第10話 専門外 回答編



 胸が苦しい。

 吐き気が酷い。


 気分の悪さに堪えかねて、新鮮な空気を吸う為に喫煙所を出る。

 正面玄関に立っている見張りの警察官に断りを入れ、外へ。

 普段はのどかな公民館も、その前に停まっているのが警察の車両ばかりの現在は物々しさしか感じない。


 と、その時。

 ふと目を遣った駐車場の片隅で僕は椥辻刑事を見つけた。

 頼みたいこともあったので、近くまで歩いて行き、声を掛ける。


「椥辻刑事」


 片手で小さなナイフを弄んでいた彼女は目線だけで礼をし、僕に応えた。


 険しい顔をしていることが多い椥辻刑事は、今日もいつものように眉間に皺を寄せている。

 いつも通りの黒のパンツスーツで、いつもと同じように鋭い眼光。

 感情を隠すのが上手いな、と思った。


 自分の目の前で事件が起こった――しかも被害者も容疑者も知り合いであるという状況で、彼女は刑事としての自分を全うしていた。


「事情聴取は終わったんですか?」

「ああ、まあな」

「今は何を?」


 僕の問いに、椥辻刑事は顎をしゃくる。

 指し示された方を見ると、三メートルほど離れた位置に茶髪の若い男が立っていた。


 彼、記憶が正しければ木野という刑事は、僕の目線に気付くと「ども」と笑って挨拶の代わりとした。

 こちらは本当にいつも通りの軽薄な雰囲気だ。

 そんな木野刑事の手にはA2サイズくらいの大きさのコルクボードがあった。

 真新しいその板にはナイフが刺さった痕が複数ある。


「コイツが『投げて刺したんじゃないですかねえ?』と言うものだから、試していたんだ」

「試していたって……。投げて、刺さるかどうかを?」

「そうだ」


 そう言って彼女はナイフの柄を掴み、投擲してみせる。

 ハンドルグリップと呼ばれる投法で投げられた凶器はヒュンという風切り音を立て、木野刑事がこわごわ持つボードにしっかりと刺さった。

 お見事。


 

「上手いですね」

「まあな。今日初めてやってみたんだが、案外上手くできた。鞍馬、お前もやってみるか?」

「いえ遠慮しておきます」


 僕は椥辻刑事のように、初心者なのにいきなり人に向かってナイフを投げることなんてできない。

 狙いが逸れて部下の手や足に当たったらどうするつもりだったのだろう。


 「いやー、恐かったっスわ。でもそのお陰で俺の説に信憑性が出てきましたね」


 こちらへやって来た木野刑事は、ヘラヘラと笑いながらそう言った。


「初心者であるナギさんが今くらいの精度で投擲ができるなら、経験者であるあのナントカって先生なら確実っスよね」

「先生というと、担任の先生かな」


 僕の言葉に椥辻刑事は一瞬逡巡する。

 きっと部外者である僕に捜査中に得た情報を話して良いものか迷ったのだろう。

 だが結局、僕も当事者の一人であったからか、彼女は「ああ」と首肯し続けた。


「あの教師は学生時代、軍事研究会というサークルに所属しており、そこでナイフ投擲の練習をしていた。今もネットに動画が残っているが、結構な腕前だ。彼の立っていた場所から被害者への距離は三メートルもない。命中させることは造作もないだろう」

「俺もそういうのに興味があるんでよく調べるんスけど、あーいうのって上手い奴は横からや下からでも投げられますからね。立ち位置的に、あの先生なら右手で凶器を投げて命中させることも十分できるはずっスよ」


 目を閉じて、当時の状況をよく思い出してみる。


 正面に並んでいた二人。

 娘さんは僕から見て左側、弟さんは右側だ。

 向かって右の一番奥に先生は立っていたはずだから、ナイフを投げて命中させることは十分可能と考えられる。

 加えてあの時は室内は薄暗かった、多少不自然な動きをしても気付かれなかっただろう。


「……まあな。あの毒が塗られた凶器なら急所に当てる必要はない。身体の何処かに当たれば十分効果がある」

「でしょ? あの先生、学校ではガイシャに結構手を焼いてたらしいっスし、動機もあります」


 ウインクしてみせる部下を鬱陶しそうに手で払い、椥辻刑事は言った。


「だがあの教師は犯人ではない」

「え、なんでっスか?」

「なんでだと? ……勘だよ。刑事としての勘だ」


 ただの、勘。

 そのあまりにも非科学的な彼女の根拠に、木野刑事は呆気に取られて言葉を失った。

 そんな彼を見て、椥辻刑事はすぐにこう続けた。


「……冗談だ。冗談に決まっているだろう。単にあの教師に犯行は不可能というだけだ」

「不可能って……。だって、ガイシャが刺され痙攣し始めた時点、つまり写真が撮られていた瞬間は隣にいた姉以外、誰もガイシャに近寄っていないんですよ? だとしたらカメラのフラッシュに紛れさせる形でナイフを投げたという可能性が一番高いでしょ」

「木野、もう一度よく考えろ。私は鞍馬と少し話してくる。私が戻ってくるまでに自分の推理の問題点を見つけ出しておけ」


 突き放すように言い、彼女は僕の肩を手の甲で叩いて「行くぞ」と歩き出す。

 頭を抱える木野刑事を後目に、僕は椥辻刑事の後を追った。







 未解決の謎。

 未解決の謎。


 ある家族の誕生日会兼婚約祝いで起こった事件。

 僕には何もかもさっぱりだった。

 事件の犯人も、真相も、アルマお姉さんの質問の意味も。


「未解決の謎は何処にもない……」


 お姉さんが言った言葉。

 続けて僕のホームズはこうも言った。

 「この事件は探偵の専門外だ」と。


「分かりませんか? 眼帯君」


 窓際に立つアルマお姉さんはもういつも通り。

 一瞬だけ見せた儚げな笑みは何処かに消え、今彼女はいつもの何かを隠した微笑を湛えている。


「……うん、分かんない。さっぱりだよ」

「では私の考える真相の一つをお教えしましょう。……あまり愉快ではない可能性ですが、恐らく合っているでしょう」


 そう前置きしてから、お姉さんは話し始める。


「私は先ほど、ナギさんよりもリンネさんの方が名探偵としての素質があると言いましたが、その理由から話しましょう。以前私はリンネさんのことを『普通に優秀だ』と評しましたよね。社会人として能力がある、と」

「うん」

「職業柄、社会的弱者に対して支援を行うという職業に就いているために、リンネさんは他人の苦しさや辛さを見抜くことがとても上手です。例えば殺人の場合ですが、犯人も皆が皆、酷く悪人ということはありません。むしろほとんどの場合、人を殺すのはついカッとなった普通の人や長年の恨みに突き動かされた不幸な方です。さて、こういった人間の中に、人を殺した後に平然としていられる方がどれほどいるでしょうか?」


 人を殺した後に、事件に困惑し、あるいは悲しみに暮れる無関係な人間を演じられる人がこの社会にどれくらいいるか。

 きっと、それほど数が多くないのではないだろうか。

 だから推理小説では明らかに怪しい人間は犯人ではないことが多いけれど、現実世界では明らかに怪しい人間は大体犯人だ。


「普通、人間は犯行後『やってしまった』『これからどうしよう』という類の困惑や恐怖や不安に苛まれるものです。リンネさんはそれを見逃さない。見抜いてしまう。ソーシャルワーカーの支援対象には非行少年や受刑者もいますからね」

「だから、リンネさんの方が先に犯人が分かる?」

「はい。真相に辿り着き犯人を捕まえるのは地道な聞き込みと科学捜査によって裏付けを取る椥辻刑事かもしれませんが、リンネさんは犯人の感情を読み取って一足飛びで犯人を見抜く。あんな真似は私にもできません。だから私はリンネさんには名探偵の素質があると言ったんです。本格推理小説では嫌われるほどの、名探偵の才能が」


 確かに、純粋な推理小説なら許されないタイプの探偵だろう。

 仕草や表情から犯人にアテを付け、そこから逆算する形で推理するなんて。

 勘を頼りにしていると言われても仕方ない。

 というよりも、傍から見ている分には勘にしか見えない。


「恐らくリンネさんは事件の瞬間、その場にいた人間の反応で犯人が誰か見抜いてしまった。ちょっとしたこと……。目尻の皺、口角の動き方、瞳孔の大きさ、声のトーンと言葉の選び方、その他諸々の要素で以て、ほとんど直感的に」

「お姉さんが『専門外』と言ったのは、リンネさんが犯人を見抜いていることを分かったからなの?」

「その通りです。ですが、それだけではありません。今回の場合、リンネさんは犯人だけではなく真相も見抜いていらっしゃいました」


 だから、解くべき謎はなく。

 探偵の専門外だった?


「ところで眼帯君、不自然に思いませんでしたか?」


 突然のお姉さんの問いに僕は困惑する。


 不自然?

 何が?


「リンネさんは職業人としての規範をしっかりと守る方です。職業上知り得た情報をみだりに他人に話したりはしない。私に相談に来る際も、どうしても真相を見抜く必要があるがどうやっても分からない、そんな場合がほとんどです。そして、そんな状況であっても個人のプライバシーに配慮して仮名を使う。……そんな方が、今現在巻き込まれている事件のことをペラペラ喋ったりするでしょうか? 私達と約束があるとは言え、それは『事件に巻き込まれたから今日は行けない』とそう言えば良いだけではないでしょうか?」

「それは……!」


 考えてみれば、おかしい。

 リンネさんらしくないのだ。


 彼がアルマお姉さんに相談に持ってくるのは「警察が本腰を入れて捜査や対処してくれないような些細な事件」が多い。

 少し前の怪文書の時がそうだったし、この間のメモ帳紛失事件に至ってはただの落とし物の話だ。

 でも、今回は殺人未遂――今まさに捜査が行われている大きな事件。

 そんな事件のことを話せば、どれほどプライバシーに配慮しても少し調べればすぐ分かってしまう。


 リンネさんらしく、ない。


「ミステリーで何故殺人事件が雪の山荘や嵐の孤島で起こることが多いか分かりますか?」

「……警察の介入を防ぎたいから?」

「そう、現在の科学捜査技術を用いれば大抵のトリックはすぐに破れてしまうからです。今回の事件も同じです。私が予想せずとも、リンネさんが見抜かずとも、ナギさんを始めとした刑事課の刑事さんが地道な捜査を進めていけばやがて犯人は分かります。動機、凶器の刃物と毒物の購入ルート……。すぐに真相は明らかになるでしょう。だとしたら、です」


 そう、だとしたら。

 だとしたら何故、リンネさんはアルマお姉さんに事件のことを話したのか。

 それも、自分でも犯人が分かっているのに。


「もしかして……。もしかしてだけど、リンネさんはその人が犯人だと信じたくなかった……?」


 僕の言葉にお姉さんは微笑んだ。


「そうでしょうね。だから私に相談した。自分の直感が外れて欲しいと願いながら。そして同時に補強したかったんでしょう」

「補強?」

「はい。自分の推理の補強。私に相談することで、自らの推理が正しいと確かめたかったんです。どうしても警察より先に真相に辿り着く必要があったから」


 考えてみれば、フィクションの中の名探偵はおかしいのだ。

 クローズドサークルのような特殊な状況でない限り、殺人事件の捜査なんて警察に任せておけば良い。

 それなのに何故わざわざ首を突っ込むのか。

 作品の中なら、それはそういうものだからで納得できるけれど、現実ならおかしい。

 でも、リンネさんには理由があった。


「……あの人は犯人を見抜き、その人物が犯人だと信じたくなかった。でも考えてみても、その人が犯人だとしか思えない」


 だから。

 お姉さんにも相談してみた。


 でも、何も変わらなかった。

 リンネさんの推理とアルマお姉さんの推測した内容は同じだったから。


「その人物が犯人だとしたら。だったら、せめて。せめて警察より早く真相に辿り着き、自首させたかった」


 それがリンネさんがアルマお姉さんに相談した理由だった。

 職業倫理を無視してまで、警察の領分に首を突っ込んでまで、事件の真相を見抜きたかった理由。


「……さて。リンネさんのお話はこれくらいで良いでしょう。事件の話をしましょう」


 探偵の専門外であるこの事件。 

 その真相を語りましょう。

 僕のホームズはそう言った。







 迷いのない足取りで椥辻刑事は歩いて行き、つい先ほどまで僕がいた喫煙所に入る。

 そうして懐から煙草を取り出し、手慣れた風に咥えて火を点けた。

 吸うか?と箱を差し出されるが丁重に断っておく。

 ふーとゆっくりと煙を吐きながら、彼女は呟く。


「……『小人地獄』」

「え?」

「凶器に塗られていた神経毒――あれは最近裏の世界で出回り始めた物なんだが、『小人地獄』という異名があるそうだ。この間もあの毒で人を殺した奴を捕まえたよ。で、その『小人地獄』だが……。その妙な異名はある推理小説に出てくる架空の毒薬から取られているらしい。私は推理小説を読まないので分からないんだが……。鞍馬、お前は知っているか?」


 どうやらこれは、世間話、というやつらしかった。

 僕の用件を察して、いきなり本題に入るのもどうかと思ったのだろう。

 話題のチョイスはともかくとして、椥辻刑事なりに場が和むようにと話を振ってくれたのだ。

 チョイスは最悪だと思うが。


「知ってますよ。好きな作家の処女作に出てくる毒です」


 随分昔に読んだその作品の内容を思い出しながら、僕は答えた。


「ミステリ作家やミステリファンが時折話題にする最悪の毒薬――無味無臭で、致死性が高く、自然死に見せ掛けて人を死に至らしめ、しかも検死でも発見することができない毒薬――を主題に置いた、ある推理小説に出てくる毒物です。尤も、その小説の場合は飲み物に溶かして飲ませる物でしたが」

「そうか……。なら、単に『とてつもなく危険な毒薬』というような意味合いの異名なんだろうな。今回使われた毒薬は全身の痙攣を特徴とする神経毒だ。誰がどう見ても自然死には見えない」


 一拍置いて。

 深く煙草を吸って、椥辻刑事は訊いた。


「ところで、鞍馬」

「なんですか?」

「その推理小説はどんな話なんだ?」


 僕は言った。


「架空の毒薬による毒殺事件の話です。あとは、そうですね……。名探偵の苦悩や宿命の話でもあります」


 そうか、と椥辻刑事は短く答えた。

 それが世間話の終わりの合図だった。


「鞍馬。私はお前に訊きたいことがあるんだ」

「奇遇ですね。僕は椥辻刑事にお願いしたいことがあります」

「そうか。なら、どちらを先にしようか」

「僕はお付き合い頂いている身ですし、椥辻刑事からどうぞ」


 そうか。

 また素っ気なくそう呟き、椥辻刑事は言った。


「鞍馬……。お前、犯人が分かっているんだろう?」


 僕は彼女の言葉に深く首肯した。







「改めて事件を整理しましょう」


 僕のホームズはそう言って語り始める。


「事件が起こったのは誕生日会兼婚姻祝いの会場。昼食後、母親と椥辻刑事が買ってきたケーキを食べることになり、机の上に二つのケーキを並べ、部屋の電気を消して、ロウソクに火を点け、姉と弟が二人並んでその火を吹き消した。その光景を姉の恋人が写真に撮り、見ていた家族やお客さんは拍手をしていた。けれどその瞬間、弟は痙攣し倒れ始めた。姉が悲鳴を上げ、恋人が駆け寄り、周囲が騒然とする中で椥辻刑事が灯りを点けた。そして、弟の脇腹に小さなナイフが刺さっていることを見つけた」


 それが一連の流れ。

 今回の事件の概要。


「凶器には致死性の神経毒が塗られてたんだよね?」

「はい。ナギさんがすぐに被害者の元に駆け寄ったことから察するに、恐らく彼女はその神経毒――痙攣症状を発するような毒薬に心当たりがあったのではないでしょうか。同じ毒薬を用いた事件を担当したことがあった、というような」

「今少し思ったんだけど、僕の推理を聞いてくれる?」

「勿論ですよ。どうぞ」


 お姉さんは口端を歪める微笑を僕に向ける。

 間違いなく、僕の推理が間違ってると確信している表情だ。

 人を小馬鹿にしている内面が隠し切れていない。

 ともかく僕は言った。


「誰かが投げたり、飛ばしたりしてナイフを突き刺したってことはないかな? 毒が塗ってあったっていうならそんなに深く刺さる必要はないわけだし……」

「そういう推理もできますが、可能性はほぼありません」


 僕の推理をバッサリと切り捨てたお姉さんに「なんで?」と訊ねる。


「そんなに広い部屋じゃないから当てるのは難しくないだろうし、当時は暗かったはずだからナイフを一本くらい投げてもバレなかったんじゃない?」

「それはそうでしょうね。聞いた話ですが、ナイフや手裏剣といったものは少し練習すれば四メートル程度の距離ならば的に当てられるようになるそうです。公民館の一室がどの程度の広さか分かりませんが、精々被害者と周りの人間との距離はニ、三メートルでしょう。だとしたら端の方にいた人間……例えば、向かって右側にいた学校の先生なら素早くナイフを投げたことができたかもしれません。折りたたみナイフの強度的に刺さるかどうかは分かりませんが、可能性としてはあるでしょう」

「だったら、」

「眼帯君、よく思い出してください。私はリンネさんに『今語ったことに間違いはありませんか』と確認しました。そしてリンネさんは、間違いない、と答えましたよね。だとしたら、それはありえません」


 彼女の言う確認のことを思い出す。

 滅多に記憶違いをしないリンネさんにわざわざアルマお姉さんが確認した意味。


 ……考えられる可能性は一つだろう。

 記憶違いをしてしまいそうな部分が重要だったからだ。


 ただ、それが何処か分からない。

 何が重要なのかが。


「……眼帯君、こちらに来て頂けますか?」

「え?」

「そして私の左側に立ってください」


 手招きされ、訳も分からず指示に従う。


「失礼します」


 すると、その言葉と同時に、お姉さんに肩抱かれた。

 ふわりと香る良い匂いと感じる彼女の体温に思わず頭がくらくらして、顔が赤くなる。

 だけど中腰状態になったアルマお姉さんは、そんな僕の心情など知らないように淡々と話を続ける。


「今、私が姉で、眼帯君が被害者の弟さんです。私はリンネさんから伝え聞いたように、左手で隣に立つ相手の肩を抱いています。左手で肩を抱けるということは、つまり弟が立っていたのは姉の左側です。写真を撮っていた恋人さんやリンネさんから見れば、姉が向かって左側に立ち、弟が右側に立っています。ここまでは良いですか?」

「う、うん……。でもじゃあ、右側の奥に立っていた先生とかなら弟にナイフを当てられるでしょ?」

「それが不可能なんです。よく思い出してください。被害者である弟さんに凶器が刺さっていたのは、右の脇腹です」


 右の脇腹?

 そう言われて自分の脇腹を触ったところで、僕は気が付いた。


「あっ……!!」

「そうです。姉が左手で弟の肩を抱いていた場合――弟の右脇腹は、姉の身体で隠れているんです。脇腹と言っても具体的にどの部分か分かりませんが、普通に投げればそんな場所には当たらないのは分かるでしょう?」


 そうだ。

 仮にその学校の先生がナイフを投げて刺したとしたら、ナイフは左脇腹に刺さっていなければおかしいのだ。

 右脇腹に凶器が刺さるとしたら、ほとんど真後ろから投げた場合くらいだろう。


 そしてそれはありえない。

 何故なら事件が起こったのは写真撮影中だ。

 そんな時にわざわざ被写体の後ろに回り込もうとする人間は普通いないし、そんなことをしたら見るからに怪しいからだ。


「そういうわけで、ナイフが投げられたという可能性はほぼありません。犯人がとんでもない大暴投をしたか、リンネさんが記憶違いをしていない限りは」


 僕の肩に回していた手を引っ込めながら僕のホームズは言った。

 ナイフを投げたということはありえない。

 だとしたら、と考えたところで僕は閃いた。


「でも、今のお陰で分かったかもしれない……!」

「ではもう一度、眼帯君の推理を聞きましょう」


 お姉さんに促され僕は口を開く。


「被害者の弟さんの肩をお姉さんは左手で抱いてたんだよね? だったら、右手を背中の側に回して弟の右脇腹を刺したんじゃない?」

「その可能性はあると思いますね」

「でしょ? カメラのフラッシュで皆の目が眩んだ一瞬にこっそりと……」

「ただ、腕を背中側に回した状態で人の脇腹を貫けるほどの力が出せるかと言えば、それは少し疑問です。机やケーキの陰に腕を隠し、身体の正面の側からこっそり刺した……という方が可能性としては高いと思います。どちらにせよ周囲の人間に目撃される可能性のある綱渡りですが」


 そう言われれば、そういう気もする。

 現実は小説みたいに凄いトリックはありえないということは分かってるけど、かなり綱渡りな感じだ。

 それに、と彼女は付け加える。


「きっとそういうことではないと思いますよ。記念写真を撮る際、眼帯君はどういう格好をしますか?」

「どういう格好って……」


 こうしませんか?とお姉さんは笑った。

 右手の人差し指と中指だけを立てた、所謂ピースサインを作りながら。







 僕は犯人が分かっている。

 その真相も、動機も、恐らくは何もかもが。

 だから僕は―――。


「そうか……。訊きたいことは、あと二つある」

「なんですか?」

「あの写真の瞬間についてだ。あの時、姉の方は左手で弟の肩を抱いて……右手の方はどうしていた? 下ろしていたか?」


 僕は答えた。

 しまった、この情報はアルマさんに伝え忘れたかもしれない、と思いながら。


「恋人さんのカメラの写真を現像してみれば分かると思いますが、最初は机に手を置いていて、すぐにピースをし始めました」

「そうか。なら私の記憶と同じだな」

「……もう一つの質問はなんですか?」

「もう一つも撮影の瞬間についてだが、あの子が痙攣し始めた瞬間の前後に風切り音は聞こえたか? さっき、私がナイフを投げた時に鳴ったような小さな音だ。拍手とシャッター音に紛れていて分からないかもしれないが……どうだ?」

「多分……。聞こえなかったと思います」


 そうか、とまた彼女は素っ気なく呟き、そうして続けた。


「……鞍馬、お前はさっき犯人が分かっていると言ったな」

「はい」

「私もアテはある」

「誰ですか?」

「まあ聞け。……私は初め、誰かが飲食物に何か薬を混ぜたと思っていた。つまりナイフはあの子が痙攣して倒れ、周囲が混乱している間にこっそりと刺されたフェイクであり、実際の凶器は口から入った毒薬じゃないかと。そうじゃないないと説明が付かないからな」


 椥辻刑事の言う「説明が付かない」は、要するに「不可能犯罪になる」ということだ。

 ナイフに塗られた毒が被害者である彼を生死の堺に追い込んだとしたら、被害者であるあの少年が倒れ始める寸前――ロウソクの火が吹き消され、皆が拍手していたあの一瞬に凶器が刺さったことになる。


 だがその瞬間に手が空いている人間は一人もいなかった。

 一番近くにいた姉は左手で弟の肩を抱き、右手でピースサインを作っていた。

 恋人は両手でカメラを構えており、他の人間は拍手をしていた。

 誰かがナイフを投げ刺したという可能性が残るが、それも傷の位置から有り得そうにない。


 だとしたら、何故彼は痙攣し倒れ始めたのか。

 残るのは事前に飲み食いしていた物の中に既に毒が混入していた可能性だ。


「だが、先ほど病院から連絡が入ったが、どうやらそういうことでもないらしい。あの子の体内から検出されたのは今のところあの神経毒のみだ。まだ治療中なので分からないが、他の毒を飲み込んだ可能性は低いらしい」

「……そうですか」


 僕の表情に何かを見抜いたのだろう。

 椥辻刑事はその鋭い眼光をこちらに向けて、言った。


「正直なところ、私が考える犯人は勘だ。刑事としての勘。なんとなくアイツが怪しい、という程度のものだ。でもお前は違う。山勘や感性ではなく、論理的な裏付けがあるという顔をしている。なあ、鞍馬……この事件の真相が分かっているのなら、教えてくれないか?」


 吸い終わった煙草を灰皿に押し付けながら彼女は続ける。

 目線を伏せて。

 まるで泣きそうになっているのを隠すように。


「こんな事件は、早く終わらせたい。お前だってそうだろう?」

「……そうですね」


 僕が真相を語らずとも、この事件は解決される。

 優秀な椥辻刑事が凶器のナイフと毒物の購入ルートを特定し、犯人らしき人物を任意同行で引っ張り、その証拠と動機を突き付ければ、きっとそれで解決だ。

 刑事課のエースの名声が一つ増えて、それで全部終わり。


「…………ところで。僕のお願いなんですが、」


 でも、それじゃ駄目だと思った。

 それじゃあ駄目なのだ。

 この事件はそんな風に終わらせてしまってはいけない。

 分不相応かもしれないけれど、僕にもプライドがあるのだから。


 だから、僕は言った。


「椥辻刑事の時間を十分でいいのでくれませんか?」

「……は?」

「今から僕が言う人物を何処か、他の人が来れない部屋に呼び出してください。そこで僕の考える真相を話して、その人――犯人を自首するように説得します」

「つまり……。犯人が自首するまで、私に逮捕するのを待ってくれ、ということか?」


 はい、と首肯し僕は続ける。


「お願いします。十分でいいんです。僕にチャンスをください」

「……鞍馬。言っておくが、事件は起こったんだ。人が一人殺されかけてるんだよ。いや、もしかしたら、もう……。お前がどんなに言葉を尽くしたところで時間は巻き戻らない。自白をしようがしまいが、私は犯人を逮捕する。それが私の仕事だからだ」

「もう事件は起こってしまった。時間は巻き戻らない……その通りです」


 重苦しく言葉を紡ぐ椥辻刑事に、僕は「でも」と言う。

 胸を張って、毅然と、誇りをかけて。

 せめてもの罪滅ぼしとして。


「でも、事件関係者の人生はこれからも続いていくんです。何も変わらないかもしれないし、何も救えないかもしれない。事件は起こってしまったんだから。でも僕は何か、少しでも良い結末に辿り着けるように手を貸したいと思います。それが僕の仕事だから」


 そう。

 それが僕の仕事だから。


「そうか」

「そうです」

「……なら、十分だけお前にくれてやる。私には信じられないことだが、犯罪者も社会的弱者の一つであるらしい。だとしたら、ソイツ等に手を差し伸べてやるのはお前の仕事だ。私が仕事を終えた後は検察、裁判所、刑務所に任せるだけだが……。その前に、お前に時間をくれてやる」

「ありがとうございます」


 僕が深々と頭を下げると、ふんと椥辻刑事は鼻で笑った。

 礼を言うのは私の方だろうと言わんばかりに。







 その後も僕はお姉さんと様々な可能性を検討した。

 昼食に毒が入っていた可能性、その弟さんの狂言である可能性、果てはナイフが自動的に発射される装置が仕込まれていた可能性まで。

 今のところ、一番信憑性があるのは他の物に毒が混入していた可能性だ。

 ナイフは捜査を惑わし、他の人物に罪を擦り付ける為のものである、という真相だ。

 そう例えば被害者である弟さんが飲んでいた薬が毒とすり替わっていた、というような。


 それならばアルマお姉さんがリンネさんにした「被害者の子は何か薬を飲んでいるか」という質問の意味も分かる。

 けれど、僕のホームズは言った。


「あの質問は、そういう意味ではありませんよ」

「そうなの?」

「はい。あれは私のある推測が当たっているかどうかを確認する為に訊いたんです」

「……それって?」


 また微笑んで彼女は続ける。


「ところで眼帯君。リンネさんの語った話の中で、引っ掛かる部分がありませんでしたか?」

「引っ掛かる部分?」

「はい。不自然とまでは言えませんが、少し引っ掛かる部分」


 なんだろう。

 しばらく考えてから僕は答える。


「……お姉さんと弟さんが仲が良いこととか? お客さんとして来た先生が小学校の先生って言うなら、弟さんの方は小学生でしょ? でもお姉さんは婚約祝いってわけだから、どんなに幼く見積もっても高校生以上。それくらい年が離れている上で性別も違ったら、あんまり仲良くないのが普通な気がする」

「そうですね。家庭によって様々ですが、リンネさんが語った内容から察するにかなり仲が良いのかもしれません。では眼帯君、何故二人が仲が良いと思ったのですか?」

「え?」

「姉と弟が仲が良いと感じたのなら、根拠があると思います。その根拠はなんですか?」

「根拠って……」


 お姉さんが言ったように、根拠と言えるものがあるとすればリンネさんが語った内容だ。

 僕は具体的には彼の話の何処で「仲が良い」という感想を抱いたのだろう?


「……まず、二人のお祝いごとを一緒にしていることでしょ? あと、さっきやってみせたみたいに写真を撮る時に肩を抱いていたこと、かなあ……」

「そうですね。私が引っ掛かったのがそこでした。姉と弟が写真を撮る際に、姉が弟の肩を抱く、なんて状況、あまりない気がするんです。親ならば分かりますが、姉ですよ? 幼稚園児や保育園児ならばまだしも、小学生というなら弟の方も恥ずかしいでしょうし、あまりありえないのではないでしょうか」

「だから、物凄く仲が良いんじゃない?」

「かもしれませんが、私が引っ掛かった部分はもう一つあります。それはロウソクの火を吹き消す場面です。リンネさんはこう言いました――『姉に促されて弟がロウソクの火を吹き消した』と。言葉のチョイスが妙じゃありませんか? “姉と一緒に”でも“姉の合図で”でもなく、“姉に促されて”です。そこで、私の頭に一つの可能性が浮かびました」


 一拍置いて、お姉さんは言った。


「姉が弟の肩を抱いていたのは、写真撮影の間、弟が何処かに行かないようにするためではないかと。その小学生の弟は、一つの場所でじっとしていられなかったり、ちょっとした行動が促されないとできないような、そんな――障害がある子じゃないかと」


 驚き目を見開く僕に対し、僕のホームズはこう続けた。


「ところで眼帯君。『テレビを見るときは部屋を明るくして離れて見てください』というテロップがいつから始まったかご存じですか?」







 公民館の一室に僕達はいた。

 椥辻刑事が警部補という階級の力を使って用意した部屋だ。

 僕達以外には他に誰もいない。

 僕達、つまりは僕と椥辻刑事と――被害者の少年の姉と、その姉の恋人しか。


「今から語ることは僕の想像です。それだけは断っておきます」


 そう言って僕は二人の顔色を伺う。

 被害者の姉である小野さんは何がなんだか分からないという困惑した表情をしていた。

 目が赤いから事件後に泣いていたのだろう。

 その恋人である北山さんはバツが悪そうに目を伏せ、口を閉ざしていた。


 突然の事件に混乱しているようにも見えるが、改めて二人の表情を見るとそうとは思えない。

 やはり、そうなのだ。


「……小野さん。弟さんの服薬管理を行っていたのはあなただと聞いています。弟さんの飲む薬、市販の風邪薬か何かにすり替えましたよね」

「それ、は……っ……」


 少女は口を開きかけ、言い淀み、結局何も言い返さなかった。

 否定も、肯定もしない。

 けれどその態度が何よりも明白な肯定だった。


「北山さん」


 続けて僕は言った。


「彼女の弟さんを刺したのは……あなたですよね?」

「…………いや、俺は……!」

「……お願いします、北山さん」


 僕は頭を下げる。

 祈るように、縋るように頼む。


「もう……分かっているんです。分かっているんですよ……! だから、言い逃れはしないでください。『今ならまだやり直せる』なんてことは僕には言えません。言えませんが、それでも言います。お願いします、自首してください……」


 お願いします、と僕は頭を下げ続ける。

 僕にあなた達を追い詰めさせないでくれ、と。

 椥辻刑事にあなた達を逮捕させないでくれ、と。

 自分の罪を悔いながら、それでも自分勝手に僕は頭を下げ続ける。


「……あなた達の苦しみや辛さが分かるとは言いません。ですが僕は知っているつもりです。その苦しみも、辛さも。だからこそ気付けなかったこと、何もできなかったことを謝罪します」


 僕は顔を上げる。

 北山さんは、黙って涙を流していた。

 小野さんはその場に崩れ落ち、泣き始めた。


 ああ。

 どうして、僕達は。

 こんなことになる前に気が付けなかったのだろう―――。


「……後悔、しているんでしょう?」

「…………はい……。おかしいと笑いますか? 毒を買って、ナイフを買って、実際に刺したというのに……俺は、後悔してるんです……」


 口だけで笑みを作りながら、彼は泣いていた。

 訳が分からない。

 そう言わんばかりだった。

 だから、僕は言う。


「おかしくなんてありません。それは、あなた達が優しいからです。でもどんなに優しい人間でも、辛さや苦しさが蓄積されていけば何かありえないことをしてしまったりします。それは、普通のことです」

「ありがとう、ございます……」


 彼は儚げに笑い、椥辻刑事の方を向いて言った。


「……俺が、やりました。申し訳ありませんでした……」


 その時だった。

 部屋の扉が乱暴に開け放たれたのは。


「ナギさんッ!」

「お前……入ってくるなと言っただろうが!」


 ドアを蹴破るような勢いで中に入ってきた木野刑事を椥辻刑事は怒鳴りつける。

 だが彼は全く気にした風もなく、軽薄そうな笑みを浮かべて「すんません」と軽く謝ると続けた。


「で、たった今連絡が入ったんですが――被害者の子、一命を取り留めたらしいっス」

「……! そうか、そうか……」


 その瞬間、椥辻刑事は珍しく笑顔を見せた。

 彼に見せるような、慈愛に満ちた表情を。

 涙を流していた二人が今度は喜びの涙を溢す傍らで、僕も一人呟いた。


「良かった……本当に、良かった……」


 僕は、何かを変えることができただろうか。

 上手く手を貸すことができただろうか。

 ……それは分からない。

 でもただ一つ、確かに言えることがある。


 それは僕が探偵ではないということだ。

 探偵ではない僕は、事件の謎を解けばそれで良いというわけではない。

 そもそも事件が起きないような社会を作っていくこと。

 それが僕の仕事なのだ。


 だから、この事件が起きた時点で僕は紛れもなく失敗している。

 こんなことになるまで何も気付けなかった時点で、ソーシャルワーカーとしてのミスなのだ。

 しかしそれでも一つだけ幸いなのは刺されたあの子が生きているということだった。


 時間は巻き戻らない。

 けれど、やり直すことはできると僕は信じている。







 アルマお姉さんは言う。


「……あのテロップは今から十年以上前に起きたある事件がキッカケとなり挿入されることになったんです。その事件というのは、あるアニメを見ていた児童が数百人体調不良を起こし、病院に搬送されるというものでした」

「どういうことだったの?」

「とても単純な話です。薄暗い室内でテレビを見ていた子どもがアニメの点滅シーンで気分を悪くした。それだけです。……さて眼帯君、あの怪文書の事件の後で、私はリンネさんとリンネさんの専門分野について話をしました。その際に、てんかん発作について話をしていたことを覚えていますか?」

「うん……」


 なんとなく覚えてはいる。

 難しい話だったから細部は曖昧だけれど……。


「あの時、リンネさんは私にてんかんの説明をして欲しいと言われ、こう答えました。『慢性の脳疾患の一つで、大脳ニューロンの過剰な反射に由来する痙攣症状のこと。強烈な光刺激によって起こる光過敏性発作を誘引する光刺激性癲癇が一番有名であるが、およそ八割の人は投薬等で抑制できる』と。先ほど話した事件の真相がこれです。光過敏性発作とは、強烈な光情報が視覚に入ることで起こる発作で、てんかん発作の一種とも言われます」

「つまり……。その病院に搬送された子どもは、てんかん発作を起こした?」

「はい、そうですね。てんかんの原因には色々あるのですが、光刺激性の場合は普通に生きていれば発作を起こさないことが多いんです。搬送された子ども達の家族もそういった症状を初めて目にしたと思います。たまたま薄暗い場所で、たまたま強い点滅シーンを見る……。そういった偶然が重なって初めて起こる発作ですから」


 それ以降、アニメの冒頭にはお姉さんがさっき言ったようなテロップが挿入されるようになったという。

 実際ほとんどの演出効果はある程度明るい部屋で、ある程度画面から距離を取れば全く問題がないからだ。


「先ほど私が言ったような文言はアニメの冒頭でよく見るものですが、実は、アニメやゲーム、あるいは映画といったもの以外でも発作を誘発しやすいものがあります。それがカメラのフラッシュなんです」

「カメラ?」

「はい。例えば記者会見の報道等では『部屋を明るくして画面から離れてください』というテロップが入ることがあります。記者の方が使うカメラのフラッシュによって画面全体が何度もチカチカと点滅することになるので、光過敏性発作を誘発する恐れがあるからです」


 だとしたら。

 だとしたら、今回の事件は。


「その発作って、痙攣症状が出るんだっけ……?」

「……眼帯君も気が付いたようですね。そうです。そもそも最初に弟さんが倒れたのは毒のせいではなかったんですよ。ロウソクの火を吹き消して一瞬部屋が真っ暗になった瞬間――その瞬間に真正面、すぐ近くでカメラのフラッシュが何度も焚かれた。それにより弟さんは光過敏性発作を起こし、倒れたんです」


 ああ、そうか。

 だから『専門外』なんだ。

 被害者の男の子が倒れた瞬間、普段から刑事事件に携わっている椥辻さんは反射的に毒物のせいだと思い込んでしまった。


 でもソーシャルワーカーであるリンネさんはそれが発作の症状だということがすぐに分かった。

 その原因も、事件の真相も何もかも。


 だからこの事件はお姉さんの言うように探偵の専門外であり、専門であるリンネさんにとってはあまりにも簡単な謎だった。


 いや、謎ですらなかったのだろう。

 彼にとっては見たままだった。

 未解決の謎なんて、何処にもなかったんだ。


「それだけ分かれば後は語るまでもありません。暗闇の中で素早く駆け寄った姉の恋人が隠し持っていたナイフで脇腹を刺せばそれで終わりです。リンネさんはてんかん発作の説明で『八割の人は投薬で抑制できる』と言っていましたよね。これは裏を返せば、薬を飲むのを忘れた場合は発作が起こる可能性が大いにある、ということです。実際に薬の飲み忘れで起こった事故がいくつかあるでしょう?」


 お姉さんの質問の意味。

 それは「てんかん発作を抑制する薬を飲んでいるかどうか」という意味だった。


「じゃあ、犯人は恋人さん……?」

「それと恐らくは姉でしょう。ロウソクの火を吹き消す前に椥辻刑事に部屋の電気を消して欲しいと頼んだのは彼女です。弟が飲むはずの薬を飲ませなかったか、すり替えたりしたのでしょうね」


 それが今回の事件の全容だった。

 探偵の専門外の謎であり、リンネさんが信じたくなかった真実。


 動機はもう、言われるまでもなかった。

 『普通』から少しでも外れた人間やその家族がどんな生活を送ることになるかは、僕もお姉さんも身を以て知っている。

 彼女が「こういうことを考えるのには向いていない」と呟いたのは、犯人の抱えた辛さや苦しさ、それを分かりながらもどうしても信じたくなかったリンネさんの心情を推し量っていたからだろう。


「そっか……」


 胸が、苦しかった。

 泣いてしまいそうになるのを憧れの人の前だからとどうにか堪えた。

 

「全く、因果なものですよね……」


 僕のホームズは窓の外の景色を見ながら小さな声でそう言った。

 その表情は笑っているのに、どうしてか僕には、彼女が泣いているように見えた。







 二人は全てを語ってくれた。

 小野さんは弟のことを両親から任せきりにされており、ずっと友達と遊ぶ時間も取れず、いじめられることもあったという。

 そんな彼女を見て、どうにかして救ってあげたいと考えた北山さんが考えたのが今回の計画だった。

 「あんな弟、いなくなればいいんだと思っていた」。

 確かにそう思っていたはずなのに、実際に目の前で弟が倒れた様を見ると、そんな考えは吹き飛んでしまった。

 そう彼女は語っていた。


「俺は――愚かだな……」


 咥えた煙草に火を点ける。

 僕はどうしようもないほどに無力で、この社会は救えないほどに不条理だ。


「私の煙草は吸わないのに、自分の物は吸うんだな」


 公民館の屋上で一人煙草を燻らせていた僕に声を掛けたのは椥辻刑事だった。

 彼女は僕の隣に来ると、自分も煙草を取り出し火を点ける。


「……僕の、」

「ん?」

「僕の周囲には、煙草を吸う大人が多くて。それにほら、椥辻刑事は分からないかもしれないけれど、推理小説に出てくる探偵は煙草を吸ってることが多いんです。事件が終わった後にこう、一服。そういうのを見て育ったから、格好の良い大人は辛いことや悲しいことがあっても煙草の一本でも吸えば平気なんだと、そう思っていたんですよ」

「で、実際に吸ってみて平気になったか?」

「いや、それがまったく」

「だろうな」


 僕達は二人で笑い合う。


「大学卒業してこの仕事に着いたすぐ後に、喫煙者の友達に美味しい煙草を聞いて、これが甘くて美味しいと薦められて。それ以降、やり切れない出来事があった後にはいつも吸ってるんですけど、駄目ですね……。未だに、苦いだけだ……」

「……鞍馬」

「なんですか?」

「ああいうことを、お前はよく経験しているのか?」


 椥辻刑事の問いに僕は答えを迷う。


 ああいうこと。

 どういうことだろう。

 彼女が指しているのが、やり切れない現実、という意味なら、そうだな……。


「……ええ、そうですね。自分で経験したこともありますし、同業者の話を聞くことも多いです」

「そうか……。ありふれたこと、か」

「そうですね。今回は姉と弟でしたが、親子の場合は本当に多い。親の介護に疲れた子が親を殺したり、子の育児に疲れた親が子を殺したり……。そんなのばっかりです。でも、すぐに気が付くんですよ? 邪魔に思っていたはずなのに、いざ相手がいなくなってみると『自分はなんてことをしてしまったんだ』と後悔して……。やり切れないですよね……」


 そう。

 それが何よりも救われないことだった。

 今回のことが特別なことではなく、とても身近で、ひょっとしたら隣の家で起こっているかもしれないようなことなのが。


 だからこそ救われない。

 僕は、あまりにも無力で。

 

「お前がアイツ等にあったのは数回だろう? それで的確に問題を見抜き支援を行うなんて、無理がある。人間は神様じゃないんだ」

「かもしれません。でも公衆衛生や犯罪発生防止に取り組んでいる人間にとっては事件が起こることはイコール敗北なんです。誰もが皆笑顔で暮らせれば、それが一番なんですから。警察だって同じでしょう? パトロールみたいな地道な活動で市民の安全が確保されて事件が起こらなくなれば、誰からも褒められも感謝もされないかもしれませんが、それが一番なんですよ」

「……まあな。給料は減るかもしれないが」


 そう言って笑い、彼女は静かに続ける。


「だがな、鞍馬。私はあの二人を許すつもりはないんだ。あの二人の犯行は明らかに他人に罪を着せようという意図があった。どんな背景があったにせよ、それは許されることじゃない。同じような境遇で、けれど犯罪に走らず真っ当に生きている人間達への冒涜だ。情状酌量の余地はあるだろうが、決して許されて良いことじゃない」

「……そうでしょうね」

「ああ、そうだ。だが私がこう言ったところで、お前の考えは変わらないんだろう?」

「当たり前でしょう? 僕は人の辛さや苦しさが分かりたくて、それを少しでもどうにかしてあげたくて、この仕事に就いたんですから」


 そう。

 だから僕達は平行線なのだ。


 どちらが正しいということではなく、何が目的の仕事を選んだかということ。

 行動原理がそもそも異なっているから相容れない。

 けれどどちらもこの社会には必要な仕事だ。

 他の専門職の立場を理解しろと教えられたな、と昔のことを思い出す。


「……鞍馬」

「なんですか?」

「辞めるなよ」


 彼女の言葉に一瞬呆気に取られ、すぐに僕はこう言い返した。


「……辞めませんよ。自分で選んだ仕事ですから。椥辻刑事こそ、凹んでるんじゃないですか?」

「まあな。でも辞めんさ。私だってこの仕事を自分で選んだんだ」

「でも精神保健福祉士として忠告しておくと、仕事に誇りを持つことは結構ですが、酷いストレスを継続して受け続けている場合は心身の健康の為に辞職も検討すべきです」

「その助言はそっくりそのままお前に返す」


 そんな風に言い合って、しばらく僕達は笑い合っていた。

 僕達は名探偵じゃないから、推理小説の主人公ように格好良く謎を解いたりすることはできない。


 けれど、この現実世界には必要な仕事をしていると信じている。


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