第二章 第4話 いじめかっこわるい
六月十二日の火曜日。この日は学校帰りにバイトに行くというパターンであった。
但し。学校でなにがあったかは一切記憶にない。
大変な事件があった日だからそれもムリなしと言える。
記憶しているのは双子又川駅から又川バベルに向かうみちのりからだ。
「次は……『この腐れ脳味噌の野蛮人! 内臓見せやがれ!』 だったかな?」
俺はあたかも不審者であるかのようにブツブツと独り言を言いながら歩いていた。
「あっ違った。『この薄らハゲの千葉県民! 内臓腐らすぞ!』か。 ううむ! ファック! 覚えらンねえ!」
結局。例のCM撮影に出演するのは俺に決定した。
主演男優は双子又川駅からコロセラまで、必死に『台本』を覚えながら歩いていく。
こういう暗記科目は得意なはずなのだが、なかなか記憶することができない。
「えーと。『マヨラーでマザーファッカ―の北海道民』――」
ちなみに台本を作成したのはライチだ。彼女の罵倒セリフのセンスは注目に値する。
「そんで……ここどこだよテメエこの野郎!」
台本ばかりに集中して足もとが完全にお留守になっていた。
周りを見渡すといつもの川沿いの道とはまるで違う景色が広がっている。どうやら出る改札口自体を間違えてしまったらしい。
ときどき自分のポンコツぶりに本気でうんざりすることがある。
とぼとぼと下を向いて歩いていたら。
(おっと)
前から歩いてきた女子高生二人組と正面衝突しそうになった。ギリギリでサイドステップしてことなきを得る。
(危ない危ない。今はイケメン以外は肩がふれただけで痴漢になる時代だからな)
それにしても今の制服、どこかで見たことがあるような。
――というかこの辺りを歩いているのはこの制服を着ている女の子ばかりだ。
なぜ? と一瞬不思議に思ったがすぐに不思議でもなんでもないことに気がついた。
(こんなところに学校があったのね)
どこのお城だよと言いたくなるようなアーチ型の門におしゃれな赤いレンガ造りの校舎。いかにも金持ち学校という雰囲気だ。我が校の全てがドブネズミ色で統一された校舎とはエラい違いである。
石でできた銘板には『又川女子高等学校』と彫られていた。
(ん……? 又川女子って確か鈴村の学校だよな。そうかどこかで見たことのある制服だと思ったら鈴村の制服と一緒だからか)
――待てよ。
俺はハタと立ち止まり携帯電話を取り出した。この間教えてもらった鈴村の電話番号を呼び出す。
(まだ学校にいたりしないかな)
もしいてくれれば会社に連れて行ってもらうことができる。今日は鈴村も出勤の予定だし調度良いだろう。俺は通話ボタンをプッシュした。メールのやりとりは結構するが電話をするのは初めてなので一ミリだけ緊張する。
五回くらい呼び出し音がなって電話は繫がった。
「もしもし。突然スマン。三上だけど。今たまたまおまえの学校の近くに来ててさ」
そのように言葉を発した。しかし。返答が帰って来ない。なぜだか後ろの方で女の笑い声のようなものがうっすらと聞こえる。
「もしもーし。こちらクソメガネダサモサJKの鈴村みのりちゃんの番号でよろしかったですか?」
すると今度ははっきりと聞こえた。おそらく女数人の笑い声。あまり感じのよくない下品な笑い声だ。鈴村の声では絶対にない。
「なんだぁ? 番号間違えて登録したか?」
(どうする――)
(学校の近くにいるんだよね? 面白そうだからこっちに呼んで――)
(金持ってるかも――)
というような会話がうっすらと聞こえたような気がした。次の瞬間。
「いやー間違ってないよー。こちらクソメガネキモブスJK鈴村さんの携帯でーす」
女の甲高い声が電話越しに俺の鼓膜を揺らした。
後ろでは相変わらずゲラゲラという汚い笑い声が聞こえる。
「なんだおまえ。鈴村の友達か?」
「うん。とっても仲良しなのぉ」
媚びたような鼻にかかった声で答えた。はっきり言ってぶん殴りたくなるような声だ。
「あんた。鈴村の彼氏でしょ? だったら迎えに来なよ。ウラグチのほうから入ってぇ、すぐ左にある体育倉庫。そこにいるからさ。今なら見張りいないと思うし」
鼓動が速まり同時に背筋も凍る。凄まじくイヤな予感がする。
「わかった。今から行く」
そう言って電話を切ろうとした刹那。
「来ちゃダメええええぇぇぇえ!」という叫び声が聞こえた。
(この声は――!)
そのまま電話は切れてしまった。
(そんなこと言われたら! 行くに決まってるだろバカ野郎!)
鉄製の裏門にはカギがかかっていた。
とはいえ。背はけっこう低く、別にてっぺんに有刺鉄線が張り巡らされているわけでもない。俺は開閉用の手摺に足をかけて軽々とそいつを飛び越えた。
普通に逮捕されかねない事案である。
(見つかったらおしまいだ慎重に……)
「あー見て見てーあそこー」
「あれ? 男の子がいるー?」
「ホントだーどうしようー今日私あんまりメイクとかしてない」
見つかった……! 実に早かった!
「ねえどうしたのー? 迷い込んじゃったの?」
「せんせえに見つかると怒られるよぉ」
「でもせっかくだからミルクホールでお茶でもするぅ?」
(こいつらどんだけ脳味噌お花畑なんだ! お嬢様ってこんなもんなのか?)
とはいえ友好的に接してくれるのはありがたい。
「悪いんだが、ゆっくり茶ァシバいてる時間はねえ! 体育倉庫ってどっちだ!?」
キャー! しゃべったー! とのことである。女子高のお嬢様にとって男とは珍獣扱いなのだろうか。
「向こうだよー」
「でも不良さんがたまり場にしてるから行かない方がいいかもー」
「その不良を倒しに来たんだよ! ありがとう!」
お嬢様がたに背中を向けて再び駆けだす。
キャー! かっこいい! 決めた! 私! 彼のBL小説書く!
などという声が聞こえた。まだ掘られるよりは掘るほうでお願いしたい。
荒い息をつきながら体育倉庫の扉を開く。
ホコリと汗の混じった臭い、ここの汚さだけはウチの学校と変わらない。
「え~!? こいつの彼氏がこんなヤンキーなのー!?」
「クソメガネしたオタク野郎かと思った~」
「でもちょっとイケてるじゃん。ムカつくねー」
下品なギャルメイクの女が三人、跳び箱の上に座って煙草を吸っている。
真ん中に目付きの悪い金髪ショートカットの女、左側には黒い髪をアタマの上で巻グソのよう巻いた奴、右側に座る女はバカ長い茶髪にチリチリパーマを当てていた。
鈴村はというと。
「今どきこんなベタなことを……昭和のスケベマンガか?」
縄跳びで全身を亀甲縛りにされてマットに転がっていた。口には猿ぐつわがされている。
「アンタが喜ぶかなーと思って」
「ねえねえ普段どんなプレイしてんの?」
「童貞だバカ。いいからそいつを返せ」
奴らはゲラゲラと笑った。不快極まりない音波が反響する。
「じゃあお金ちょぉだぁい」
真ん中に座る金髪女が、媚びた発声でそのようにホザいた。更なるイライラが募る。
「てめえら家金持ちなんじゃねえのか? 金なんかいらないだろう」
「えーだって足りないもんねー」
「服とか買ってるとねえ」
俺はポケットからサイフを取り出し、無言でリーダー格らしい金髪女に投げつけた。
「えーっ!? 財布ごとー!?」
「太っ腹―!」
「いよっ! イケメン!」
などと言いながら財布の中身を改める。
鈴村が猿ぐつわ越しに「ンー! ンー!」という呻き声を上げた。
(まあ安心しろって鈴村)
女たちの表情がドンドン険しいものになっていく。
「なにコレ……」
金髪が先ほどまでのキンキンした声とは違う、低く濁った声で呟いた。これが地声なのだろう。声フェチの俺としても聞くに堪えない。
「一円も入ってねえじゃん!」
「小銭すらない!」
俺はうるせえ黙れ! 金なんかあるか! と叫んだ。
「こちとらオカンしかいねえから、バイトした金で食費やら光熱費やら妹の学費やらなんとかしてるんじゃ! てめえの学費はかかんねえように必死で勉強して特待生をキープしながらな! 今日もバイト代を全部家計の口座に振り込んだ! 従ってサイフには一円も入ってねえ! てめえらにくれてやるお小遣いなんて一アルゼンチンペソもねえ!」
「はあ? なに自慢こいてんの?」
「てゆうか嘘くせー。全部振り込んだら今日どうやって帰るんだよ」
「そ、それはただのミスだ!」
またゲラゲラと笑う。笑いのレベルの低いヤツらだ。
「じゃあさ。その振り込んだお金おろしてきてよ」
「妹ちゃんに電話して頼んでもいいよ」
俺の怒りの導火線に火が着く。
「てめえらに払うくらいなら偽善者になってボキンでもすらあ!」
金髪女に対して中指を立てた。
「こいつから取った金を返してもらうぞ」
亀甲しばりにされている鈴村を指さす。
「よくわかったじゃん。取ったの」
胸ポケットから折りたたまれた札束とキャッシュカードが出てくる。
「でもどうするのー?」
「泣き叫んであることないこと言われたら困るでしょ?」
「ここ女子高の中だしねー。ってゆうか不法侵入?」
「やっぱりお金払うしかないんじゃないかな?」
(……いや! 妙手があるぞ!)
俺は自慢のガラパゴス携帯電話をポケットから素早く取り出し、
「ハイチーズ!」
滅多に使用しないカメラのシャッターボタンをプッシュ。ガラケー特有の無駄にバカでかいシャッター音と、えげつないほどのフラッシュが炸裂した。
「びっくりした! なに勝手に写真撮ってんだテメー!」
「いまどきガラケーなんか使ってるヒト初めてみたよ。おじいちゃんなの?」
「そうバカするもんじゃない。ガラケーだけどさカメラの性能は悪くねえんだ。ほらみろよコレ。はっきりキャッシュカードの名前が写ってる『スズムラ ミノリ』って。それにてめえらのツラと、緊縛調教されてる様子もうまいこと入った。完璧な証拠写真だな」
と携帯の画面をヤツらに見せつける。瞬間、三人は跳び箱から降りて俺を取り囲んだ。
「ねえ。携帯よこしなよ」
「まだどこにも送ってないよねー」
腰の辺りにツンツンと刃物の先が当たる感覚がある。
「まさかとは思うけど抵抗したりしないよね」
「それやったら痴漢だよ? アンタの方が重罪になるよ?」
俺の怒りの導火線がドンドン短くなっていき、
「それに。まさか彼女の前で女殴るなんて最低なことできないよね」
爆発した。
正面に立つ金髪女の額に強烈な頭突きを食らわせ、さらに間髪入れずに上手投げで床に叩きつける。次は真後ろにいるナイフ持ってる巻グソ頭だ。クルッとその場で回転してそのままの勢いで顔面に左の張り手を見舞う。吹き飛んだ彼女はバスケットボールのイレモノにすっぽりと尻を収めた。残りは一人。長い髪のパーマ女。こいつはビビって完全に腰が引けていたので腕を掴んで体操マットが積んである所にほおり出すだけで許してやった。
「ちょっ! こいつなに! クズすぎる! 女殴るとか!」
「てゆーか痴漢だし!」
金髪と巻グソナイフ女がそのようにホザく。
俺は体育倉庫の床を踏み鳴らしながら叫んだ。
「ふざけんな! 人脅して金巻き上げるようなヤツに女もへったくれもあるか! ×××埋めちまえ!」
我ながら恐ろしいほどの正論だ。言葉のセンスもよい。
ヤツらが怯むスキに鈴村を緊縛していた縄跳びをほどいた。
「ブスだから犯すのは勘弁してやる! いいか! こいつにこんど手え出したら! また殴りに来るからな! 写真もバラまく!」
鈴村の手を取り立ち上がらせる。
「さらばだテメエこの野郎! ママのおっぱいでも吸ってよく寝な!」
渋い捨て台詞を吐きながら体育倉庫のドアを乱暴に開けた。
(参ったな雨が降ってやがる。これだから梅雨は)
雨の中を駆け出す。
途中でさっきのお嬢様三人組とすれちがった。
黄色い声を上げながらこちらに手を振ってくれた。
「会社まで走っちゃったほうが良かったかな……今更だけど」
土砂降りの中を走りなんとか又川の河川敷までは辿りついた。
雨が止むまでということで高架下で雨宿りをしてるのだが。
「全然止まねえな。むしろ強くなりやがる」
まだ十七時ぐらいだと思うのだが、雨雲のせいですでに外はまっくらだ。
「あ、そうだ桜梨子さんに遅れるってメールしとかねえと」
鈴村は。先ほどから一言の言葉も発せずに体育座りで小さく丸まっている。
ぐちょぐちょに濡れた髪の毛の束をほっぺたにくっつけて、セーラー服もスカートもずぶ濡れになった姿にはあまりにも憐れっぽい。
(仕方ない。少々照れくさいが。イケメンになるとするか)
俺は通学カバンから大きめの紙袋を取り出して鈴村の横に置いた。
彼女は少しだけ目を上げてこちらを見る。
「着替えのジャージ。クソあちいもんだから、一回も着ないで持って帰ってきたヤツだ。臭かねえと思うぜ」
一応、中身の臭いを確認する。布の匂いのみ。特に問題はない。
「そんなの。もうしわけないです」
鈴村は蚊が鳴くような声で言った。
「いいから着ろって。着ないなら川にほおり投げちまうぞ」
中身を取り出して無理矢理に持たせる。
「でも。はずかしいです」
「は、反対向いてるから! 早くしろ!」
鈴村に背を向けどっかりとアグラを掻いた。
やがて。水気のある衣擦れの音が聞こえてくる。
俺は首を七十五度ほど回転させて後ろを見た。決して始めっからそうするつもりであったわけではない。そうなってしまったのだ。
(うわ……『着やせするタイプ』って本当にいるんだな……)
服を着た状態でイメージする通り、腰や腕はほっそりとして華奢だ。しかし。胸。胸の大きさ。以前抱きつかれたときに感じたあの柔らかさとボリューム感はやはり幻ではなかった。それに肌が陶器のように真っ白でツヤツヤ、黒の下着がそれをさらに強調している。メガネを外しているのも非常に新鮮だ。
(意外とパッチリした目をしてるんだな。でも涙が溜まって……)
その悲しみに溢れた瞳を見た途端、強烈な罪悪感が沸き上がり俺は前を向き直した。
「終わりました。ありがとうございます」
振り返ると鈴村はメガネをかけ直しブカブカの赤いジャージ姿でペタンと座っていた。いつもの鈴村だ。なんとなく安心してホッと息をつく。
(――さて。ちょっとお話でもしようかな)
彼女の真横に座った。イヤがるかなと思ったが特に拒否する素振りは見せない。俺はカバンに手を突っ込み、
「ホラ」
個包装されたチョコレート菓子を取り出して、小さな手に乗せてやった。
鈴村は少し驚いた様子でこちらを見る。
「意外と女子っぽいところがあるんですね」
「妹が持たせてくるんだよ」
俺も自分の分を取り出して口に運んだ。
「ホラもう一個」
チョコレートを食うたび、さっきまでくすみきっていた目に少しだけ光が戻る。
ヒロムが持たせてくれたお菓子と、同じくヒロムの名言である『女を慰めるのに言葉はいらない。糖分がいる』を思い出したおかげで少しは状況が好転したようだ。
(しかし。今回の場合は慰めてばっかりってわけにもいかねえからな)
俺はない知恵をしぼって、なんとかとっかかりの言葉を絞り出した。
「女子高って怖い所なんだな」
鈴村のチョコレートを食べる手がピタっと止まる。
「その点男子高はいいぞ。ホモはいるけど平和なもんだ。おまえもウチに転校するか?」
渾身のギャグだったがまったく笑ってくれなかった。咳払いをしてから続きを話す。
「いつもなのか?」
鈴村はしばらくの沈黙のあと震えた声で答えた。
「ちがいます」
「でも以前もほっぺたに絆創膏貼ってなかったか?」
「大したことじゃないんです!」
拳を握りしめながら叫んだ。
「なんだかんだ彼女らもお嬢様ですからね。「ほどほど」ってことを知ってますよ。キャッシュカード取っておいて、お金をいくらかおろしたあと返してきたりね! 親には絶対バレたくないっていうのもあるんでしょうね!」
まったく彼女らしくない怒りと皮肉の籠った言葉を発する。
「だから三上さんも安心して下さい! 今日のこと。だれにも言わないと思います」
自分の喉を切り裂きながらしゃべっているような痛々しい声だ。聞くに堪えない。
「そんなわけで! 大した実害はないのです! 気にしないで下さい!」
あまり得意ではないのだが、俺は鈴村と真っすぐに目を合わせた。それから。
「おまえ。それ本気で言ってるのか」
と言ってやった。
「大した実害が無ければ、あんなマネされても悔しくないって?」
鈴村は俺から目を逸らす。
「それに。ギャグだろ? アレが実害がねえって。おまえがあれだけ頑張って働いた金を掠めとられてよ」
「んんんん!?」鈴村は内臓が痛みそうな呻き声を上げた。
――そしてしばらくの沈黙の後。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あああああぁぁぁぁ!」
彼女は感情を爆発させた。
俺の胸に顔を埋める。ただでさえびしょびしょの俺のYシャツが暖かい液体でさらに濡れた。激しい嗚咽が耳に痛い。
背中を抱きしめてやりたくなったができなかった。
できたのはアタマをポンポンと叩いてやることぐらい。
「まあ。奴らに関しては。俺が撮った例の写真があるから、それで教師なりに相談すれば少しは大人しくなるかもしれねえが――」
(ちょっとエラそうになっちまうが言っておこうか)
「おまえ自身が変わらなきゃ。結局なにも変わらねえぞ」
「ハアハ……私……変わ……ハアァ……!」
嗚咽は止まったが、今度は過呼吸を起こしているようだ。
「おいおい。死ぬぞ。落ち着いてから喋れって」
ハ……ハ……ハ……。徐々に呼吸のテンポが戻って来る。
「もうしゃべっていいぞ」
「ごめんなさい。Yシャツぐちゃぐちゃに」
「いいよ別に」
俺の隣に座り直しポツリと語り出す。
「初めて会ったときのこと覚えてますか?」
もちろんはっきりと覚えている。あの河川敷で聞いた美しい声、それから振り返ったこいつを見てちょっとがっかりしたこと。
「あの時。私ね。ボイストレーニングをしてたんです。自己流の」
そういえば。声の綺麗さばかりに気がいって。なぜこいつはあんな所で大声を出していたのか? と疑問に思ったことはなかった。
「合唱部かなにかに入っているのか?」
「惜しいけど違います。あの。私がオタクなのってもうバレちゃってますよね?」
スマートホンのケースが『テニスのプリンス様』である時点でそれほど隠す気があるとも思えない。それに以前、少年ジャンクの話で盛り上がったこともあった。とはいえそれがなんの関係――
「あっ! わかった! おまえもしかして!」
「お察しの通りだと思います。私ね。声優になりたかったんです」
「やっぱり」
「それでネットで調べたり本を買ったりして勉強したんです。録音した自分の声を聞いてみたりしてね。最初はうわ! 自分の声キモチ悪っ! って思ったけど、だんだんマシになってくるのが分かってからは。楽しくて楽しくて」
そうか。こいつの綺麗な声は元々の声質というよりは努力の結果で――
「それで。高校を出たら専門学校に通って本気で声優を目指そうって思ったんです。そのために去年からバイトを始めて、先月からは先輩の紹介でコロセラに――」
ずっと思っていた。彼女みたいな引っ込み思案な子がどうしてこんなにムリして頑張って働いているのだろうかと。ようやくその疑問が解けた。
「えらいな。お嬢の癖に自分の金で行こうってところが気に入った」
「でもね。人生ってうまくいかないですよね」
鈴村はまた両手の拳を握りしめる。
「なんかねボイストレーニングを初めてから『声がブリっこでウザい』みたいなこと言われ始めちゃって」
――冗談としか俺には思えない。女ってのはわけがわからない生き物だ。
「あの人たちに目ぇつけられて。バイトしてるっていうのがバレてからはお金まで。そのせいでちっとも貯まらなくて」
鈴村の声が震える。
「それでも頑張ってたけど」
再び目から涙があふれる。
「私! もう……あああああああぁぁぁぁーーーーーーー!」
俺は腕を組んでなんと声をかけるべきか考える。
実際どれくらいの時間かはわからないが、体感としては非常に長い時間そうしていた。
その結果最初に出てきたのは「話してくれてありがとな」という言葉だった。
それを聞いた彼女はほんのちょっとだけ微笑んでくれた。
「なあ。ずうずうしいことを言うようなんだけど。こんなことを話してくれるってことはさ。いくらか俺のこと信用してくれてるってことでいいか?」
普段言わないセリフにノドの辺りがかーっと熱くなる。
鈴村は苦笑しながら回答を返した。
「三上さんが思っているよりは三上さんのこと好きだと思います。だってアナタにとってはたくさんいる友達の一人かもしれないけど私にとっては唯一の――」
「友達だと思ってくれてるのか? おまえ意外とかわいいところあるな」
「だって結構しゃべるし。メールとかも」
「わかった。わかった。仲良しだよ仲良し」
そういってアタマにポンと手を置き、
「それならさ。ちょっとだけ厳しいことも言っていいか?」
と真剣な目で鈴村の顔を覗きこんだ。
「う、うん」
俺は素早く立ち上がり、鈴村の目の前に立つと、ビシっ! と指を突き立てた。
「このゴキブリみてえな頭のバカ壺瓶底メガネ女! くたばって死ねえええええええ!」
まずは罵倒、それから本題に入る。鈴村のこの鳩が豆鉄砲喰らったような顔である。
「おまえには立派な目標があるんじゃねえか! そのために自分のチカラを磨いて、あんなインチキロシア人の元でコキ使われて! インドの幼女のパワハラに耐えて頑張って! それなのになんだそのザマは!」
鈴村が半泣きになっているが見て見ぬフリ。さらに続ける。
「あんなメスガキ共にビビってその素晴らしい努力を全て台無しにしている!」
その言葉に鈴村は肩をピクンと震わせた。
「おまえはクソ虫! クソ虫なんじゃ! ただしクソなのは能力や見た目じゃねえ! 精神! 己の目的のためにはジャマ者は全て殺す! その覚悟がないことだ! それがない奴は絶対に成功しねえ! てめえは声優になんか絶対になれない!」
すると。鈴村は歯をきしませて俺を睨んだ。初めて見る表情だ。
「お?? なんだ悔しいのか? こんなチンピラ生臭坊主にバカにされて? でも事実だろう? なんか言って見ろよてめえこの野郎! どうした言葉も出て――」
鈴村はバネが伸びあがるような勢いで立ちあがると、
「この童貞野郎!」
叫びながら俺の右頬にビンタを喰らわせた。
パーン! と銃声のような音。俺の顔面の右半分がしびれるくらいの強烈な一撃だった。
「怖い! 厳しすぎる! 『ちょっと』って言ってたのに!」
その一撃で全ての力を使い果たしたのか、地面にがっくりとヒザをついた。
「わ……悪かったよ」
うるせえハゲ! 甘ったれんな! と言おうと思ったのだが。それは俺にはムリだった。
「ねえ私さ……どうやったら強くなれる?」
地面にボタボタと水滴を落とす。
「そんな簡単に強くなんかなれるか。おまえがその声を身につけるのだって簡単なんかじゃなかっただろう?」
努めて優しい声で言いながらカバンに手を突っ込み、
「でも。きっかけならあるぞ」
中の物体を鈴村に向かってほおり投げた。
「それ。おまえがやれよ。つーかなんでそもそも逃げるんだよ。声優の稽古にも、腕試しにも、度胸つけにもこれ以上ないくらいの機会じゃねえか」
俺がヤツに投げつけたのは。CM動画の台本だった。
鈴村はそれをパラパラとめくると、両手で抱き絞めた。
「三上さんが厳しいよお……」
「バカ野郎。こんな優しいヤンキーがいるか。さっきチョコレートあげたし」
「でも私あの味よりイチゴ味のほうが好き」
「うるせえ! いいから『やる』と言え!」
「や……」
「やるか!?」
「やあ……」
「どっちだ!」
「やる!!!!!!」
その言葉を聞いた瞬間、力が抜けて尻餅をついた。
「疲れた……洒落にならんくらい」
「ごめんなさ……アレ?」
鈴村が俺の背後を指さした。
「雨。止んでますね。いつのまにか」
ケツを地面につけたまま後ろを振り返る。
「ホントだ。まだ雲はかかってるけどな」
「行きますか?」
「ああ」
会社に向かって歩き始めた。大遅刻もいいところだ。
「ねえ。三上さん」
「なんだ?」
「えーっと……その……やっぱりなんでもないです」
「なんだよ言って見ろよ」
「だ、男子高にホモがいるって本当なんですか!?!?!?!」
鈴村のアタマを引っぱたいた。
「それだけか。キサマが言いたかったことは」
「それと。ありがとうございました。助けて頂いて」
「……普通そっちが先だろうが。優先順位どうなってんだ」
「あのときの三上さん。すごくかっこよかったです」
「い、いつもかっこいいだろうがバカめ」
「いえ。私は初めてかっこいいと思いました」
ニカっと歯を見せてイタズラっぽく笑って見せた。
俺も今初めておまえが可愛いと思った。などとは言えない。
そんなセリフが言えたら童貞なんてやっていないだろう。
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