8-2
「話がある。このあと、少しいいか」
放課後になってすぐ小森に声をかけると、教室中の視線が俺に集中した。
カバンを掴んだ小森も、意外そうな顔をしている。
珍しい表情だ。
「……別にいいけど」
「では行こう。場所は準備してある」
こうして俺と小森は並んで教室を出た。
まるで契約はまだ有効であるかのように。
渡り廊下を歩くところまでくると、ようやく小森は不満を口にした。
「いったいどういうつもり? 契約はもう終わったでしょう?」
「だからこそだ。契約を破棄したことで、二つ目のルールを守る必要がなくなった」
二つ目のルール、つまり相互不干渉について。
それがなくなったなら干渉しても良いということになる。
「これはたしか契約破棄後も有効という取り決めではなかったはずだろう」
「そうだったかもね。でも今さらなんの用事なの? まさかとは思うけれど、私のことが好きになったとでも言うのかしら」
「いや、そんなつもりはない」
「言い切るのは少しムカつくわね。でも、あなたのそういう態度は契約相手として理想的だったと思うわ。ねぇ、どこに向かってるの?」
「演劇部の部室だ。小森に話がある」
村上に借りた鍵を使って部室に入る。
部屋は昼休みと変わらず、ひっそりとしている。
「それで、なんの話? 手短にしてほしいわね」
長机に腰を下ろし、小森は足を組んだ。
不機嫌であることを隠そうともしていない。
「前回の話の続きがしたい。つまり、愛や恋についてだ」
「私がその手の話題が嫌いってことは知ってるはずよね」
「もちろん知っている。その点も含めて、俺にはどうも不思議なことがある」
俺が小森を誘ったのは、契約の復帰を求めるためでもなければ、まして愛の告白をするためでもない。
純粋に、確認しておくべきことがあったからだ。
「キミは契約を結ぶとき、恋愛にまつわる話題を避けることが目的だと言ったな。そのためにとった解決策は俺とウソの恋人関係を装うことだった」
「そうよ」
「だがその契約は、恋愛に関する話題を遠ざけるという観点から見れば下策だ」
「……ずいぶんな言い草ね」
「しかし事実だ。ウソをつくという手間と協力者が必要な上、効果はそれほど見込めない」
三年間ウソを突き通すくらいなら適当に話を合わせてやりすごすほうが楽だ。
苦痛は一時的でしかないし、特定された自分に話題の矛先が向くことは少ない。
あくまでも『恋人のいない女子』の一人として、会話に参加することになるだろう。
しかし、小森の作戦では『変な男を彼氏に持つ女』として、無個性の集団から一気に色のついた個人となってしまう。
話題にのぼらないと考えるほうが不自然だ。
「けれど、別の目的があったとすればこの方法は間違いではない。これは仮定だが、キミは他人の恋愛に興味があったんだ」
「どうしてそうなるのよ?」
「そのほうが俺との契約に意味が出てくるからだ。実際のカップルがどんな付き合いをしているのか、同級生がどのような恋愛をしているのか。それを知るには自らもそれに見合う情報の開示が必要になるだろう」
自分はなにも話さず、相手から知りたい情報を吸い上げる。
そんな方法は通用しないのだろう。
恋人のいる人同士でしか話すことのない話題もあるのだと推測できる。
「そのときウソの恋人を話題に使えば、他の女子の口も軽くなる」
あれはそのための契約だった。
彼氏に関する共通した話題を持つことができ、また片恋中の友人たちからは相談を受けることもあるだろう。
小森はわずらわしそうに言っていたが、友人と恋愛にまつわる話をすること、それこそが彼女の狙いだった。
そう解釈するほうがよほど自然だと思う。
「きわめつけは、土曜日の態度だ。ただ恋愛が嫌いなだけなら、吉野先輩の仮説にあそこまで失望する理由はない」
「失望なんかしていないわ」
「はっきりと失望していた。それは否定させない」
だから俺に自らの心情を吐露するようなことをした。
あれが正常な小森の判断であるはずがない。
総合的に考えれば、答えはおのずと導き出される。
「小森、キミは最初から愛や恋に対して失望していたわけじゃない。むしろ期待していたんじゃないのか?」
悲観的なことを口にする小森はその実、誰よりも理想主義者だったのだ。
物語のような恋愛がこの世に存在すると無邪気に信じていた。
数多くいる友人のカップルの中には、運命で結ばれた二人がいるんじゃないかと思っていた。
そこに両親の離婚を知らされた。
結婚という誓いを放棄することを、小森は信じられない気持ちで受け止めたのだろう。
そしてあらためて周囲に目を向ける。
簡単そうに付き合ったり別れたりする男女の存在に気づいた。
愛の言葉をささやきながらも、それを撤回する。
愛は代替可能だと証明しているような気がしたのだろう。
それでも幻想を信じたかった。
信じるために、正確な情報が知ろうとした。
同級生たちの恋愛事情を知ろうとしたが、しかし小森は自分が幻想を抱いていることを認めたくはない。
そこで自らに偽の恋人を作り、話を引き出すという策を思いつき実行する。
そしてそこで知ったのが――
「だったら、なんだっていうのよ」
小森は吐き捨てるように言った。
「あなたが勝手に想像するのは構わないわ。でも、今ここにある結論は変わらない。愛も恋も、結局は薄汚い性欲の塊ってだけよ。そんなものをまるで尊いもののようにごまかして、いいように振り回されるのをおかしいと思ってなにが悪いの?」
小森の幻想にとどめを刺したのは、吉野先輩の推論だった。
あれと同じことを別の誰かが話したとしても、小森があそこまで動揺することはなかっただろう。
以前、小森の言っていたとおりだ。
同じ言葉でも誰が話したかによって、効果も重みも変わってくる。
敬愛していた吉野先輩の言葉であるからこそ、小森には大きな説得力をもって響いたのだろう。
あの仮説は間違っているかもしれない。
急にカップルが増えたのはもっと違った理由があって、そちらのほうが正しい可能性だって十分にある。
だがそれも、今となっては関係ないことだ。
あの性経験についてのグラフと同じで、小森がそこに正しさを感じてしまったという点だけが重要になる。
「結局、運命的な恋も唯一無二の相手も全部ウソ。現実にはないのよ、そんなものは」
そうかもしれない。
普段の自分ならば、迷わずそう口にしていたはずだ。
肯定とも否定ともとれる曖昧な言葉を、俺は何度も口にしてきた。
俺は小森の言うことを否定することも、肯定することもできる立場にない。
だけど。
せめて今だけは、信じる。
これまで積み重ねた理屈よりも自分の感覚が正しいことを信じる。
「俺の両親は二年前に離婚している」
こんなことを人に話すのは初めてだ。
自分の身の上話を相手にするのは、同情を誘うようで正しくない気がしていた。
それでも今は話し続ける。
「父は俺にとって、サンタクロースみたいな人だった。とても賢い人で、俺にはできないことがなんでもできた。俺はサンタクロースに憧れると同時に、きっと父に憧れていたんだと思う」
人間は間違えるべきじゃない、と父は言っていた。
俺にとって父こそが正しさの見本のようなものだった。
「両親の離婚は、父の不倫が原因だった。そのとき、俺は父がただの人間だということを知っだ」
同時に、サンタクロースもこの世にいないことを知ったのだ。
「君の言うとおり、すべては幻想であり、理想的な恋愛も、運命の出会いも現実には存在しないのかもしれない」
だが、と俺は続ける。
「ないと言うから、なくなってしまうんだ」
「え……?」
小森はさぞ意外に思ったことだろう。
俺だってそうだ。
ないと言うからなくなる、なんて言葉はなんの理屈にもなっていない。
けれど、今はそれを口にすることに迷いはない。
「たしかに愛も恋も性欲という部分はあるだろう。あるいは所有欲、独占欲。なんにしても良いイメージは抱けない。それに振り回されるのはバカげているのだろう。だけど」
現実の愛は迷いなく綺麗なものだとは言えない。
打算もあれば見栄もある。
時とともに色あせてしまうものでもある。
村上の言ったとおりだ。
たやすく、身近で、尊いものではない。
それでも。
「それでも人は誰かを好きになれる」
俺の言葉に小森は強く首を横に振った。
泣きそうな顔をして否定する。
「私は違う。私は誰も好きになんてならない」
「キミが運命的な恋の存在を確かめようとしたのは、憧れがあったからだろう」
かつての俺が父やサンタクロースに憧れたように、小森は自分の両親の姿を見て、恋愛に憧れた。
その感情は現実に対してはあまりに潔癖でありすぎるのかもしれない。
その潔癖さは生きる上で、あるいは恋をする上で足かせにしかならないのかもしれない。
だけど、俺はそれを肯定する。
無条件で肯定する。
正しいと信じたいからだ。
「でも……! そんなおかしなものに、私は憧れたわけじゃない!」
「たしかにそうなんだろう。現実の恋愛は、綺麗で、憧れるようなものではないのかもしれない。もっとみっともなくて、ありふれたものなんだろう」
「だったら!」
「それでも、キミは誰かを好きになる。どうしようもなくそういうときは訪れる」
いつか必ず、人は誰かを好きになる。
俺も小森もきっとそうだ。
あるいはそれすらも幻想かもしれないが、信じている。
どうせ誰かを好きになってしまうのならば、運命を信じたほうがいい。
どうせ恋をするのならば、最初から別れることや、打算を疑うのではなく、これが最後だと信じるほうがいい。
サンタクロースはどこにもいない。
世界中の子どもたちを幸せにしてくれる優しい人物の存在は幻想だ。
俺たちは年を取ることでそのことに気づく。
サンタクロースはこの世にいない。
でもだからこそ、サンタクロースになろうとすることもできる。
たしかな幻想として、サンタクロースはこの世に存在するんだ。
「そんなの……」
小森が泣いてしまうかもしれない。
それを見ることが恐ろしくて、俺は無意識に小森の腕を引いて抱きしめた。
小森はなんの抵抗もしなかった。
泣いているのかどうかもわからない。
きっとこれはなんの慰めにもならないだろう。
俺の言葉も、行動も、小森を癒やしはしない。
むしろ潔癖症の小森にとっては絶望をつきつける結果に終わるのかもしれない。
「信じてくれ、小森。永遠の愛という幻想がこの世には存在すると、信じ続けてくれ」
それは理屈ではなくただの懇願だった。
たとえ理想的な愛や恋が幻想だとしても、信じるかぎりは存在する。
だから小森にも信じていてほしい。
そんな、どうしようもなくはかない願いだ。
それでも俺は願った。
そうすることしかできなかった。
自分のしたことが正しいかどうかはわからない。
わからないけれど、間違ってはいないのだと今は信じたかった。
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