第一章 第3話 ディス・イズ・ブッコロセラピータイム

 応接室には高級感のあるクリスタル調のテーブルが置かれ、それを挟むようにして真っ赤な革を用いたソファーが設置されていた。床にはペルシャ調の絨毯、壁には美しい川とそれにかかる橋が描かれた絵画。会議室とは異なり小奇麗に整えられていた。

「遅いじゃない! 客を待たせるんじゃない! クレーマーになるわよ!」

「いやーごめんなさい貴音さん! しかし今日もおキレイで! いよっセクシークイーン! 華麗なる大和撫子!」

「……相変わらず宇宙一お世辞がヘタねえ」

 ソファーに座っていた女性が桜梨子さんを呆れた目で見上げる。

 ブラウンに染めた髪の毛をアップにして、白のカッターシャツに紺のタイトスカート姿。理知的で少々険のある雰囲気の女性だ。美人ではあるがセクシークイーンとか大和撫子という表現は当てはまらない。そもそもその二つが矛盾しているが。

「ん? 誰?」女性は右手に持った電子煙草を俺と鈴村の方に向けた。

「ああ。今日から入ったアルバイトの三上と鈴村です」

 桜梨子さんが俺たちの後ろに回り込み肩に手を乗せる。

(アレ? もう入ったことになってるのか?)

 鈴村が「宜しくお願い致します!」と深々と頭を下げる。

 それを見て俺も慌ててこうべを垂れた。

「二人とも血まみれね……まあいいけど」

「じゃあ。私たちは準備するからさ。二人は貴子さんの相手してあげて! そんじゃ!」

「えっ!?」

 俺たちが引き止める間もなく、桜梨子さんとライチはスタスタと歩き去ってしまった。

 二人してバタンと閉められたドアの前に立ち尽くす。

「……いつまでそうしてるつもり? とりあえず座ったら」

 結構な時間立ちっぱなしだったらしい。桜梨子さんが『貴音』と呼んでいた人が呆れた声で俺たちの背中に話かけてきた。二人でおずおずとソファーに腰を下ろす。

 ――そして沈黙。

 貴音さんという人は無言で電子煙草の煙をくゆらせている。こちらから話しかけようにも中学からずっと男子校なので、同年代ならともかくこんなオトナの女性に対してなにを話しかけていいやらわからない。

 俺は苦肉の策として隣に座る鈴村の脇腹をヒジでつついた。

 彼女はなにかやらしいことでもされたようにビックンと体を震わせこちらを見る。

 俺はアゴをしゃくり会話を開始するように促した。なんとか俺の意図を察したようで、

「い、いいお天気ですね。これってはっきり言って晴れですよね」と口を開いた。

「ゲホっ!」貴音さんは口から煙を吐き出して咳込む。「なにそのいかにもムリヤリ話かけましたってカンジ! ヘタか!」

「ご、ごめんなさい!」

「まったく……そんなコミュ力ないことじゃ社会に出たら通用しないわよ」

 苦々しい表情で、電子煙草の機械に入った小さい煙草のようなものを灰皿に捨てた。

「第一あなたたちは挨拶もロクにできないんだから。社長に紹介される前に自分から自己紹介ぐらいしなさい」

 二人して申し訳ありませんと頭を下げる。

「三上哲人です」

「鈴村みのりです」

「私、杉内貴音。あなたたち高校生?」

 二人同時に頷く。

 貴音さんは別の電子煙草をポーチから取り出しながら「何年産まれ?」と問うた。

「えっと俺は二〇一〇年産まれ。高二です」「私も同じです」

「そう。もうそんな年の子が社会出てくるような時代なのね」

 煙草を口に咥える。

「でもいいわね」口から少量の煙を吐き出した。「あなたたち。まだ目が死んでないわ」

 貴音さんはなにか遥か昔のことを懐かしむような遠い目をしてみせた。

「あなたたちもいつか私みたいに……いえ。あなたたちがオトナになるころには。今よりマシな世の中になってるといいわね」

 言葉の意味自体は分かるがその意図するところがわからない。

 返答に困り沈黙していると――

 さきほど会議室で鳴ったのと同じ、電話の着信音が鳴った。

「取りなさいよ。社長からでしょ?」

 貴音さんに促されて受話器を取る。

「あーモシモシー? 社長のオリコさんだけど!」

 カラっと明るい声が聞こえた。

「準備できたからさ。貴音さんにステージに来るように言っといて!」

「ステージ?」

「大丈夫大丈夫! 彼女常連だからそう言えば分かるって」

「りょうかいです。俺たちはどうすれば?」

「そうねー。会議室戻ってきて。一緒に見よう。そんじゃあねぇ」

 電話が切られる。俺は準備が出来た旨を貴音さんに伝えた。

「ようやく? まったくどれだけ待たせるんだか」

 指をポキポキと鳴らしながら、部屋を出て上階行きの階段を登っていった。

「気合入ってんなぁ」

 そうつぶやく俺を鈴村がなにか聞きたげにチラチラと見ている。

「俺たちは会議室に行けばいいって」

 聞きたかったであろうことを教えてやると、彼女は「は、はい!」と裏声を上げながら首を九十度回転させ俺から盛大に目を逸らした。

「……そんなにビビらねえでくれよ。河川敷で怒鳴ったことは謝っただろ?」

 すいません! ビビリません! と新人のサラリーマンのような角度で頭を下げる。

「それを辞めろって言ってんのに」

 全くもって絡み辛いヤツである。


 会議室は薄暗くなっており、部屋の奥の壁にはっつけられたモニターになにやら映像が表示されている。机には桜梨子さんとライチが横並びに座っていた。

「おっきたきたー。早く座って!」

 腰を下ろしながらモニターを見る。そこに映っていたものは、よくドラマなんかで見るようなごくごく普通の会社のオフィスであった。デスクが八つ並んだ『シマ』が二つ。座って働いている社員もいる。

 これはナニ? と俺が質問する前に桜梨子さんが説明を始めた。

「これは『ブッコロステージ』と言ってね」

 思わず吹き出しそうになる。この会社の下らないダジャレのセンス。キライじゃない。

「ブッコロセラピーを行うステージだよ。このビルの四階にあるんだ」

 なるほど。それでさきほど貴音さんは階段で上に上がって行ったというわけだ。

「ということは。あの働いている社員たちは――」

「うん。ブッコロイドだね」

「デスクとかPCとかプリンタとかはホンモノですか?」

 鈴村が問うと、桜梨子さんは目を細めつつ回答した。

「いい質問だね! 備品類もブッコロシリコン製だよ! 全て壊したい放題!」

「それはいいな……」思わずつぶやく。目の前にあるもんをとりあえずぶっ壊したい、というのは人間なら誰しも抱くことのある願望ではないだろうか。

「いいアイディアでしょ! それにね。さっきも言ったけど、最新型のブッコロイドは超高性能でね――」

 桜梨子さんの言葉の途中で、ライチが右手をすっと伸ばし彼女の口を塞いだ。

「モガガガガガガ!?」

 モゴモゴと口を動かす桜梨子さん。ライチはスマートホンでなにやら文字を入力し、それを目に貼りつけるがごとくのゼロ距離で見せつけた。

「ち、近すぎる……もうちょっと離して。――えーっと。うーん。まあそうか。確かに。見てのお楽しみにした方が面白いか」

 ライチはブンブンと顔を上下に振った。

「というわけで。まあモニターにご注目あれ。そろそろ貴音さん入って来ると思うから」

 しばらくの間スクリーンを注視し、ブッコロイドが働いているような動きをしている映像を見詰める。なるほど。確かにさっきこの部屋で見たものと比べて随分動きの精度が上がっているようだ。モニター越しにもそれが伝わってくる。少なくともこの映像を見ている限りにおいて、彼らがアンドロイドであるなどと思うものは存在しないであろう。

 しかしながら。彼女たちの口ぶりだとさらに何かヒミツがあるようだが……?

「あっ! 入ってきた!」

 入口から貴音さんのものと思われる茶色いアタマが現れた。

 ライチがパソコンのキーボードを叩くと、カメラが切り替わったらしく貴音さんの顔がスクリーンに大写しになる。

「やっぱキレイだなー。貴音さん。この枯れて乾いた色気がたまらん。これをほっとくとは周りの男はバカだな」

 桜梨子さんの言葉にライチも腕を組んで頷く。

(ホメてんのかそれ。俺が女なら枯れて乾いたとは言われたかないぞ。――ん?)

 そのドライエロスの貴音さんは、なぜか「おはようございます」などと小さな声で言いながら席に座った。

 俺のアタマの上に『?』マークが浮かぶ。

「なんだ? 暴れないのか?」

 さらにそのままデスクの上に書類を広げて仕事を始めたものだから、その『?』マークは十個にも二十個にもなった。

 鈴村も口をポカンと開けてスクリーンを見つめている。

「こっからだよ。こっから」

 桜梨子さんが誇らしげに腕を組んで呟く。

 やがて。貴音さんの元に一体の男性型ブッコロイドが歩み寄った。

 カメラの視点がかわり、そいつの顔が大写しになる。

 肥満、バーコードハゲ、メガネ。

 絵に描いたような『ウザイ課長』といった風情の見た目だ。

 近づいてくる課長に対して貴音さんは「おはようございます課長」と呟いた。

 驚く俺と鈴村に対して桜梨子さんが解説を加える。

「まあ強要はしないけどねえ。ブッコロセラピーでは役に入りきって演じちゃうのがオススメだよ。そのほうがゼッタイ楽しい」

 さらに。驚きはそれだけでは終わらなかった。

「おはよう。貴音くん」

 ブッコロイドが言葉を発した! 俺と鈴村は目ん玉を見開いた顔を見合わせる。

「やだー二人の驚いた顔かわいい~」

「だって、しゃ、しゃべっ!」

「あいつ! ココロがあるんすか!?」

「ハハハハハハハハ! そんなわけないでしょ! 声優さんの声を録音して流してるだけ! ぜんぜん大した技術じゃないよ!」

 どおりて無駄によい声だ。さらにセリフは続く。

「今日は体調は大丈夫かい? あまり調子がよくなさそうで――」

「あっ。よく聞いたら小安竹彦さんの声だ。すごい」鈴村がぽつりと呟いた。

「へー! よくわかったね!」

 鈴村は「しまった!」というような顔で俯いた。

(なんだ? あいつアニメオタクか? 別に隠すこたあねえのに。見た目通りだし)

「それにしてもすごい技術ですね。モニター越しとはいえ本物の人間としか思えない」

「ライチの才能ってのもあるけど。とにかく今のアンドロイド技術はすごいよ。SFみたいにその辺をアンドロイドが普通に歩いている未来もそう遠くはないかも」

「そうなっちまうと人類殲滅計画が立ち上げられそうでイヤだな」

「定番だよね」

 などと話している内にもブッコロステージの寸劇は進んでいき、

「そうなんだ。でもやっぱり顔色悪いね。もしかしてアノ日?」

 などと課長ロボットがねっとりとした声で言った。

「――! うわ! あいつキモチ悪りい!」

 思わず叫んだ。

 鈴村も思い切り眉をしかめる。桜梨子さんは手を叩いて笑っていた。

「いえ……大丈夫です」貴音さんは平然とした口調で回答した。

 課長は彼女の真後ろに立ち、

「本当に~? 肩も大分凝ってるみたいだけど」

 などとホザきながら彼女の肩を揉み始めた。

 それに歯を喰いしばって耐える貴音さんの表情がスクリーンに大写しになる。

「か、課長。大丈夫ですから」

「あ、アレぇ?」課長がおぞましい表情でニタりと笑った。

「キミ。昨日と同じ服だね。うーんいいねえ。お盛んで」

 俺の背中にぞわわわわと鳥肌が走る。

 あげくの果て。ヤツは貴音さんの首筋あたりに鼻をおしつけ匂いを嗅ぎながら、以下のようなセリフをのたまった。

「うん。やっぱり。男のイカの臭いがする。まあ業務に支障が出ない程度にね」

 課長が肩から手を離した瞬間――

「あああああああああぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 貴音さんがスピーカーの音がバリバリと割れるほどの大声で叫んだ!

 そして強烈な右の裏拳を真後ろに放つ。課長の顔面の真ん中がべっこりとヘコんだ! さらに! 目の前のデスクに飛び乗るとそこからジャンプ! 強烈な飛びヒザ蹴りをブチかました。首が吹き飛び、赤い血糊が噴き出す。

「生ゴミ野郎! こんなもんじゃすまさねえ!」

 クビを取ったくらいでは飽き足らなかったらしい。

 彼女は課長の胴体を柔道の肩車のような形で持ち上げると、素晴らしいセリフを放った。

「セクハラはなあ……。重罪なんだよ。それは顔のキモさに応じて罪状が増減する。キサマの場合は――死刑じゃあああぁぁぁぁ!」

 床にヒザを立てて課長の背骨を叩きつけた! 彼の体は真っ二つにヘシ折れる。

「どうよコレ?」桜梨子さんが俺と鈴村に問う。「お客様のニーズに応じて実際にありそうな『ハラスメント』を『ブッコロイド』が行う。そいつをブッ殺すことで最高の爽快感を味わってもらう。それが『ブッコロセラピー』」

 血まみれの貴音さんがポケットから拳銃を取り出し、死体のドタマに向かって乱射した。まるでVシネマの一シーンだ。やけに似合っていて格好良い。

「ひいい! じゅ、銃刀法……」みのりが叫び声を上げる。

「エアガンだから安心してよ。お客さんの控室にいろいろ武器も置いてあるんだ。拳銃のほかにも、鉄パイプとか、日本刀とか、釘バットとか、トンファーとかモーニングスターとかね。貴音さんはどちらかというと素手派だからあんまりつかわないけど」

 桜梨子さんは誇らしげに語った。

「よ、よくこんなことを思いつきましたね」

「なんとか。救いたくてね」

 俺の質問に桜梨子さんはなぜか少しだけ眉をハの字にして答えた。

「救う? なにをです?」

「この国をさ」

「く、国? 日本をってことですか?」

「うん。私はね。高校まではロシアにいて、大学のときに日本に留学してきたんだ。だからもちろんこの国に愛着はあるよ。いい国だと思う。でもね。やっぱり。客観的に見て。今の日本はおかしいよ」

 画面では貴音さんが甲高い悲鳴を上げる女性型ブッコロイドに対して「若いってだけでちやほやされてんじゃねー! 早く三十過ぎて死ね!」などと叫びながら強烈な右フックをお見舞いしている。

「このストレスが飽和した社会。みんな大して危機感がないみたいだけど。なんとかしないとね。滅ぶよ」

 その表情に。ゾクリと背骨が凍り付くような感覚が走った。

「ねえ。鈴村さん」

 桜梨子さんは視線を鈴村のほうに移した。

「どう思う? この光景」

「あ、あ、えーっと」鈴村はゴクリとツバを飲み込んでから震えた声で答えた。「正直、コワイです。狂気を感じます」

「ワキをびっちょびっちょに濡らすな! 不潔感の権化か!」百貫デブ体型の男に貴音さんの大外刈りが炸裂。フロアに叩きつけられた。

「だよねー。でも。これぐらいの荒療治が今の日本には必要。と私は思っている」

 本当にそうなのか。正直言って俺にはよくわからない。

「しょっちゅうトイレに行くな! モンストかアイマスかなんかをやるな!」

 メガネをかけたひょろひょろとした男を見事な一本背負いで投げ飛ばす。メガネ男の腕がスポーーンと抜けた。

「彼女の動きキレキレですね。柔道かなんかやられてたんですか?」

「元オリンピックの強化指定選手らしいよ」

「そんでイカ臭いんだよおまえ! 会社のトイレで〇〇〇〇するな! セクハラじゃ! バイオテロじゃ!」腕ひしぎ十字固めでもう片方の腕ももぎ取る。

「貴音さんって」鈴村が口を開く。「お金持ちなんですか?」

「田舎くせー顔の癖にツーブロックにするな! かりあげくんにしか見えんわ!」

「これもまたいい質問。一流企業の社員だから普通の人よりは持ってるだろうけど。そんなに特別お金持ちではないよ」

「ええっ!? じゃあこんなに豪快に壊しちゃって大丈夫なんですか!?」

「そうねー。あの暴れっぷりだと大体十万ちょいってところかな。ちょっと心配だけどまあ来月ボーナスもあるし出せない額ではないんじゃない?」

「ええっ!? それで採算合うんですか!?」

 スクリーンの中の貴音さんがデスクを高く持ち上げ、かりあげくんの上に落とした。

「それねー」桜梨子さんは頬をポリポリと掻く。「ぶっちゃけ赤字経営ではあるよ。ブッコロシリコンってのは元々安価だし、ライチがいろいろ工夫してくれるおかげで随分コストは抑えられるようになったんだけどね。新規に製造するのは数百万かかるけど、ブッコワしたあと作り直すのは十体で五万ぐらいにまで抑えた! 心臓の所にあるマシンコアさえ壊れなければ」

 それは確かに物凄い技術だとは思うが、人件費やテナント料金などモロモロ考えると、それでもなかなか黒字にはなりそうもない。

「苦しいけどこれ以上値上げはできない。普通のサラリーマンには手が出なくなったらイミがないからね」

「現状はどうやって経営モタせてるんすか?」

「ブッコロシリコンを外国のヤバイ組織に横流したり、あとはアンドロイドの技術を日本のごにょごにょな人形作ってる会社に売ったりしてる! それでも足りねーぶんは私がキャバクラで稼いだ金でどうにかしてます!」

 俺の問いにガハハハ! と豪快に笑いながら答えた。

「まあいいんだよ! 事業なんて最初は赤字が当たり前だし! まずは知ってもらわなきゃ話にもならない!」

「エンターキーをバカみたいに強く叩くな! 殺されたのか! エンターキ―に親を!」

 貴音さんはイスにパソコンのコードを巻き付けて、ちょっとしたモーニングスターのようなものを作成、それをブン回してサブカルクソ女風の女子社員の首を飛ばした。

「それに今ね。ビッグマネーを生むビッグプロジェクトが――」

「うおおおおぉぉぉぉぉ!」

 スピーカーからバリバリに音割れした雄たけび。そして。貴音さんは破壊したブッコロイドたちをポイポイと投げ捨て、佐世保バーガーのように重ねた。

「出るぞ! 貴音さんのフィニッシュホールド!」

「な、なにをしでかすつもりですか?」

 デスクを三つ積み重ね高い塔を建築。そのてっぺんに立った。天井スレスレにアタマがある。佐世保バーガーには背を向けた形である。

「まさか……!」

「いけー! 貴音さん!」

 貴音さんは上体をブリッジをするように後方に反らせて飛んだ!

「全員死ね! こんな会社潰れちまえ!!」

 バク宙、またはサッカーのオーバーヘッドキックのように空中で一回転。佐世保バーガーの上にヒザから落下した! これはいわゆるムーンサルトプレス! バーガーは空手の演武で使用された瓦が割れるがごとく、真ん中から入った亀裂が一番下まで突き抜けバラバラになった。

「フォーウ! さすが貴音さん!」

 桜梨子さんとライチは彼女に大きな拍手を送る。

 画面の向こう、動いている者はもういない。

 どうやらこれにて『ブッコロセラピー』は終了らしい。

「どう。お二人。感想は? 三上くんどうだった?」

 アゴに手を当てて必死に言葉を探すが――

「三上くん?」

「え、えーっと。すんません。なんも出てこねえ……決してなにも感じなかったわけじゃないんですけど……」

 むしろ逆だ。いろいろなものが渦巻きすぎて話すべき言葉が選択できなかった。

「そっか! いいよ! じゃー鈴村さんは?」

「ちょっと怖かったですけど面白かったです。やっている方がスカっとされるのはもちろんだと思いますが、見ているだけでもキモチがよいですね」

「見てるだけでも。なるほど。確かにその通りだ。でもその考えはなかったなァ。これはもしかするとビッグビジネスに――」

 むむむ。こいつ意外とコメント力たけえ。などと鈴村を睨み付けていると。

 ライチがたしたしと桜梨子さんの肩を叩き、それからスクリーンを指さした。

 一同、スクリーンを注視する。

「やべ……! 貴音さん動かない……!」

 桜梨子さんは部屋の奥に積まれた段ボールから救急箱を取り出し、会議室から飛び出した。


 階段を駆けあがり四階の『ブッコロステージ』に向かった。

 ドアを開いた瞬間――

(うわっ! 油くせえ!)

 部屋には赤く着色して血を模したと思われる油が、壁、床、デスクの上、さらには天井にまで付着していた。

(ストレス解消ってここまでやんなきゃなんねえものなのか?)

 俺はなにかいいようのない恐怖を感じていた。

 これをやってしまう貴音さんや、こんなことを思いつく桜梨子さんに対するものだ。

(やっぱり。別のバイト探そうかな)

「貴音さん! 大丈夫!?」

 桜梨子さんは真っ青な顔でうつ伏せになった貴音さんの背中をゆする。貴音さんは「大丈夫よ。ちょっと疲れただけ」と立ち上がった。

 ――そのときの彼女の表情。忘れることが出来ない。

 さっき応接室で見せた険のある顔とはまるで違う。少女のようにあどけない、毒の抜けきった表情だった。不思議なものだ。彼女は顔や服に血糊がべったりとついた凄惨な姿なのに。俺はそのように感じた。

「それならいいんですけど……。どうでしたか? 今回は」

「けっこう良かったわ。あのセクハラ親父新作でしょ? ムカツクわねーあいつ」

 桜梨子さんの肩を借りて立ち上がりながら、綺麗な白い歯を覗かせる。心なしか肌のツヤや血色まで良くなっているような気がする。さっきまでの枯れて乾いた感じなんかよりもよほどキレイだ。桜梨子さんも充実感に満ちた素敵な表情をしていた。

(ストレス解消――か。人のストレスを解消してやる仕事――)

 なぜか。俺の脳裏にもう随分会っていない父親のツラが浮かぶ。

「でさ。キミたち二人」桜梨子さんがこちらを振り返った「次はいつ来れる?」

「「へっ?」」

 俺と鈴村の声が重なる。

「ああ。言ってなかったか。キミたち二人ね。採用。大分早い段階で決めてたけど」

「ええっ! そんなんでいいんすか!」

「それくらいの人を見る目はあるよー。でなきゃ会社経営なんてできないし。キミたち二人はいい。超いい。能力とかそんなんは知らないけど。なんか一緒にいて楽しいもん」

 貴音さんがそれを聞いて苦笑する。

 俺と鈴村もどう反応していいやら。またもや顔を見合わせる。

「あっ、ごめん。勝手に先走っちった。キミたちにも選ぶ権利あるよね。どうですか? できればこの会社で一緒に働いて欲しいのですが」

 俺は少しだけ考えて。それからアタマを下げながら回答した。

「こちらこそ。一緒に働かせて下さい」

 桜梨子さんは貴音さんを肩に抱いたまま無言で、しかし素晴らしい笑顔で手を差し出してくれた。その手を握り返す。

 なぜか貴音さんも左手を差し出してくれたので俺も左手を伸ばした。

 それからライチもこちらに近づいてきた。

「よ……ろ……」

 人間はこんなにちいちゃい声が出せるのか、というほどの微声で歓迎の意を示してくれた。それから右手を差し出してくる。

「わりい。手えふさがってるわ。足でいいか?」

 冗談のつもりで右足をちょっと上げると、ライチはその足を掴んでブンブンと上下に揺さぶった。

「バカ! やめ……! アーーーーーーーッツ!」

 バランスを崩し転倒、ブッコロイドの死体の上に落下した。巨大なナタデココの上に倒れたようなフニっとした感触で非常に気持ちが良い。

 桜梨子さんと貴音さんはそれを見てしたたかに笑った。ライチも自分がやったクセに両手で口を抑えて肩を震わせている。

(ムカツクけど……キモチいいからまあいっか)

「鈴村さんはどうする?」と桜梨子さんが問う。

「え、あ、その、えーと……」

「迷ってる?」

「は、はい。その、こんな大変な仕事できるかなと思っちゃって」

「そっか。まあすぐに回答くれなくてもいいよ。一晩ゆっくり考えて――」

「やりゃァいいじゃん」

 俺は足で反動をつけて起き上がった。

「おまえ今日有能だっただろう。ちょっと俺が危機感を覚えるくらいに。いい質問したりナイスなコメントを出したり。ビジネスマナーってヤツも知ってたしな。たぶんこの仕事向いて――えっ!?」

 なんと。鈴村は両の瞳からボロボロと大粒の涙を流し始めた。

「お、おい! どうした! 俺なんか気に障ること言ったか!?」

「ぅぐ……すいません……。産まれて初めて人に褒められたから脳がバグったみたいで……」

 オトナ二人は再び大爆笑。ライチも手で口を抑えている。

(変なヤツ~~! 俺の天使の超清楚黒髪美声美少女はどこに行きやがった!)

 桜梨子さんはひとしきり笑ったのち鈴村に尋ねた。

「どうする? 同期のヤンキーはああ言ってくれてるけど」

「わ、私もやります! 宜しくお願い致します」

 ちょっと長くなったが、これが全ての始まり。忘れられない夏が始まった。

 実際には晩春から早秋にかけての話だが……俺の中ではサマーストーリーなのだ!

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