。


「問題がなければ是非聞きたいよ」

「なら、話しましょうか。別に大した話でもありませんし。ただとてもプライベートな内容なので、できれば他の人には話さないでいただけるとありがたいですね」

「うん分かった、大丈夫。誰にも言わないよ」


 憧れの人の秘密を聞いて、共有して。

 本当に今日は良い日だ。

 ご機嫌な僕にあの傲慢さが隠し切れていない笑みを向け、お姉さんは話し始める。


「……さて、お兄様の話ですね。お兄様は近衛秋郷という名前です」

「苗字が違うんだ」

「はい。間柄としては異母従兄弟になります。そんな単語があるのか分かりませんが、そうとしか呼べません。私の祖父は近衛郷蔵という名前なのですが、この人の孫が近衛秋郷。私は、その近衛郷蔵の愛人――この人がロシア人の私の祖母なのですが――との間に生まれた娘の、更に不倫でできた子が私です。親子二代の不倫でできた子が私、御陵あるまです」

「…………えっと?」


 つまり、どういう間柄になるんだろう?

 ああ、そうか。

 それがさっきお姉さんが言っていた『異母従兄弟』なのか。


 というか凄い経緯だ。

 不倫でできた娘が更に不倫してできた子なんて、聞いたこともない。


「要するに私とお兄様は近衛郷蔵という人物の血が流れているという点で共通していますが、別に兄と妹という間柄ではありません」

「……えっと、じゃあ『御陵』って名前は?」

「私の父の苗字です。私が普段『私の兄』『兄さん』と呼ぶ相手は異母兄妹ですね。こちらは母こそ違いますが、兄ではあります」


 最早訳が分からなかった。

 込み入っているとは言ってたけれど、いくらなんでも込み入り過ぎだ。


「……私の母も愛人の子ですから、近衛家の立場はあまり芳しいものではなかったそうです。そんな事情もあり、母は大学入学を期に家を出て一人暮らしを始めました。が、その一人暮らしの最中に子どもを身籠ってしまった。祖父は子どもを堕ろすか、子の父親と結婚するか、それとも近衛の家から勘当されるか選べと言い、母は勘当を選びました。そして生まれたのが私です」

「えーっと……。だから、苗字が違うっていうこと?」

「いえ、その時点では父が分からない状態でしたから、まだ母親の姓である『近衛』でした。祖母の姓を、つまりロシア語の姓を名乗っても良かったのですが、ただでさえ二十そこらのシングルマザーで家から勘当済という生きづらい状態なのに、わざわざ外国姓にして難易度を上げる必要はないでしょう?」

「……そうだね……」


 その状況が全く想像できないので、どのくらい生きづらいのかは僕には分からないけれど……。


「しばらく私は母に一人で育てられましたが、やがて母共々近衛の家に呼び戻されます。理由は単純です。私の父親が誰か分かり、しかもその人物が中々良い人物だったからです」

「それが御陵って人?」

「はい。近衛もそれなりに良い家なのですが、御陵は更に良い家です。例えば私の大叔父は国会議員ですし、この病院の経営母体は御陵家の人間が作ったものです。近衛は自称明治時代から続く家系ですが、御陵は自称平安初期から続く家。不倫の子と言えど子どもがいれば、パイプができると思ったんでしょう」


 お姉さんは時折「名家や旧家というものは面倒なんですよ」と言っていたけれど、なるほど。

 こんな境遇で生まれ育ったのならそう思うのも当然だ。

 こう言っては失礼だけど、聞いているだけでも面倒そうだった。


 そしてきっと、僕が想像するよりもずっと多く、面倒な縁がアルマお姉さんには絡み付いているのだ。


「そんな事情で私は近衛の家で育てられたのですが、母が亡くなったことをキッカケに、父が私を引き取りたいと言ってきたそうです。いえ厳密には、父が語ったことによると、母の訃報で初めて私の存在を知ったそうで……。私は御陵の家に引き取られ、『御陵あるま』となりました。そして現在に至ります」

「……凄い話だね」

「改めて整理すると、そうですね。少し、珍しい話かもしれません」


 少しじゃなくて、かなりだよ。

 そうツッコミを入れたかったけれど、黙っておいた。


「さて、私が何故近衛秋郷という人物を『お兄様』と呼んでいるかはもう分かるでしょう? ほんの数年ほどの間ですが、一応同じ家で暮らした経験があるので、その名残です。……まあ」


 と、お姉さんは妖しい表情を見せて、言った。


「ひょっとしたら、私の夫になっていたかもしれない相手でもありますからね」


 私の夫に?

 お姉さんのお兄さんではないお兄様が?

 どういうこと?


「それってどういうことなの?」

「そのままの意味ですよ。いえ、もしかしたら今も向こうはその気なのかもしれませんが。だとしたら、こんな風に薔薇の花束を送ってきた理由も分かります」


 一瞬間机の上の花束に目を遣って、お姉さんは笑う。


「ごく簡潔に説明しても良いのですが、その出来事にはくだらないとは言え一応謎が関わっています。なので眼帯君が望むならば、ユリックの一件の時のように、事件のことを語ろうと思います。さて、どうでしょう?」

「勿論、お姉さんの活躍譚を聞けるなら嬉しい限りだけど……。いいの?」


 思わず僕は訊く。

 でもお姉さんは平然と「何がですか?」と返した。


「だってそれ、お姉さんのプライベートな話でしょ? その、僕に話しちゃって……」

「構いませんよ、私は眼帯君を信用していますから。ワトソン博士も表に出せないようなデリケートの事件の資料や覚書はは出版せず、コックス銀行の文書箱に納めたままにしていたでしょう? それと同じです。眼帯君が黙っていてくれれば良いだけです」

「でも……」

「それに、私が話したい気分なんですよ。デリケートな話ですが、私にとっては笑い話なんです。けれどデリケートであるが故に中々他人には話せない。そういう話です。他人の家の笑い話だと思って楽に聞いてください」


 ただ、と僕のホームズは続ける。

 嘲りを隠し切れていない、妖しい笑みを湛えて。


 人死にの話ではありますがね――と。







「もう何年も前になります。ユリックとエミリーにそのことを話そうと思い、流石にそれはまずいと自重した思い出があるので、前に語った研修よりは前のこと――そうですね、私が小学校高学年の頃の話だと思います。私はお祖父様、即ち近衛郷蔵の誕生日会に招かれました」


 お姉さんは語り始める。

 その、人死にがあった笑い話を。

 穏やかな笑みを浮かべ、本当に楽しそうに。


「還暦などとっくに過ぎていましたが非常に元気な方でした。ピンと伸びた背筋に自信を伺わせる横顔が特徴的で、真っ白でしたが毛髪の量は多く、髪を染めれば五十と言っても通用したかもしれません。芸能人や政治家には若々しい方が多いですが、きっと一線で活躍し続けていると老化も遅れるのでしょうね。近衛郷蔵氏もその時はまだ会社の経営を始めとし、第一線で働いていましたから。断っておきますが、ドラマに登場する高齢者のような、『温厚なおじいちゃん』『子ども好きな老人』というイメージには全く合致しない人物でした」

「うん……。そうだろうね」


 温厚で子ども好きなら、実の娘に「堕ろせ」なんて言わないだろう。


「近衛郷蔵氏は大きな会社の経営者だったので、誕生日会は高級ホテルの大広間を貸し切り、会社の幹部や経営者仲間等を招いて行うことがほとんどでした。ただその年は珍しく、そういったパーティーは行わず、誕生日の前後、お祖父様は経営を部下に任せて山奥の別荘に篭っていました。聞いた話では、見た目こそ元気ですが歳相応な衰えもあったそうで、らしくもなく死期を悟っていたとのことでした。引き篭もるような真似をしたのは自分がいなくなることで会社にどのような影響が出るのかを見極め、後継者を探す為だったそうです。

 さて、そんな近衛郷蔵氏は誕生日の少し前に親族に手紙を出しました。内容は単純、都合がつく人間は自分の誕生日に別荘に来るように、という命令です。文面上の言葉は穏やかだったのですが、一族の中で一番力を持っているのは当主であるお祖父様なので『命令』という表現が相応しいでしょう。一応私もあの方の血を継いでいるということで、手紙が届きました。行くかどうか迷った――というか、行きたくなかったですし行く気もなかったのですが、父や御陵の側のおじいさんに説得されたこともあり、御陵家からの贈り物を持ち、別荘を訪ねることになりました。

 ここまでは良いでしょうか」

「うん、大丈夫。おじいちゃんの誕生日をお祝いに別荘に行った……んだよね?」

「そうです。寒い二月の日に、わざわざドレスを着て、山奥の別荘まで……。面倒で仕方ありませんでした。尤も御陵家の車で送ってもらったので私は座っているだけでしたが」


 山奥の別荘。

 推理小説なら落石や雪崩、その他諸々で道が塞がってしまうことが多いけれど、お姉さんの話だとどうだろう?


「私がその別荘に着いたのは午後五時前でした。ピアノソナタ第十四番、俗に言う『月光』が微かに聞こえていました。まあ、第ニ楽章でしたが。……そう言えば、眼帯君は音楽には疎いのでしたね」

「うん。カスタネットかリコーダーくらいしかできないよ」

「ベートーヴェンが作曲したピアノソナタ第十四番は『月光』という通称が付いています。俗説によると、これは第一楽章を聞いた後世の人物が月の光のような印象を受けると評したことが由来となっているそうです。つまり、ただのあだ名。しかも本来的には第一楽章限定の通称です。だから厳密には『月光』ではない、という笑いどころだったのですが、分かりにくかったですね」


 ふふ、と笑うお姉さん。

 今の話、ピアノ経験者にとっては面白いのだろうか?

 「『月光』ってどんな曲だっけ?」と考えてしまう僕には高度過ぎる笑いだった。

 そもそもそんな異名の曲を昼間から弾いていることが面白いというか、変に感じる。


「さて、話を戻しましょう。

 玄関先のチャイムを鳴らすと高野さんが扉を開け、私を歓迎しました。高野さんは品の良い初老の男性で、近衛郷蔵氏専属のマネージャーでした。時代が時代なら『執事』と呼ばれたであろう人物です。私を見た高野さんは実に恭しく、ついでに非常に長々と歓迎の言葉を述べてくださいましたが、その部分は省略しましょう。『この老いぼれの目に御姿をよく見せてくだされ』と私を抱き寄せ、たっぷり十分は遥々やって来た私に対する労いと、私が若い頃の母に似てきたことに対する感激と、早くにこの世を去った母に対する哀悼と、残された私に対する心配と……とにかく諸々を言い続けていましたから。まあ、要するに彼は『ようこそお出でくださいました、アルマ様』と私を歓迎したわけでした。そうして部下の若いメイド二人を呼び付け、一人に私の荷物を預かり部屋へ運ぶように、もう一人に私をリビングルームへ案内するように命じました。その二人のメイドは山本という名の姉妹なのですが、私を案内したのは妹の方でしたね。

 妹の方の山本さんに通された応接間には三人の人がいました。一人はゆったりと椅子に座り、我が家のように寛いでいる中年の男性。近衛郷蔵氏の息子であり、私の母の腹違いの兄でもある近衛兼郷氏です。彼は私を見ると、一瞬怪訝そうな顔をしましたが、すぐに柔和な笑みを作り『よく来たね、君が来たと知ったら郷平やうちの息子は喜ぶだろう』と言ってみせました。兼郷氏は昔から母と仲が悪く、私のことも快く思ってはいませんでしたが、人前ではそうしてきちんと外面を取り繕う方でした。

 別の椅子に座り、本を読んでいた太った男性は私の姿を見つけると、にこやかに手を振りました。兼郷氏の弟であり、母の腹違いの弟でもある近衛郷史氏です。こちらは母と仲が良かったそうで私にも概ね好意的でした。どちらかと言えば能天気というか、温厚な人物で、経営者向きではないなと幼心に思ったことを覚えています。

 最後の一人は応接間の壁に飾られた絵やカレンダー、戸棚のレコード等を興味深そうに観察していました。眼鏡を掛けたその男性は、私に『まだ郷蔵さんはピアノを弾いていたかい? あの年であんな風にピアノを弾ける内は隠居なんてする必要はないと思うけどね』とフレンドリーに話し掛け、すぐに『それよりもアルマちゃん、私のことを覚えているかな?』と微笑みかけて来ました。私が首肯し、『勿論です、松ヶ崎様。お久しゅうございます』と一礼すると、彼はそりゃ良かったとまた笑いました。松ヶ崎さんは音楽会社を経営している遠い親戚で、身内だからというよりも、郷蔵氏や兼郷氏の友人として招かれたということでした」


 一拍置いて、お姉さんは言った。


「一旦登場人物を整理しておきましょうか? あと数名出てきますが」

「うーん……。いや、大丈夫かな」


 近衛郷蔵さんがお姉さんのおじいさんで、社長。

 近衛兼郷さんがお姉さんのお母さんの腹違いのお兄さん。

 近衛郷史さんがお姉さんのお母さんの腹違いの弟さん。

 松ヶ崎さんが近衛郷蔵達の友人。

 執事が高野さんで、メイドの姉妹が山本さん。


「そう言えば松ヶ崎って人だけ下の名前が出てきてないけど、どうして?」

「私が覚えていないからです。他の登場人物は一応同じ家で暮らした経験がありますが、松ヶ崎さんに関しては自分の祖父の友人という関係なので……。字はわかりませんが、『アキラ』という名前だったはずです。郷の字は入っていません」

「サトの字?」

「近衛家の男子は全員故郷の郷の字が入っています。お祖父様なら郷の蔵で『郷蔵』。お兄様なら郷の秋で『秋郷』。兼郷さんは郷を兼ねるで『兼郷』で、郷史さんは郷の歴史で『郷史』です。その日来ていなかった方も大体は郷の字が含まれる名前でした」

「ふーん……」


 妙な決まりがあるものだ。

 話を聞いている方としては名前が覚えやすくて良いけれど。


「大丈夫であるのならば話を続けましょう。

 郷史氏が『親父の「月光」好きにも困ったものだね、昔からああしてしょっちゅう弾いている。冬でもコートを羽織ってまで演奏するのだからよっぽどだよ』と笑い、松ヶ崎さんが『そう言えば郷悟君のコンサートはいつでしたかな。今月ですか?』と言うと、兼郷氏が『来月の頭だよ。だからここに来る余裕はないそうだ』と返し……。そんな風にして大人三人で近況報告、思い出話、あるいは景気や株価の話等をしている間、私は椅子に座ってぼんやりとしていました。私は近衛郷蔵氏に招かれてやって来たのだから、まず郷蔵氏に挨拶すべきなのです。しかし、高野さんに『ご存知の通り郷蔵様は演奏中に邪魔が入ると非常に不機嫌になられます。ちょうど、今も演奏を始めたところです。挨拶は夕食時にお願い致します』と念を押されていたので、特にすることがなかったんです。さっさとプレゼントを渡し、その後は理由を付けて帰ってしまおうと思っていた私はうんざりしていました」


 その時のことを思い出したのか、お姉さんは溜息を一つ漏らす。

 そうして続けた。


「ですが幸いにもすぐにお兄様――近衛秋郷が部屋にやってきました。

  『久しぶりだね、アルマ。元気だったかな?』

 お兄様の言葉に私は頷き、『お兄様も元気そうで何よりです』と頭を下げました。

  『可愛い妹にあえて嬉しいよ、アルマ。ところで今は暇かい?』

  『ええ』

  『ならオセロでもしよう。二階にあったはずだから。アルマに勝ちたくて練習してたんだよ。それとも囲碁が良いかな?』

 私とお兄様の仲は昔からそれなりに良好でした。先述の通り私は不倫でできた孫なので、本妻の孫であるお兄様は私のことを疎ましく思ってもおかしくなかったのですが、この三つほど年上の兄代わりの男は昔から妙に私に優しく、親しげでした。後に分かったことですが、彼は私のことを異性として意識していたらしく、自分がいつか家を継いだ際には妻ではないにせよ、秘書兼愛人くらいにはしてやってもいいと考えていたそうです。私と勝負して一度も勝てなかった囲碁やオセロを練習していたのもそういうことが関係しているのかもしれません。秘書より頭が悪い社長なんて格好が悪いでしょう?」

「それはよく分からないけど……。でも、お姉さん、モテるんだね」

「『愛人にしてやってもいい』という感想を抱かれたことを好意を抱かれたと解釈して良いかどうかは微妙だと思いますが」

「それは微妙だけど、でもモテると思う……」


 お姉さんの過去の話では、いつもお姉さんに恋をする男の子が出てきている気がする。


 ……まさかとは思うけれど、嘘を吐いていないだろうか?

 確かに御陵あるまという人はかなりの美人で、僕の憧れの人でもあるけれど、それにしたって好意を抱かれることが多い。


「というかお姉さん、いつだったかの話でもチェスをやってたけど、そういうボードゲーム好きなんだね」

「好きですよ。頭を使うこと自体が好きですから。そして強いです」

「強いことは知ってるよ」


 言われるまでもない。

 僕のホームズがそういうゲームが苦手なわけがないのだ。


「ただ囲碁に関して言えば、お兄様には全勝でしたが、お祖父様――近衛郷蔵氏にはそうはいきませんでした」

「負けちゃったの?」

「半々、いえ少し負け越しくらいです。ただ今考えると手加減されていたのだと思います」

「ふーん……」


 アルマお姉さんのおじいさんである近衛郷蔵という人は決してただの良い人ではなかったようだけど、少なくとも、愛人の子とは言え孫と遊ぶくらいの優しさはあったようだ。

 僕がそう言うと、彼女は笑ってこう返した。


「そのオセロの最中にも、お兄様に似たようなことを言われました。『アルマがどう思ってるか知らないけど、お祖父様はアルマのことを愛していらっしゃるよ』と。訝しむ私に対し、カレンダーを見なかった?とお兄様は笑いました」

「カレンダー?」

「はい、カレンダーです。一階の応接室に些か場違いな感じに掛けてあった、カレンダー。そう言われた私は一階に下り、カレンダーを確かめてみました。そこには『二月八日 重役会議』『二月二十八日 郷悟GP』『二月ニ十二日 秋郷大会』『二月二十日 先生訪問』といった予定に混じり、『二月二十一日 あるまコンクール』という書き込みがありました。……二十一日、私はヴァイオリンのコンクールに出る予定でした。ですがそれは近衛家には伝えていなかったことです。そもそもコンクールと言っても小さな発表会程度のもの。まさか、多忙なお祖父様がそんな小さな予定まで把握していらっしゃるなんて。驚愕と困惑で言葉が出ませんでした。

  『どうしたんだい、アルマちゃん』

 様子がおかしかったのでしょうね。応接間にいた一人がそう声を掛けてきました。『なんでもありません』と返答し振り返ると、そこには先ほどまでいなかった人物がいました。兼郷氏や郷史氏と同じく、私の母の異母兄弟である近衛郷平氏でした。

  『お久しぶりです、郷平おじさま。今到着されたのですか?』

  『久しぶり、アルマちゃん。いや、着いたのは朝だよ。君が来た時間はちょうど散歩に出ていてね……。そうそう、高野さんから伝言だけど、夕食は六時からだそうだ。六時になる前には広間へ来るんだよ』

 兼郷氏がしっかりした方、郷史氏が柔らかな方だとすれば、近衛郷平氏は『ロマンスグレー』の言葉がよく似合う、格好の良い方でした。今でも毎週スタジオを借りて、ご友人とギターセッションをしていると聞いたことがありました。そういう感じの男性です。私は郷平おじさまと少し会話をして、二階に戻り、オセロを続けました。早く終わらせないと夕食に間に合わなくなってしまうなと思いながら」


 さて、と彼女は一呼吸置いて、言った。


「登場人物は以上です。お祖父様の誕生日はこの日の翌日で、次の日には他の親戚や親しい友人も来る予定だったのですが、それは今回の話にはあまり関係がないので置いておきましょう。

 勝負を終えた私とお兄様は一階へと下り、広間に向かいました。そこには既に近衛兼郷氏、郷史氏、郷平氏、松ヶ崎氏が揃っており、メイドの二人が料理を運んでいるところでした。しかし、主役の近衛郷蔵氏がいません。時間に厳しいお祖父様には珍しいな、そう言えば高野さんもいない、お祖父様を呼びに行かれたのだろうか。そんなことを考えながら、私が腰掛けた時でした。顔を真っ青にした高野さんが広間に飛び込んできたのは。

 ……もうお分かりでしょう? 皆で離れへ行ってみると、書斎でお祖父様が死んでいたのです。頭から血を流れるお祖父様を見て、私は思いました。やれやれ、誕生日プレゼントが無駄になってしまったな、と」


 アルマお姉さんは目を伏せ、笑った。

 口端を歪めるいやらしい笑みを浮かべた。


 仮にも自分の祖父が死んだというのに、彼女が抱いた感想は「プレゼントが無駄になってしまった」というもの。

 それが何よりも、近衛郷蔵さんとお姉さんの関係を示していた。


「そう言えば離れの説明がまだでしたね。その別荘は本宅のすぐ近くに離れがあります。お祖父様が一人で集中したい時に使われる場所で、玄関から入ってすぐにグランドピアノが置かれたリビング、その奥に小さな書斎があります。近衛郷蔵氏が倒れていたのはこの奥の書斎です。部屋の片隅には古びた金庫があり、その角には血が付いていました。

 他の人間が動揺する中――あるいは動揺の演技をしてみせる中、私は気になることがあったので手前のリビングを見て回りました。まず、グランドピアノの周りを。年代物のピアノの鍵盤蓋は閉まっていましたが、譜面台にはピアノソナタの楽譜が置きっぱなしになっていました。その真後ろの掃き出し窓のレースカーテンは半分ほど閉まっており、座って演奏すればちょうど背中に日の光が当たる配置になっていました。広いリビングで目立つのはピアノくらいのもので、あとはレコードプレーヤーとレコードが納められた棚、申し訳程度の机と椅子、観葉植物、そして暖炉くらいしかありませんでした。私が暖炉の前の椅子に腰掛け、火で手を温めながら考え事をしていると、お兄様がやってきました。

  『……まさか、こんなことになるなんてね』

 沈痛な面持ちのお兄様に私は訊きました。

  『お兄様、どう思われますか?』

  『何がだい?』

  『何故お祖父様は亡くなられたのだと思われますか?』

 私の問いの意味を掴みかねているのか、不思議そうな顔をして彼は言いました。

  『コートも着ていて楽譜も置きっぱなしなんだから、ピアノの演奏を終えた後に転んで頭を打ったんじゃないかな。見た目は元気でも、もう年だったからね』

  『そうですか。ところでお兄様、お祖父様を最後に見たのは誰か分かりますか?』

  『さあ……。一時の昼食はこっちで食べて、四時半過ぎに高野が離れにお茶を運んで、それと入れ替わりで郷平おじさんがお祖父様に挨拶をしに行って……。その時にはまだピアノの音は聞こえなかったな。演奏が始まったのはアルマが来る少し前だ』

 私が別荘に到着したのは午後五時前。お兄様は二階で窓を開けピアノの音色を聞いていたそうで、車の音で私が来たことも分かったそうです。私が玄関先で聞いたのが第二楽章ですから、ちょうど演奏を始めたところだったのでしょう。ピアノソナタ第十四番は普通に演奏すれば五、六分で第ニ楽章に入りますから」


 そこまで話し終えたところで、お姉さんが溜息を吐いた。

 まったくおかしくて仕方ないという風に。


「……分かりましたか、眼帯君。私が何故この話を『笑い話』と言うのか」

「え?」

「そうですか。分からないのならば親愛なるワトソン君の為に話を続けましょう。この謎などない、愚かなだけの話を」


 未解決の謎。

 未解決の謎。


 僕にとっては、この話の笑いどころが最大の謎だった。


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