第11話 『僕のホームズ』 問題編



 ―――『僕のホームズ』。


 僕が彼女のことをそう呼ぶようになったキッカケはなんだっただろう。

 確か、最初はなんでもないことだった。

 一緒にクイズ番組を見ていた時だ。

 出題される問題を次々と退屈そうに答えていく彼女。

 驚く僕に対して、彼女は言った。


『別に、これくらいは普通ですよ』


 そのあまりにもクール物言いが、とてもカッコ良くて。

 日本人としては珍しい綺麗な蒼の瞳も相俟って、僕は「まるで小説の中の名探偵が抜け出してきたみたいだ」と思った。


 推理モノのアニメやドラマを見ていても同じ。

 彼女は作品の中の名探偵よりも早く真相に辿り着く。

 事件が起こった瞬間に、その状況からいつかの可能性を考え、その後に提示されるヒントで正解を選び出していく。

 僕はその時十一才だったけれど、十一年間で出会った全ての人間の中で、彼女――御陵あるまは、間違いなく一番の天才だった。


 そう、まるで。

 さながら、あの名探偵シャーロック・ホームズのように。

 

『お姉さんはまるでホームズだね』


 僕がそう賞賛すると、彼女は微笑んでこう返した。

 そう言われて悪い気はしませんね、と。


 そして、お姉さんがあの事件を解決する様を間近で見たことで、僕は御陵あるまのことを『僕のホームズ』と呼ぶようになった。

 ホームズのようだ、ではなく、僕のホームズ、と。


 今でもはっきりと思い出せる。

 忘れるわけがなかった。


 僕がここに来る前、彼女と出逢ってすぐのこと。

 それは僕が、彼女をはじめて『僕のホームズ』と呼んだ時のこと―――。







 事情聴取を終えたお姉さんは少し不機嫌そうだった。

 彼女は知らない人と話すことが好きではないのだ。

 況してや相手が警察の刑事さんなら尚更。

 機嫌が良くなるわけがない。


「……少々、疲れました」


 新館、エントランス脇のラウンジ。

 窓際のソファーに腰掛けた彼女――御陵あるまは、ふう、と小さな溜息を吐いた。

 長い脚を組んで、もううんざりだという感じに眉間に皺を寄せる。


「取り調べとはああいうものであると分かってはいるのですが……。それでも、ああも慇懃無礼な態度を取られると……」


 あの中年の刑事さん達にどんなことを言われたのだろう。

 お姉さんは苛立ちを紛らわせるように肘掛けをコツコツと指先で叩いてみせる。

 普段は穏やかで超然とした態度をしているから分かりにくいけれど、このホームズは結構怒りっぽいところがあるらしい。


 ……いや。

 この人のことだから、既に犯人の目星が付いていて、それに気付かず自分を犯人扱いする愚鈍な警察に苛立っているのかもしれない。


「でも仕方ないじゃん。だってお姉さん、第一発見者だし、その時手袋持ってたし、証拠品を動かしたし、動揺した様子がないし、しかも容疑者は昨日旧館に泊まっていた人間に限られてるし……」


 慰めのつもりでそう言うと、彼女はふんと一度鼻を鳴らす。


「まあ、そういう見方もできるかもしれませんがね。ですが、私だって好きで物言わぬ姿になったご主人を発見したわけではありませんよ」


 そう。

 今、御陵あるまはこの年季の入った民宿で起きた殺人事件の容疑者の一人として数えられていた。


 事件が起こったのは昨夜遅くだった。

 深夜一時過ぎ、この新館の隣に立つ旧館の一階、玄関前の休憩スペースで倒れている宿の主人が発見された。

 第一発見者は二階の一室に宿泊していた御陵あるま。


 ……警察の肩を持つわけじゃないけど、お姉さんが疑われるのは仕方のないことだ。


「それはそうかもしれないけど、たまたま警察の人が使うような白手袋を持っていたからそれを嵌めて現場を調べるなんて、普通の人はしないよ」

「確かにしないかもしれませんが」

「でしょ? そもそも、たまたま夜眠れなかったから、たまたま散歩にでも出掛けようと一階に下りた……んだったよね?」

「その通りです」

「そこでたまたま死体を見つけるも、叫び声一つ上げなかった?」

「はい」

「そのまま脈を取って瞳孔を確認して、ゆっくりと現場を観察してから新館に歩いていって、『警察を呼んで下さい』とフロントで言ったんだよね?」

「何かおかしいところがありますか?」


 平然とそう言う彼女に僕はこう返す。


「しいて言うなら……全部じゃないかなぁ」


 お姉さんの行動は、警察、あるいは一般の人が考える「事件に巻き込まれた無関係な第三者」の反応とは全く異なっている。

 要するに、「普通に考えたらおかしいところだらけ」。

 これでお姉さんが疑われないなら僕は警察の捜査能力を疑ってしまう。


「……ここは先ほど刑事さん方にも説明しましたが、厳密に言うと『たまたま白手袋を持っていた』ではなく、私が外出時に身に付けるウエストポーチの中に白手袋が入りっぱなしになっているだけです」

「そもそも白手袋を持ってること自体がおかしいじゃん」

「それは……」


 彼女は、一瞬間視線を彷徨わせる。


「……この手袋は、友人に借りている物なんですよ」

「友達に?」

「はい。訳あって借りたはいいのですが、そのまま返さないまま別れてしまったので、いつ再会しても返せるように外出先では身に付けるようにしているんです」

「ふーん……」


 その時のことは機会があれば話してあげますよ、なんて。

 そう言って、お姉さんは懐かしむように目を細めた。


 ……その友達は、男の人なんだろうか。

 だとしたら少し嫉妬してしまう。

 手袋のことを語るお姉さんはなんだか愛おしげな瞳をしていたからだ。

 僕のことを他人に語る際にも、彼女はこういう表情をしてくれるのだろうか。

 そんなことが気になった。


「……いや、ちょっと待ってよ。なんだか良い話風になってるけど、それは手袋を持ってた説明にはなっても、手袋を嵌めて現場を調べた説明にはなってないよね?」

「なってないですね。あの刑事さんにも同じことを言われました」


 「調べたとは言っても文庫本を一つ拾い上げただけなんですが」とお姉さんは言うけれど、調べたことには変わりない。

 ホームズみたいな天才だとは思っていたけど、もしかしたらお姉さん、本当に探偵なのかもしれない。

 だとしたら事件に遭遇した際になんとなしに現場を調べてしまうのも無理はない。

 探偵の習性だからだ。


 でも僕がそういう感想を述べると、お姉さんは首を振る。


「期待を裏切るようで申し訳ないですが、私は別に探偵ではありませんよ。人より少しは上等な頭を持っていると自負していますが、私が解ける事件なんて、基本の応用で解けてしまうような簡単なものだけです」


 そして彼女はあの笑みを湛える。

 口端を歪める、穏やかさの裏に驕りを隠した妖しい微笑を。

 それは、そう。

 口ではなんだかんだと言いながらも、「私に解けない謎なんてありませんよ」と尊大に主張しているようだった。


 だから僕はこう言うのだ。

 彼女が華麗に謎を解くホームズだとしたら――僕は、ホームズの活躍を待つワトソンだから。


「でもお姉さんなら、今回の事件の犯人だって分かるんでしょ?」


 無論ですよ。

 お姉さんは当然のようにそう答えた。

 それが、彼女が事件の捜査を開始する合図になった。







 刑事さんから三十分という制限付きで外出許可を貰い、二人で新館の玄関に向かう。

 外に出た瞬間、冬の空気に思わず身震いした。

 肌を刺すような北風に隣に立つお姉さんの様子を伺うが、彼女は「寒いですね」なんて感想を述べながらも顔色一つ変えていない。

 言葉とは裏腹に全然寒そうじゃなかった。


 お姉さんはスカートにパンスト姿。

 すらりと伸びた脚にドキドキするけど、それはともかく見ているこちらが寒くなりそうな格好だ。


「お姉さんさ……。寒くないの?」

「寒いですよ。さっき『寒いですね』と言ったじゃないですか」


 いや、それはそうなんだけど。


「まあですが、北国生まれなので寒さには強い方です。知っていますか? 日本でも東北部には私のような青い目の人間がいるんです」

「そうなの? 僕、お姉さんのことずっとハーフだと思ってたよ」

「祖母がロシア人なのでクォーターではありますがね」


 そんなことを話しながら古びた旅館を出て、近所をぶらつく。

 道路の端や屋根の上には昨夜降った雪がうっすらと残っていた。

 天気予報によると今日はずっと晴れらしいし、しばらくすれば全部溶けてしまうだろう。


「昨夜私が新館へ人を呼びに行った際、渡り廊下には雪が積もっていました。足跡はありませんでしたね」

「非常時なのによく見てるね、お姉さん……」

「そう言う誰かさんも冷静そうですが」

「いや普通に考えたら真夜中に人が死んでいるのを見て、平然としているのはおかしいじゃん」


 僕の言葉に、お姉さんはぽつりと呟く。

 真夜中に人が死んでいる姿を見るのは初めてではありませんから、と。

 もしかしたら以前人の死に遭遇した際もお姉さんは今のように捜査や推理をしたのかもしれない。


 詳しく聞いてみたい気がするけど、人の死という非日常をなんでもないように語る彼女は、少し怖くもあった。


「……雪が降り始めたのは昨晩の十時頃だったと記憶しています。そして私が通るまで旧館と新館を繋ぐ渡り廊下には足跡はなかった。また、取り調べで刑事さんが言ったことが嘘でなければ、旧館の正面玄関や窓に誰かが出入りした形跡はなかったそうです」

「つまり……。旧館自体が大きな密室だった?」


 密室。

 刑事ドラマや探偵モノのアニメでしか出てこない単語だと思っていたけれど、まさか現実で聞くことになるなんて。


 尤も今回の場合、ミステリーでたまにあるような「密室の中で人が殺されている」というような不可能殺人ではないので、警察としては容疑者を絞れて嬉しい限りだろう。

 現実で訳の分からない密室トリックが使われることはまずない。

 一つの密室の中に被害者以外に人がいたら、十中八九その人が犯人だ。


「警察は、昨日旧館に泊まっていたお姉さん達――お姉さんと、あと二人の男の人を疑ってるんだよね。仲居さんとか他の従業員は旧館にはいないし」

「どうやらそのようですね」


 小さな橋の上で立ち止まり、彼女は絶え間なく流れる川に目を落とす。

 僕も隣に立つ。

 でも水は見ずにお姉さんの整った横顔を眺めた。

 あまりにも綺麗なその顔立ちを目に焼き付けておこうとして。


「私が被害者である旅館のご主人を発見したのが深夜一時過ぎです。刑事さんが言うには死亡推定時刻は深夜十二時以降。私と、あと二人の宿泊客は全員それぞれの部屋に戻っていました。アリバイはないと言っても良いでしょう。夜十時以降は旧館の玄関は施錠されるため、それ以降に帰ってきた旧館の宿泊客は新館のフロントで鍵を受け取り、渡り廊下を通って旧館の部屋に戻ることになる。旧館の構造は二階が個人部屋、一階が玄関、喫煙室、大浴場、宴会場で、奥が旅館の経営者であるご主人の自宅になっています。聞いた話によると、あのご主人は夜零時前後、就寝前に旧館の施錠確認を行い、玄関前の休憩スペースを簡単に掃除する習慣があるそうです。死体の傍には被害者の持ち物らしき携帯とハタキが落ちていましたから、恐らく被害者は清掃の際に刺殺されたのでしょう」


 お姉さんの形の良い唇が流れる水のようにさらさらと言葉を紡いでいく。


「考えてみれば、深夜一時前にガチャンという何かが割れる音が聞こえました。現場には陶器の破片が散らばっていましたし、あの音は戸棚にあった壺が落ちて割れた音だったんでしょう」

「現場は? どんな感じだったの?」

「至って普通の殺人現場でしたよ」


 殺人現場に普通も何もないでしょ。

 喉まで出かけたそんなツッコミを飲み込んで、僕は頷き先を促した。


「被害者は戸棚の前に仰向けで倒れていました。身長は私と同じくらい、肥満傾向なので体重は私の二倍弱くらいでしょう。傷は二箇所、下腹部に斜め下から刺されたものが一つ。もう一つはダガーナイフが刺さったままになっていた胸の傷。死因は被害者の周囲に血の海ができてきたことから分かるように恐らく失血死。戸棚に並べられていた十二支や七福神、木彫の熊等の置物が散乱していました。近くの椅子は倒れており、机の位置も少し変わっていました」


 よく見てるなあ、と感心しつつ僕は訊く。


「そのナイフって、七福神の置物の隣にあったやつだよね?」

「はい。陳列してあった装飾付きの物です。鞘に入っていたので、てっきり刃引きした物だと思っていたのですが……。私の法律知識が正しければあんな物を所有していたら銃刀法違反で捕まりますよ」


 覚えてないけれど確か刃渡りは十センチくらいだっただろうか。

 観賞用だとしても、そんな長さがれば立派な凶器だ。

 そして実際に凶器として使われた。


「指紋は? どうだったの?」

「誰のものも検出されなかったそうです」


 まあ、そうだろう。

 だからこそ白手袋を持っていたお姉さんが疑われたのだろうし。


 少し考えてから、僕は言った。


「つまり、掃除としている被害者と犯人は言い争いになり、掴み合いになって、やがてカッとなった犯人が手近にあった刃物で被害者を刺しちゃった、ってこと……?」


 僕の言葉に、警察の方はそう見ているようですね、とお姉さんは目を細める。


 見たことのない色合いの、蒼い瞳。

 彼女は何を考えているのだろう。

 もしかしたらお姉さんは既に、誰が犯人なのかを見抜いているのかもしれない。


 だとしたら。


「……さて、では戻りましょうか」


 踵を返し、旅館へと歩き始めるお姉さんの背を追う。

 彼女がどんな推理をしていたとしても、ワトソン役である僕はその活躍を見届けるだけ。

 それが僕の望みなのだ。







 途中コンビニに寄ったが何も買わず、僕達は旅館の前へと戻ってきた。

 自動ドアをくぐって、エントランスへ。

 その瞬間、目の前を歩いていた彼女が立ち止まり、僕はお姉さんの背中にぶつかった。


「ご、ごめん……」

「いえ、構いませんよ」


 でもなんで急に立ち止まったの?

 そう問い掛けようとした時、僕達の隣を顔を真っ青にした女の子が脇目も振らず走り去っていった。

 どうやら彼女にぶつからないように、お姉さんは一旦足を止めたらしい。


「今の子……」

「あの子がどうかしたの?」

「いえ……」


 僕の問いに答えることなく、お姉さんは近くに立っていた男の人の元へ黙って歩いていく。


 真っ赤なジャケット、黒のドライバーズグローブにエンジニアブーツ。

 ラウンジの端で缶コーヒーを飲んでいたバイカーファッションの彼は僕達を見つけると、やあ、と手を上げる。

 僕達を見つけると、というか、お姉さんを見つけると、だろうか。

 どうもこの人は、お姉さんに気があるらしいのだ。


「すみません、ナントカさん。少しよろしいですか?」

「ナントカさんって……。俺の名前はリョウだって。フリールポライターのニノマエリョウ。昨日名刺渡したっしょ?」


 そう言って、彼――リョウさんはお姉さんに笑みを向ける。

 恐らくは好意から来るその笑顔に、彼女はあくまでもクールに返す。


「ええ、お聞きしました。本名は斉藤隆史ということも。良いお名前ですね」

「だろ? 気に入ってるんだよね、この芸名」

「本名の方ですよ。良い響きのお名前です」


 お姉さんがとても綺麗な人なのは言うまでもないけど、リョウさんも遊び人っぽいけど端正な顔立ちをしている。

 悔しいけれど、二人並んで立つとカップルみたいだった。

 百七十はあろうという女性としてはかなりの長身のお姉さんより、この人は十センチくらい高い。

 女の子は背の高い男子が好きだと聞くけれど、お姉さんもそうなんだろうか。


「ところで、先ほど走り去っていった女の子の話なんですが」

「ああ、さっきの子? まだ近所の子らしいけど、可愛い子だよね。いきなりやって来て、立ってた警察の人に事件のことを聞いたら真っ青になって走って行ったけど……。で、あの子がどうしたの?」

「いえ、もう結構です」


 背の高い男が好きかどうかが分からないけれど、どうやら少なくとも彼のことは快く思っていないらしい。

 彼女はそんな風に一方的に会話を打ち切ると、リョウさんの制止の声も聞かずすたすたと歩き出す。


「……ちょっと、お姉さんって!」


 上り階段の近くで周囲を見回す彼女にやっと追い付くと、僕は訊いた。


「どうしたの? 何か探してるの?」

「とりあえずは、もう一人の宿泊客の猫田さんでしょうか」

「あのおっきな人?」

「はい」


 僕達が話していたちょうどその時、件の猫田さんが階段を下りてきた。


 巨木。

 猫田さんはそんな言葉が良く似合う人だった。

 プロレスラーみたいにがっしりとした身体付きで、僕くらいの子どもなら片手で掴んで投げられそうだ。


「猫田さん」

「…………あなたは……」

「御陵です。御陵あるま」


 そうですか、と彼はゆっくりと頭を下げた。

 警察の事情聴取が終わった後だというのに猫田さんは全くの無表情だ。

 見た目通りに図太いのだろう。


「御陵さんは……第一発見者、ということで……」


 ゆったりとした口調で猫田さんは言葉を紡ぐ。

 体調が悪いのだろうかと心配してしまうような緩慢さ。


「はい。そこで私は、本を見つけました」

「はい……。私も、先ほど警察の方に、見せられました……」

「なら、やはりあの文庫本はあなたの物ですか?」

「……はい。不幸にも、昨日の夜、何処かに置き忘れました……。あんなところにあったとは……」


 お姉さんは、この巨大な容疑者の言葉を一つ一つ吟味しながら聞いているようだった。


 何を考えているのだろう。

 ワトソンがホームズが何を考えているか分からないように、僕も隣に立つお姉さんの考えはさっぱり読めない。


「証拠品として、警察に押収されてしまうそうで……。買い直さなければ……」

「そうですね。ところで、表紙が血で真っ赤になっていて分からなかったのですが、あれ、何の本なんですか?」

「サルトルです」

「……そうですか。こうして事件に巻き込まれると、たとえ犯罪のような社会的に非難される行為でも、それは犯人にとっては自分がどうありたいか、どうすべきかを思考した結果なのかもしれない、などと考えてしまいますね」

「博学……ですね」


 それほどでも、とお姉さんは妖しい笑みと共に一礼する。

 その動作が会話の終わりを告げる合図だと受け取ったらしい猫田さんは、またも緩慢な動きで頭を下げ、歩いていった。


 彼が遠くに行ってから僕は訊く。


「お姉さんはさ、あの猫田さんが犯人だって考えてるの?」

「どうしてですか?」

「だって、現場に本が落ちてたんでしょ?」

「ああ、サルトルの本ならば昨日の夕方の段階で戸棚にありましたよ。彼の言う通り、置き忘れたんでしょう」

「よく見てるなあ……」


 お姉さんには驚かされるばかりだ。


「ところで、折り紙はありませんか?」

「折り紙?」


 いきなりなんで?

 そう問うと、「私は考え事をする際には手を動かしていたいタイプの人間なんです」と返される。

 ああ、だからかと僕は納得する。


 さっきコンビニに寄って文具コーナーを見ていたのは折り紙がないか探していたのだろう。


「手を動かせるのならばなんでも良いので……そうだ、卓球でもしましょうか。二階に卓球台があったでしょう?」

「いいよ。卓球なら自信あるんだ」

「なら気分転換も兼ねて、少し遊びましょうか」


 そして僕達はそれから三十分ほど、事件のことは忘れて運動を楽しんだ。

 お姉さんは頭だけではなく運動神経もずば抜けて良いようで、僕は全く歯が立たなかった。







「そう言えば、言い忘れていたのですが」


 しばしの運動を終え、二人で廊下の長椅子に座っているとお姉さんが呟く。

 何を?と僕が訊くと彼女は言う。


「倒れていた被害者は十二支の置物の一つを掴んでいました」

「それって、ダイイングメッセージってこと?」

「どうでしょうね。右手に握っていたのは十二支の最初の一つ、鼠を象った物でしたが」


 鼠、鼠か……。


「……お姉さんはさ。もう、犯人分かったの?」


 僕の問いに、彼女は「はい」とも「いいえ」とも答えなかった。

 ただ黙って立ち上がり、歩き始めた。

 僕もお姉さんを追って歩き始める。

 旅館の長い廊下を、二人で歩く。


「……私は別に探偵ではありません。死者の代弁者を気取るつもりもありませんし、小説の中の名探偵のように容疑者と警察の方を集めて自身の推理を披露することもありません。ただ、少し気になったから考えてみただけです」


 静かに、淡々と彼女は言う。

 その言葉がお姉さんが真相を見抜いたという何よりの証明だった。


「誰が犯人か、分かったの?」

「実は、最初から誰が最も犯人の可能性が高いかという結論は出ていました。その推理の妥当性を確かめる為に改めて事件の状況と情報を確認して、考えていたんです」

「そっか……。やっぱりお姉さんは、ホームズみたいだね」


 僕は笑ってそう言った。

 そうか。

 そうじゃないかと思ったけれど、お姉さんには最初から目星が付いていたらしい。


 ホームズのような聡明さを持つ彼女は見事に推理し犯人を見抜いた。

 なら、それを見届けるのが僕の役目。

 ワトソンである僕の願いだ。


「ねえ、お姉さん。じゃあ、」


 と、その瞬間だった。

 僕が、お姉さんに抱き締められたのは。


「っ……!?」


 耳までかあっと赤くなっているのが分かる。

 正面から抱き締められて、僕はお姉さんの胸に顔を埋める形になっていた。

 柔らかさと、暖かさ。


 それに女の人特有の良い匂いが相俟って、恥ずかしさと心地良さで頭がおかしくなりそうだった。

 声も出せずに固まる僕にお姉さんは静かな声で言う。


「……私は探偵ではありません。ですから推理はしても、それを披露する気はありません。どうせ警察の捜査が続いていけば自ずと犯人は明らかになるからです。ですが、」


 ですが、と彼女は続ける。


「ですが、あなたが望むならば私はホームズを気取って、私が考える可能性を語ろうと思います」


 やっと僕を離したお姉さんを見上げて、僕は言う。

 彼女の活躍を誰よりも待ち望むワトソンとして。


「うん。僕は、お姉さんの推理が聞きたいよ」

「……そうですか。なら、あなたの為に語りましょう。私の推理を」


 そう言って、彼女は。

 僕のホームズである御陵あるまは語り始める。


 この簡単な事件の真相を。


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