第12話 『僕のホームズ』 解答編



参考:アガサ・クリスティ原作『アクロイド殺し(原題:The Murder of Roger Ackroyd)』

   アドリアン・コナン・ドイル作『シャーロック・ホームズの功績(原題:The Exploits of Sherlock Homes)』より、『ファウルクス・ラス館の事件(原題:The Adventure of Foulkes Rath)』





 彼女は。

 すぐには真相を語らず、ゆっくりと目蓋を下ろす。


 一瞬か、一秒か、一分か。

 流石に一時間ということはないだろうけど、しばらくの間、彼女は目を閉じていた。

 何を考えているのだろう。

 相変わらず、僕は分からない。


 まあでも。

 きっとこの人のことだから、ちゃんと真相に辿り着いたんだろう。


「……何処から話しましょうか」


 と。

 やがて目を開けた彼女は、その綺麗な蒼の瞳でしっかりと僕を捉え、話し始める。


「折角ですから、あなたの推理に対する反論から始めましょうか」

「反論?」

「はい。私と事件の話をしている際、あなたはこう言いましたよね。『掃除している被害者と犯人は言い争いになり、掴み合いになって、やがてカッとなった犯人が手近にあった刃物で被害者を刺しちゃった』と」


 現場の様子を踏まえた僕の推理。

 倒れた椅子と動いた机、戸棚から落ちて割れた壺やその他の置物と文庫本、被害者の傍に落ちていたハタキと携帯、凶器は棚に置いてあった観賞用のナイフ。

 それらの要素から考えると、僕の語ったそれは我ながら妥当なように思える。


 でも、お姉さんは言った。


「被害者が掃除の最中に刺されたのは恐らく間違いないでしょう。そして携帯が落ちていたことから察するに、被害者は携帯で誰かと通話しながらハタキを掛けており、そして襲われた」

「うん……。じゃあ、僕の推理の何処が間違いなの?」

「まず、被害者と犯人が掴み合いになった、という点が疑問です。椅子や机は乱闘を思わせるように位置が変わっていましたが、おかしなことに、被害者の衣服に乱れはほとんどなかったんですよ」


 そう言えば彼女はこんなことを言っていた気がする。

 現場は至って普通だった、と。

 その時は意味が分からなかったけれど、多分それはこういうことだったのだ。

 被害者は、ただ死んでいた。


「でもさお姉さん、乱闘になったからって服がぐちゃぐちゃになっちゃうとか限らないんじゃないの? 犯人が直した……ってことは流石にないかもしれないけれど、ほら、袖じゃなくて手首や首を掴んだら服は乱れないじゃん」


 僕の言葉にお姉さんは首肯する。


「そうですね。私は警察でも探偵でもありませんので、被害者の身体に残った微細な痕跡から事件当時の状況を精確に読み取ることはできません。衣服の乱れがなく、手首に誰かに掴まれた痕がないとしても、それが即ち乱闘がなかった証拠だとは言い切ることはできません」

「でしょ?」

「ですが、それでもはっきりとおかしいと言えることが二つあります」


 二つ?

 それって何なの?

 そんな風に僕が促すと、彼女はこちらに手の平を向けた。

 そうして手を握ったり開いたりしてみせる。


「仮に乱闘があったとして、犯人と被害者が掴み合いになったとしましょう。どちらが、何処を掴んだのかは分かりません。……ですが常識的に考えると、掴み合いの最中に殺意を抱いたならば、凶器として、本物かどうか分からず、しかも一旦鞘から抜くという両手を使う一行程が必要な観賞用のナイフではなく――そのすぐ近くにあった木彫の熊の方を掴んで、頭を殴ると思いませんか?」


 僕はハッとする。

 ああ、そうか。

 それもそうだ、と。


「あなたが挙げた三人の容疑者、つまりは旧館の二階に宿泊していた私、斉藤さん、猫田さんの三人のおおよその身長を考えてみましょう。私の身長は百七十弱、斉藤さんが私より十センチ高い百八十程度、猫田さんは間違いなく百九十近くあります。被害者であるご主人の身長は私と同じくらいですから、腕の長さを考えれば、鈍器で頭を殴り付けるくらいのことは三人共できます」


 だとしたら、と彼女は笑う。

 だとしたら何故、犯人はわざわざ凶器としてナイフを選んだのか、と。


「さて。不自然な点のもう一つは、猫田さんの本です」

「……本?」

「はい。サルトルの文庫本です。警察が猫田さんを疑う理由の一つであり、猫田さんは『事件前に置き忘れた』と主張している、あの本です」

「あの本が、どうかしたの?」


 第一発見者になったお姉さんが拾い上げた、一冊の本。


「何処が、おかしいの?」

「何処がおかしいか分かりませんか?」

「うん……」


 静かに彼女は告げる。

 あの聞き取りやすい、女の人としては低めな声で。

 言葉を紡ぐ。


「表紙が血塗れだったのがおかしいんですよ。乱闘の最中にどちらかが戸棚にぶつかり、上に乗っていた本が落ちたとしたら、本が落ちたのは被害者が刺される前です。なら、表紙が血で真っ赤になるわけがないんです。仮に被害者の血が本の落ちた場所まで広がっていったのだと考えるとしても、それならば血は本の縁に付着していなければ、おかしい」


 「どちらにせよ表紙が真っ赤になることなんてありえません」とお姉さんは纏めた。

 そうしてこう続ける。


「これは私の考える一つの可能性に過ぎませんが、恐らく被害者はほとんど無抵抗で刺されたのではないでしょうか。その時点で落ちたのは十二支の置物だけだった。被害者が鼠を象った置物を掴むのと前後して、犯人は胸にナイフを突き立て被害者の息の根を止めた。そしてその後で犯人は、乱闘があったように見せ掛ける為に椅子や机を動かし、戸棚を揺らして上に乗っていた壺等を落とした。……どう思われますか?」

「……うん、その通りだと思うよ」


 だから続けてよ、と僕は言った。

 お姉さんの推理を聞かせてよ、と。

 

それが僕の、最後の望みだったから。


「さて、ではもう一つ、おかしなところを追加しておきましょうか。ナイフの指紋についてです」

「指紋? 確か、誰のものも検出されなかったんだよね?」

「はい。そのせいで手袋を持っていた私は警察に疑われることになったのですが、これもまたおかしいんです」

「どうして?」

「……指紋は案外、色んなところに付いてしまっているものです。『誰のものも検出されない』という事実は一つの真実を示します。つまり、『犯人が指紋を拭き取った』ということをです」


 だとしたら手袋を持っていようが持っていまいが、関係ない。

 そもそも「カッとなって衝動的に刺してしまった」のならば手袋を嵌める暇なんてなかっただろう。


「でも、でもさお姉さん。たまたま手袋を嵌めてる時に口論になった可能性だってあるんじゃない? 昨日は雪が降るくらい寒かったんだし、犯人が手袋を嵌めててもおかしくないでしょ? そしたら犯人の指紋がないのもおかしくない。高そうなナイフだし、案外、誰も触ってなかったのかもしれないし」

「いえおかしいです。だってあのナイフは、私が昨日の朝方に触りましたから」


 平然と言われた一言に僕は言葉を失った。


「珍しい物だったので手に取って見ていたのですが、ご主人に注意されてしまいました。私の事情聴取が長引いた理由は手袋を持っていたからだけではなく、『注意されたことを恨みに思っていたんじゃないか』と問い詰められていたからです」

「そっか……」

「そうです」

「じゃあ、指紋がなくちゃおかしいね」


 はい、とお姉さんは深く頷いた。


「ねぇ、お姉さん」

「なんでしょうか」


 僕は言った。


「そろそろ、あのダイイングメッセージの意味を教えてもらっても良い? それともお姉さんは、やっぱりそういうのって小説やドラマの中だけのもので、被害者が鼠の置物を掴んでたのはたまたまだと思う?」

「……いいえ。あれはちゃんとしたダイイングメッセージでしたよ」


 鼠を掴んでたんだから、猫田さん?

 そう僕が訊ねると、お姉さんは「違います」と首を振る。

 じゃあ芸名を漢字で書くと『一了』という“子”という漢字を分解したものになる、リョウさん?

 そう僕が訊くと、お姉さんは「それも違います」と笑った。


「私の好きなマンガの探偵がこんなことを言っています――『ドラマなんかに出てくるダイイングメッセージほどバカバカしいものはない。死ぬ間際にくだらないとんちを考えているヒマがあったら、なんとしてでも犯人の名を直接示す努力をすればいいのです』と。かのエラリー・クイーンは作中の登場人物に『死の直前の比類のない神々しい瞬間、人間の頭の飛躍には限界がなくなる』と語らせて、小難しいダイイングメッセージを肯定していますが……。私はどちらかと言えば、マンガの探偵を支持します」


 だから。


「だから、現実の人間がダイイングメッセージを残す場合、それは難解な暗号であることは少ないと考えます。誰かを指し示すか、はっきりと特定できる暗号。被害者であるこの旅館のご主人――桂敬二さんは、それで絶対に伝わると思ったから鼠の置物を掴んだ」


 だから、と彼女は流麗に手を上げる。

 彼女が言ったマンガの探偵のように人差し指を立て、真っ直ぐと指差した。

 そう。


 僕を。


「あのダイイングメッセージは、そのままの意味。被害者は十二支の最初の一つ、子の置物を掴んでいた――故に、桂さんの息子さんである、桂蒼汰さん」


 名探偵は僕を指差して言った。

 あなたが犯人です、と。







 御陵お姉さんは言った。

 僕が、犯人だと。

 僕がこの旅館の主人、桂敬二を。


 父を殺した――犯人だと。


「被害者である桂敬二さんを発見した際、私が疑問に思ったのは下腹部の刺し傷でした」


 彼女は自らの推理を披露する。

 さながら、小説の中の名探偵のように。


「致命傷となったのはナイフが刺さったままになっていた胸の傷でしょう。恐らく被害者は犯人を下腹部を刺され、倒れた後に胸を刺された……。つまり、下腹部の傷の方は被害者が立っている時、掃除の最中にできたものです」


 頷いて、僕は何度目かの言葉を口にする。

 お姉さんの推理を聞かせてよ、と。


「ただ、だとしたら不自然な傷なんです。あの傷は斜め下から刺されたものでした。下腹部、臍の辺りに下から刺された傷。……通常、上背が同じ程度か加害者の方が高い場合、刺し傷は上から斜め下に向かって生じるものです」


 けれど、あの傷は斜め下から刺されたものだった。


「最も有力な可能性は、加害者の方が被害者よりも圧倒的に小さいというものです。百七十弱の私が桂敬二さんと同じくらいですから、私はありえません。百八十以上ある残りの二人ならば更にありえません。被害者を椅子に乗った状態で刺したならばありえますが、今回の場合、その可能性は低いでしょう。残る可能性は、ただ一つ」


 そう。


「被害者と同じく旧館の奥に住んでおり、桂敬二さんの実子であるあなたが犯人である可能性です。……今、あなたは小学五年生でしたよね」

「……そうだよ」

「見たところ、あなたの身長は十一才の平均程度、百四十センチ強でしょう。被害者との身長差は二十センチ以上。それくらいの差があった上で、ナイフを腰に構えて相手を刺せば、斜め下から上に向かう傷ができてもおかしくありません」


 思わず、笑みが溢れた。

 ああ、そっか。


「ひょっとして、さっき僕のことを抱き締めたのって……」

「はい。身長差を確認する目的でした」

「酷いなあ、御陵お姉さんは。僕、ドキドキしちゃったのにさ」

「そうですか。ありがとうございます」


 何処までもクールに僕の名探偵は礼を告げた。


「お姉さんの考える、事件の真相を教えてくれる?」

「……あなたが望むのならば」

「勿論だよ」


 そう、それだけが僕の望みなんだから。

 僕の最後の願い。

 彼女の活躍を誰よりも待ち望むワトソンとして、たった一つ、望むことだから。


「……あなたのお父様である桂敬二さんは携帯で通話を行いながら日課の掃除を行っていた。そこであなたは、何か良くないことを聞いてしまった。そしてあなたは咄嗟に戸棚にあった観賞用のナイフを掴み取り、あなたの存在に驚くお父様を襲った。この旅館で暮らしていたあなたならナイフが本物かどうか知っていたでしょう」


 一拍置いて、続ける。


「下腹部を刺されたお父様は戸棚にもたれ掛かるようにしながら倒れ、あなたは倒れたお父様の胸にナイフを突き立てた。そこで冷静になったあなたは奥の自宅で何か拭く物を取りに行き、それでナイフの柄を綺麗に拭いた。そうして、乱闘があったように見せ掛ける為に椅子と机と動かし、戸棚を揺らして物を落とした」


 私の推理は以上です、と彼女は微笑んだ。


 その様はまるでホームズのようで。

 彼女は、僕が望んだ通りの名探偵で。


 でも、どうしてだろう。

 僕が男の子だからだろうか。

 この素敵な、憧れのお姉さんに意地悪をしてみたくなって、僕は言った。


「……一つだけ違うよ、お姉さん」

「それは、なんでしょうか」

「僕は、お父さんを刺した後に冷静になったんじゃない。最初から冷静だったんだ。ずっと、考えてたんだ」

「…………何を?」

「どうすれば、良いのかを」


 御陵お姉さんは、僕の期待に答えてくれた。

 小説の中の名探偵のように――いや、それ以上に華麗に、見事に、謎を解いた。


 だから僕も言わなくちゃいけない。

 この事件の犯人として。

 架空の探偵のように謎解きをしてくれたお姉さんに対するお礼として、ミステリーの犯人のように犯行の動機を言わなければならない。


 それが、僕のお礼。

 彼女の活躍を待ち望み、謎を解くことを頼んだ僕ができる、唯一のことだから。


「……一ヶ月くらい前だったかなあ。お父さんのパソコンで遊んでたら、間違えてファイルを開いちゃってさ。そこに、カナちゃん――今日玄関ですれ違った子の写真があったんだ。裸の、写真が」

「……それは……」

「もう僕、訳分かんなくなっちゃってさ……。でも、お父さんにもカナちゃんにも訊くわけにもいかないし、色んな人に話を聞いた。ここの仲居さんや学校の先生、近所のおばちゃんに訊いてみたら、カナちゃんの家、うちに借金してたんだって。うちはこんな旅館を経営できるくらいだけど……ほら、今って不景気って言うのかな? そういうのでさ……。なんとなく、分かっちゃった」


 つまり。

 あの子は親に売られて。

 僕の父親は、あの子を買ったのだと。


「…………もういいです」

「……何かの間違いだと思ってた。写真があるんだし間違いなわけないけど、何かの間違いだって。でも昨日の夜、お父さんとカナちゃんのお母さんが電話で話してるのを聞いちゃって、それで……!」

「もういい――もう、いいですから……」


 涙が、頬を伝った。

 その瞬間に、僕はお姉さんに抱き締められた。

 我慢していたけれど、もう駄目だった。

 泣かないと決めていたのに僕の身体は僕の意思などお構いなしで大粒の涙を溢す。


「……あなたの行為は褒められたものではないかもしれません。ですが、法律や倫理なんて知ったことではありません。私は一人の女として、あなたの行為を賞賛します。それが私の正直な感想です」

「…………お姉、さん……」


 彼女の胸に抱かれ、みっともなく涙を流しながら僕は言う。


「お姉さんは……僕の、ホームズだよ……。最後にお姉さんの活躍が見れて……お姉さんに犯人だと見抜かれて、嬉しかった……」


 僕の憧れの人。

 僕が出会ってきた人の中で一番の天才。


 僕のホームズ。

 御陵あるま。

 僕は、彼女に抱かれながら、それからずっと泣きじゃくっていた。

 その間、彼女はずっと僕を抱き締めていてくれた―――。







 ―――目を閉じると、今でもあの日のお姉さんの笑顔が脳裏に浮かぶ。


 僕が、彼女のことを『僕のホームズ』と呼ぶようになった日。

 僕がここ、初等少年院に収監される前、お父さんがやっていた旅館に彼女が泊まりに来て、しばらく経った時のこと。


 御陵お姉さんと一緒に過ごしたのはほんの数日だった。

 でも今でもはっきりと思い出せる。

 忘れるわけがなかった。

 口端を歪める笑みも、少し低めで聞き取りやすい声も、綺麗な横顔も、蒼い瞳も、匂いも、感触も。

 その全てが僕の胸に残っている。


 歩む道は遠く離れてしまったけれど――今でも御陵あるまは、僕のホームズだから。


「……いつか御陵お姉さんに会えたら、何を話そうかな」


 いや。

 僕が話したいことなんて一つもないのだ。

 僕は、彼女の活躍を待ち望むワトソンなんだから。

 僕のホームズである御陵お姉さんの活躍を聞くだけだ。


「きっとあの人のことだから、口では色々言いながら今日も謎を解いてるんだろうな……」


 今の彼女の隣にもいつかの僕のようなワトソンがいるのだろうか。

 いるとしたら、どんな人だろう。

 男じゃないといいなあ。


 ……そんなことを考えながら、僕はまた目を閉じる。

 今の僕の願いは二つ。


 僕が望むのは、いつか僕のホームズに再会することと――その時までに、彼女より背が高くなっていることだった。







 青空に上がった白球が落ちてくる。

 落下点を予測して下に入る。

 今度こそ上手く手で受け止められる思った球はポコンという情けない音を立てて僕の頭に直撃した。

 転がったボールを拾いに行きながら僕は思う。

 柔らかいソフトテニスのボールで良かったなあ、と。


「……リンネさん、やっぱり無理だって。知ってるでしょ? 片目じゃ遠近感が掴めないから、球技は全般的に苦手なんだって」

「知ってるよ。でも僕は片目でもキャッチボールくらいならできるからね、君も練習すればできるようになるよ」

「そもそもなんで両目が見えるリンネさんが片目でキャッチボールができるのさ……」

「ずっと武道や格闘技をやってきた人間は汗が目に入ったり目蓋が腫れたりして片目が見えない状況を頻繁に経験するから、片目だけでもおおよその遠近感は掴めるようになるんだよ」

「知らないよそんなこと……」


 そんなわけで。

 ある日曜日、僕は病院の中庭でリンネさんとキャッチボールをしていた。

 たまには運動も良いと誘われて、一応やってみたけれど、やはり僕には球技は向いてないみたいだった。


「さて、そろそろアルマさんも戻ってくる頃だろうし、玄関で待っていようか」


 そう言って柔らかく微笑むリンネさんに、僕は「え?」と訊ねる。


「お姉さん、今日は夕方まで帰ってこないって行ってたけど……」

「面会ができればそのくらいの時間になるだろうけどね……。少年院って、ごく限られた例外以外は基本的に親族しか面会できないから。一応訪ねてみるって言ってたけれど、入口で断られると思うよ」

「ふーん……。でも、お姉さんがその例外の可能性だってあるんじゃない?」


 隣を歩く彼は珍しくいたずらっぽく笑って答えた。


「家族以外の例外って、婚約者だけど……良いの?」


 まったく良くなかった。

 それは、穏やかじゃない。


 でも、お姉さんは少年院まで誰に会いに行ったのだろう。

 アルマお姉さんがここに入院することになる前の、昔の知り合いだと言っていたけれど。

 ……男の人じゃないといいなあ。


「―――あら、お出迎えですか? 社長にでもなった気分ですね」


 と。

 僕がそんなことを考えながら玄関に向かい、ちょうど到着した時、自動ドアが開いた。

 立っていたのは、僕のホームズ。

 アルマお姉さんだった。


「おかえり、お姉さん!」

「はい、ただいま帰りました」

「……やっぱり、会えなかった?」

「ええ。残念ながら」


 リンネさんの問いにそう答え、でもお姉さんは続けて「出所後には会おうと思います」と笑った。

 蒼い瞳が愛おしげな色を帯びた気がして、面白くない僕は問い詰めるように訊いた。


「で、お姉さん、誰に会いに行ってたの?」

「言ってませんでしたか?」

「うん。『昔の知り合い』ってだけで」

「そうですね……」


 お姉さんは目を閉じて、ほんの数秒だけ考えてから、こう言った。


「……私のことを、はじめて『ホームズ』と呼んでくれた相手。そして、私に探偵の苦さを教えてくれた相手です」

「ホームズ……? 苦さ……?」

「はい。問題を未然に防ぐことを目標とするリンネさんのようなソーシャルワーカーとは違い、探偵は、起きてしまった事件の謎を解くだけ。しかも、それで誰かが救われるとは限らない。警察の地道な捜査によってやがては明らかになる真相を、その真実を、少しだけ早く白日の下に晒すだけ。何も、変わらない。……犯人でありながら私に謎解きを依頼し、そんなことを教えてくれた相手です」


 僕のホームズは微笑を湛えていた。

 穏やかで、美しい笑みを。

 だけどその裏に隠されているものが彼女の言う探偵の苦さだということは理解できた。


 アルマお姉さんのワトソンである僕は、推理は全然だけど、そういうことは分かっているつもりだ。

 だから僕は言う。


「詳しい事情は分からないけれど……。でも、僕は『何も変わらない』とは思わないよ」

「……そうですか?」

「うん。もし僕が何か犯罪をしちゃって、捕まることは避けられなくなったとしたら……僕は、お姉さんに捕まえられたいって思うよ」


 そう。


「お姉さんは、僕のホームズなんだから。僕は、最後までお姉さんの活躍を見ていたいから」


 それがワトソンとしての僕の願い。

 結末は変わらないとしても、その結末に至るまでの道筋を選ぶことができる。

 それは多分、意味のあることだと思う。

 探偵として、他の存在と違う解答を示すことは、十分に意味があると。


「そうですか」

「うん、そうだよ」

「……そうですね」


 なら、とお姉さんは言った。


「私は別に探偵ではありませんが……。たまには謎を解くのも、悪くはないかもしれませんね」


 御陵あるま。

 僕のホームズ。

 彼女はこれからも、探偵ではないと口にしながらも謎を解いていくのだろう。


 退屈凌ぎに。

 たまには、誰かの為に。

 鶴を折るように簡単に未解決の謎を解く。

 だから今日は一度おしまい。


 ―――僕のホームズの活躍譚の続きは、また今度ということにしよう。


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