7-3

 小森の足は速く、駅を出てもすぐには追いつけなかった。


 ようやく背中に手が届きそうになったのは、踏切の近くだった。


「小森」


 そう呼びかけると意外なくらいあっさりと小森は足を止めた。


「なに? 今は虫の居所が悪いから、あまり愛想よくできないんだけど」


 愛想よくしてもらったことがあっただろうか、と考えるがわからなかった。


 なにを言えばいいかもわからない。

 小森はこちらに背を向けたまま、あざけるような口調で言った。


「なにが知りたいの? 私があの場にいた理由? それなら吉野先輩に誘われたのよ。あなたが浮気しないかどうか試してあげるって言われてね。ずっとあとをつけてた。気づいた?」

「いや……」

「でしょうね。私も尾行も大したものだわ」

「小森」

「まだなにかあるの? 私、一気に色々なことを知って気分が悪いの。あなたが杏と浮気していたことも初めて知ったわ。自分が間抜けで笑えるわね」


 違う。

 小森が今一番ショックを受けているのは吉野先輩のことだ。


 小森が語る吉野先輩の姿は、実際のものとはかけ離れていた。


 吉野先輩たちはただ仲がいいだけのカップルではなかったし、そういったものの存在を彼女は正面から否定した。


「それとも吉野先輩の話について私の感想も聞きたいの? だったら感心したとしか言えないわね。まったく正しいと思うわ」

「だが、あれはあくまで仮説だ」

「仮説? そうかしら。私は十分に納得できたわ」


 ようやく振り向いた小森の顔には、侮蔑や嫌悪の色が現れていた。


 俺はなにかを間違えたのだと直感する。

 それは嫌な感覚だった。


「くだらないわね」


 小森はありったけの不快感を吐き出すように言った。


「愛も恋も、中身は結局ただの性欲ってことでしょう? 知っていたわ。だって男子はどいつもこいつも胸ばかりだものね」


 今さらのように気づく。


 小森に向けられる性的な目線は多かったのだろう。

 異性に対して良い印象を抱けないこともうなずける。


 もしかするとそれが恋愛嫌いの理由の一つなんだろうか。


「いえ、今の言い方は不公平かしら。女子もそうなのよね。だからグラフに踊らされた」

「物事はそんなに単純ではないはずだ」

「単純なのよ。ヒトだって所詮は動物だわ。永遠の愛とか、運命の出会いなんて最初から信じてなかったけど、ここまでわかりやすいといっそ滑稽で笑えるわ」


 笑えると言った小森だったが、その表情は笑みを浮かべてはいない。


 初めて会ったあの日と同じように、壊れてしまいそうな危うさがあった。


 踏切の隣で、俺と小森は向かい合ったまま黙っていた。


 じっとお互いの目を見る。

 それはまるで、相手の瞳に反射した自分の姿をにらみつけるような対峙だった。


 やがて小森が口を開いた。


「ねぇ、この国で一年間にどれくらい離婚の手続きがされているか、知ってる?」

「たしか、二十五万組前後だったはずだ」

「なんでもよく知ってるのね」

「昔、調べたことがあるだけだ」


 自分の両親が離婚すると知ったとき、これは珍しい出来事なのだと思った。


 一度は永遠の愛を誓った二人が破綻を迎えるなんてことは、めったにあるはずがない。

 だから、その確証を得るために調べた。


 その結果として、知ったのはありふれたことの一つだという事実だけだ。


 結婚と同じように、離婚もまたありふれている。


 別にそれで傷ついたなどと言うつもりはない。

 むしろ知識として知ることができて良かったと思っている。


「知ってるなら話が早いわ。わざわざ自分たちから愛を誓った挙句、一年間にそれだけの人間が愛した相手と別れている。そう考えると恋愛なんてつくづくバカバカしいと思わない?」

「それは……」

「私の親も、もうすぐその数に加わるわ」


 俺はなにも言えなかった。


 離婚、という言葉で脳裏をよぎるのは家を出て行った父の姿だ。


 間違ってはいけないと言った、父の姿。

 それに付随して、消えたサンタクロースも思い浮かぶ。


 踏切がすぐそばにあるというのに、周りはとても静かだった。


 電車が近づく音も、車が走る音も、学校のように楽しげな人々の声も、ここからは聞こえない。

 まるで自分と小森の声しか存在しないような瞬間だった。


「最近はもうほとんど一緒に暮らしてなんていなかったのよ。でも、私が高校生になったからけじめをつけるってこの間電話で話してくれたわ。顔すら見ずにする話じゃないと私は思ったけど、あの人たちにとってはもう決まっていたことなのよね」


 もしかしたら、と考える。


 初めて小森と会ったとき、携帯電話を握っていたのはそういうことだったのではないだろうか。


 もしかしたら。

 小森が恋愛に対して失望を露わにしていたのは、両親が原因なのではないだろか。


 もっとも身近な男女の心変わりが、小森の失望を促した。


「離婚はするけど、私のことを愛しているって二人とも言っていたわ。意味がわからないでしょ」


 そこで初めて小森は笑った。

 自分自身をあざ笑っているようにさえ見える。


「これから離婚する人たちにそんなこと言われても、本当に意味がわからないのよ」


 両親は互いの愛を誓って結婚をした。

 そしてその愛を撤回するからこそ、離婚をするのだろう。


 愛とはいつでも撤回できる。


 一度与えあったそれは、次の瞬間にはゴミ箱に叩き込むことができる程度の価値しかないものだ。


 そんなことを目の前で教えてくれた相手に「愛している」と言われて、いったいそれがなんの救いになるのだろう。


「そのうえ、学校でも愛だの恋だのが蔓延してて……頭がおかしくなりそうだわ」


 小森は、自分が口走ったことを後悔するように言葉を切った。


 踏切が警告音を鳴らし、遮断器を下ろす。

 電車が近づいてくる。

 急に声以外の音が生まれ、俺は猶予を得た。


 なにかを言わなければならない。


 それだけは直感的に感じる。


 だけど、いったいなにを?


 本当の恋人なら「俺はお前を愛している」とでも言ってしまえばいい。


 だが俺と小森は恋愛を忌避するというためだけの関係だ。

 小森に対する恋愛感情は今もない。


 相互に干渉しないという契約もある。


 いや、これは言い訳なのか。


 俺は自分を許すための言い訳をしている。


 そのことを自覚していても、言葉はなにも出てこなかった。


 知識をどれだけ引っ張ってきても、偉人の言葉を引用しようと、適切な答えはいつも見つからない。


 なにかの意見には常にそれと対になる言葉がある。

 そしてそのどちらにもある程度の正当性があるのだ。


 なにかを肯定するということは、それ以外の答えをすべて否定することになる。


「そろそろ、お遊びもおしまいにしましょうか」


 電車が通り過ぎ、遮断器が上がった。


 小森はなにかを切り離すみたいに、俺に背を向ける。


「お遊びというのは?」

「そんなの、あなたとの契約以外にないでしょう?」

「俺は真剣に契約を履行してきたつもりだ」

「そうね。あなたは変だから。とにかく、もういいのよ」

「わずらわしい話題から遠ざかりたかったんじゃないのか?」

「だから、もういいの。それに……わかったのよ。愛だの恋だの、そんなものは幻想にすぎない。そんな幻想におどらされている連中がバカなだけで、私が気にする必要なんて最初からなかったんだわ」

「小森」

「本当にもういいのよ。契約のときに決めたでしょ? 三つ目のルールよ」


 三つ目のルール、契約の破棄に双方の合意は必要としない。

 ならば、俺はそれに従うしかないのだろう。


 それが契約だ。


 契約を守ることは、正しいことだと思う。


「……なら、事後処理はどうする?」

「適当でいいわ。わざわざ別れたことを公言するカップルもいないでしょう。放っておいてもすぐに広まるとは思うけどね。誰かに関係を訊かれたら素直に答えて。私もそうするから」


 小森は歩き出してすぐ、一度だけ振り返った。


「ありがとう、さよなら」


 それが決別の言葉であることは疑いようがない。


 これで俺と小森の一ヶ月に満たない日々は終わったのだ。


 俺は小森の姿が見えなくなるまで考えたが、最後のありがとうがどういう意味なのか、判断がつかないままだった。

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