第三章 第2話 過労

「もう十時か。結構遅くなっちまった。まだいるかな?」

「大丈夫でしょ。あの二人、ほぼ住んでるようなもんだし」

 みのりと二人、又川バベルのエレベーターに乗り込む。

「な、なんだよ」

 みのりが俺の右手を握ってきた。

「寒いんだもん」

「七月だぞ」

 その右手を握り返す。

 エレベーターはあっという間に三階に到着し、自動的にドアが開く。

 ドアの前には、よく見慣れたガイジンさん二人が立っていた。

「あっ! 桜梨子さん!」「と、ライチ!」

 慌てて握っていた手を離す。

 さぞやからかわれ、怒られるだろう。と思ったのだが。

「ああ。二人ちょうど良かった。今連絡しようと思っていたところだったんだ」

 様子がおかしい。いつも微笑みを絶やさない桜梨子さんが口を真一文字に結び、ライチに至っては今にも泣き出しそうに眉を八の字に歪めている。

「ど、ど、どうされたんですか?」

「道すがら話すよ。とにかくこのままエレベーターで降りよう」

 桜梨子さんとライチはエレベーターに乗り込み、『1』と書かれたボタンを点灯させた。

 エレベーターは降下を開始、体に浮き上がるような感覚が走る。

「どうしたってんだよライチ」

 小さなアタマにポンと手を置いてやる。すると。彼女の右の頬に細い川が伝った。

「ライチ!?」

「た……たかねさんが」

 俺の腰に抱きつき、涙をズボンで拭った。


 われわれが到着したのは病院。待合室には俺たち以外にも十人程度の若い男女が待機していた。貴音さんの会社の後輩だろうか。みな一様に沈痛な面持ちで黙り込んでいる。

 家族と思われる方はいない。そういえば兄弟はおらず両親は失くされているという話を聞いたことがあったような気がする。

「貴音さんって慕われてるんですね」

 みのりが呟くが誰も答えを返すことができない。

 ――エラく長い時間そうしていたように感じたが、実際の時間は三十分ぐらいだっただろうか。

 治療室の方から看護士の女性がこちらに歩いてきた。

 桜梨子さんが床を大きな音で踏み鳴らして立ち上がる。

「た、貴音さんは――!?」

 息を飲む音が何重奏にもなって聞こえた。

「状態は――」


 ストレス性の急性胃腸炎。胃に大きな穴が空いている状態。一応の小康状態とはなったが、依然として意識不明。

 という説明を受けた。

「ねえ。どう思う……? 大丈夫かな……?」

 桜梨子さんが目に涙を貯めながらライチに尋ねる。

「ライチにきかれても……」

 溜息をつきつつも、スマートホンの文字によりコメントを出す。

『ストレス性胃腸炎で意識不明というのは、ゼロじゃないけどあまり聞いたことない。正直キケンな状態だと思う』

 それを聞かされたところでどうすればいいのだろう。

 俺たちにできることなどなにもない。


 桜梨子さんは「夜遅くに付き合わせてごめん」と謝罪をして、俺とみのりをタクシーに乗せてくれた。

「やっぱり、サンデイナイトの経営悪化が影響してるのかな。そのせいで忙しいってだけじゃなくて精神的にも――」

 さきほどからみのりがペラペラと間断なく舌をまわしている。俺に気を使ってくれているということは理解できるのだが、どうしてもイラだちを覚えてしまう。

「ちょっと静かにしてくんねえか」

「――!? あっ、あっ、ご、ごめんなさい!」

 罪悪感とイラつきと。いろんな感情が胸でぐちゃぐちゃになる。

 タクシーが赤信号で停車した。

「なあ。思ったんだけどさ」

 自分でも驚くほど暗い声が出てしまった。みのりが困惑に泳いだ瞳で俺の横顔を覗く。

「俺たちのブッコロセラピーに。イミなんかなかったんだな。あんなことじゃあ人は癒せない!」

 自分の膝頭を強く握りしめる。

「あんなにアタマが良くて人間できた人が死ぬくらいまでストレスを感じなきゃいけない社会って一体なんだ? あの人でもああなら、俺みたいなボンクラが社会に出たらどうなちまうんだろうな」

 ――沈黙。重苦しい雰囲気がのしかかる。

 先に口を開いたのはみのりだった。

「ねえ。言わないよね」

 なにをだ。と問う。

「コロセラ辞めるなんて」

 俺は異常に低い声で「言う」と回答した。

「だってイミがねえじゃねえか。あんな仕事。誰も救えない」

「そ、そんなことないよ! コロセラで救われる人だっているよ! ホラ!」

 ムリヤリに笑顔を作り、自分を指さして見せる。

「例えば! ホラ! 私! 私さ! 前より可愛くなったと思わない? コロセラのおかげ、ってゆうかテツヒトのおかげだよ!」

「俺のおかげなんかじゃねえよ。おまえが変わったのは、自分自身の強さだろ」

 てゆうか前の方が良かったと俺は思うぞ。などと無意味な言葉を付け足してしまった。

「第一さ! 貴音さんは大丈夫だよ! こんなことで死ぬようなタマじゃないって!」

「ほお。俺の母親も昔同じことを言っていたよ」

 みのりはハッと息を飲む。

 それからアッアッアッ! などと嗚咽の声を漏らし始めた。

 マンガやアニメの女の子が泣いてるのと違ってちっとも可愛いなんて思えない。

「わたしは……キミのちからになりたいのに……」

 震えた声。それに対して俺の口から出てきた答えは――

「おまえに出来ることなんてなんにもあるか!」

 というものだった。ゲームじゃあるまいし一度吐いた言葉を、後悔したからと言って回収することはできない。

「なにそれ! ひっど! ムカツク! キミが悲しいのはわかるけど、私だって悲しいんだからね!」

 赤信号で停止したタクシーの車内に脅威の音量のクリアな声が響いた。

 運転手がバックミラー越しにこちらを怪訝な目で見ている。

「うるせえなあ! 汚ねえブス声でわめくな! 大根野郎!」

「――!? テツヒトなんか大っっっっっっっっっっっっ嫌い! 死んじまえバァカ!」

 みのりはタクシーのドアを勝手に開くと道路に飛び降りた。そのまま進行方向の反対に猛牛のような勢いで駆け出す。

「お、お客さん!? 大丈夫なんですか!?」

 運転手が困惑の声を上げる。俺はそれを無視した。

(大丈夫なわけないだろ。なに聞いてたんだバカ)

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