第6話 名探偵は二人 解答編



「ユリックは私達を、つまり事件の関係者である私、エミリー、マーストン先生、ロジャース先生をラウンジに集めました。他人に気を遣うようなタイプではないのに、キッチンで人数分のコーヒーを淹れて……。私は、余程この探偵ごっこが楽しいのだろうか?などと考えていました。

 咳払いを一つして、ユリックは話し始めました。

 『さて、皆さんに集まって頂いたのは他でもありません。ちょっと、謎解きでもしてみようかと思いましてね』

 まだ顔色の悪いエミリーは言葉の意味が分かっていないようでした。マーストン先生はじっと彼を見つめて黙っていました。私も成り行きを見守っているだけだったので、彼の発言に返答したのはロジャース先生だけでした。

 『……ふざけた話だが、ユリック、お前のことだ。まさか冗談を言っているわけではないだろう?』

 『無論です、先生。港に着く前に、この事件の真相を皆さんにお知らせしようと思っただけです』

 『真相?』

 『理事長の死の真相です』

 先生は目を閉じ、しばらく考え、先を促しました。恐らく研修中のユリックを思い出していたのでしょう。ユリックは、『この子ならば事件の真相を見抜くこともありえるかもしれない』と、そう信じさせるだけの優秀な成績を残していましたから。

 『理事長はこの船のアッパーデッキで亡くなっていました。死因は心臓を撃ち抜かれたことによる失血死。凶器は見つかっていませんが、傷跡から判別するに拳銃です。また、ごく近距離から撃たれたようでした』

 その様子が脳裏に浮かんだのか、エミリーが恐怖を誤魔化すようにコーヒーを一口飲み、両腕で自らを抱きました。

 『ここは船の上、外部犯の可能性は除外しても良いと思います。では誰が怪しいか? 理事長と口論している様子が目撃されており、また事件の前に酒を飲んでいた先生、あなたです』

 手袋を嵌めた人差し指で指されたマーストン先生が驚きに目を見開き、何か言い返そうとしましたが、その前にユリックは続けました。

 『当時酔っていたあなたは、理事長と深夜のデッキでたまたま出会い、そこで口論となり、思わずカッとなって持ち歩いていた拳銃で理事長を撃ってしまった……という筋書きを無能な警察なら思い描くでしょう。ですが、この説には不自然な部分があります。何処か分かりますか?』

 『深夜のデッキでたまたま出会う、がありえないということでしょう?』

 『返答ありがとう、アルマ。そう、その通り。たまたま口論になることやたまたま拳銃を持ち歩いていることも不自然ですが、何よりもおかしいのは、この寒い夜中でデッキでたまたま出会った、という点です。例えばここ、ラウンジで事件が起こったのなら分かります。しかし、この寒い日の夜に二人がデッキでたまたま出会うとは考えにくいと思いませんか?』

 マーストン先生を疑うつもりじゃないが、と前置いてロジャース先生が言いました。

 『なら、呼び出したのかもしれない。この寒い日にデッキにいることが不自然、と言うのなら、それは同時に目撃されにくいとも言える。犯人はアームストロング理事長を誰もいないデッキに呼び出し、そこで犯行を行ったのではないか?』

 『いえ、それはありません。何故ならばここは船の上です。こんな閉鎖的な状況で事件が起これば、その時点で容疑者が絞り込めてしまう。それは犯人にとって望ましいとは言えないでしょう。少なくとも僕が犯人ならば避けますね。夜の繁華街のような人の多い場所で、物取りに見せ掛けて殺すと思います。勿論、ここにはいない犯人が私達に罪を着せる目的で犯行に及んだのならば分かるのですが、それは傷口から見て恐らくありえません。理事長はごく近距離から撃たれていました。もしもここにいない誰かの犯行だとしたら、理事長は船に乗っていないはずの誰かに射殺されたことになります。ですが、本来船にいないはずの相手から呼び出されれば警戒するのではないでしょうか? また、近くに寄らせたりするでしょうか?』

 『じゃあやっぱり……。この中の、誰かが?』

 エミリーの問いにユリックは微笑み、続けました。

 『この事件の真相を見抜くヒントは三つあります。一つ目は、理事長が倒れていたところのちょうど真横の手摺に残っていた小さなキズ。二つ目は、理事長の部屋の床に落ちていた糸屑。三つ目は、理事長がごく近くから撃たれたということです。結論から言えば……これは、自殺です』

 私を除く一同は驚き、顔を見合わせました。エミリーは息を飲み、ロジャース先生は『なんだって?』と訊き返し、マーストン先生に至っては手にしていたマグカップを落としそうになっていました。

 『イメージして下さい。……手に拳銃がある。その拳銃の握り手に、ある程度の長さのロープをしっかりと括り付ける。もう反対側には何かおもりを括り付ける。ロープに繋がったおもりをデッキの手摺を超えて、垂らす。右手に拳銃を持ち、少し歩いて、紐がピンと張った辺りで銃口を心臓に突き付け、引き金を引く。さて、どうなりますか?』

 『おもりの重さに引っ張られ、拳銃は手摺にぶつかって、そのまま海の中へと落ちる』

 『そう、その通りだアルマ。皆さん、お分かり頂けたでしょうか? ソア橋のトリックと同じです。この方法ならば、他殺に見せ掛けて拳銃で自殺することができるんです』

 解説するようにユリックは言う。

 『部屋に落ちていた糸屑は、犯行に使われたロープの長さを調節する為に切った際に残ってしまったものでしょう。近い場所に懐中時計も落ちていましたが、あんなに大切にしていた時計を放置していたことからも理事長は死ぬつもりだったと考えられます。また、部屋の棚には洋酒がありました。犯行に使ったおもりは、中身の入った洋酒の瓶でしょう。沢山ありましたから、一つくらいなくなっても分からない。わざわざ船の上で自殺をしたのは自分の指紋の付いた拳銃を見つけられないようにするため。以上のことから、この事件の真相は理事長の自殺と断定できます』

 披露された推理に感心し唸っていたロジャース先生はコーヒーを飲み、気持ちを落ち着けてから訊きました。『だが、動機は?』と。

 『確かにその方法ならば他殺に見せ掛けて自殺することができるかもしれない。だが、その動機は? 何故他殺に見せ掛けるような面倒な真似を? まさか、口論していたマーストン先生に対する復讐ということはないだろう?』

 『これは推測に過ぎませんが、恐らく、保険金目当てではないでしょうか』

 『保険金?』

 『はい。このクラブの運営が上手く行っていないことは俺も知っています。今までの通りに運営を続けるには多大な資金が必要、ですがクラブの信用は低下しており融資してくれる人を見つけるのは難しい。クラブの運営を続ける為にはお金が必要だった。他殺や事故死ならば保険金が下りる。だから……』

 ロジャース先生もマーストン先生も、そしてエミリーも沈痛な面持ちで黙りました。やり方はともあれ、自らの命を犠牲にしてまでクラブの運営を続けようとした理事長のことを思い、何も言えなくなったのでしょう。今までよりも更に静かになったラウンジで、ユリックは『俺の推理は以上です』と一礼しました」







 というわけで、とアルマお姉さんは言った。


「眼帯君の推理した真相は、ユリックが語った内容とほぼ同じと言って良いでしょう。ソア橋のトリックを応用した自殺……流石、ホームズのファンなだけはありますね」

「ありがとう」


 僕はとりあえずお礼を述べた。

 そう、僕が見抜いた真相はユリックという人が語ったものとほぼ同じだった。


 だけど、どうしてだろう。

 何かが引っ掛かるのは。


「納得のいかない顔をしていますね、ワトソン君」


 何処からともなく取り出したトランプをシャッフルしながら、僕のホームズは訊く。


「何か、不審な点でも?」

「うん……。具体的に、何、ってわけじゃないけど、何かが引っ掛かるなって。それにさ、これで話が終わりだとしたら、アルマお姉さんが何をどう失敗したのか全然分からないままでしょ? ユリックって人に推理対決で負けたって言っても、当時のお姉さんには驚いた様子が少しもなかった。多分、ソア橋のトリックには気付いてたんじゃないの?」

「仰る通りです。当時の私はホームズを読み込む前だったのですぐに気付くことはできませんでしたが、理事長の部屋を調べ始めた時にはもうユリックが語ったような真相は可能性の一つとして考えていました」

「やっぱり? じゃあ、何に負けたの?って話になっちゃうじゃん」


 お姉さんは「この話には続きがあります」と妖しく笑った。

 けれど、その続きをすぐに話し始めることはせずに、はぐらかすように右手を頭上に掲げ、僕に綺麗な手の平を見せる。


「ところで眼帯君、今、私の右手には何もありませんね?」

「え?」

「ですが、こうやって力を込めると……にゃっ!」


 妙に可愛らしい掛け声と共に右手を振ると、どうしたことだろう、その手にはトランプのカードが一枚あった。

 絵柄は、ジョーカー。

 気取ったチョイス。


「当然これは超能力ではなく手品なのですが、トリックは分かりますか?」

「ミスディレクションとか……じゃ、ないよね?」


 だって、僕はずっとお姉さんの右の手の平を見ていたのだから。

 視線を誘導してタネを仕込む暇なんてないはずだ。


「ふふ、実はもっと簡単です。最初から手の甲側にカードを隠しておき、それを空中から取り出したように見せただけです。眼帯君からは見えないように指と指の間に挟んでいたんですよ。単純でしょう?」

「単純は単純かもしれないけど……。それがどうかしたの?」

「いえ、続きを話す前にこの手品を見せておいた方が良いと思いまして。世の怪盗キャラがよく行う手段なんですよ、これ。例えば予告状を拾ったように見せ掛けて、さもずっと予告状がそこにあったように思わせるという、ね」


 一拍置いて、お姉さんは話し始めた。

 この事件の本当の真相を。

 自らの最大の失敗を。







「……謎解きショーが終わった後で、私はユリックを誘い、デッキへと出ました。ロープと立入禁止と書いた紙で申し訳程度に封鎖されていた通路を進み、アームストロング理事長が横たわっていた、今もまだ生々しく赤い血が残る現場に立ち、私達は向かい合いました。

 『他人の前でキスをするのは恥ずかしいか、アルマ?』

 いつも通りの高圧的な冷笑を彼に対し、私もいつも通り、静かに言いました。

 『私があなたにキスをすることなんてありませんよ』

 『アルマ、約束を破るのか?』

 『守れる約束は守る主義です。今回の場合は約束を守る必要がないと判断したまでですよ。というよりも、無効です』

 私は言いました。『アームストロング理事長を殺したのは、ユリック……あなたなのですから』と」


 ああ、そうか。


 この事件は。

 真相は。


「ユリックは笑っていました。彼は嬉しい時も悲しい時も笑う人間でしたが、人を殺した後もこういう風に笑うのかと場違いにもしみじみと思ったことを覚えています。あまりにも非人間的な、性質。ならユリックと似ているという私も、誰かを殺めた後であっても平然と鶴を折っているのかもしれません。

 『……分からないよ、アルマ。俺の推理によれば理事長は自殺だ。それがどうして俺が殺したということになるんだ?』

 『分からないのならば、一つ一つ説明していきましょう。そしてあなたがどんな言い訳をするかを一つ一つ聞いていきましょう』

 夜明け前の、一番暗い空の下。私は向かい合ったユリックに指を一つ立てて見せました。

 『まず、その自殺という部分を否定しましょうか。理事長は自殺ではありません。自殺する人間、中でも計画的に自殺を企てていた人間にはありえないことがあります』

 『……聞かせてもらおうか、アルマ』

 『お聞かせするまでもない簡単なことです。ユリック、あなたは床に這い蹲るのに夢中だったせいで、財布の中を見てないでしょう? 手帳の中もです』

 『何か不自然な部分でもあったのか? 命を狙われているとか、そういう記述でも?』

 『いえ、全く。手帳には年末まで平凡な予定が並んでいましたし、財布には紙幣とカード、そして来月のオペラのチケットがあっただけです。不自然過ぎるほど、自然でした』

 私は言いました。

 『どうして自殺を考えている人間の所持品の中に、来月以降の予定を示すものがあるんですか? 自然過ぎて、不自然でしょう?』

 ユリックは笑って言い返しました。

 『そうだな、不自然だよアルマ。ただ、理事長だって馬鹿じゃないんだ。他殺に見せ掛けて死のうとしているんだから、自殺の兆候は見せないようにするのが当然だろう?』

 かもしれません、と一旦同意して私は続けました。

 『ユリック、あなたの自殺説を裏付けているのは三つです。一つ、手摺のキズの存在。二つ、部屋に落ちていた糸屑。三つ、近距離から撃たれたと思わしき傷跡。この三つが、あなたの語った自殺説を尤もらしく見せています。ですがこの三つ、全く信用ならない証拠なんですよ』」


 そうだ。

 だって、あの手品と同じように。


「ユリックが黙ったままなので私は言いました。

 『一つ目の手摺のキズですが、これはロープを利用した滑車の仕掛けがあったことの証明にはなっても、理事長が自殺だという証明にはなりません。二つ目の部屋に落ちていた糸屑。これは懐中時計もそうなのですが、ユリック、あなたが犯人だとしたら見つけた風に見せ掛けて捏造することができるでしょう? そして、三つ目。これに至ってはあなたが「ごく近距離から撃たれたものだ」と主張しているだけで、事実かどうかは全く分かりません。探偵役を務めたあなたが尤もらしく言うものだから皆さん前提として考えていらっしゃいましたが、そもそも警察でも何でもないあなたが何故そんなことが分かるのですか?』

 『探偵だから、としか言いようがないよ』

 『その演技の上手さから考えれば、探偵ではなく、怪盗でしょう? あなたは感心してしまうほど完璧に「ホームズに憧れ探偵ごっこをする少年」を演じていました。今から思えば最初にアームストロング理事長の死体を見つけた際、あなたは胸で十字を切るとごく自然に理事長の目蓋を下ろしましたよね。思い返すと溜息すら出てしまうほど見事です。あなたは死者に敬意を払うフリをして、アームストロング理事長が殺されたことを指し示す証拠の一つ――驚きに見開いた目を、その瞼を、下ろしたのですから』

 考えてみれば、そういったユリックの細かな工作はいくらでも見つかります。白い手袋を嵌めていたことも、私と張り合って推理対決を始めたことも、部屋を捜査しようと言い出したことも、ホームズの真似をしているかのように這い蹲っていたことも。全てが計算尽くでした。

 『そうだな……。今のところ、アルマの説に矛盾はないよ』

 そんな風に余裕な態度でユリックは言いました。

 『でも、でもだアルマ。俺の説が正しいかどうかは、警察が捜査を始めればすぐに分かるだろうよ。理事長の右手からはきっと硝煙反応が検出されるはずだ』

 『ええ、そうでしょうね。……だって、私達は夕食時に皆でクラッカーを鳴らしていたのですから』」


 銃撃事件があった際に警察が調べる硝煙反応は、文字通り、硝煙の反応があるかどうかを調べている。

 弾丸の火薬が爆発する際に噴出する煙の残滓があるかないかを検査する。

 だから厳密に言うと、分かるのは「拳銃を使ったかどうか」ではなく、「火薬の煙を至近距離で浴びたかどうか」でしかない。


 つまりは。

 火薬を用いたクラッカーを鳴らせば、硝煙反応は検出されてしまうのだ。


「……ユリックは、もう何も言いませんでした。言い返すことはなく、ただ黙って微笑んでいました。まるで名探偵のような高圧的な冷笑を浮かべて、無言で先を促していました。どうした、追い詰めてみせろよ、と。

 『子どもじゃあるまいし、誕生日でもないのに何故クラッカーを鳴らすのかと思っていましたが……もしかしてあれはユリック、あなたが言い出したことだったんですか? 先生方にこっそりと提案したのはあなたですか? いえ、それともたまたまクラッカーを鳴らすことになったから、今回のトリックを思い付いたのですか? まあどれでも良いですし、その辺りの細かな事情は私の知ったことではないのですが……』

 『アルマ、質問してもいいかな?』

 思い出したかのように彼は問い掛けてきました。まるで、もののついで。ついでだからこれも訊いておこうという調子で。

 『なんでしょうか』

 『お前の説が正しいとしたら、理事長を殺した俺は、どうやって現場から身を隠したんだ? ここに来た人間の順番を覚えているだろう、アルマ。最初にエミリー、次にお前とロジャース先生、次いで俺、最後にマーストン先生だ。第一発見者のフリをしていたなら分かるが、俺がここに来たのは四番目だ。部屋に戻れば、戻る途中で誰かと会ってしまうかもしれない。かと言ってこの周辺には隠れられるものはない。俺が犯人だとしたら、どうやって四番目に現場にやってきたように見せ掛けたんだ?』

 私は言いました。

 『手近な部屋に飛び込んで隠れていた、という可能性が最も常識的ですが……。あなたのことですから、ずっと通路の手摺にでもぶら下がっていたんじゃないですか? 幸い、アッパーデッキの通路は光源が足下の非常灯のみです。薄暗いですし、それに、まさか海に身体を投げ出す形で手摺に誰かがぶら下がっているなど誰も考えません。一方、ぶら下がっている側のあなたは足音や声で廊下に人がいるかどうか分かります。頃合いを見て、さも今やって来たという風に登場すれば良いだけです。身体能力の高いあなたならば可能でしょう? 事実として、研修中には一つ下の私の部屋から帰る際に懸垂のような形で自分の部屋に戻っていましたし』

 私の説はユリックの能力の高さに裏付けられたものでした。誰にも気付かれないようにトリックの準備をし、理事長を上手くデッキまで誘い出し、揺れる船の上で正確に心臓を撃ち抜き、探偵役を務めるフリをして証拠を捏造する……。ほら、かのホームズも言っていたでしょう? 『ロンドン市民は私が犯罪者でないことを感謝すべきだ』と。あのルパンも幾度となく探偵役を務めたことがあったでしょう? 探偵と犯人は表裏です。名探偵の素質があるということは、同時に、犯罪者の素質があるということ。

 そう。

 『……あなたは名探偵でもなんでもありません。ただ探偵ごっこをしていただけの、無慈悲な人殺しです』

 私の言葉に、ユリックはまた押し殺したように笑いました。いつものように、周囲を見下す冷たい笑顔を見せました」


 今思い出してみれば分かる。

 アルマお姉さんは前置きとして「これは殺人事件の話です」と言っていた。

 最初からヒントが出ていたのに、僕は気が付けなかった。

 伝聞調でも分かるほどに、ユリックの探偵役のフリは見事だった。


「僅かに白み始めた空の下でユリックは言いました。

 『俺としては、上手くやったつもりだったんだが……。推理対決は俺の負けだな、アルマ』

 彼は続けました。俺の敗因は、と。

 『……俺の敗因は、お前がワトソン役じゃなかったことだよ、アルマ。名探偵が二人いたことが俺の敗因。探偵は俺だけで良かったのにな……。アルマ、お前は間違いなく名探偵だよ』

 『ありがとうございます。では感謝のついでに、一つ質問しても良いでしょうか』

 『いいだろう。俺とお前の仲だからな、アルマ』

 『懐中時計には何が隠されていたのですか?』

 私の問いに、彼は『敵わないな』と呟き、懐に手を入れると何かを取り出しました。それは、何の変哲もないSDカードでした。

 『……これだよ。理事長が肌身離さず持っていた特注の懐中時計の中には、このチップが隠されていた。俺はこれを奪う為に理事長を殺し、懐中時計を部屋に置く為に探偵役を務めてみせたのさ。非常に残念だが俺とお前の仲でも中身については教えられない。一つの国家が転覆しかねないような不祥事の証拠かもしれないし、俺達のような天才児の能力と所在の一覧かもしれない。あるいはフランス王家の財宝の在処かもしれないな。好きに想像してくれ、アルマ。俺から言えることは、この中には、あの頭から爪先まで、あらゆる毛穴から、血と汚物を滴らせながらこの世に生まれてくる化物共を倒す鍵が入っているというだけだ』

 資本論の一節を引用し、ユリックはそう語りました。中身についてはあまり興味はありませんでしたが、それは彼の口振りから察するに主義者にとって重要なものなのでしょう。

 『……ところで、ものは相談なんだが、アルマ。俺と一緒に来る気はないか?』

 『一緒に……?』

 『そうだ、アルマ。アルマ、お前は俺が出逢った中で最も優秀な女だ。お前に、俺の隣にいて欲しい。もう一度頼むよ、アルマ。頭を下げる。俺の相棒になってくれ』

 ユリックは頭を下げました。彼が頭を垂れるなど、終ぞ見たことがありません。彼は言いました。『俺と一緒に来てくれるのなら、俺は最高の幸福を約束するよ』と。私は訊き返しました。

 『最高の幸福、ですか』

 『ああ。俺の隣は楽しいはずだぞ。少なくとも馬鹿な人間共の中で生きるより遥かに有意義で、心躍る人生が送れるだろう』

 今から思えば。それは、彼流のプロポーズだったのかもしれません。彼は真っ直ぐ私を見つめていました。らしくもなく、まるで懇願するかのように、じっと。

 ですが、私はこう返答しました。

 『……お気持ちは嬉しいですが、前と同じように、答えはノーです。私はワクワクもドキドキも、スリルもショックもサスペンスも別に求めていません。ひとりきりの部屋で、日がな一日好きな本でも読んでいれば、それで幸せなんですよ』

 どうしてもか、と彼は訊きました。どうしてもです、と私は答えました。

 『残念だよ、アルマ……。本当に残念だ……』

 ユリックは呟きました。らしくもなく、本当に悲しそうな表情で」


 その情景が浮かぶような語り口を賞賛して拍手でも送った方が良いのかと考えていると、お姉さんは続けた。


「その瞬間、ユリックは片方の手袋を脱ぎ、それを私に投げ付けてきました。受け止めて最初に抱いた感情は困惑でした。ですが、すぐに意味を悟りました。顔を上げると――ユリックがすぐ目の前に迫っていました」


 え?

 まさか。


「袖を掴もうと伸びてきた手を寸前でなんとか叩き落とすも、ほぼ同時に上段回し蹴りが私を襲いました。その二撃目もなんとか片腕で防ぎましたが、靴を履いた爪先が当たったのですから痛くないわけがありません。しかし待ってくれるわけもなく、攻防は連続して続き、一息吐けたのは一分近く経った後、やっとのことで間合いを空けた時でした。

 『当て身……。いえ、サバットですね?』

 『物知りだな、アルマ。そしてプライドが傷付いた。まさか捌き切られるとは思わなかったよ。お前は本当に優秀な女だ、アルマ』

 『なるほど。あなたはホームズではなく、ルパンだったというわけですか』

 『そうだな。だが血を見ることを嫌う怪盗紳士とは違って、ご存知の通り俺は人を殺すことに躊躇いはないよ』

 そこからの五分間は、私の人生の中で最も濃密な時間だったと言って良いでしょう。ユリックの使う柔術とサバットは護身術の域を遥かに超えていました。私が東洋の武術であるバリツを修得していなければ百回以上死んでいたでしょう。彼の戦闘技術は想像を絶するものでしたが、私は二週間の共同生活とチェスでの対局からユリックの思考パターンを読んでいたので、どうにか対応することができました。いえ、できていました。

 何度目かの交錯の後、私はユリックの腕を取ることに成功し背中の方に捻り上げる形で関節を極めました。ですがユリックは迷いなく極められた肩の関節を犠牲にし、振り向きざまにいつの間にか取り出したナイフで私の肩、鎖骨の上の辺りを斬り裂きました。凍てつくような夜の中でそこだけが火傷しそうなほどに熱かったことを覚えています。幸いにして傷は大動脈には達しておらず、すぐに死に至るということはありませんでしたが、致命的なことに腱が切れたのでしょう、右手に力を込めることができなくなっていました。

 『決まったな、アルマ。お前の負けだ』

 ユリックは外れた肩を直しながら勝利を宣言し、そして続けました。

 『ついでに教えてやろう、アルマ。ラウンジで俺が淹れ、お前だけが飲まなかったコーヒー……あの中には致死性の毒が入っていた』

 嘘だ、と思いました。この状況で他の人間を殺す意味がありません。ただのハッタリ。それは分かっていたのですが、万が一ということがあります。万が一ユリックの言う通りに毒が入っていたら。万が一に今からすぐに戻れば誰か一人だけでも助けられるとしたら。そう考えてしまうと、走り出さずにはいられませんでした。

 『……お前はやっぱり名探偵だよ、アルマ。俺なら間違いなく見捨てる』

 背中にそんな言葉が投げかけられました。続けて聞こえた『さようなら』という一言は、もしかしたら気のせいだったかもしれません」







 私の失敗談は以上です、とアルマお姉さんは微笑んだ。

 だけど、ここで以上って言われたって、聴衆としては困ってしまう。

 僕は訊いた。


「質問してもいい?」

「構いませんよ」

「他の人達はどうなったの?」

「私の予想通り、毒は入っていませんでした。ただ睡眠薬が入っていたらしく、ラウンジで全員眠っていました。全員の無事を確認してデッキに戻った時には既に、ユリックは消えていました」

「消えていましたって……。船の上でしょ?」

「船の上とは言っても、岸までは数十キロです。別の船やヘリコプターといった迎えが来ていた可能性もありますし、ひょっとしたら港に到着するまで何処かに隠れていて、捜査のどさくさに紛れて逃げたのかもしれません。失血で意識を失った私が目覚めた時には彼の姿は何処にもありませんでした。部屋にあるはずの衣服などが入った鞄もなくなっていたそうなので、理事長を殺す際のトリックに使ったおもりは自分の鞄だったのかもしれません」

「素性とかは? 分からなかったの?」

「分かりませんでしたね。ユリックは、本来研修に参加するはずだったフランス人の少年のフリをしていたんです。だから、クラブの情報からは身元を追うことはできませんでした。二週間以上も他人のフリをしているなんて……まったく、とんだ役者ですよね」


 お姉さんが言っていた通り、探偵ではなく怪盗だったというわけか。

 いや、ホームズだって変装は上手いけれど。

 珍しく、小さく自嘲するように笑ってから僕のホームズは言った。


「この事件で得たものなんて、ユリックが残していったホームズの短篇集くらいのものですよ。私は真相こそ見抜きましたが、ユリックとの直接対決で敗北し、その上にまんまと逃げられました。恥ずかしい話です。名探偵を気取って、犯人と二人きりで対峙したことが私の最大の失敗でした。今から考えてみれば、私がユリックが犯人だと気付いていたのと同時に、ユリックも私が真相を見抜いたことを気付いていたのでしょう。そうでなければコーヒーに睡眠薬を仕込んだりはしないでしょう?」

「……そうだね」

「……何か言いたいことがありそうですね、眼帯君」

「ううん、別にー? お姉さんの貴重な失敗談も聞けたことだし、そろそろ戻ろっかなー」


 誤魔化すようにそう言って、僕は立ち上がり歩き出す。

 僕のホームズとは違う推理を抱いて、お姉さんの昔の友人に思いを馳せる。


 お姉さんがユリックと一対一で対峙したのは、きっと名探偵を気取っていたからじゃなく、ユリックのことが好きだったからだ。

 恋愛感情かどうかは分からないけれど、憎からず思っていた。

 だから他人の前で犯行を暴くようなことをしたくなかった。

 自首して欲しかったんだ。

 そして、ユリックの方も言葉通りにアルマお姉さんのことが好きだった。


 だからこそ最後まで彼女のことを殺すことができず、真相を知る相手にトドメを差さずに逃げた。


「……おかしな関係」


 アルマお姉さんはユリックに負けたと思っているらしいけれど、僕から見ればこの勝負は引き分けだ。

 だって、よく言うだろう?

 恋は惚れた方の負けなんだ、って。


 それがお姉さんの話を聞いて、探偵として僕が考えた真相だった。







 二人で廊下を進み、お姉さんの病室へと向かう。

 「登場人物の名前は仮名だと言いましたが、ユリックだけは実際に『ユリック』と名乗っていたんですよ」「自分の正体を知らせる偽名を名乗るなんてふざけた人でしょう?」というようなアルマお姉さんの思い出話を聞きながら歩いていると、ふと、すれ違った顔馴染みの看護婦さんが立ち止まって言った。


「あれ、御陵さん……風邪は治ったの?」

「はい?」


 お姉さんは何のことだか分からない、という風に小首を傾げる。


「だってさっきまでマスクをしてたでしょ? 声もおかしかったし……」

「……あ、ああ、そうですね。ご心配してくださりありがとうございます。でももう治りました」

「そうなの? なら良かったけど」

「はい。ところで私が思うに、この病院のセキュリティーはもっと強化した方が良いと思います」


 何かを察した僕のホームズはそう言って、早足で歩き出す。

 ほとんど走るような速度で廊下の角を曲がって、緊張した面持ちで自分の病室の扉を開けた。

 室内は、僕達が出て行った時とほとんど変わっていなかった。

 ある一点を除いては。

 ベッドの上、枕元に置かれた名刺大のカードを除いては。


「……やれやれですね。どうやら、彼、生きているようです。まさか私に変装して病院までやってくるとは思いませんでしたが……」


 アルマお姉さんはそう言って、僕にその紙を見せた。

 英語か何かの文章が筆記体で書かれているけれど、僕には読めない。


「英語? なんて書いてあるの?」

「いえ、フランス語ですよ。『俺のアルマへ。本を返してもらいに来たが、どうせだから本よりも欲しいものを持っていく。趣味が変わってないようで安心した。お前のユリックより』と、そんな風なことが書いてあります」


 説明しながら、お姉さんは収納棚の一番下の引き出しを開ける。

 その中身を確認した瞬間、なんとも言えない妙な表情をした。

 まるで呆れたような、でも何処か嬉しそうな。

 アルマお姉さんは言った。


「……相変わらずどうしようもない女好きのようですね、彼は。これではルパンというより金田一少年でしょうに」

「って……何が盗まれたの?」

「決まっています」


 SDカードの中身よりも頻繁に彼が見たがっていたものですよ、なんて風に僕のホームズは笑った。

 どうやらアルマお姉さんのルパンは未だに負けっぱなしのようだった。


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