その後の関係


 六月二十六日は火曜日で、朝から快晴だった。


 いつもどおり八時に登校すると、村上杏はすでに教室にいた。


 メガネごしに文庫本を読みふける姿に変わったところは見当たらない。

 その姿を見ていると、昨日の部室で起こったことはすべて俺の妄想だったのではないかという気分にもなってくる。


「誤解しないでほしいんですが」


 俺が朝の挨拶をするよりも早く、村上が言った。


 本で顔を隠しているせいで、声もこもっている。


「わたしは石井くんに好意があるからあんなことをしたわけではありませんよ」

「わかっている」

「本当にわかってるんですか?」

「そう言われると自信はない」


 村上の言う「あんなこと」とは演劇部の部室で起こったことについてだろう。

 あれはもちろん村上の宣言通り、俺を焚きつける目的もあったには違いない。


 だが、それだけだとも思えなかった。


「石井くんは言ってみればトロフィーなんですよ」

「トロフィーというのは、あの勝負事に勝ったときにもらえるもののことか?」

「そうです。小森さんの次にあなたと付き合う女性は、必然的に小森さんよりも優れていることの証明になります」

「……その理屈はおかしくないだろうか」

「いいえ。見方によっては、石井くんが小森さんを捨ててまで選んだ女性ということになりますから、証明としては十分です」

「俺が小森にフラれたという解釈にはならないのか?」


 契約の解消は小森が言い出した。

 事実に近いのは、俺がフラれたというほうだろう。


「そのあたりは噂話でどうとでもなります。当然ですが、女子の情報操作は常に多数派が有利なんですよ」

「小森がそれほど同性に嫌われているようには見えないが」

「表立って嫌いと言わないだけで、嫉妬されないわけではありません。小森さんはあのとおり綺麗ですからね。近くにいるだけで劣等感を刺激される人もいます」


 村上が言ったことをそのまま受け取るのであれば、昨日の行動は小森よりも優れていると証明するためだったのだろうか。


 仮にそうだとしても、ここまで正直に話す必要はない。


 そういう点で、村上は悪人にはなりきれていない。


「わたしがあなたに契約を持ちかけたのもそのためです。浮気をして秘密を作れば、簡単に優越感が味わえますからね。結構いやな女ですよ、わたしは」


 本人は文庫本の下でニヒルな笑みを浮かべているつもりだろうが、俺には強がっているようにしか見えなかった。


「なので、これから小森さんとの関係がどうなるとしても気をつけてください」

「覚えておく」


 あるいは、村上がこんな話をしたことは昨日の延長線にあると受け取ることもできる。

 恋愛というのは打算をもってやるものだと、あらためて教えてくれているのかもしれない。


「そうだ、部室の鍵を返しておく。ありがとう。おかげで助かった」

「机に置いておいてください。なんにせよ思ったよりも行動が早くてなによりです」


 俺が彼女の机に鍵を置くと、村上はようやく文庫本の影から顔を見せた。


「それで、小森さんとはどうなったんですか?」

「話はした。が、だからどうということもない」


 昨日もあの後すぐ別れたし、具体的になにがどう変わったわけでもない。


 しかしあの会話は俺たちが契約を解消するために必要なことだった。

 今はそう思っている。


「そうだ、村上。俺も誤解をといておきたい」


 昨日は自分のことでいっぱいいっぱいだった。

 けれど、冷静になってみると俺は村上に対してひどいことをしたように思う。


「俺は村上に好意を持っている」

「は、はい?」


 意表を突かれたのか村上の声が裏返っていた。


「言っていることは現実的で正しい。容姿だって、小森に劣っていないと俺は思う」

「褒め殺しですか。やめてください」


 村上が恥ずかしそうに視線をそらす。


「だけど、俺はまだ恋愛に憧れている。きっと過度な期待をしているんだ」


 昨日のことではっきりした。

 俺はまだ憧れを捨てられていない。


 そしてそれは目の前にいる村上も同じだと思う。

 でなければ、わざわざ幻想だなんて口にしない。


 昨日村上が俺に向かって言った言葉は、自分自身に言い聞かせるという面もあったのだろう。


「恋愛というのはもっと時間をかけて、段階を踏んで、お互いのことをずっと好きになり続けていくものなんだと思う。俺は一生に一度だけ、この人と決めた女性と添い遂げたい」


 それが現実的ではないのはわかっている。


 村上が教えてくれたとおり、男女がつながるのは簡単だし別れるのも簡単だ。


 一度きりなんて考え方は非現実的で忌避されるものなのかもしれない。

 俺自身もそのことはわかっている。


 だが仮にそうだとしても、今はまだこの憧れを捨てられない。


 それが間違っていないと信じられる。


「石井くんは子どもですね」

「そうだな」

「でも、そういうの嫌いじゃないです」


 文庫本を閉じた村上は恥ずかしそうに笑った。


 その笑顔を綺麗だと感じる。


 それは昨日のような単純な欲情よりも、肯定的に受け止められる感情だった。





 昼休みに薄暗い階段で食事を取るのはもう日常の一部になっている。


「毎日のように食べていて気づいたんだが、もしかしてメロンパンとラムネは合わないんじゃないだろうか」

「一般的には聞かない組み合わせではあるな」

「やばいな。そろそろ自分をごまかせなくなってきた。しかも今日もメロンパンを買ってきちゃったよ」

「後悔してるのか?」

「自分の行動で後悔できるのは自分だけの特権だぞ。それに、後悔はしてない。かわいいあの子のために努力するのは、男子高校生としては実にマトモだ」


 高倉は今日もメロンパンにかぶりつき、それをラムネで流し込んでいる。

 その光景を見ているとなんだか面白い。


「ありがとう、高倉」

「なんだ急に」

「この契約関係について感謝している」


 これまでの人生で、友人が一度もできなかったわけではない。


 それでも高倉は異質だ。

 はっきりとした自分の哲学があり、それを隠さない。

 正しいかどうかはともかく、展開される持論も面白いと感じる。


 そして年下の恋人のために奔走している姿には、尊敬の念を抱く。


「こうして昼食を取るのが楽しくなった」

「ひとり飯はやっぱり寂しいか?」

「一人でも不足はしない。だが二人で食べるのは違った楽しみがあると思う」

「そういう言い回し、相変わらずだな」

「数日で人格が変わったりはしないだろう」


 あるとすれば、忘れていた部分を思い出すくらいだ。


「ニセモノだからちょうどいいんだよ」


 メロンパンをかじる高倉は、そこで一度言葉を切る。

 いつもの長口上が始まる前触れだった。


「これが普通の友達だったらどうだ。お互いのことを知ろうとしちゃうだろ」

「それが問題なのか?」

「大問題だ。もしもお前が家でモモンガを飼っているようなら、おれは明日にでも絶縁状を突きつける」

「モモンガが苦手なのか」

「ほとんどの動物が苦手だが、これはたとえ話だ。人間ってのは不思議なもんで、関わる相手に対してそれなりのイメージを勝手に作る。いわゆる偏見ってやつだ。たとえば、おれの部屋に大きなクマのぬいぐるみとかあったらイメージと違うだろ?」

「そうだな。カエルのイメージだ」

「いや、ぬいぐるみ自体がないよ。しかもなんだ、カエルって。まぁいいや」


 俺も話を聞きながら、定食を食べ進める。


「イメージと違うと、がっかりする。その点、おれたちはお互いのことをほとんど知らない。知ろうともしないからがっかりすることもないって寸法だ」

「そうだな。だが、メロンパンを愛していることは知っている」

「ま、そうか。おれもお前が巨乳好きなことは知っているぞ。いや、それは大概の男子が知ってるか」


 なんのことを言っているのか、一瞬わからない。


 おにぎりを飲み込む頃になって、ようやく小森との関係を言ってるのだと気づいた。


「小森とのことを言うのは契約違反だぞ」

「おっと、悪い。とにかく、わかりあってないくらいがちょうどいいって話がしたかったんだよ」


 ニセモノの友達だから、わかりあわずとも良い。

 その意見は面白いと思う。


 しばらく考えて、俺は右手を出した。


「握手しよう。友達同士ではあまりやらないだろうが、今後の友好な契約関係を願って」

「……石井ってホント変なやつだな。ま、それでこそか」


 ぼやきながらも高倉は握手に応じた。




 人と会う用事があったので、俺は昼食を終えるとすぐ高倉とは別れて渡り廊下に向かった。


「やぁやぁ、石井くん」


 掲示された壁新聞の前では、満面の笑みで吉野先輩が手を振っている。


 以前とは違いこの人が見かけほど単純な人ではないことを知っているため、どうしても身構えてしまう。


「どうしたの、石井くんからあたしに会いたいなんて初めてじゃない? 愛の告白?」

「いえ、確認しておきたいことがありまして」

「ふーん、恨み節じゃないんだ?」

「たしかにあの後は色々と大変でしたが、それで先輩を恨むのは筋違いでしょう」


 契約とはいえ浮気をしていたのは事実だった。

 吉野先輩の考察についても、文句を言うことはできない。


「でも訊きたいことはその件についてです。あの土曜日、先輩は最初から小森に聞かせるために話したんじゃないですか?」

「ふーん、どうしてそう思うの?」

「あの日の先輩はどうも不自然でした。脅迫状の件について追求をしたのは自分ですが、そこから校内新聞の一件まで話を発展させたのは先輩です。口調も妙に露悪的でした」

「前にも言ったでしょ。あたし、難しい言葉は苦手なの。もっと優しい言葉で話してって」

「では、わざとらしかったと言い換えます」

「演劇部を捕まえて、演技が下手って言いたいの? 石井くんは中々大胆だね」

「失礼があったならお詫びします。とにかく先輩はわざと恋愛に対する価値観を、悪意混じりに説明したように思います」


 もちろんウソだったとは言わない。

 小森を失望させるために吉野先輩が理由をでっち上げたわけではないのだろう。


 小森は理想主義者だった。


 本人は巧妙に隠しているつもりだったようだが、俺にさえバレている。

 付き合いの長い吉野先輩が知っていても不思議ではない。


「夢見がちな後輩に冷や水ぶっかけたかった、っていうのはなくもないかもね」


 毛先を指に巻きつけながら吉野先輩は言った。


「だってあの子、クールなフリしてすごく純粋なんだもの。あんな目で期待されたら、あたしだって本当のこと言えないじゃない? 今の彼氏とケンカなんか一回もしたことがないって言うしかなかった。でもそういうの、疲れるし」

「俺はそうじゃないと思います。先輩は小森を試したんじゃないですか?」


 理想のカップルを演じるのに疲れた、なんて言い訳にしか聞こえない。


「小森の恋愛に対する考え方はたしかに現実的ではありません。ただ幻想を無邪気に信じるのと、それが現実的には難しいのだと知った上でそれでも信じるのとでは意味が大きく違います」


 吉野先輩の言葉は間違っていない。


 世の中には人の好意を利用した悪事もある。

 見せかけの幻想に騙されることもあるだろう。


 吉野先輩はそれを防ぐために、嫌われ役を演じてでも小森に現実を叩きつけたのではないだろうか。


「石井くんは優しいんだね。あたしはさ、優しい人間の一番の欠点っていうのは、自分以外の人間も自分と同じくらい優しいって信じてるところだと思うんだよね」


 吉野先輩はつまらなさそうに言った。


「あのときあたしが言ったのはウソでも大げさでもないよ。運命の相手とか、一生に一度の恋愛なんて、重いし現実的じゃない。あたしの考えの方がフツーだと思ってる。それに、春菜の考え方は残酷だよ」

「残酷ですか?」

「うん。春菜は純粋でいい子だと思う。だけど純粋っていうのは、それだけ人に対して厳しいってことでもあるんだよ。自分以外のものを受け入れないからこそ、混じりっ気のない純粋さを保てるんだからね」


 たしかに小森は自分に対しても、他者に対しても厳格なところがある。


「どんなことでもやり直しちゃいけないなんて考え方、あたしは怖いよ」


 吉野先輩はごまかすような笑みを浮かべる。


「王子さまとヒロインが苦難を乗り越えて結ばれた。でも私生活では食べ物の好みが合わなかったかもしれない。どっちかが相手に暴力を振るうかもしれない。他に好きな人ができるかもしれない。そういうときに別れるのって、そんなに悪いこと?」

「いいえ」

「正しいと思ってしたことが、後々間違いだと気づくときもあるでしょう? でもあの子はそれを認めない。その潔癖さは、いつかあの子の首を絞める」

「さっき先輩は俺のことを優しいと言いましたが、聞いているかぎりだと先輩のほうが優しいように感じます」


 小森の身を案じているようにしか聞こえない。


 残酷だと言うなら、小森に幻想を信じるように頼み込んだ俺のほうがよほど傲慢で残酷だ。


「違うよ。あの子の純粋さが、あたしにとってはつらいってだけ。今回の一件で、軽蔑されちゃっただろうしね」

「そんなことはないんじゃないですか? 俺が気づいたくらいですから、小森だって先輩の厚意に気づいていると思います」

「だから厚意じゃないって。百歩譲ってそうだとしても、余計なお世話だって思ってるかもよ」

「そこまで狭量ではないでしょう」

「どうかなぁ? 喫茶店での反応を見るかぎり、望み薄って感じだけど」

「最近の小森はちょっとおかしかったんです」


 多分、俺と契約を結んだ日くらいからずっと変だったのだろう。


「だから今でも変わらず、小森は吉野先輩のことが好きだと思います」

「どうしてそう思うのさ?」

「恋愛観が違うだけで人を嫌いになったりしません。それこそ、小森の嫌う恋愛至上主義的な考え方ですから」


 それに自分とは相容れない部分のある人間をすべて排除していたら、誰もいなくなってしまうだろう。


「春菜のこと、よくわかってるんだ」

「いえ、気難しくてわからないところばかりです」

「へぇ~。で、春菜のこと、責任取ってくれるの?」

「俺と彼女はあくまで対等な協力関係であって、どちらか一方に責任の所在があるというわけではありません」

「やっぱり石井くんの話し方は苦手だなぁ」


 そう言って吉野先輩は猫のように笑う。


「ところで、石井くんの恋愛観はどっち派なの?」

「今はまだ小森側です」

「お子ちゃまだね」

「村上にも同じことを言われました」


 幼い頃はみんな、理想の恋愛に憧れる。


 おとぎ話の影響なのか、テレビや漫画などの影響なのかは知らないけれど、運命の相手や一対一の恋愛に憧れる。


 でもいつの日か、人はそんなものがないのだと気づく。

 まるでサンタクロースがこの世にいないのだと知るように。


 でもだからこそ人はサンタクロースになれるのだろう。

 吉野先輩と話しながら、俺はそんなことを思った。

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