第5話 名探偵は二人 問題編



参考:アーサー・コナン・ドイル原作『シャーロック・ホームズの事件簿(原題:The Case-Book of Sherlock Holmes)』より、『ソア橋(原題:The Problem of Thor Bridge)』

   及び、モーリス・ルブラン原作『特捜班ビクトール(原題:Victor, de la brigade mondaine)』





 キッカケは僕の何気ない一言だった。


「きっとアルマお姉さんは、負けたことがないというわけはないだろうけど、失敗したことなんてないんだろうね」


 万能の天才。

 そんな言葉が相応しい、僕が知る限りにおいて最高の安楽椅子探偵。

 何処かの名家の長女として生まれ、一度も校内に入ったこともないままにアメリカの大学を卒業(勿論飛び級だ)し、今のマイブームは四色問題という彼女。

 この精神病院から一歩も出ないまま数多くの事件を解決してきた僕のホームズ。


 そんな御陵あるまは、ナポレオンの辞書に「不可能」という文字がないのと同じように、「失敗」という言葉とは無縁だと思っていた。


「夢を壊すようで悪いのですが、そんなことはありませんよ」


 僕のホームズは、いつものように穏やかに微笑んで言った。

 灰に近い色合いの青い目を細めて。


「私は人より少しばかり上等な頭を持っていますが、別に神様のような名探偵ではありませんので、何でも分かってつまらない、とまではいきません。あのホームズでさえ失敗談があるくらいですから、私にだって本当にうんざりするくらいに恥ずかしい思い出は幾つかあります」

「そうなの?」


 なんだかんだ言いつつも、流石のお姉さんも人間なのだから小さな失敗の一つや二つあるだろうとは僕も思ってはいた。

 むしろちょっとした欠陥や苦手分野がある方が身近に感じられるから、何か少しくらいはあって欲しいと思っていた。

 けれど、本当にうんざりするくらいに恥ずかしい、とまで表現するような失敗談がお姉さんにあるとは、考えてもみなかった。

 正直に言って信じられない。


 「『失敗』という言葉とは無縁」は大袈裟だったけど、でもやはりアルマお姉さんは僕のホームズ。

 そうそう失敗するなんて思えないのだ。


「アルマお姉さんの失敗なんてイメージできないんだけど……。例えば、どんな風に失敗したの?」

「『うんざりするくらい恥ずかしい』と言っていることをあえて訊くなんて、眼帯君は天然のSですねえ」

「そういうわけじゃないけど……」


 第一、そんなこと言いながらもお姉さんはまるで恥ずかしそうじゃないし。


「そうですね……。では、私が眼帯君くらいの頃、小学校を卒業したすぐ後くらいの失敗と敗北の思い出でも話しましょうか」

「本当?」

「はい。今日は天気も良く暖かいですし、屋上でゆっくりしつつ昔話をするのも良いでしょう。少し刺激的な話でもあるので、人に聞かれないようにという意味も込めて」


 そんな風にして、彼女の思い出話は始まった。

 ワトソンである僕と出会うずっと前の、ホームズの失敗談。


 それはある一人の少年に、彼女が完膚なきまでに敗北したというお話だった。







「……彼とは、もう長らく会っていませんね。ですがきっと今日もこの空の続く場所で探偵遊びをしているでしょう、なんてロマンチックに言っても良いのですが、彼のことですからとっくの昔に何処かで野垂れ死んでいるかもしれません。その一方で、彼が死ぬなんて想像もできない、どうせなんだかんだあっても飄々と好きに生きているだろう、という思いも私の中に歴然としてあります。そんな風に私の正直な感想を述べてみれば、彼のイメージは伝わるでしょうか。

 私の失敗談を語る上では、彼の具体的な人物像より、彼と出逢った背景を説明した方が分かりやすいでしょうね。ここではリンネさんの作法に従い、仮名を用いましょう。彼、改め、『ユリック』と。私がユリックと出逢ったのはもう何年も前、小学校を卒業してすぐのことです」


 暖かな日差しに目を細めながら、お姉さんは話し始めた。


「その時の私は紆余曲折があり、ある研修に参加することになっていました。そうですね、メンサのような組織が主催だと考えてください」

「メンサって?」

「高IQ団体というやつですよ。優れた知能指数の人間しか入れない非営利団体です。私が言う組織はもう少し俗っぽくて、単純な知能指数で会員を決定しているのではなく、様々な分野で社会的地位のある人間の寄り合いなので少し違うような気がしますが……。同友会、あるいは秘密結社としても良いかもしれません。分かりにくいので、今は便宜的に『クラブ』としておきましょう。とにかく、クラブは時折会員の息子や娘を集め、研修兼交流を行っていたのです。具体的に言えば、経営者の子や財閥の跡継ぎ等、ですね。そんな成功者の子達の研修に何故か私も参加することになりまして……。この辺りは説明し始めるとキリがありませんから、なまじ歴史や名誉のある家に生まれるとそういうことがある、という風に簡単に理解して欲しいです。

 その研修にはクラブの会員の子ども達が参加していました。当時はクラブ幹部による会費の使い込み等があったらしく、クラブの運営は苦しく信用も低下している状態でしたが、それでもクラブの会員は世界各国に存在しましたので当然子ども達の国籍や人種は様々でした。外人さんばかりだった、と思っていてください。その時の参加メンバーは確か……十人程度でしたね」

「よく分からないんだけど、」


 アルマお姉さんの話を遮って、僕は手を上げる。

 どうぞ、と促され、僕は訊いた。


「それって、修学旅行みたいなもの? 子どもだけなの?」

「はい、子ども達だけの研修です。子ども十人プラス、引率兼講師の方が数人。修学旅行としては勉強の時間が多いですが、そう思うと分かりやすいかもしれません。クラブは秘匿性が高い組織で、それもあって、その時の研修では『参加者は身分を明かさない』という決まりがありました。厳密には明かしても良いのですが、本当のことを言う必要がない。嘘を吐く訓練と嘘を見抜く訓練を兼ねているんですね。私は正直に『あるま』と名乗りましたが、見ての通りダークブラウンの髪に青い瞳という日本人離れした容姿ですし、そもそも私の名前は欠片も日本人的ではないので、参加者の中には私を地中海辺りの日系人じゃないかと考えている人が多かったようです。まあ、青い瞳に黒っぽい髪ならそうなりますよね。ちなみに研修は二週間ほどで、その内容は講義と討議の繰り返しでした。新自由主義はベターか否か、資本主義の問題点とその解決方法、というような内容が主です」


 一拍置いてからお姉さんは続けた。


「話がちっとも前に進みませんが、とりあえず私が訳の分からない団体の妙な研修に参加させられた、ということだけを理解して頂ければ構いません。最初に述べたユリックも参加者の一人でした。自称フランス電力の大株主の息子で、年相応のやんちゃさと大人顔負けの俐発さを併せ持つ少年でした。当時のユリックは少し化粧でもすれば女子に見えるであろう可愛らしい顔立ちをしていましたが、まあ、生きていれば今頃は美青年になっているでしょうね。綺麗な金色の瞳と、癖のある栗毛を人差し指でくるくると弄ぶ癖が印象的で、私のことを最初は『ブリュネット』と呼んでいましたね。すぐに呼び捨てになりましたが。研修に参加していた十人はそれぞれ優秀な人達でしたが、その中でもユリックは単純なテストの成績も運動神経も論理的思考力も知識量も間違いなくトップでした。私も優秀でしたが、彼に敵うものはあまりなかった気がします」

「なんだか小説の中の名探偵みたいだね」

「そうですね。マンガやアニメにいそうな天才、まさに名探偵、といった感じの少年でした。欠点があるとすれば、呆れ果てるくらいの女好きという点でしょうか。よく私はスカートを捲られました。茶化す目的で捲り上げるのではなく、今日の下着の色は何かな~程度のノリでごく自然に捲ってくるのですから困った人ですよ。流石に胸やお尻を触られた時には抵抗したのですが、ユリックは幼い頃から柔術を嗜んでいるとかで大人しく制裁を受けてはくれませんでした。最終的にいつも殴りましたけど」


 ざまあみろ、というのが正直な感想だった。

 お姉さんに対してセクハラなんて許されることではないのだ。


「どうしましょうか、最初に主な登場人物を紹介しておきましょうか。参加者の中で、私が仲良くしていた相手にはユリックの他にもう一人、女の子がいました。名前は……そうですね、では『エミリー』としておきましょう。ユリックとは二人きり、夜通しでチェスやチェッカーをするような仲でしたが、」

「ちょっと待って!!!」


 思わずそう叫んでいた。

 穏やかな昼下がりの屋上に僕の声が木霊した。


 なんでしょう?と小首を傾げるお姉さんに、僕は訊いた。


「今、夜通し、って言った? しかも、二人きり?」

「はい」

「男の人と? 一晩中?」

「……え? ああ、いえ、違いますよ。眼帯君もませていますね。ユリックとは何度か夜を共にしましたが、何もありません。私に気があったようで誘われはしましたが断ったので、別に何も」

「誘われたの!?」


 また僕は驚いて叫んでしまう。

 自分はこんなに大きな声が出せるのかと初めて知った。


「誘われましたよ。ユリックは私に気があったようだ、と言ったじゃないですか」

「それって……。どんな風に?」

「ただでさえ長い話なのにそんなことまで説明していると時間がなくなりそうですが……。別に、ありきたりな文句ですよ。『綺麗な瞳だね』『ずっと君を見つめていたい』とか、そういう。自称フランス出身でしたけど、フランスの男性は子どもの頃から皆ああなんでしょうか」

「それでお姉さんはどうしたの?」

「褒め言葉はありがたく受け取り、直接的な行為は謹んでお断りしました」

「ふーん……」


 お姉さんに手を出そうとするなんて……。

 既に僕の中で彼の印象はかなり悪くなっていた。


「続けても?」

「……うん、いいよ」


 不機嫌そうな声音になってしまった僕の返事に微笑み、アルマお姉さんは話を再開した。


「ユリックとはそういう仲でしたが、エミリーとは女の子同士なので恋の話をすることが多かったですね。宿舎の部屋は個室だったのですが、エミリーは隣でユリックは上の部屋だったので、消灯後も少し努力すればベランダから部屋に来れたんです。まあ、私の部屋は三階なので足を滑らせて落ちれば死にますが……。ユリックはやんちゃで、エミリーはおてんばで、また二人共とても運動神経が良かったので、よく部屋に来ていましたね。

 エミリーの話に戻しますね。彼女は金のショートヘアの可愛い子でしたが、初対面の方がまず注目するのは眼帯でしょう。そう、眼帯君、あなたと同じくエミリーも眼帯をしていました。色々あって右目を失明していたのです。その経緯についてはエミリーのプライバシーに配慮して、ここでは黙っておきますね。私ほどではありませんがエミリーも天才と呼べる類の少女で、特に彼女は記憶力に優れていました。忘却力に劣っている、という言い方もできるかもしれません。つまりは完全記憶能力、一度見たものを決して忘れない才能を持つ少女でした。個人的には、別に手放しで喜べる才能ではないと思うのですが、エミリーはその能力のお陰で義父と出逢うことができたので神様にとても感謝している、とよく言っていました。彼女の素性を簡単に述べますと、ある国際的企業の社長に拾われ、その会社の幹部になる為に育てられた孤児です。私の友達についての紹介はこれくらいで良いでしょう。

 引率兼講師として大人が何人かいたのですが、ここでは失敗談に関係のある三人を紹介しておきましょう。一人目はクラブの理事長です。この方は『アームストロング』さんとしましょう。アームストロング理事長は初老の男性で、そうですね、イギリス紳士をイメージして頂ければ大体の雰囲気は掴めるでしょう。オーバーコートに禿頭、ステッキと、まるでホームズやルパンの挿絵に出てきそうな男性です。腕時計すら付けずに特注の懐中時計を肌身離さず持ち歩いているのですから、もし日本にいたらかなりの変人ですよ。尤も天才なんて大抵の場合において変人ですがね。アームストロング理事長は子ども達には非常に優しかったのですが、先に述べたクラブの運営が怪しいという責任を取り、近々理事職を下りるだろう、という話がありました。私達に親切だったのは、こういった子ども達を集めた研修は最後になるかもしれないと考えていたからかもしれません。

 二人目は研修の主な指導者でもあった……『マーストン』、マーストン先生です。四十才くらいの中年男性で、こちらは普通のスーツを着ていました。眼鏡を掛け、少し猫背で、イメージとしては大学教授、でしょうか。実際に何処かの大学の客員教授をしておられるそうで、無論、彼も非常に優れた方でした。ただ研究者気質とでも言いますか、神経質なところがある人で、先のクラブの運営に関してアームストロング理事長と言い争いをしているところが目撃されたりもしていました。一応補足しておくと、マーストン先生もそこそこに偉い人ですよ。ただ別に悪い人ではないのですが小心者のきらいもあり、事なかれ主義的な性格でもあったと思います。そうなったのは学生時代、無実の罪で警察に痛い目に遭ったからだそうで、事なかれ主義と同時に警察嫌いでした。

 三人目は、それでは『ロジャース』先生で。ロジャース先生はまだ二十代の若い先生です。要するに大人達の中では一番下っ端なのですが、私達子どもからは人気でした。リンネさんを体育会系にした感じ、という表現がしっくり来ますね。大学時代はアメフトをやっていたそうで、筋骨隆々といった身体付きをしており、窮屈そうにスーツを着ていたのをよく覚えています。身長はリンネさんより少し高く、百九十くらいでしょうか、それくらいの上背がありましたが不思議と威圧感はなく、親しみやすく優しい方でした。また端正な顔立ちでもあり、エミリーは好みのタイプだと言っていましたね。

 主な登場人物は、この五人に私を加えた六人です」


 ここで一旦、お姉さんは話を止めた。

 僕に登場人物を理解する時間をくれたのだろう。


「友達はユリックとエミリー、理事長さんがアームストロングさん、あとマーストン先生とロジャース先生、だね。分かった」

「なら結構です。話を続けましょう。本当に長い話なので、休憩が欲しい時は遠慮なく言ってくださいね。質問は随時受け付けます」


 そんな風に断って、改めて僕のホームズは話し始めた。


「事件が起こったのは研修の最終日でした。それは、」

「え、ちょっと待ってよ、お姉さん」

「なんですか、眼帯君。いつでも質問して良いとは言いましたが、いきなり話を腰を折られると流石に……」

「今お姉さんがしてる話って、何かの事件に関することなの?」

「はい。殺人事件の話ですが……。言ってませんでしたか?」

「殺人事件って……。初耳なんだけど……」


 刺激的な話、とは言っていたけれど、殺人事件の話だとは思いもしなかった。

 お姉さんは何を失敗したのだろう?

 まあ、最初にホームズの話に触れていたから、予想は付くけれど。


「さて、話を戻しますね。研修の最後のプログラム、言わば打ち上げとして、洋上で日の出を見る、というものがあったんです。夕方に出発し、朝の早くに日の出を見て、港に戻り解散、というような。アームストロング理事長所有の百フィートを超えるプレジャーボートで……メガヨットとも呼ばれる、日本ではまずお目に掛かれないようなちょっとした旅客船のような大きさの船です。なので、ヨットを想像するよりもフェリーを想像した方が近いと思います。実際に十人全員が小さいながら個室で寝泊まりできるようなサイズでしたから。

 寒い日で、海は荒れており、時折船が揺れることがありました。そういったことに加え、次の日は五時起きということもあり、夕食が終わった九時以降は自由時間だったのですが部屋に戻る人が多かったですね。その日の夕食は研修の打ち上げパーティーも兼ねていて、誕生日会のように皆でクラッカーを鳴らし乾杯しケーキを食べ楽しんだので、特に子ども達ははしゃぎ疲れたのかもしれませんね。私は地下にあったラウンジでエミリーとユリックと研修の思い出話をし、十一時には解散して部屋に戻りました。なんとなしに十二時前に一人で船内を見て回ったのですが、ラウンジでマーストン先生がお酒を飲んでおられたくらいで、他には誰もいなかったと思います。その先生も、君も早く寝るように、と言って部屋に戻られました。

 冬の夜中で寒かったですし、船内も客船のように明るいわけではなく、アッパーデッキの通路に至っては光源がほぼ足下の非常灯くらいでしたから、好き好んで歩き回る人はいなくて当然でしょうね。全体的に薄暗かったのでロマンチックと言えなくもありませんでしたが……それはまあ、恋人同士の場合だけでしょう。

 事件は洋上、そんな船の中で起こります」


 当時の冷たく、薄暗い雰囲気を醸し出すかのように、お姉さんは声を潜める。

 深夜の空、真っ暗な海。


 こんな風に言うと不謹慎だろうけど、ミステリ好きとしてはワクワクするようなシチュエーションだ。


「その始まりを告げたのは、深夜二時前に船内に響き渡った銃声でした。部屋にいた私は、気のせいかな?と思いました。ですが、ちょうど眠れず困っていたところだったので、読んでいた本の内容が一段落したところで見に行ってみることにしました。音の大きさ的にデッキの方だろうと考え、階段を上り掛けたその時、女性の悲鳴が聞こえました。今度は聞き間違いではなく、はっきりと。

 すぐにそれがエミリーのものだと分かった私は走り出しました。途中で同じく異変に気が付いたらしいロジャース先生と会い、一緒に声の聞こえた方向、船尾の甲板に向かいました。

 デッキに着いた私達が見たものは気を失い倒れているエミリーでした。その理由はすぐに分かりました。その露天甲板の中央付近に、胸を撃ち抜かれたアームストロング理事長が倒れていたからです。一目で死んでいると分かる量の血を流して、両目をカッと見開いて。エミリーは『一旦見たものを決して忘れられない』という能力を持っているせいで血を極端に恐れていました。活発な彼女は恐らく、最初の物音ですぐにデッキに上がり、そこで事切れた理事長を見て気を失ったのです。

 ロジャース先生は少し悩んだようですが、遠目に見てもアームストロング理事長は死んでいると分かったからでしょう、私に『すぐ戻るから何もするな』と言ってエミリーを船内に寝かせに行きました。理事長は間違いなく死んでいる様子でしたが、私は一応、脈だけは確かめようと仰向けに倒れる彼に近付きました。

  『アルマ。調査をするつもりなら手袋を着けろよ』

 後ろから声を掛けてきたのはユリックでした。そういうつもりはありませんよ、と私は否定しましたが、ユリックは予備の手袋を渡してきました。ユリックはいつも白い手袋を付けているのです。本当に探偵のようでしょう? そう言えば、ユリックと仲良くなったキッカケの一つは彼がシャーロック・ホームズシリーズを薦めてくれたことでしたね。それまでは第一作である緋色の研究しか読んだことがなかったのですが、他の話も面白いからと短篇集の一つを貸してくれたんです。研修期間中に時間を見つけて読み進めると、確かに面白い。その時ばかりは私もユリックに正直にお礼を言ったものです。

 話が逸れましたね、閑話休題しましょう。さて、一応脈を取ってみたわけですが、残念ながら、やはり理事長は既に帰らぬ人となっていました。そこでマーストン先生も到着し、すっかり酔いから覚めた様子で私達に問い掛けました。『これは、どういうことだ?』と。

  『どういうことかは俺達にも分かりませんが、一つだけ言えるのは理事長が亡くなられたということです』

 胸で十字を切り、物言わぬ姿となったアームストロング理事長の目蓋を下ろして、ユリックが言いました。彼は私と同じように冷静でした。少なくとも困惑するばかりのマーストン先生よりは遥かに落ち着いていたと言えます。淡々と『断定はできないが、傷跡から見る限りは理事長はごく近くから撃たれたようだ』なんて言ってましたから。彼は私に向かって『俺達は双子のようにそっくりだ』と言ったことがあります。私は否定しましたが、もしかしたら彼も私も天性の名探偵気質なのかもしれません。極限状態にあっても思考力を損なわず行動できるという、ある種、とても非人間的な性質の持ち主という点で、私達は似ていました。

 戻ってきたロジャース先生はマーストン先生と相談し、警察に通報し今すぐ近くの港に向かうことと、理事長の遺体を他の子ども達の目に触れないように船内の一室に移動させることに決めました。本来であれば、警察が到着するまで現場は保存しておくべきでしょう。ですが、そこは船の上です。放っておいたとしても、波に揺られた拍子に移動してしまうでしょうし、何よりこの寒空の下に理事長をそのままにしておく、なんてことはできませんでした。

 私はそんな相談をする先生達を後目に、遺体の周りをぐるりと、デッキの手摺に沿うようにして一周しました。手摺には、ある一点、ちょうど理事長が倒れている場所の真横に位置する部分に小さなキズが付いた所がありました。途中から一緒に見て回っていたユリックが拡大鏡を貸してくれましたが、生憎と私はホームズのような名探偵ではなかったので拡大して見たところで分かりません。何か物が当たってできたものだとは思うものの、そのキズが事件と関係あるかどうかは分かりませんでした。

 やがて船尾部のデッキは先生方によって封鎖され、先生方が再び相談を行う間、私達二人はラウンジで待機を命じられました。後で聞いた話ですが、その時の相談の内容は『他の子ども達を起こすか否か』ということだったそうです。船は三時間ほどで近くの港に着く予定ですが、その前に今眠っている誰かが起きて血の跡や遺体を見てしまうかもしれません。説明もなくそんなものを目にしてしまえば誰だって混乱するでしょう? だから全員起こして事態を説明するべきだ、という意見と、ショッキングな出来事だから知らないなら知らないままの方が良い、という意見が出て対立していたそうです。

 ……ではここまでで、何か質問はありますか?」


 唐突にそう問われた僕は、語られた内容をゆっくりと頭の中で反芻する。

 船の上で起こった深夜の殺人事件。

 被害者は理事長のおじいちゃん。


 とりあえず訊くべきことは、


「船は薄暗かったらしいけど、どれくらい暗かったの?」

「そうですね……。伝えるのが難しいですが、夜中とはいえ、灯りはありましたから、人が立っているのもそれが誰かも分かる程度、でしょうか。街灯に照らされた夜道と同じで、細部が見えにくいくらい、ですかね」

「凶器はデッキにはなかったの?」

「はい。実は銃や薬莢が落ちていないかどうかを確認する意味で私は理事長の周りを歩き回ったのですが、見つかりませんでした。余談ですが、これは日本の話ではないので、個人が銃を携帯していることも十分ありえる、と考えてください」


 じゃあ、アメリカか何処かの話なんだろうか?

 あまり手掛かりになりそうもないけれど。


「他にも質問したいことはあるけど、最後まで聞いてからにするよ」

「分かりました。では話を続けましょう。

 先生方が討論をする一方で、ラウンジの私達は黙っていました。ただ考えている内容は同じでした。アームストロング理事長の身に何が起こったのか、です。ユリックは、彼らしからぬ静かな口調で言いました。

  『アルマ。何か気付いたことはあるかい?』

 私は答えました。

  『脈を取った時にはまだ体温が残っていました。恐らくアームストロング理事長は殺されて数分と経っていないでしょう』

  『そうか。俺が見た限りでは、即死だと思う。かなりの至近距離で正面から撃たれたようだから犯人は親しい人物だね』

  『そもそもこの船には理事長と親しい人物しかいないでしょうに』

 確かにそうだ、とユリックは笑い、そして続けました。

  『なあ、アルマ。少し、考えてみないか?』

  『……何をですか?』

  『この事件の真相について、だよ』

  『考えてみないかも何も、既に考えているでしょう。あなたも、私も』

  『その通りだ。じゃあ提案をこう変えよう。……アルマ。俺のワトソンにならないか?』

 つまり、彼はこの事件を捜査するから協力して欲しいと、そう言っていたわけです。ただ私は眼帯君のように素直でも、リンネさんのようにお人好しでもありません。はっきりと『あなたの相棒なんてお断りします』と告げました。彼は、つれない奴だな、とまた笑い、そうして言いました。

  『なら、勝負ってことになるな。お前が俺に協力せず、けれど推理を続けるのなら……。理事長には悪いが、これは勝負だよ。どちらが先に真相に辿り着くかの、ね。チェスやチェッカーで負け越している借りも返したかったことだしちょうどいい』

 私はあまり乗り気ではなかったのですが、続けて彼に『ひょっとして負けるのが怖いのか、アルマ? なんだかんだ言いつつお前も女だな、可愛い奴だ』等と言われるとと挑発とは分かっていても乗るしかありませんでした。正直負ける気はしませんでしたし。『私があなたのような童貞に負けるなんてありえないでしょう?』と返すと、ユリックは怒りに拳を握り締めながら口端を歪め笑いました。彼は楽しい時も腹を立てている時も笑う人間でした。

  『ほう? なら、唇くらいは賭けられるんだろうね、アルマ?』

  『私が負けたらキスをしろ、と?』

  『そうだ、不満かいアルマ? その代わり、もし俺が負けたら今貸している「シャーロック・ホームズの冒険」はお前にくれてやる』

 乙女の唇と本一冊、普通に考えれば到底釣り合いませんが、実はその時貸りていた単行本は当時のイギリスで出版された初版本だったんです。当然、ホームズ好きなユリックの大切な物でもあります。悪くない勝負だと思った私は、『良いでしょう』と答えました。

 こうして私達は、理事長の死の悲しみに暮れることもなく、愚かにも推理対決をすることになったのです」


 まるで漫画のようなやり取りだと思った。

 二人の名探偵による推理対決。


 にわかには信じられない。

 ひょっとして、話を盛っているんじゃないだろうか?


「……それ、作り話じゃないよね?」

「何を言いますか。登場人物名は多少変えていますが、内容はほぼ事実ですよ」


 だとしたらアルマお姉さん、どれだけ自信家だというんだろう。

 自身の純潔を躊躇いなく賭けるなんて……。

 お姉さんはユリックという人を尊大な天才という風に語っているけれど、お姉さん自身も相当なものだ。


「質問がないようなら続けましょう」

「……ところでさ。お姉さんが結局キスしたのかどうかって、」


 そう、一番気になっていたことを訊こうとするも、当然その質問は認められなかった。


「それは勿論、最後まで聞いてのお楽しみです」

「そっか……」


 このまま最後まで聞きたいような、聞きたくないような。


 僕のホームズなら負けるわけはないと思いつつも、一方で『失敗談』なのだからもしかして、という予想もあって。

 心の中はぐちゃぐちゃで、胸が苦しい。

 僕の心情など知らないようで、お姉さんは淡々と話を再開する。


「私は目を閉じ考え始めました。一つ一つの要素を検討し、分からない部分は想像で補いつつ、それらをパズルのように組み合わせて『真相』という絵を描こうと。この時、私がどんな推理をしていたかはあえて言わないでおきます。ただ失敗談を語るのでは私が恥ずかしいだけですので、当時の私やユリックと同じくらいの年齢の眼帯君にも、当時の私達と同じように推理をして頂きましょうか」

「……昔のお姉さんと知恵比べ、ってわけ?」

「その通りです。私は、当時の私が得ていた情報を正確に伝えているつもりです。眼帯君に名探偵の素質があるならば、真相に辿り着けるかもしれません」


 口振りから察するに、当時のアルマお姉さんは、あるいは当時のユリックは真相に辿り着いたのだろう。

 どちらが真実を見抜いたのかは分からんけど、少なくともどちらかは謎を解いた。

 十三才の、小さな名探偵として。


「動機から考えると明らかにマーストンっていう先生が怪しいのは、つまり、当時のアルマお姉さんが知っていた動機らしきものがそれだけってこと?」

「はい、その通りです。なので当然、他の方もアームストロング理事長を恨んでいたかもしれませんし、ひょっとしたら当時の私の知らない第三者の犯行かもしれません」

「え、外部犯の可能性もあるの?」


 無論です、とお姉さんは続けた。


「強調しておきますが、これは現実に私の過去に起こった出来事です。登場していない第三者が犯人という結末は御法度、といった推理小説のルールは適応されません。ホームズの推理論にもあるでしょう? 『When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.』です。不愉快で不満な真実であったとしても、全ての不可能を消去した結果だとしたら、それは一応の結論です」

「…………ちなみに、この時点で当時のアルマお姉さんは真相に辿り着いていたの?」

「さて、どう思いますか?」


 いたずらっぽく微笑んで、彼女はまた語り始める。

 まだ僕のホームズではなかった頃の話を。







「しばらく私達は二人で黙って考え込んでいたのですが、ぽつりとユリックが呟きました。『ホームズならきっと被害者の部屋を調べるだろう』と。しかし、私達はホームズのような顧問探偵ではありません。天才と持て囃されてるとは言っても、まだ子ども。理事長の部屋を調べたい、と申し出たところで断られるに決まっていました。

 けれど、やはり似ているのでしょうかね。私達はほぼ同時に同じアイディアを思い付きました。それは、小心者で警察嫌いなマーストン先生を『このまま港に着けば、理事長と口論していたところを目撃されていた間違いなくあなたは逮捕される』と脅し、次いで『私達が真犯人を突き止めるから理事長の個室に入れてくれないか?』と頼んではどうか、というものでした。幸いにして、もうその頃にはマーストン先生とロジャース先生の話し合いは『他の子ども達は起こさない』という結論に終わっており、ロジャース先生は操舵を行いつつ気を失ったままのエミリーの介抱を、マーストン先生は現場の監視をしていました。

 私達のアイディアは驚くほど上手く行きました。警察のことに触れると先生はあからさまに顔色を悪くし、しばらく逡巡こそしましたが、結局は五分という制限付きながらアームストロング理事長の個室に入れてくれました。私達が研修中のテストで常に一位と二位という好成績を修めていたのが大きかったでしょうね。私達二人が本物の天才だということは周知の事実でしたから。

 マスターキーは操舵室にしかないので、先生は客室の一つに寝かされていた今は亡きアームストロング理事長の懐から鍵を取り出して扉を開けました。部屋の構造は向かって左側にベッド、正面には備え付けのデスクと椅子、右側には壁と一体化した戸棚、そして中央には小さな木製のダイニングテーブルと二つのチェア、といった風でした。ベッドの脇には鞄が、入り口のすぐ傍にはゴミ箱が置いてありましたね。私はまずゴミ箱の中に何も入っていないことを確認すると、ベッドを観察しました。シーツに乱れがないことを確認し、次は一通り棚を眺めました。本やトロフィー、額縁に入った写真、数種類の洋酒が並んでいるだけで、特におかしなところはありませんでした。埃でも積もっていれば使われたかどうかが分かったでしょうが、理事長のマメな性格を象徴するように戸棚は綺麗に掃除されていました。さて、一方でユリックが何をしていたかと言えば、またホームズの真似事をしていました。具体的に言うと床に四つん這いになり、テーブルの周りと真下を丹念に調べていました。ホームズと同じく名探偵であるポアロはホームズのやり方を『地べたを這いずり回る猟犬のような捜査』と表現していましたが、なるほど実際に見ると確かに犬のようでした。邪魔なユリックを蹴飛ばしてやろうか等と考えつつ、次いで私はデスクの上を調べることにしました。備え付けの電気スタンド以外には財布と手帳しかない、殺風景な作業机です。見るからに高級そうな革の財布の中には紙幣と硬貨、領収書、小切手やカードといった有り触れたものしかありませんでした。来月のオペラのチケットがある辺りは伊達に紳士の格好をしていないと言ったところでしょう。手帳の方もこれといった収穫はなかったですね。こちらも高そうではありましたが、中身はただの予定の走り書きばかりでした。スケジュール欄はその年の終わりまでだったので、本来ならばそろそろ買い替え時だなと、そんなことを私は思っていました。

 そこで視線を感じてふと下を見ると、ユリックが私の足下に這い蹲り、こちらを見上げていました。『何か手掛かりは見つかりましたか?』と問い掛けると、彼は質問に応えることなく、

  『胸のボリュームは乏しいが、やはり良い身体をしているな、アルマ』

 などと宣ったので、とりあえず蹴り飛ばしておきました。本当に推理勝負をするつもりがあるのだろうか、と呆れていると『見てくれアルマ』という声が聞こえました。屈み込み、デスクの下を見るとユリックが理事長の懐中時計を見せてきました。

  『死体を検分した時に見つからなかったので何処に行ったんだと思っていたが、ここにあったよ。いや、見て欲しいのはこれじゃない。こっちだ』

 ユリックは自信たっぷりの笑みを浮かべ、絨毯のある一点、ちょうど椅子に座った際に足が置かれる辺りを指差しました。薄暗くて分かりにくかったものの、そこには僅かな量ですが、糸屑が落ちていました。

 入り口に立っていたマーストン先生から声が掛かったのはその時でした。そろそろ満足したか、という先生の問い。どう答えようか私は迷いました。部屋は一応全体を見たものの、ベッド脇の鞄はまだ調べていなかったからです。しかし、私が延長を申し出る前にユリックが言いました。

  『ありがとうございました。もう結構です、先生』

 そうして彼は高圧的な冷笑を浮かべ、囁きました。『約束は守れよ、アルマ』と。それは紛れもない、彼の勝利宣言でした」







 ふう、と語り終えたお姉さんは一息吐いた。

 次いであの、穏やかながら何処か嘲るような微笑を浮かべて言った。


「問題編はこれでおしまいです。ここから先は推理小説にありがちな、登場人物を全て集めての探偵の謎解き披露の時間でした。なので、その前に眼帯君の答えを聞きましょう」

「……分かった。必要な情報はもう、全部出たんだよね?」

「はい。あの瞬間の私が得ていた情報は全て開示したつもりです」


 そして、僕のホームズは今日も言うのだ。


「では眼帯君、今日のホームズからワトソン君への問題。いえ、もしかしたらホームズの素質があるかもしれない眼帯君への問題です。ズバリ、この事件の真相はどういうものでしょうか?」


 洋上で起こった事件。

 理事長の謎の死。


 でも、もうそれは『未解決の謎』じゃない。

 だって、もう全部分かってる。


 そう――今日は、僕が“探偵役(ホームズ)”なんだから。


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