第8話 ひまわりの手紙 解答編



 その時、お姉さんのスマートフォンが震えた。


「と、そうこうしている内に情報が届いたようです」

「情報?」

「はい。友人の情報屋に日ノ岡陽平という人物の略歴を調べるよう依頼していたのですが、流石仕事が早いですね」

「情報屋って……」


 お姉さん、交友関係に情報屋の人がいるのか。

 最早探偵じゃないとしたら何者なのか分からない。

 というか、情報屋ってドラマではよく聞く職業だけど、実在してるんだ……。


 そんな僕の心情など素知らぬ風に、アルマお姉さんは微笑んだ。


「彼女は優秀な情報屋であり探偵です。有名な推理小説のシリーズに出てくる情報屋を気取って始終ファミレスにいるのですが……」


 そこまで言ったところで言葉を切り、お姉さんはメールを読み上げ始めた。


「日ノ岡陽平……。享年四十三才、八月生まれ……某国立大学経済学部卒……なるほど、同期生に後に爆破テロを企て騒ぎを起こした某過激派の創始者がいますね……。趣味はガーデニング……なるほど、そういうことですか」

「どういうことなの、お姉さん?」

「サスペンスやミステリーでありがちな話ですよ。ホームズの原作にも何度かあったでしょう? 謎の手紙が何度も届く。不思議に思った青年が探偵に調査を依頼する。探偵が調べてみると青年の父親は若い頃に過激な連中との付き合いがあった。……この後、物語はどういう展開になると思いますか?」

「…………その青年や父親が殺される?」


 そうだ。

 お姉さんが言った『踊る人形』や『オレンジの種五つ』はそういう話だったはずだ。


 だとしたら。

 そういうことだとしたら、逼迫した事態というのも頷ける。


「注目すべきは、手紙がいつから届き始めたかということです」

「日ノ岡さんのお父さんが亡くなって、数日からだったよね?」

「その通りです。考えられる可能性の一つとしては、全ては日ノ岡向日葵のストーカーの仕業であり、ストーカーは父親がいなくなり精神的に不安定な状態であろう彼女に、ここぞとばかりに怪文書を送り付けた、というものがあります。ただ、ストーカーの仕業にしては熱意がないんですよ」

「熱意?」

「はい。ストーカーという存在の行動は偏執的な愛情によるものです。常人には理解し難いほどの強烈な感情があるために、メールを何百通も送信し、相手が出したゴミ袋を漁るという行動に出るのです。だとしたら、数日おきに三通、意味の分からない手紙を送り付ける程度の行為はストーカーの仕業としてはあまりにも軽いものだと思いませんか?」


 確かに言われてみればそうかもしれない。

 日ノ岡さん自身も言っていたように、訳の分からない手紙を三通受け取ったくらいじゃ近所の悪ガキの悪戯だと考えるのが普通だ。

 彼女はストーカー被害に遭った経験があるから警察に行ったけれど、普通なら嫌がらせにしても気にも留めないレベルだろう。


「そう考えていくと、今回の手紙はストーカーの仕業とは思えません。ではどんな可能性があるでしょう。いっそ、怪文書ではなく普通の手紙だと仮定して考えてみましょうか。ある人の父親が死んだ。数日後にその人の家に手紙が届く。……どういう内容の手紙が考えられますか?」

「うーん……。お悔やみ申し上げます、とか?」

「その可能性も考えられますが、私はこういう手紙をイメージします。『あなたのお父様に預けていたものを返して頂きたいのだが、ご存知ないだろうか』と。さて、この預けていたものが普通のものならば電話や手紙やあるいは直接赴いて確認すれば良いだけです。では、そういったメッセージを相手方がわざわざ暗号で送ってくるとしたら、どう考えますか?」


 ああ、そうか。


「……何か法に触れるような物か、誰にも知られないように家の中に隠されている物、とか?」

「その通りです。加えて、その子供が父親から事情を聞いているか確認したかった、ということもあるでしょう。暗号というものは正しい解き方を知っていればすぐ解けるものです。仲間にだけは理解でき、他人には分からないようにしてしまうのが暗号化する目的ですからね。仮に子が、今回の場合は日ノ岡向日葵さんが日ノ岡陽平さんから詳しい事情を聞き及んでいれば、謎の手紙の意味も分かり、行動を起こすことができたでしょう。さて届いた手紙は三通。一通目は郵送、二通目は郵便受けに直接、そして直近の三通目は手渡しです」

「段々近くなっていってる……!」

「そうです、段々と近付いてきているんです。恐らく送り主は日ノ岡陽平さんの死を知って一通目の手紙を送った。しかしレスポンスがなかったため、近況を確認する為に家に赴き、郵便受けに二通目の催促の手紙を入れた。そして、それでも返答がないので、手紙の受け取り主が手紙の意味を理解していないのか、それとも意図して無視しているのかを確かめる為に三通目を手渡しに行った」


 だから一通目は郵送、二通目は郵便受けに直接、三通目は手渡しだった。

 日ノ岡向日葵さんの反応を確かめる為に。


「こう考えていくと、日ノ岡陽平さんの奇妙な遺言の意味も分かります。覚えていますか?」

「うん、大丈夫」


 一つ目が「私の部屋にはしばらく入らないように」。

 二つ目が「祖母は老人ホームにでも預けて一人暮らしをしろ」。

 三つ目が「今の家は売れ」。


 今ならその意味が、僕に分かる。


「三つの指示を簡潔に纏めるとこうなります。『私の持ち物には触らず、家から離れて、然るべき後に全て処分しろ』とね。お父様は恐らく、それで全てのカタが付くと考えていたんでしょう。この訳の分からない遺言を残すことだけが、娘と母に全く事情を話すことなく、全てを丸く収める唯一の方法だった。きっと彼の書斎や、あるいは自宅に拵えられた秘密の空間には、手紙の送り主に返すべき物品と何らかのメッセージが保管してあるのでしょうね」

「でも日ノ岡さんは指示を守らなかった?」

「はい。しかし、彼女を責めるわけにもいきません。何しろ、彼女は全く事情を知らないのですから。三つの指示も、怪文書の要素を抜いて考えれば『お前はまだ若いんだから私や祖母のことばかり考えず自分の人生を自由に生きろ』という意味合いにも取れます。……というか、遺言としてはそう捉える方が普通でしょう。かと言って事情を全て説明してしまえば娘や母親を自分の後ろ暗い部分に巻き込むことになる。日ノ岡陽平さんが取った行動は、ベストではないかもしれませんが、ベターではあったと思います」

「……難しいね」


 巻き込みたくなかったから、説明せず。

 でも説明しなかった為に巻き込まれそうになって。

 まったくままならない。


「幸いにして、リンネさんが私に相談をしてきてくれたお陰で、日ノ岡向日葵さんとそのお祖母様を外泊させることができました。あの暗号文の内容から察する限りでは送り主は相当急いでいるようです。あのままだと、彼女達が家にいても構わず強盗にやって来たかもしれませんでしたが……。まあ、家が空なら夜中にでも忍び込んで、目当ての物を持って帰ってくれるでしょう」

「ふぅん……」

「以上が、私の予想する真相です」


 そう言って、僕のホームズは話を纏めた。

 あくまでこれは真実そのものではなく、アルマお姉さんが現状の要素を踏まえ、筋が通るように考えたものだと。

 一つの可能性に過ぎないと。


 ただ、その予測は僕には正しいように思えた。

 これ以上ないほどに。


「ところでさ、」


 と、僕は口を開く。

 それを制するようにして、お姉さんが言う。


「そう言えば眼帯君にはまだ暗号文の解読方法を教えていませんでしたね」

「うん、そうそう、それだよ」


 僕はどちらかと言えばそっちの方が気になっていたのだ。


「推理小説や冒険譚によく出てくる暗号は古典式暗号と呼ばれるものですが、実はこの古典式暗号は曲者で、古典式暗号で作られた暗号文はどうとでも読めるものなんです。いえ厳密には、正しい解読方法を把握していないと間違った答えを出してしまうことがある、と言った方が良いでしょう。なので大事なのは、その暗号のルールを正確に理解することです」

「ルール?」

「古典式暗号でメジャーなものは換字式暗号、転置式暗号、分置式暗号と呼ばれる三つです。換字式暗号はポーの短編が有名で、ある文字を他の文字で置き換えるというもの。転置式暗号はアナグラム、文の文字の順番を入れ替えてしまうもの。そして分置式暗号は正解の文の間に別の文を挟むもので、和歌の折句が近いですね。さて、今回の暗号は三つの内、どれでしょう?」

「ううん……」


 お姉さんは頭を悩ます僕を見て、あの嘲りを隠した妖しい笑みを浮かべる。

 スマートフォンを操作し、暗号文の写真を表示する。



   0 1

   もう一ま度びくだ同じだけけ死ぬきお前全て言えわづる目ぎがへご屋こおう。きみの那ち亡きち曽根なりが散る素ば

   り具べ残良しぜで叢ぜか下座ぞる目し、たもの日書と手類みごる部を憂うぐば佐渡き渡一つ初む那智ほ念でず舌ねせ。



 冒頭の数行だけを読んでみるも、何度見てもさっぱり分からない。

 最初の二つの数字が暗号解読のヒントだということは予想できるけど、それ以外はさっぱりだ。


「これ、見るからに訳の分からない文ですが、最初の数行を読むだけである法則に気付きます。こうすると分かりやすいですか?」


 僕のホームズはそう言うと、メール作成画面を開いて文字を打ち込んでいく。

 どうやら記憶した暗号文をそのまま写しているようだった。

 お姉さん、瞬間記憶能力まで持っているのだろうか。

 最早天才の域を超えて化物じみているなあ、と考える僕に彼女はスマートフォンの画面を見せる。



  もう一ま度びくだ同じだけけ死ぬきお前全て言えわづる目ぎがへご屋こおう。

  きみの那ち亡きち曽根なりが散る素ばり具べ残良しぜで叢ぜか下座ぞる目し、

  たもの日書と手類みごる部を憂うぐば佐渡き渡一つ初む那智ほ念でず舌ねせ。



 目にした瞬間、あっ、と声が出そうになった。


「同じ文字数……!」

「はい。実はこの文章、句読点の間の文が全て三十四文字で統一されているんです。意味もなく三十四文字で統一するとは考えにくいので、『34』という数字がキーになっていると予想できます」

「最初の『0』『1』と、その『34』が何かの法則になってる?」

「その通りです眼帯君。ではその法則とはなんでしょうか。何処かの探偵の片割れのように、地球の記憶にアクセスでもして検索してみましょうか?」


 まあそれは冗談ですが、と笑ってお姉さんは続けた。


「分かってしまえば簡単な暗号です。日ノ岡陽平さんは経済学部出身です。それを踏まえた上で『0』『1』『34』という数字を考えれば自ずと答えは出てきます」

「……それって?」

「フィボナッチ数列ですよ」


 したり顔で言われても聞いたことがない。

 そんな僕の為に、アルマお姉さんは簡単な説明を加える。


「フィボナッチ数列と呼ばれる数列があります。定義は高校数学レベルで難しいのでごく簡単に言いますが、『隣り合う二つの数を足すと次の数に等しくなる』という法則を持った数列です。0、1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89……という風に続いていく数を、フィボナッチ数と呼びます」


 隣り合う二つの数を足すと、次の数に等しくなる。

 0+1=1、1+1=2、1+2=3、2+3=5、3+5=8……。

 本当だ。

 そうなっている。


「株式や為替で使われるテクニカル分析の方法の一つに、これを用いたフィボナッチ・リトレースメントと呼ばれるものがあります。植物の花や葉の数もフィボナッチ数になっていることが多いのですが、有名な一つは向日葵の種の螺旋の数です。それはともかくとして、ではこのフィボナッチ数を踏まえて暗号文を見てみましょうか」


 またお姉さんは僕に暗号文を見せた。


「最初に『0』『1』という二つの数が書いてあるのは、フィボナッチ数列の最初の二つの数字、0、1を抜いて考えろということでしょう。なので、一文字目、二文字目、三文字目、五文字目、八文字目、十三文字目、二十一文字目、そして三十四文字目を読みます」


 最初の文字は『も』。

 次は『う』。

 その次は『一』で、更にその次は『度』。

 そうやって文字を拾っていくと、確かに意味のある文章が現れた。


「『もう一度だけ言う。』……?」

「はい。三十四文字も同じように読むと『きみのちちが残し、』で、その次の三十四文字は『たもの書類を渡せ。』です。ここまでを続けて読めば、『もう一度だけ言う。君の父が残したもの、書類を渡せ。』となります。それ以降の文も意味が通りますので、恐らくこの解読方法で合っているでしょう」

「お姉さん……」

「はい」

「……凄いね」


 そんな言葉しか出てこなかった。


 素直な僕の感想に、お姉さんは妖しく笑って、スカートの裾を摘むフリをして礼をしてみせた。

 カテーシー。

 そういう気取った仕草が、本当に似合っていて、カッコ良い。


「分かってしまえば簡単な暗号ですが、そもそもフィボナッチ数列というものを知っていなければ分かりようがありませんし、知っていたとしても『0』『1』『34』で連想できなければ分かりません。リンネさんは最低賃金や財産目録といった専門分野の数字以外の数学はてんで駄目ですから、分からずとも無理はないでしょう」

「いや、お姉さん……」


 感嘆の溜息を漏らしながら、僕は言った。


「リンネさんが分からないのが普通で、分かるお姉さんが凄いんだよ」


 僕のホームズはもう一度、酷く恭しく一礼した。

 「まあ私は天才ですからね」と、そう言わんばかりの笑みを湛えて。







 後日談の話をしよう。


 お姉さんが怪文書の謎を解き、日ノ岡向日葵さんとそのおばあさんが外泊したその日、日ノ岡家に泥棒が入ったという。

 しかしおかしなことに、泥棒が侵入して今は亡き日ノ岡陽平さんの部屋の物を動かした形跡はあるのに、なくなっていた物は一つもなかったそうだ。

 警察は首を傾げていたらしいが、リンネさんから聞くに、当事者である日ノ岡向日葵さんは何か納得した様子だったらしい。

 どうやら僕が声から受けた印象ほど彼女は鈍感ではなかったみたいだ。


 今では日ノ岡さんとおばあさんは家を処分し、近くの大きなマンションの一室を借りて二人で暮らしている。

 いわゆる高級マンションというやつで、警備員の人が常駐しているから安心だととおばあさんの方は喜んでいたと聞いた。


 日ノ岡さんは一度、直接お礼が言いたいとリンネさんに付き添われて病院にやって来たこともあった。

 探偵であるお姉さんを見て目を丸くし、その助手である僕を見て言葉を失っていた。

 それでも最後には「ありがとうございました」「また何かあったら相談させてください」と深々と頭を下げ、去って行った。


「ところでさ、お姉さん」


 謎の手紙の事件からしばらく経った頃。

 いつものようにアルマお姉さんの病室に来ていた僕は言った。


「日ノ岡陽平さんの大学時代の同期にテロをやった人がいたって話をしてたけどさ。日ノ岡陽平さんも、そういう悪いことをしてたのかなあ……」


 呟くような僕の言葉に、お姉さんは「これは推測ですが」と前置いてこう返した。


「ある過激派の創始者が日ノ岡陽平さんの大学の同期だと言いましたね?」

「うん」

「恐らくその人物は、自分達が捕まると察知した段階で、昔の友人である日ノ岡陽平さんに何か重要な書類を預けたのではないでしょうか。過激派の仲間ではない、単なる友人に預ければ警察の目を逃れられると考えて。そして日ノ岡陽平さんは社会的正義と友情を天秤に掛け、最終的に知らないフリをして黙って預かっておくことに決めた。いつか友人が塀の中から出てきた際に返せば良いと考えて。……しかし残念ながら、彼は不治の病で倒れてしまう。自分が死んでしまえば、その過激派の残党が家に書類を取りに来るかもしれない。大人しく返したいが、仲間というわけではないので連絡手段はなく、待つしかない。服役中の友人本人に連絡を取ろうにも、『君の秘密の書類をどうすれば良いだろう』等と手紙に書いて送れば刑務所の検閲で引っ掛かることは間違いない。そうこうしている内に余命幾許もなくなり、彼は苦肉の策として、例のフィボナッチ数列を用いた暗号、刑務所の検閲官には分からず経済学部卒の自分達ならば分かるであろう暗号で自分の病状と書類の隠し場所を友人に伝えた。そして娘に『家から離れるように』とだけ言い残して、彼はこの世を去った」


 一拍置いて、お姉さんは続ける。


「日ノ岡陽平さんの死を獄中で知った友人は、塀の外の部下に対して指示を出した。『私の友人の家に組織の文書がある。できる限り早く、それを奪取せよ』と。あるいはこんな風に付け加えたかもしれませんね、『彼は口の固い男だったが、ひょっとしたら娘には何か漏らしているかもしれない。娘が文書のことを知っているかどうかを確かめろ』と。それで起こったのが例の怪文書事件です」

「……凄い、まるで見てきたみたいだね、お姉さん」

「言ったでしょう? これはただの推測です。本当は全然別の真相かもしれません。……気になるなら、確かめてみますか?」

「え?」

「その友人さんに、例の暗号を用いた手紙でも書いてみましょうか? 今も千葉のLA級刑務所に捕まっていますが」


 開いた口が塞がらなくなった僕にお姉さんは「冗談です」と微笑みかけた。

 僕のホームズの場合、冗談だと思えないところが怖かった。







 最後の最後に、本当の余談をしてこの話を終わろう。

 事件が終わってから数日後、アルマお姉さんにお礼を言いに来たリンネさんに僕は訊いてみた。


「ところでリンネさん」

「何かな?」

「リンネさんは暗号が分からなかったんだよね? じゃあ、なんでお姉さんに相談しようと思ったの? 普通、あんな手紙を見たら子供の悪戯と思わない?」

「ああ、そのことか」


 リンネさんはいつも通りの穏やかな口調で言った。


「ソーシャルワーカーとして、人間の行動や心理は少しは勉強したからね、手紙がストーカーのものじゃないってことはすぐ分かった。手紙の渡す方法が段々と直接的になってきているのも気になっていたけど……。一番はうん、おばあちゃんかな」

「おばあちゃん?」

「ああ、おばあちゃんって言っても日ノ岡さんのおばあさんじゃなく、手紙を手渡してきたおばあさんのこと。向日葵さんが会ったおばあちゃんがどんな人か覚えてる?」

「ええっと……」


 ガラガラした嗄れた声で。

 背中が曲がっていて。

 頭にベールを被っていて。

 足に障害があるようで右足を引き摺るように歩いていて。

 片手で杖を付いていた。


 ……こんな感じだっただろうか?


「僕はそのおばあちゃんの人物像を聞いた時、もう少し具体的に、細かなことを訊いたんだ」

「眼帯君、覚えていませんか?」


 ベットで本を読んでいたお姉さんが補足した。


「日ノ岡向日葵さんは、『左手に持っていた封筒を差し出した』と言っていたんです。恐らくリンネさんはそこで気付かれたんですよ」

「気付いたってほとじゃないけど……。変だなと思って、訊き返したんだよね」

「変? 訊き返したって、何を?」

「『あなたの出会ったおばあちゃんは杖をどちらの手で付いていましたか』ってね。答えは右手だった」


 そりゃあそうだろうと思う。

 左手に封筒を持っていたわけだから、杖は右手に持っているだろう。

 普通はそうイメージする。


 けれど、リンネさんは言った。


「それがおかしいんだよ。たまに間違えてる人もいるんだけど、右足が悪くて杖を持つ場合、杖は左手に持つものなんだ。患側に対して健側、健康な側だね。少なくとも病院やリハビリ施設ではそういう風に指導する。杖って、杖を持った側に体重を掛けるから、痛めてる側の手に持っちゃうと怪我や障害が悪化しちゃうんだよ」

「つまり、不自然なおばあちゃんだった?」

「そうだね。しかも、向日葵さんはそのおばあちゃんの顔を覚えていないみたいだった。手品のトリックにも近いけど、何か非常に目立つ特徴がある場合、例えば僕なら身長だけど、そういう人と会うとその人の細部を記憶できないらしいんだよ。一度だけしか僕に会ってない人に僕がどんな人間だったか訊けば、十中八九『とても背の高い男の人だった』と答えると思う。じゃあピアスをしていたか、指輪を嵌めていたかと訊けば、多分答えられないんじゃないかな」


 僕の場合なら「眼帯を付けた小さな子」としか記憶されない、ということだろうか。


「向日葵さんの出会ったおばあちゃんは、背が酷く曲がっていて、杖を付いていて、足を引き摺っていた。そういう分かりやすい特徴が沢山あったから、向日葵さんはおばあちゃんの顔を記憶できなかったんだと思う」

「それって……。誰かが変装してた、ってこと? わざと分かりやすい特徴が沢山ある人物に化けてた?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも不自然ではあったから、一応アルマさんに訊いてみた、というわけ」


 さも当然のようにリンネさんはそう語った。


 改めて今回の事件で彼が行ったことを思い出してみる。

 この人は数回会っただけの少女とおばあさんと信頼関係に築き、断片的な話から情報と異常を読み取り、問題を解決できそうな相手を交友関係の中から選び出し、その相手の指示を正確に実行し、最終的に問題を解決に導いた。

 それが専門家として鞍馬輪廻が行ってみせたことだった。


 リンネさんはアルマお姉さんのような、常人には不可能なことができる天才ではないかもしれない。

 でも、社会人として、普通に優秀な大人だった。

 僕はこの人のことを素直に尊敬する。


「リンネさん」

「何かな? アルマさん」

「現在の日本の介護制度で定められた特定疾病、十六種類分かりますか?」

「分かるよ。末期の癌、関節リウマチ、脳血管疾患、認知症にパーキンソン病関連疾患、脊柱管狭窄症とかでしょ?」

「生活保護法において急迫した状況の場合は保護の申請がなくとも保護の開始ができると定められた条文が何条だったか覚えていらっしゃいますか?」

「第七条のはずだけど。第二十五条も関連してるかな」

「一時期自動車事故で話題となったてんかん発作について、簡潔に説明してくださいますか?」

「慢性の脳疾患の一つで、大脳ニューロンの過剰な反射に由来する痙攣症状のこと。強烈な光刺激によって起こる光過敏性発作を誘引する光刺激性癲癇が一番有名かな。およそ八割の人は投薬等で抑制できる。……急にどうしたの?」


 いえ、とアルマお姉さんは首を振り言った。


「別に、あなたは優秀な人だな、と思っただけですよ」

「買い被り過ぎだよ。これくらいは普通のことだ」


 問題を早めに発見し、大事に至る前に対処すること。

 それが名探偵ではないリンネさんが目指す在り方だった。


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