第八話 サンタクロースはどこにいる?

8-1

 月曜日は朝から雨が降っていた。

 雨の音は思考しやすい環境の一つだと思う。


 自分がどうするべきなのか、なにをするのが正しいのかをじっくりと考える。


 行動というのは、可能性を選びとる行為だ。


 しかしなにを基準に選ぶのが正しいのかがわからない。


 見本となるのは誰のどんな判断なのか、検討もつかなかった。


 軽率な判断をしないために、俺は知識を身につけてきたつもりだ。

 けれど、その知識が教えてくれるのは誰かの意見には常に反対意見があり、そしてまたさらに異なる意見もあるということだけだ。


 では、どう判断をつけるべきなのか。

 同じように正当性を持って見える複数の意見を、どう選びとるのが正しいのか。


 そのことにすら答えは無数にあり、どれかを選ぶことは他の考え方の否定につながる。


「石井」


 堂々巡りだ。


 俺は間違えたくない。

 正しい答えが欲しかった。


「おーい」


 声に気づいて、顔をあげる。

 高倉が目の前で手を上下させていた。


「すまない。ぼーっとしていた」


 そういえば昼休みだった。

 考え込みすぎたせいか、午前中の記憶が薄い。


「なんか難しいことでも考えてんのか? 今日は様子が変だぞ」


 小森との契約を破棄したのは土曜日のことだ。

 あれからもう数日が経つ。


 一時は劇的に思えた出来事であっても、実際にはこれといった変化はない。


 俺の日常は変わらない。

 クラス委員の仕事をこなし、高倉と昼食を食べている。


 小森もそうだろう。

 今朝、遠目に様子をうかがったかぎりではどこにも変わったところはなかった。


「変か?」

「いつも変だが、今日は輪をかけて変だ。おれが言うんだから間違いないな」

「高倉はいつも自信にあふれているな」

「根拠のない自信を大切にするってのがおれのモットーだ。それで、なにを考えてたんだ? 来週の期末テストについてなら、ジタバタしても仕方ないと思うぞ」

「忘れてた」

「さすが、大物だな。ま、帰宅部としては実感が薄いのには同意するけどな」


 ちょうど一週間後の月曜日から四日間、期末テストが始まる予定になっている。


 そのため今日からは部活動が停止になる。

 帰宅部である俺と高倉にはあまり関係ないが、テスト自体は大切だ。


「俺は正しい選択について考えていた」

「ずいぶん壮大だな。なにを選ぶのに迷ってるんだよ?」


 高倉に小森との話をすることもためらわれた。


 俺の考えていることを打ち明けるには、小森との契約について最初から説明しなくてはならない。


 しかし契約したさいのルール、守秘義務については契約解消後も続くという話だった。


 約束を守ることは、正しいことだと信じている。


「大した話じゃないんだ」

「そうかい。だけどまぁ、気分がのってきたから一方的にどうでもいい話をしてやろう」


 そう言って高倉は食べかけのメロンパンを、目の高さまで持ち上げた。


「そうだなぁ……仮に、今日のコンビニは未曾有の危機で、メロンパンと鮭おにぎりしか用意できなかったとする」

「他にはなにもないのか」

「ああ、麺類もサラダもお弁当もなしだ。工場でストライキが起きたか、もしくは店長の発注ミスってところだな」

「事態の危険度にかなりの差があるな」


「緊急事態はいつも隣に潜んでいるもんさ。さて、数が足りないからお一人様一点かぎりだけど、お詫びとして今日はどちらも同じ値段で提供される。このとき、石井はどちらを選ぶ? あ、わかってるとは思うけど別の店に行くとかそういうずるいのなしな」

「そうだな……」


 おにぎりを食べる手を止めて、しばらく考える。

 状況の詳細がわからないが、選択基準を見つけるのはそう難しくはない。


「俺が注文する時点で、数が多いほうだ」


 緊急事態の原因はどうであれ、数に限りがあるのなら余っているほうを選ぶほうが正しいだろう。

 そうしておけば、他の人に選択肢を残すことができる。


「そうじゃない」


 高倉はゆるゆるとかぶりを振った。


「いいか、石井。こんなのどっちが好きかって話で十分なんだよ」

「どちらも同じくらい好きだという人もいるだろう」

「ならそのときの気分だ。朝の占いでラッキーアイテムが砂糖ならメロンパンを頼むし、しりとりをしている最中ならおにぎりだ。石井はどうも理屈に頼るところがある」

「高倉も似たようなものだと思うが」

「少なくとも順番が違う。おれはなにを選ぶか決めたあとで理屈をつけてる」


 高倉は最後の欠片を口に放り込み、手を合わせた。


「まずメロンパンが好きだ、という感情がある。だから仮にそれが世界に残された最後の一つであっても、おれはメロンパンを注文するだろう。で、それから理屈をつける。おれはパンを愛していて、その証拠にパンを漢字で書けるとかな」


 指で空中に文字を書く。

 たしかにそれは「麺麭」という字に見えた。


「石井がなにを選びあぐねているのかは知らんが、理屈ってのは後からくっつけることもできるもんだぜ」


 正しさを後から付随させる。

 そういう考え方もできるのだろう。


 だが、それは少なくとも自分の感情面でなにかを肯定できるからこそ使える方法だ。


 俺には少し難しい。


「なんにせよ、食事のときくらいは楽しい気分でいたほうがいいな。なにかを食べるというのはそれだけで十分に意味がある時間だろ」


 控えめな励ましか、それとも高倉の哲学なのか。


 どちらにしてもこの契約で結びついた友人に、俺は感謝をするべきだと思った。


「しょうがないからラムネをやろう。世の中で起こる大抵のことは炭酸で流れるもんさ。大人が酔うのもアルコールじゃなくて炭酸じゃないかとおれは思うね」

「ありがとう」


 ラムネを受け取り、ビー玉を押し込む。

 炭酸が抜ける音がした。





「石井くん」


 昼食を終えた高倉と一緒に教室へ戻ると、すぐに村上に呼び止められた。


「クラス委員の仕事があるんですが、今から付き合ってくれませんか?」


 時間を確認してみる。


 昼休みはまだ半分以上残っていた。

 どのような作業であっても、十分な時間だろう。


「わかった。ここでやるのか?」

「いえ、場所は変えます。ついてきてください」

「クラス委員はいつも忙しそうだな」


 茶化す高倉と別れて、村上について歩いて行く。


「どこに行くんだ?」

「南館です」

「演劇部で使ってる部屋か?」

「はい。部活動停止中なので誰もいないし、静かですよ。作業をするにはうってつけの場所です」

「鍵がかかってるんじゃないのか?」

「もちろん借りてきてありますので、心配しないでください」


 階段を降り、渡り廊下を使って南館に移動する。


 二階の廊下の突き当たりにある部室の鍵を開けると、村上は「どうぞ」と俺を先に部屋へと入れた。


 以前一度来たときと室内の様子は変わっていない。

 狭い部屋の中心には長机が置かれていて、周りには組み立てたままのパイプ椅子が並んでいる。


 部屋はひっそりとして、どこか寂しさを感じさせた。


「これで準備が整いました」


 あとから部屋に入ってきた村上が後ろ手に鍵をかける。


「作業の前に確認させてください。小森さんとはどうなりましたか?」

「なぜそんなことを?」

「今日は二人とも様子が変だったので気になったんです。一応、わたしも石井くんと契約をしている身ですから」


 契約という言葉を持ち出されると、どうにも弱い。


 積極的に小森との関係について話したいわけではないが、礼儀として村上にだけは話しておく必要があるだろう。


「小森との契約は解消になった」

「それはつまり、別れたってことになりますよね」

「扱いとしては同じだ。村上に報告が遅くなったのは悪かったと思っている」

「いえ、構いません。ただ、これでわたしと石井くんの契約も終わりになりますね」

「そうだな」


 村上との契約は浮気というものだった。

 俺に、偽装とはいえ恋人がいなくなってしまえば成立しえない。


 元となる小森との契約が終わった以上、村上との関係も終わるのが自然な形だ。


「なら障害はなくなりました」


 しゅるり、と絹がこすれる音がした。

 最初は空耳かと思ったが、見れば村上が制服のリボンをほどいている。


「なにをしている?」

「石井くん、わたしと付き合ってみませんか?」

「意味がわからない。突然なんだ?」

「突然ではありません。ずっと考えていました」


 カッターシャツのボタンをゆっくりと外していく。


 見ていることに罪悪感を覚えて、俺は視線をそらした。


「どうして脱ぐんだ?」

「そのほうが手っ取り早く、わたしの意図が伝わるでしょう」

「俺にはさっぱりわからない」

「相変わらずにぶいんですね。それともとぼけてるんですか?」

「なにが言いたいんだ」

「わたしが言いたいのは、契約なんて必要ないということですよ」


 村上が近づいてくる。

 下がろうとするも、長机に腰がぶつかってしまう。


「石井くんも小森さんも、一度本当に恋人を作ってみればいいんです。なにも難しいことはありません。小森さんなら引く手あまたでしょう。だから余った石井くんはわたしと付き合ってみればいいんです」


 目をそらそうとしても、村上が近づいてくるせいでその姿は視界に入る。


 ボタンがすべてはずれ、白い肌と薄い桃色をした下着がシャツの隙間から現れていた。


 自分の理性が削り取られる音が聞こえる。


 なにひとつ事情は飲み込めない。

 平然ともしていられない。


「石井くんも、そういう顔するんですね」


 村上が笑う。


「ちょっとかわいいです」

「落ち着け、村上」

「自分でも意外なくらい落ち着いていますよ。むしろ石井くんのほうが落ち着いてください」


 距離がまた詰められる。


 もう俺たちの間には拳一つ分の距離もない。


「わたしを見てください」


 両手で頬をはさみこまれ、やや強引に視線を誘導される。

 下手に触れることもためらわれ、俺の両手は宙に浮いたままだ。


「難しく考えるのはやめませんか?」


 村上は優しい声でささやく。


「誰かとつながることは恥ずかしいことではありません。自分を必要としてもらえるのは嬉しいことでしょう?」


 大抵のことは自分以外の誰かでもできる。


 交換できない立場なんてない。


 先生が変わろうと。

 クラスメイトが変わろうと。

 そして、父親が変わろうと。


 なにがどう変わっても、世界はとどこおりなく回りつづける。


 だからこそ誰かに自分を、他の誰でもなく自分だけを必要としてもらいたい。

 その感情は理解できる。


「だったら、自分を必要としてくれるなら相手なら誰でもいいのか?」

「誰でもいいってわけではありません。でも、絶対に誰かでないといけない理由もないと思いませんか?」


 誰でもいいってわけじゃないけれど、誰かでないといけないわけじゃない。


 それはとても現実的な言葉のように聞こえた。


「誰だって付き合ったり、別れたりを繰り返すのが普通なんです」


 土曜に吉野先輩と話したことを思い出す。


 喉がやけに乾いた。


 村上の言葉は間違っていないはずだ。


 以前、小森と離婚件数について話をした。

 それ以前に、学校をにぎわすカップルにはいくらでも起きていることだ。


「石井くんも楽になればいいんですよ。小森さんのことなんて忘れて、わたしと自由で楽しい男女交際をしましょう」

「誰でもいいというのなら、なぜ俺なんだ」

「なんとなく、です」

「なんとなく?」

「はい。同じクラス委員で接点もあるし、なんとなくいいなって。恋愛感情って、そんなものじゃないですか?」


 たしかにそれは感覚で説明するしかないことだ。


 相手のなにが好きなのか。

 それは言葉をいくら並べても言い訳めいて聞こえる。


「わたしは独りが不安なんです。独りでいると、このまま自分が誰にも求められないままなんじゃないかって感じる」

「そんなことはないはずだ。村上なら……」

「ありがとうございます。だったら証明してください」


 村上が立ちすくむ俺の胸を押す。

 それだけであっけなくバランスを崩し、俺は長机の上に仰向けで倒れた。


「難しく考えなくていいんですよ」


 間髪いれずに、村上が俺に覆いかぶさってくる。


「わたしを求めてください。それだけでお互いに不安じゃなくなるし、寂しくもない。それで十分じゃないですか。みんな、やっていることです」


 村上が自分の唇に指で触れる。

 その動きに背筋が震えた。


 とっさに俺は村上の肩を両手で押さえる。

 力はロクに入らなかった。


 俺からかすかな抵抗を受けた村上が、悲しげに顔をしかめる。


「わたしでは、気に入りませんか? たしかに小森さんほど美人ではありませんし、胸もないかもしれませんが」

「そうじゃない。村上に魅力がないとかそんな話をしているわけではないんだ。そういうことじゃ、なくて……」


 じゃあどういうことなんだ。


 自分が必死になって否定していることがバカらしくなってくる。


 俺はなにを意地になっているんだろうか?


 小森は恋愛至上主義に抵抗するために契約を結ぼうと言った。

 その感情に、賛同する気持ちは未だにある。


 だが、その抵抗に意味があるのだろうか。


 吉野先輩の出した仮説が全面的に正しいとは言い切れない。


 それでも一部は正しいのだろう。

 それはここしばらくの日常で十分に思い知った。


 正当性は村上にある。


 恋愛はみんなが当たり前にしていることだ。


 好きだと言ってくっついて、嫌いになったと別れる。

 簡単なことだと言われれば、反論の余地はない。


 その流れに抗うことにどんな意味があるというのだろう。


 それは、正しいことと言えるのだろうか。


「わたしと試してみませんか」


 村上が身体を密着させてくる。


 互いの心臓の音が、体温が、混ざっていく。


 今までになく全身が近い。

 村上の短い髪が頬に触れて、こそばゆい。


 自分のものではない身体の感触に、息が詰まる。


 甘いにおいがした。


「もしも付き合ってみて、ダメだったら、そのときに別れたら済むだけの話でしょう。石井くんはどうしてそんなに固く考えるんですか」


 欲求に素直になってもいいんじゃないのか?


 初めてそんな考えが浮かんだ。


 今の状況に俺だってまったく興奮を感じないわけじゃない。

 はだけたシャツから村上の肌を目にして、触れたいと思ったはずだ。


 その本能を、欲望を、村上は拒否しない。


 それどころか受け入れてくれるのだろう。


 村上は孤独を埋めるために自分を求めてほしいと言った。

 利害は一致する。


 そうだ、リスクなんてない。

 ダメだったら別れたらいい。


 手をつないで、キスをして、それからその先のことも経験して……それでもダメだったら、別れればいい。


 他ならぬ村上がそう言っているんだ。


 気楽なもんじゃないか。

 なにを深く考える必要がある。


 拒絶する理由なんてどこにもない。


「違う」


 俺は村上の肩をつかむと、ゆっくりとその身体をおしのけて立ち上がる。


 その気になれば今までも抵抗はできたんだ。

 流されていたのは、心のどこかでこういう展開を期待していたからだろう。


 村上は心底不思議そうに俺を見上げた。


「どうしてダメなんですか?」

「それは不誠実だ」

「わたしがいいって言ってるのに?」

「関係ない」

「やっぱり小森さんのことが好きなんですね」

「違う」


「じゃあ石井くんは誰に対して誠実でいたいんですか?」

「まだわからない。だけど、俺は認められない。たとえどれだけ楽しくても、簡単でも、そんな風に恋愛をするべきではないと思う」

「夢見がちですね。あなたは恋愛に対して理想を抱いている。でも、運命の相手とか、永遠の愛なんて現実にはない。そんなものは幻想ですよ」


 村上は笑う。疲れたような笑みだった。


「一生に一人としか恋愛しないなんてこと、ありえません。世間の人たちはみんな、最初にキスした相手とは別の人と結婚するんです」

「そうだな」

「恋愛なんて高尚なものじゃない。誰とでもキスはできるし、何度でもやり直せる」

「ああ」

「わたしたちはもう高校生なんですよ。いいかげん夢から覚めて、大人になるべきじゃないんですか」

「村上は正しい」


 すべて事実なんだと思う。


「それでも、俺は今の村上を受け入れるわけにはいかないんだ」


 理由はうまく説明できない。

 理屈だって後から付け足せない。


 それでも、このまま村上と関係を結ぶことはできなかった。


「そうですか」


 そう言った村上はどこか寂しそうだった。

 俺から離れた村上はシャツのボタンを閉じると、綺麗にリボンを結んだ。


「では、ちゃんと小森さんと決着をつけたほうがいいです」


 村上は俺に背を向けて言った。


「鍵はここに置いていきます。どうぞ使ってください。テスト期間が終わるまでに返してくれればそれで問題ありませんので。それと、勘違いしないでくださいね。忘れているかもしれませんが、わたしも演劇部ですよ。石井くんを焚きつける演技くらいは朝飯前です」


 今までのはすべて演技だったのだろうか。


 事実はどうであれ、村上がそう言うのであればそうだと思うべきなのだろう。


「ありがとう、村上」


 礼を言ったが、村上は振り返ることなく部屋を出ていった。

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