第9話 専門外 問題編



参考:アガサ・クリスティ原作『ミス・マープルと13の謎(原題:Miss Marple and the Thirteen Problems)』より、『アスターテの祠(原題:The Idol House of Astarte)』

   坂口安吾原作『明治開化 安吾捕物帖』より、『舞踏会殺人事件』





 推理小説は、それが現代を舞台にし探偵を主人公にしている限り、「知り合いの刑事」というポジションのキャラクターが不可欠だ。


 日常の謎を扱うような青春ミステリならば話は別だが、殺人や窃盗というような刑事事件の謎を解くのならば、主人公の探偵に協力的な刑事さんの存在がなくてはならないだろう。

 通常そういった事件は警察の担当であって、どれほど有能であろうと探偵の出る幕はないはずだからだ。


 現実と小説は違うけれど、でも当然のように僕のホームズである御陵あるまにも刑事さんの知り合いが一人いる。

 椥辻という名前のその刑事さんは、アルマお姉さんのライバルで、リンネさんの友人で、そして、僕の恩人だった。


「眼帯くんにとってナギさんは、言わば、みーくんにとってのジェロニモさんですからねぇ」


 あまり穏やかな性格とは言えない椥辻刑事が僕に優しくする様を見る度に、お姉さんは茶化すようにそう呟く。


 ちなみに「ナギさん」という呼び名は刑事課での呼び名であり、そう呼ばれる毎に椥辻さんは「お前がそう呼ぶな」と僕のホームズをキッと睨むのだった。

 その刑事特有の眼光、竦み上がってしまいそうな目を仮にも入院にしている人間に向けるわけだから、穏やかな性格と言えるわけがなかった。


 眉間に刻まれた皺も、荒れ気味のショートヘアも、地を這うイタチのような印象も。

 彼女を構成する要素はどれも物騒というか、刑事らしさに繋がっている。

 でも僕は、椥辻刑事が本当は優しい人間であるということを、優しいが故に悪を強く憎んでいるということを知っているから、少しも怖く感じないのだ。


 もしかしたらそれは彼女に助けられたが故に抱く錯覚なのかもしれないけれど。

 少なくとも、僕は椥辻さんは良い人だと思っている。







 僕の恩人である椥辻刑事は、忙しい仕事の合間を縫って、僕のお見舞いに来てくれることがある。

 今日もそうだった。

 なんでも美味しいケーキ屋さんを見つけたとかで、午後から来るという連絡があった。


 連絡があった。

 あったのだが。


「……それにしても椥辻さん、いつ来るんだろ」


 ベッド脇の時計を見る。

 現在の時刻は三時を過ぎたところ。

 いつもならばとっくに来ている時間だ。


 椥辻刑事はお見舞い品にフルーツやお菓子を買うことが多いせいか、三時のおやつに間に合うようにやって来るのだ。

 長い付き合いだし、まさか僕がここ、アルマお姉さんの病室にいることが分からないわけじゃないだろうし。

 窓の外を見る僕に対し、お姉さんが言った。


「迷っているのではないですか? ナギさんはうっかりしたところがありますからね」

「お姉さん……。馬鹿にしてるでしょ」

「さて、どうでしょう」


 はぐらかすようにあの妖しい笑みを見せる僕のホームズ。

 常識的に考えて、何度も来ているこの病院の場所を忘れるなんてありえない。


「仮に、万が一、百歩譲って椥辻さんが道を間違えたとしても、今日はリンネさんと来るらしいから迷うはずないよ」

「それもそうですね」


 意外にも素直にそう言い、アルマお姉さんは続けた。


「現実的な可能性を考えれば、今日お二人は何処かに寄ってから来るとおっしゃていたはずです。確か昨日、眼帯君はそう言っていたでしょう?」

「うん、そう椥辻さんから聞いたよ」

「ですから恐らくはその用事が長引いているのでしょうね」

「うーん、そうかなあ……。でも遅れそうなら連絡くらいあると思うんだけど」

「そうですね。ナギさんが忘れてもリンネさんが連絡を忘れることはないでしょうから、妙ですね」

「…………お姉さんさ、」


 思わず僕は言う。


「お姉さん、なんだか妙に椥辻さんの評価が低いよね。リンネさんの評価が高いっていうか」


 少し刺のある口調になってしまったが、でも仕方ないと思う。

 自分の恩人のことを悪く言われれば面白くないのは当然だ。

 アルマお姉さんのことは尊敬しているけれど、でもそれはそれ、これはこれ。


 僕は椥辻さんのことだって好きなのだ。


「私の中でナギさんとリンネさん、どちらの評価が高いかと言えば、それは後者だと言わざるを得ません。ただしそれは、眼帯君の好きな名探偵の素質の話ですが」

「名探偵の素質?」


 だとしたら尚更変だろう。

 リンネさんは優秀な人だと思っているけれど、でも探偵としての能力で現役の刑事である椥辻さんより優れているなんて、そんなことがあるはずがない。


 けれど、お姉さんは淡々とこう言う。


「私もナギさんのことを無能だと言うつもりはありません。彼女は一流の刑事です。……ですが、仮に二人が同時に同じ事件の真相を推理したとしたら、犯人を捕まえることができるのはナギさんだとしても、先に犯人を見抜くのはリンネさんだと予想します。いえ、実際にそうだったようです」

「実際にそうだった、って……。どういう意味?」

「言葉通りの意味です。どうも以前そういうことがあったそうですよ。そもそも二人が知り合ったのは、リンネさんがある事件に巻き込まれ、その事件をナギさんが担当したからです。事件の犯人を捕まえたのはナギさんでしたが、それはリンネさんの助力があったこそだと聞いています。尤も、私も噂で聞いただけですから、細かいところまでは分かりませんが」

「そうなんだ……」


 その事件の話もいつか聞いてみたいけれど、でも難しいだろう。

 椥辻さんもリンネさんも、職業は全然違うけれど、その職業意識は共通している。

 過去のことだからと言って部外者にべらべらと仕事の話をしたりはしないのだ。


 アルマお姉さんは言う。


「その時はリンネさんは容疑者の一人、椥辻さんは担当の刑事、という形だったそうですが、でもどうでしょうね? 仮に二人がまた同じ事件に巻き込まれたとしても、私はリンネさんの方が先に犯人を見抜くと思います。私の予測ではそうです。検証してみたいのでリンネさんには探偵への転職を薦めたいくらいです。それも事件に巻き込まれるタイプの探偵にね」

「……本当に普通に酷いこと言うよね、お姉さん」


 知り合いが事件に巻き込まれることを願うなんて、どんな畜生だ。


「ホームズだって原作では相当に酷いことを言っていたでしょう? 『モリアーティ教授の死後、ロンドンは非常に面白くない街になったな』――これはノーウッドの建築業者での発言。『こんな深い霧が出ているのに何も起こさないなんてロンドンの犯罪者は間違いなくセンスがないな』――こちらはブルース・パーティントン設計書の発言です」

「それはそうかもしれないけれど……」


 でも僕は原作のワトソン博士と同じようにこう言いたくなる。

 「市民が君の発言に同意するとは思えないね」と。


 流石に冗談だったのか、アルマお姉さんは急に真面目な顔をすると「それにしても遅いですね」と呟いた。


「お姉さんが縁起でもないことを言うから、本当にそうなったんじゃないの? 噂をすれば影じゃないけどさ」

「確認してみましょうか」


 アルマお姉さんはスマートフォンを取り出し、リンネさんに電話をかける。

 通話が繋がった瞬間、お姉さんの顔色が変わった。


 そうして僕に対して言った。


「……余計なことを口に出すものではありませんね。どうやら、もう少し時間がかかるようです」


 事情を聞かずとも、その言葉だけで分かった。

 椥辻さんとリンネさんが本当に事件に巻き込まれたということが。







『……もう少し早く連絡すべきだったかな。でも、ちょうど良かったよ。アルマさんに相談するかどうか悩んでいたところだったから』


 机の上に置かれたスマートフォンからリンネさんの声が響いていた。


 後ろは、妙に騒がしい。

 まだ事件が起きた現場にいるのだろう。

 アルマお姉さんは言葉を聞いて、思案するように灰に近い色合いの青い目を細めた。


「……何があったのか、教えて頂けますか?」

『椥辻刑事の言葉を借りれば……殺人未遂、かな。その現場に居合わせちゃったから、しばらくはここから動けそうにない。いや、居合わせたどころか、容疑者の一人に数えられているのかな』

「容疑者に?」


 身体を乗り出し僕は訊き返す。


『そう。病院に行く前に寄るところがあると椥辻刑事が伝えてたはずだけど、その寄るところっていうのは椥辻刑事の知り合いのところだったんだ。僕も顔見知り程度ではあるんだけど、その家の息子さんが今日誕生日でね。息子さんや家族の友人を招いて、お祝いをすることになっていた。椥辻刑事はそれを聞いて、一言お祝いを言いたいと思ってね。ちょうどその日に美味しいケーキ屋さんに行くから、ケーキを買って持って行くことにしたんだ。椥辻刑事の知り合い、その家のお母さんは遠慮したんだけど、二つお祝いごとがあるんだからケーキも二つあっていいだろう、という感じで』

「では息子さんの誕生祝いの他に、何かおめでたいことが?」

『うん、その子のお姉さんが恋人さんと婚約してね。そのお祝いも兼ねてってことだった』


 一呼吸置いてから、リンネさんは続けた。


『そんな風にしていると人数が増えちゃって、折角だからと公民館の会議室を一つ借りて、そこでパーティーをすることになった。僕が今いるのはその公民館の喫煙所だ。まだ上……その事件が起こった会議室では、捜査が続いてるよ』

「参加者は?」

『椥辻刑事と知り合いのお母さん、その夫のお父さん、今日誕生日の息子さん、婚約した娘さん。これが家族。来客として息子さんの友人が二人、小学校の担任の先生が一人、娘さんのお友達が一人。主賓として娘さんの恋人さん。そして僕と椥辻刑事。加えておまけじゃないけど、たまたまお父さんと顔見知りだった公民館の職員さんが一人居合わせていた』


 いつの間にやら用意した折り紙を弄びながらお姉さんが言った。


「何が起こったのか、聞かせて頂いても?」

『勿論。さっきも言ったように、相談しようと思っていたところだったから』

「現在進行形で起きている事件ということですから、リンネさんが伏せるべきだと思ったところは伏せてもらって構いません。ですが、できる限り詳しくお願いします」


 分かったよ、と恐らくは電話口で首肯して説明を始めた。


『……会場に着いたのは、会場で昼食が終わり、皆でケーキを食べ始めようとしている頃だった。僕達二人はそれぞれ簡単に挨拶して、椥辻刑事は自分が買って来たケーキを渡す為にお母さんの方へ行き、僕は食器の片付けをしていた娘さんと恋人さんの手伝いに行った。机の上にお母さんが買ったケーキと椥辻刑事が持ってきたケーキ、二つを並べたところで、恋人さんが、娘さんと息子さんとケーキで一枚撮りたいと言い出した。恋人さんは写真が趣味で、今日も僕には分からないけど、凄く高いらしいカメラを持っていて皆を撮っていた。とは言っても、メインに撮影していたのは彼女である娘さんだったみたいだけどね。僕がローソクに火を付けて、椥辻刑事が娘さんにお願いされて会場の電源を落とし、ケーキの前で娘さんが左手で息子さん、彼女にとっては弟の肩を抱いて、恋人さんの指示でケーキの位置を動かしたりして……。事件が起こったのはその時だった』

「……何が起こったの?」

『娘さんに促されて息子さんがロウソクの火を吹き消し、その瞬間を恋人さんがその光景を何枚か撮影して、皆が拍手し始めた時。息子さんが倒れたんだ。かなり暗かったからよくは見えなかったけれど、身体を震わせながら、がくりとね。傍にいた娘さんが弟の名前を叫ぶように呼び、恋人さんがカメラを放り出して二人の元に駆け寄って、皆が騒然としている中、椥辻刑事は冷静だった。部屋の入り口に素早く移動し照明を付けたんだ。次いで、息子さんを抱き起こした娘さんが悲鳴を上げた。弟の身体、右の脇腹に小さな折りたたみ式ナイフが刺さっていることに気付いて』


 パーティー会場で起こった突然の惨劇。

 ナイフが刺さっていたとしたら、もう事故という可能性はない。

 殺人未遂。

 その言葉が僕の脳裏を過ぎる。


『……椥辻刑事は流石だと思うよ。それが事件だと認識した瞬間にはもう「全員その場を動くな」と指示を出し、被害者の元に向かっていたからね。彼女が病状を確認し、応急処置を施している間に僕は警察に連絡した。息子さんは救急車で病院に搬送され、間もなく到着した警察が捜査を開始して、今に至る。今は事情聴取中だ』

「…………そうですか」


 鶴を折る手を止めてアルマお姉さんは呟く。

 そうですか、と。

 何かを考え込んでいるらしいお姉さんに代わり、助手として僕は訊いた。


「殺人未遂って表現するからには、そういう根拠があるんだよね?」

『小耳に挟んだ話では刺さっていたナイフの刃に致死性の神経毒が塗られていたらしい。即効性の相当強力なものらしくて、今も息子さんの容態は余談を許さない状態だ。刺された息子さんの反応から椥辻刑事にはすぐ分かったのかもしれない』

「その凶器を隠し持っていられた人は?」

『さあ……。ポケットに入るサイズの物だからね。誰でも隠しておけただろう』

「……一応、人物の配置を教えていただけますか?」


 再び手を動かし始めながら、僕のホームズは訊ねる。


『正確には覚えていないけど……。とりあえず部屋の中央にケーキの乗った机があって、その向こう側に娘さんと被害者である息子さんがいた。その二人を写真に撮ろうとしていた恋人さんが机のこちら側にいて、後は机を中心に半円状かな。恋人さんの後方に僕、椥辻刑事、お父さん、職員さん。向かって右側に担任の先生と娘さんの友達、左側には息子さんの友達二人、だったかな』

「あれ、お母さんは?」

『ああ、ちょうどその時にお手洗いに行っていていなかったんだ。戻ってきたのは椥辻刑事が応急処置をしている頃だね』


 駄目だな、と僕は一人思う。

 質問してみたは良いものの全く見当が付かない。

 やはり真相の解明は僕ではなく、ホームズであるアルマお姉さんに任せるしかない。


 そう考えて隣のお姉さんに目を遣る。

 縁起でもない発言を後悔しているのだろうか。


 アルマお姉さんは、目を閉じていた。


「……私の灰色の脳細胞は、こういうことを考えるのには向いていませんね」


 風の音に紛れて消えてしまいそうなほど小さな声で呟かれた言葉に、僕は耳を疑った。

 何があったかは分からないが、あのお姉さんが「考えることには向いていない」と口にするなんて、信じられなかったからだ。


 けれど次の瞬間にはもう、僕のホームズはいつもの状態に戻っていた。

 嘲りを隠した妖しい笑みを浮かべた、尊大な天才に。


「リンネさん」

『何かな』

「一つの確認と一つの質問を」

『……ああ』

「確認させてください。暗いために見えなかった部分やそもそも目にしていなかった場面もあるでしょう。ですが、今語ったことに記憶違いはないと言えますか?」


 何故そんなことを?と僕は疑問に思う。

 リンネさんが記憶違いをすることなんて、まずないのに。


『ああ、ないよ』

「……では、質問の方を。その息子さんは、何か薬を飲んでおられますか?」


 飲んでるよ。

 静かな、静かな声で彼は答えた。


 どうしてだろう。

 いつもと変わらない声音だったのに、僕にはリンネさんが今にも泣き出しそうに思えた。


「だとしたら……。もう、私が解くべき謎などありません」

『そうか』

「未解決の謎など何処にもありません」

『……そうか』

「そうです」


 諭すようにアルマお姉さんは言って、続ける。

 だからこの事件は。


「だからこの事件は――探偵の専門外です。私の知ったことではありませんよ……」


 探偵の専門外。

 お姉さんは確かにそう口にした。

 今まさに事件が起きて調査が行われているというのに、専門外なのだと。


『…………そうか』


 その意外な言葉にリンネさんは納得したようだった。

 ありがとう、と一言だけ告げて、電話を切った。


「まったくリンネさんは……。こんな事件じゃ真相を解明するまでに三十三分どころか、三分もかかりませんよ……」


 何がどういうことなのか分からない僕とは対照的に、全てを見抜いたらしきアルマお姉さんは笑みを見せる。

 だがそれはいつもの妖しい微笑ではなかった。

 嘲りではなく悲しみを隠した、とても儚げな笑みだった。


 未解決の謎は、この事件にはない。

 だから探偵の専門外なのだとお姉さんは言った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る