第7話 ひまわりの手紙 問題編



参考:アーサー・コナン・ドイル原作『シャーロック・ホームズの冒険(原題:The Adventures of Sherlock Holmes)』より、『オレンジの種五つ(原題:The Five Orange Pips)』





 僕のホームズである御陵あるま――アルマお姉さんの天才さは、きっと少し彼女と話せば伝わるだろうと思う。


 分かりやすいところで言えば、お姉さんの知識量は常軌を逸している。

 本家本元のホームズがそうであるように、御陵あるまという人は表面上は知識や興味が偏っているように見えるものの、その実、極まったエンサイクロペディストだ。

 幼い頃から読書が趣味だったこともあるのか、どうでも良い雑学から大学院レベルの教養まで、本当に様々なことを知っている。

 明るくない分野なんて絵や彫刻のような美術関係くらいのものだ。


「お姉さんは本当に凄いなあ」

「別に、これくらいは普通ですよ」


 そんなやり取りをなんど行ったか分からない。


 さて。

 ここで僕達のレストレード警部こと、鞍馬輪廻さんについて考えてみたい。

 アルマお姉さんの近くにいるせいで忘れそうになってしまうけれど、リンネさんも十二分に優秀な人だ。

 人並以上の教養と大学卒業程度の知識、そして社会人としての能力を持った大人。


 よくお姉さんは、リンネさんのことをこう評している。


「鞍馬輪廻という人は、とんでもなく優秀というわけではありませんが、普通に優秀なのです」

「普通に優秀?」

「はい。社会人として優秀、と言い換えると分かりやすいかもしれません。例えば、弁護士が法律のことに詳しいのは当然でしょう? それ以外の人々からすれば優秀に見えるかもしれませんが、専門家としては普通です。それと同じ。リンネさんは専門家なので、専門内のことには相当の知識を持ちます。一般の水準からすれば優秀ですが、専門家としては普通です」


 法律や条文を諳んじることができたり、難しい音楽記号の意味が分かったり、劇薬を正しく扱うことができたり。

 それは僕達一般人からすれば凄いことだけど、それぞれの専門家としては当然のスキル。


「現在の日本の介護制度では、第二号被保険者が特定の疾患の為に介護が必要になった際には介護保険の給付を受けることができ、その対象となる疾患を特定疾病と呼びます。これは十六種類あるのですが、そんなこと知らないでしょう?」

「……知らないも何も、まず何を言ってるのかが分からないんだけど……」

「リンネさんが専門とすることについて、ですよ。私の知識は衒学家故ですが、彼の知識は専門家故です」


 アルマお姉さんが天才だとすれば、リンネさんはプロなのだ。

 僕にはまだ難しくて分からないけれど、何か社会的なことに関する専門家。


 なんだか、アルマお姉さんとは違う感じにカッコいいと思う。

 穏やかで優しげな笑みを浮かべてお姉さんは言った。


「眼帯君は私のことをホームズと呼んでくれますよね。ですが、私にはホームズとして足りないスキルがあります。それが何か分かりますか?」

「え? うーん……。推理力は凄いし、知識もあるし、護身術にも長けてるし……。あ、リンネさんはピアノが弾けるから、音楽的な才能とか?」

「私もお遊び程度で良ければピアノもヴァイオリンも弾けますよ」

「本当になんでもできるよね、お姉さん……」


 実は本当にホームズの生まれ変わりじゃないだろうか?

 こうなってくると、もう「ズボンの泥跳ねを見るだけでそれがロンドンのどの辺りで付いたか分かる」くらいしか候補がない。


「正解は社会的弱者に対して取り入る技術です。作中ホームズは捜査の為とは言え、女中に対して結婚詐欺まがいのことをしています。この例に象徴されるように、シャーロック・ホームズは社会的に弱い立場にある人間の信用を勝ち取り、話を聞き出す能力に非常に長けています。これは私が苦手として、リンネさんが得意とすることです」

「言われてみればそうかも。リンネさんって、人を安心させるような、そういう雰囲気があるし」


 ……まあ。

 お姉さんが社会的に弱い立場の人に嫌われるとしたら、それは結構頻繁に人を小馬鹿にしたような笑みというか、「どうしてこんなことが分からないんですか?」という思いが隠し切れていない表情をすることがあるからだと思うけど……。


「専門的にはラポールの形成と呼び、ホームズだけではなくルパンも得意としています。リンネさんは職業柄、同時に生まれ持った性質として、他人に自分が悪い人間ではないと思わせ、余計な嘘を吐かせず話を聞き出すことが上手いんです。決して目立つことのないスキルですが、私は心底尊敬していますよ」


 アルマお姉さんがリンネさんに高評価を与えるのは、僕としては面白くないけれど、でも同意せざるをえなかった。

 そういう能力があるからこそ、彼は様々な問題や事件をあらゆる人から聞き出すことができる。

 聞き出すだけに留まらず、専門家としてしっかりと対処することができる。

 素直に尊敬できる大人だった。


 でも僕からするとリンネさんの一番凄いところは、お姉さんに何か相談した際に遠回しに馬鹿呼ばわりされても全く気にせず、どころか感謝して、またここにやって来ることだと思う。

 リンネさんが問題を早めに発見し、すぐにアルマお姉さんの助力を請うたことで大事に至らずに済んだ問題は数え切れないほどある。


 今日は、そんな話をしよう。







 それは僕がアルマお姉さんと出会って、二、三ヶ月くらい経った頃のことだった。

 うんざりするほど空が青い、よく晴れた日のことだった。


 その日も精神病院は呆れるくらいに退屈で、昼食後、僕はアルマお姉さんの病室を訪れて、来客用の机で国語の勉強をしていた。

 暇な時にお姉さんの病室を訪れるのは、その時にはもう僕の習慣になっていた。

 僕が問題集に取り組む傍らで、アルマお姉さんはクラーク・ラッセルとかいう何処かで聞き覚えがある人の海洋小説を読んでいた。


 事件の始まりを告げたのは一通の電話だった。

 アルマお姉さんは古い型のガラケーが震えたことに気付くと、躊躇いなく通話ボタンを押した。

 隣にいる僕に断りは一切なかった。


 僕は気にしないけど、本当に社会性がない人だなあと思ったことをよく覚えている。


「なんでしょうか。わざわざ電話を掛けてくるくらいですから、相当切羽詰まっているのでしょう?」


 当然のように「はい」も「もしもし」も「御陵ですが」もない。

 天才である御陵あるまは常識とは無縁の存在なのだ。


「……はい、はい…………。なるほど。なら、とりあえずそちらの写真をスマートフォンの方に送っておいてください、見ておきます。はい……」


 お姉さんの言葉を聞いている限りでは何の話なのかさっぱり分からない。 

 ワトソンである僕としては、僕のホームズが活躍できるような素敵な謎を期待するばかりだった。

 そんな僕を後目にお姉さんは会話を続けた。


「…………なるほど。では……そうですね、ならご本人からお話を伺った方が良いでしょう。鶴を折りたいのでハンズフリーで、眼帯君も一緒でも構いませんか?」


 僕も一緒?

 ということは、何か謎がある話なのだろうか?


「…………はい、そうですか。分かりました。少々お待ちください」


 そう告げるとお姉さんは携帯を机の上に置き、折り紙を取りに向かう。

 僕のホームズは何か考え事をする時にしか折り紙を折らない。

 つまり、それを取りに行ったということは、考えないといけない謎があるということで。


 アルマお姉さんは言った。


「リンネさんからの電話で、リンネさんのお知り合いが相談したいことがあるそうです」

「相談?」

「はい。怪文書の話で、あなたの好きな謎があるかどうかは分かりませんが……。一緒に聞きますか?」


 アルマお姉さんがそう言って微笑んだので、僕はワトソン博士を気取ってこう返した。


「問題がないのなら、是非ご一緒したいね」







『……もしもし』


 携帯電話から流れ出してきたのは女の人の声だった。

 かなり若い感じだ。

 アルマお姉さんと同じくらい。

 高校生か、大学生といったところ。


「はじめまして。鞍馬輪廻さんの知り合いで、御陵あるまと申します」

『あ、はい。ご丁寧にどうも』


 若干驚いた感じで電話口の女性は答えた。


『鞍馬さんからは凄く優秀な探偵さんだと聞いていたので、思ったよりお若いみたいで驚きました』

「私は別に探偵ではありませんが、もしかしたらあなたのお力になれるかもしれません。その為の努力は惜しみなくするつもりです」

『それは……ありがとうございます』


 隣で僕も驚いていた。

 失礼だけど、でもお姉さん、話そうと思えば初対面の人とでも普通に話せる人だったのかと。

 どうやら御陵あるまという人は、ホームズがその気になればいくらでも紳士らしく振る舞うことができたように、常識的な人間を装うこともできるらしかった。


「隣に私の助手のような子がいますが、信用できる子です。他人に聞かれることはありません。どうぞ安心してお話しください」

『なんだか、本当に探偵さんみたいですね』


 くすくすと電話の相手は笑った。

 品の良さを感じる、控えめな笑い方だった。


『……鞍馬さんは是非あなたに相談すべきだと薦めてくださったのですが、自分では正直よくある悪戯にしか思えなくて……。なので、お時間を取らせるだけかもしれません。警察の方もそういう風に言ってましたし』

「警察の方が介入できない、介入しない部分に対しても支援を行うのがリンネさんのようなソーシャルワーカーです。そのリンネさんが相談すべきだと言ったのですから、話してみても良いと思いますが」

『そうですね……。なら、お願いしますね』

「はい。では、事実を最初からお話し頂けますか? 後から私から見て重要なことを質問するかもしれません」


 一拍置いて、依頼人は話し始めた。


『私の名前は日ノ岡向日葵と言います。お日様の日に、カタカナのノ、岡山県の岡で日ノ岡。名前の方の「ひまわり」は花の漢字と同じです。大学ニ年生で、祖母と二人暮らしをしています。鞍馬さんとは祖母が通っているデイサービスで知り合って、元々は私が祖母に話したことを祖母が鞍馬さんに相談し、今に至ります』


 デイサービス、デイサービスか。

 おじいちゃんやおばあちゃん達が日中、ご飯を食べたりレクリエーションをしたりする場所だったはずだけど、リンネさんはそういう施設にも出入りしているのか。

 益々何をやっているか分からない。


『父が健在だった頃ならば祖母もそこまで心配しなかったと思うのですが、先日、父がこの世を去りまして……』

「それはご愁傷様です」

『悪性の癌だったので覚悟はできていたのですが、何度経験しても家族の死は慣れませんね。幸いにして、父が為替取引……FXと言うのでしょうか? そういう取引で作った財産があるので大学の学費や当面の生活費には困りませんが、三人暮らしから二人暮らしになっただけなのに、家ががらんとして、広くなった感じがします。そういったわけで、今私は祖母と二人暮らしです。……ええと、話が逸れましたね。すみません、説明が下手で』

「構いませんよ」


 携帯電話に向かって答えながら、アルマお姉さんは早々と完成させた一羽目の鶴を指で弾く。


『私のことはこれくらいで良いと思います。相談したいのは、先ほども鞍馬さんがお話された通り、私宛てに送られてきた妙な手紙についてです。鞍馬さんが文面を撮って送信したと思いますが、届いているでしょうか』


 お姉さんはガラケーではなくスマートフォンの方を操作し、何かを表示する。

 どうやらそれはリンネさんから送られてきた画像のようだった。

 多分、これが彼女、日ノ岡向日葵さんが言う『妙な手紙』なのだろう。


「はい、届いています。続けてください」

『父が亡くなって数日経った頃でしょうか。自宅に、それと同じようなデタラメな文章が書かれた手紙が届けられたんです。届けられたとは言っても、差出人名のところが私の住所になっていて、郵便局からの返送という形でしたが』

「手紙の宛先が間違っていた場合には差出人に返還されることを悪用した、ということでしょうか」

『そうです』


 会話を続けながら、アルマお姉さんは僕にスマートフォンの画面を見せる。

 表示されている写真は便箋サイズの紙を撮影したもので、そこにはワープロ打ちらしき文字が羅列されていた。



   0 1

   もう一ま度びくだ同じだけけ死ぬきお前全て言えわづる目ぎがへご屋こおう。きみの那ち亡きち曽根なりが散る素ば

   り具べ残良しぜで叢ぜか下座ぞる目し、たもの日書と手類みごる部を憂うぐば佐渡き渡一つ初む那智ほ念でず舌ねせ。



 ……最初の二行だけ読んでみたのだが、さっぱり分からなかった。

 まさに、怪文書、と言った感じだ。

 デタラメに書いたにしては、最初に意味有りげに二つ数字があるのが変だし。


『……見られましたか? 意味が分からないでしょう?』

「そうかもしれませんね」

『その手紙を受け取って、私は次の日に警察に行きました』

「次の日に?」

『はい。実は高校生の頃、ある人に付き纏われていたことがあって……。告白をお断りした相手だったんですけど、その人がストーカーと言えばいいのか、そういう手紙を送り付けてきた時期があったんです。その時に警察にお世話になったこともあって、すぐに相談に行きました。二回目ですからスムーズですぐに話も進み、警察がそのストーカーだった人に注意をしてくれることになりました。ストーカーだった彼は「自分じゃない」と否認していたそうですが、前科がありますから……。ただ「ストーカーだった」と過去形で表現したように、最近は何もしていなかったので、私は変だな?と思っていました』


 一拍置いて、日ノ岡さんは続けた。


『そんな風に考えていると、二通目の手紙が届きました。今度は直接、郵便受けの中に入れられていて……。私は一通目と同じように警察に行きました。そうすると、警察の方でも少しおかしいなというか、別のストーカーの仕業なんじゃないかという話になりました。前のストーカーの時は一日に何百通もメールが来ましたし、手紙も毎日でしたから、毛色が違うというか……』


 普通に語っているけれど、一日に何百通もメールが来たり手紙が毎日送られて来たらトラウマになると思う。

 この日ノ岡さんという人は鈍感な方なのだろう。

 その鈍感さで男が勘違いしてストーカーになってしまうのかもしれない。

 だとしたら、新しい別のストーカーができていてもおかしくはないけれど……。


『前のストーカーではないにせよ、おかしな手紙が来ていることは事実です。でも前のストーカーではないとしたら誰が送ってきているのか検討が付きません。警察の方も困って、これからはパトロール中に私の家の前を通るようにして怪しい人物がいないかどうか気を付けておくから、また何かあったらすぐに連絡するように、とだけ言って、私は家に帰されました』

「二つ、質問してよろしいですか?」


 五羽目の鶴を折り終えたお姉さんが訊いた。


「一つ目の質問ですが、一通目と二通目の手紙が何月何日に来たのか分かりますか? 分からないのなら、おおよそ何日くらいか、どれくらいのスパンかだけでも結構ですが」

『そうですね……。一通目は父が亡くなってから一週間も経っていなかったと思います。葬儀等の諸々が終わって、警察に行けるくらいの暇があった頃ですから……四日後、五日後くらいでしょうか』

「お父様が亡くなられたのは?」

『◯月×日です』

「その四日後か五日後くらいに一通目の手紙が来て、二通目はいつでしたか?」

『一週間以上後だったと思います。今から一、二週間前くらいかな……。警察に行けば正確な日付と、一通目と二通目の手紙が保管されていると思いますけど……』

「それは後で検討しましょう。では二つ目の質問ですが、他におかしなことはありませんでしたか?」

『おかしなことですか? さあ、なかった気がします。前のストーカーの時はゴミ袋を荒らされたりしましたが、今回はそういったことはありませんし、だから別の人かなーと……』

「ありがとうございます。他にもいくつか訊きたいことがありますが、それは話を最後まで聞いてからにしましょう。では、続きをお願いします」


 お姉さんがそう言うと、日ノ岡さんが話を再開した。


『……三通目の手紙を受け取ったのは、昨日のことでした。その手紙の内容が写真で送信したものです。今回は手渡しで……とは言っても、その人がストーカーということはないと思います。背中の曲がったおばあさんでしたから』

「初めて会った高齢者の方に、手紙を渡されたのですか?」

『はい。夕方、大学から帰ってきた時でした。薄暗い夕闇の中、家すぐ近くで杖を付いたおばあさんに「日ノ岡さんですか?」と声を掛けられました。私が「はい、そうですが」と答えると、おばあさんは「……これを」と左手に握っていた封筒を差し出して、「よく読むように」とだけ言い残して去って行きました』

「どんな方でした?」

『鞍馬さんにも同じことを訊かれましたが、どんな、と言われても……。普通のおばあさんだったように思います。ガラガラした嗄れた声で、背中が曲がっていて、頭にベールを被っていて、足に障害があるようで右足を引き摺るように歩いていて、片手で杖を付いていました。うちのおばあちゃんの方がいくらか元気なくらいです』


 何かを考えるように目を細め、アルマお姉さんは言った。

 鶴はもう七羽になっていた。


「口を挟んでしまい申し訳ありませんでした。続けてください」

『後はもう、ご想像通りだと思います。祖母に三通目の手紙を受け取ったことを話すと、警察だけじゃなく、鞍馬さんにも是非話を聞いてもらいなさい、と言われて……。今日の講義は午前中までだったので、昼から祖母の通うデイサービスに行き、そこで待っていてくださった鞍馬さんに会い、近くの喫茶店で事情をお話しして、今に至ります』

「そうですか」


 リンネさんが女子供に好かれるということは知っていたけれど、どうやらおばあちゃんの間でも人気者のようだった。

 一体、あの人の職業は何なのだろう?


『祖母は鞍馬さんに犯人を突き止めて欲しいというよりは、私のボディーガード役を務めて欲しかったんだと思います。ほら、警察は明らかな被害が出るまで本腰を入れて動いてくれないでしょう? だから多分、心配だったんじゃないかと……。鞍馬さんのお仕事はそういうお仕事ではないとは理解しているとは思うのですが、優しくて気さくな方ですし、近所のお兄さんに送り迎えを頼むような感じで……』

「あなたのお祖母様の判断は正しかったと思いますよ。実際、リンネさんは非常に頼りになる方ですし、一緒にいればもしストーカーに襲われても守ってもらえるでしょう」


 僕はリンネさんの姿を思い浮かべてみる。

 百九十近い身長に、人の頭を掴んで放り投げられそうなほど大きな手。

 がっしりとした身体付きに、広い肩幅。

 ……確かに頼りになりそうだし、そもそもあんな人が隣にいたらどんなストーカーも手出しはしないだろうと思う。


「尤も、今回の場合においては……」


 そう言い掛けて、お姉さんは口を噤んだ。

 代わりに「では質問ですが」と続けた。


「亡くなられたというあなたのお父様は、生前、何か指示を出しておられませんでしたか?」

『指示ですか?』

「はい」

『さあ、どうだったでしょう……。「婿にするなら年上の誠実な男にしろ」等とは言っていた気がしますが、他には特に……』

「死期を悟られていたのですから持ち物の処分の方法について指示があったと思うのですが」

『処分の方法……ああ、そう言えば、いくつか妙なことを言っていた気がします』

「思い出せますか?」

『はい、妙な内容だったので、よく覚えています。一つ目が「私の部屋にはしばらく入らないように」で、二つ目が「祖母は老人ホームにでも預けてお前はマンションでも借りて一人暮らしをしろ」で、三つ目が「今の家は売れ」でした。おかしいでしょう? 一つ目と二つ目の内容を守ると家の整理ができないので三つ目が果たせなくなるんですから』


 一つ目が「私の部屋にはしばらく入らないように」。

 二つ目が「祖母は老人ホームにでも預けて一人暮らしをしろ」。

 そして三つ目が「今の家は売れ」、か……。


 彼女の言うように、遺言としては変わった内容だ。


「お父様は家におられることが多かったのですか?」

『そうですね。私はさっぱりなんですが、FXのようなものって家でできるでしょう? なので家にいることが多かった気がします。自分が建てた家ですし、思い入れもあったでしょうから』

「差し支えなければ、お父様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」

『日ノ岡陽平です。太陽の陽に、平らと書いて、陽平』

「ありがとうございます。恐らく、あなたに訊かなければならないことはもうないと思います。ですが僭越ながら、助言を致したいと思います」


 スマートフォンを操作し始めながら、僕のホームズは続けた。


「あなたは今日からしばらく友達の家にでも泊まると良いでしょうね。お祖母様も、何処かの施設に泊めて頂いてください。近いうちにお父様が言われていたように大学の近くにでもマンションを借りて、移り住むと良いかと思います。それで何もなければお父様の遺品を処分して、家も売ってしまわれるのが一番だと考えます」

『は、はあ……』

「私から言えるのはそれだけです。リンネさんに代わって頂けますか?」


 淡々とお姉さんはそう言った。

 告げるべきことは全て告げたという風に。

 そして電話口に出たリンネさんに対して言う。


「聞こえていましたか?」

『まあ、大体は聞こえていたよ』

「断定はできませんが、私が考える限りでは事態は逼迫しています。あなたが私に相談しなければ、恐らく、あまり好ましくない結果になっていたでしょうね」

『それは穏やかじゃないな……。それで、避けられそうなのかな? その好ましくない結果は』

「ええ、あなたのお陰で」


 良かった。

 何気なく、けれど心底安堵した様子でリンネさんは言った。


「とりあえず彼女のお祖母様が数日泊まれる施設がないか、探してください。その辺りのことは専門分野でしょう?」

『分かったよ』

「あとは彼女にくれぐれもしばらくは家に帰らないようにと」

『荷物を取りに帰るくらいは大丈夫かな』

「それくらいならば大丈夫でしょう。ただし、昼間の内が良いですね」

『他には? 何かある?』

「いえ、特には。恐らく数日で事態が動くと思いますので、そうしたら連絡してください」

『ありがとう。じゃあ、また連絡するよ』


 そんな風に通話を終えたアルマお姉さんは、スマートフォンを操作する手を一旦止め、僕の方を向いた。


「さて、眼帯君。何がどういうことか分かりますか?」

「……え、何が?」


 何がどういうことって……。

 何が?

 そう言われても、僕にはさっぱり分からなかった。


「とりあえず、お姉さんが日ノ岡さんとそのおばあちゃんを家に居させたくないってことは分かったけど」

「私個人としては知ったことではないのですが、お父様である日ノ岡陽平さんはそう思っていたでしょうし、実際家にいない方が丸く治まるでしょうね」


 そして、お姉さんはダークブルーの目を細めて僕を見る。

 もう随分前に鶴を折ることはやめている。


 つまり僕のホームズは謎を解いたのだ。

 怪文書の謎も、妙な遺言の謎も。


「本当につくづく思いますよ、物事の基本は応用だと。彼女に送られてきた手紙の意味はちょっとした知識があればすぐ解けます」

「それって……暗号ってこと?」

「はい。規則性さえ分かってしまえば難しくはない暗号ですから、分かる人はすぐ分かるでしょう。なので私は暗号を解かないままに不穏さを感じ取り、私に連絡をしてきたリンネさんが優秀だと思います」


 そうして呟くように。アルマお姉さんは言った。


「ホームズの原作における暗号の話は、『踊る人形』でも『オレンジの種五つ』でも、少し対処が遅れたばかりに悲しい結末になりましたが……リンネさんのお陰で、何事もなく終わりそうです」



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