7-2

 俺はもう一度、吉野先輩の様子をうかがう。

 なんらかの反応があることを期待していた。


 しかし吉野先輩は楽しげな表情のままだ。


 俺の勘違いだろうか。


 もしそうだとしても良い。

 否定されることを望みながら、考察を続ける。


「二通目を送ったのが吉野先輩だった。そう考えるといくつかの違和感に説明がつきます。二通目だけ下駄箱に入っていたのは、俺の座席位置を知らなかったから。下駄箱には名札が貼ってあるし、名簿順に並んでいます。すぐに見つけられるでしょう」

「それだけ? だったら別の二年生や三年生の可能性もあるんじゃない?」


「では同封されていた写真についてはどうでしょう。俺と村上が河川敷にいる場面が切り取られていました。そういえば、あのときも吉野先輩とお会いしましたね」

「あそこは定番のデートスポットだよ。色んな人がいておかしくない。浮気ならもっと場所は選んだほうがいいね」


「ご忠告には感謝しますが、不自然なことはまだあります。ちょうど俺が脅迫状に書かれた指示をこなしているときにあなたと会いました。偶然と言うには出来過ぎています」

「なら運命なんじゃないかな」

「それなら俺の疑念も杞憂で済むのですが」


 すべて偶然だと言い切るならそれでもいい。

 二通目の脅迫状は財前ではない誰か、吉野先輩でもない誰かが送りつけてきた。


 そう信じようとするのは、想像以上に難しいことだった。


「じゃあさ」


 食後のコーヒーに口をつけてから、吉野先輩はニコニコとして言った。


「もしあたしが石井くんに脅迫状を送りつけたとして、目的はなに? 暇つぶし? それともキミの浮気を知ったあたしは、春菜のことを心配して穏便に別れさせようとしたの?」

「いいえ。小森と別れさせることが目的なら村上との写真を本人に見せればいい。最初に訊きましたよね。利用したんじゃないかって」


 吉野先輩が犯人だった場合の目的は想像がついている。


 相手もそれを知っているのだろうか。

 だから俺を試すように笑っているのかもしれない。


「吉野先輩の目的は、俺に城の周りを走らせることだった。あの意味不明な指示をするために、わざわざ脅迫状騒動に便乗したんです」

「あたしは石井くんに身体を鍛えてほしかったってことなのかな?」

「違います。あの日、あの時間、あの場所に誰かが必要だった。あなたは自分を家に送ってもらうために脅迫状を出したんです」

「夜道は危ないからね」

「おっしゃるとおりです。でも相手が恋人や同級生、小森たちではダメだった。知り合い程度の仲である俺でないとあなたの目的は達成されない」

「あーあ、石井くんの話は回りくどいなぁ」


 吉野先輩はあくびをする。


「それに言葉が固くて難しいね。もっと優しい言葉で話してよ」

「ではまとめます。あの日、吉野先輩はマンションに帰っていきました。そのことがずっと気になっていたんです」

「どうして?」

「以前小森から聞きました。先輩は猫を飼っているそうですね」

「うん。リリィっていうの。写真見る?」

「また今度でいいです。小森は猫について――」

「リリィちゃん」

「……猫のリリィちゃんについて『階段をのぼる後ろ姿がかわいい』と言っていました」


 かちゃん、と後ろで食器が触れ合うような音がした。


「石井くんは春菜と話したことをよく覚えてるんだね」

「大切なことは忘れません」


 小森からは忘れてくれと言われることも多いが。


「マンションの室内に階段はあるんでしょうか? 仮にあったとして、そこのことを『二階に上がる』と小森は言わないと思ったんです」

「メゾネットタイプのマンションなら言うかもしれないよ」

「では小森に確認してもいいですね?」

「うーんとね、実は最近引っ越したんだ。春菜が遊びに来たのは昔のことだから、情報が古いままなんだよ」

「俺もその可能性は考えてました」


 だからその日は気にしなかった。


 あらためて吉野先輩の行動に疑念を抱いたのは、週が明けてからのことだ。


「でも月曜日に、吉野先輩の彼氏が来て俺に尋ねたんです。『その日、ちゃんと家まで送ってくれたのか』と」

「彼、過保護だから」

「最初はそう考えました。だとしても『ただ夜にアイスを買いに行った』というだけの恋人について、わざわざ下級生の教室にまで尋ねに来るでしょうか。あなたは無事に家に帰って、こうして今も元気にしている。俺にお礼を言うにしても、偶然会ったときでもいいでしょう」


 なのに吉野先輩の恋人、武田先輩はわざわざ教室まで俺を訪ねてきた。

 そして家に送ったのかと確認をした。


「あの質問は考えようによっては別のことを心配していたとも考えられます。たとえば恋人の外泊とか」

「外泊?」

「はい。『家まで送ったのか』というのはつまり、俺と駅や交差点で別れた可能性を疑っていたと考えられます」

「だから、もっと直接的に言ってよ」

「では言います」


 平然としている吉野先輩を見えいると、俺は自分のほうが追い詰められているような感覚に陥っていた。


 俺のこの追及は正しいのだろうか。


 内容はもちろんだが、行動それ自体に自信がもてない。

 緊張のせいか、口の中がひどく乾く。


 いや、今さら迷ってはいられない。


 結露したコップを掴み、水を飲んでから俺は言った。


「あの人は、吉野先輩の浮気を疑っていたんじゃないですか?」

「そうそう。最初からそう言ってよ」

「そして浮気は事実だった」


 また後ろで物音がした。


 しかしここからが正念場でもある。

 目の前の相手に集中しなくてはならない。


「あのマンションは浮気相手の家だったと考えれば辻褄が合います。俺は吉野先輩の自宅を知らない。堂々と帰っていく姿を見れば、そのマンションを自宅だと思い込むでしょう。だから吉野先輩の恋人に訊かれても素直に『自宅まで送った』と答えることができる」


 つまりウソをついたという自覚なく、ウソの証言をさせることができる。


 証言者として俺が選ばれたのは、ちょうど良いからだろう。


 たとえば小森や村上といった吉野先輩と親しい人物であれば、浮気の隠蔽に協力している可能性もある。

 自宅に帰ったと言われても、武田先輩は素直に信用できなかっただろう。


 だが俺は違う。


 吉野先輩をかばう理由がない。

 あるいは俺こそが浮気相手だと疑われたのかもしれないが、それも実際に会って違うと確認したのだろう。


「あの金曜日、先輩は俺と偶然出会って家まで送ってもらう必要があった。目的は武田先輩に対してウソの証言をさせるためです。あなたは自分の浮気を隠すために脅迫状騒動を利用し、俺を利用した。違いますか?」

「うーん……」


 吉野先輩はしばらく唸ったかと思うと、あっさりと言った。


「そうだよ。石井くんの想像通り」

「……なんで認めるんですか?」

「え~? 別に必死になって隠すほどのことじゃないし」


 けらけらと吉野先輩が笑う。


「だって、こんなのフツーだよ。彼氏が選べない、なんてありふれすぎて笑っちゃう悩みでしょ」

「それはどっちが好きかで悩んでいるということですか?」

「えっとね、そこから多分考え方が違うんだよね」


 吉野先輩は俺を諭すようにゆっくりと話す。


「好きかどうかで恋人は選ばないでしょ。ま、隠すことじゃないから言っちゃうけど、あたしは今大学生とも付き合ってるのね。三つ年上でお金持ち。どうせ親の金なんだろうけど立派なマンションに住んでるし、いい車にものせてくれる」


 もう一人、と吉野先輩は反対の手をかかげる。


「中学から付き合ってるほうの彼氏は見た目がかっこいい。友達にも自慢できる。部活でも活躍してるし、優しいの。でもまぁ、ちょっと束縛が強いのが玉にキズかな」


 で、と両手を合わせる。


「どっちと付き合うのが得なのかわかんないから悩んでるってわけ。そういうのって男子にもあるんじゃない? たとえば、そうだね」


 吉野先輩は芝居がかった動作で、再び両手を開いた。


「片方は美人で巨乳の女の子だけど、おかたい性格で手もつながせてもらえない。もう一人はルックスこそ普通だけど貞淑につくしてくれる女の子。美人な友達への対抗心から求めればなんでもさせてくれる。どう? 迷ってるんじゃないかな?」

「俺にはわかりません」

「本気で言ってる? だとしたら、やっぱり石井くんは変だね」

「変、ですか?」

「だってあたしたち高校生なんだよ? いくらでも付き合ったり別れたりして許されるんだよ? それなら、今のうちに色々経験しておかないと損じゃない?」


 あくまでも普通のことのように吉野先輩は語る。


「恋愛偏差値っていうのかな。おとぎ話みたいな運命の相手に憧れるってのもわからないわけじゃないけど、そんなのありえないじゃん。男は女の子の身体目当てで声をかけてくることも多いし、お金をだまし取ろうとする悪いやつだっている。そうでしょ?」

「それは……そうです」

「男だけが悪いって言うつもりはないよ。女の子だってそうだしね。年収はいくらぐらいがいい、身長はこれくらい欲しい。だから、フツーだよ」


 普通と繰り返し言われるたびに、俺は間違いを指摘されているような気がしてくる。


「将来結婚する相手を選ぶためにも、今のうちに色んな人と付き合って、比べておくのは悪いことじゃない。恋愛偏差値をあげるにはいい方法だと思うな」


 実はね、と吉野先輩は声をひそめる。


「今日、石井くんを誘ったのもキミを品定めするためだったんだよ。春菜や杏が選んだ男がどの程度のものなのか、確かめたくってさ。でもキミはダメだね」


 あからさまに肩をすくめる。


「石井くんは見かけだけだよ。〝彼氏〟っていうだけのハリボテって言うのかな。いかにもあの子たちが選びそうな男ではあるけどね」

「どういう意味ですか?」

「だってキミはどれだけ付き合っても、自分からあの子を押し倒したりしないでしょ? 女の子からすればこれほど安全なものはないよ。見返りなしで奉仕してくれるんだから。ま、だからこそ初心者向けではあるんだろうけど」

「それは吉野先輩の考え方でしょう」

「そうだよ。でも石井くんに比べるとあたしのほうがフツーじゃないかな。キミは教科書通りって言うのかな、幼い頃に言われたことを今でも無邪気に信じてる。そう、まだ子どもなんだよ」


 そこまで言うと、吉野先輩は急に話題を変えた。


「ねぇ、最近学校でカップルが急に増えたでしょ? 理由がなんだかわかる?」

「いえ……」


 それは小森や高倉も気にしていたことだ。


「だろうね。理由はきっとこれだよ」


 吉野先輩はそう言って、携帯電話に画像を表示させる。

 それは校内新聞をうつしたものだった。


「校内新聞ですか?」

「うん。毎週発行しててね、体育館に続く渡り廊下に貼ってあるんだ。知ってる?」

「ちゃんと見たのは一度だけですが、存在は知ってます」


 武田先輩に呼び出されたとき、彼について書かれた記事を見た。


「そこそこ人気なんだよ。特に新入生には目新しくて興味をひいたんじゃないかな」

「これがなにか?」

「特集記事を見てよ」


 新聞部の発行している校内新聞は特集記事といくつかのコラムで構成されている。


 部員がある程度自由に題材を設定するコラムと違い、特集記事は教職員と連携しているもののようだ。


 吉野先輩が問題にしているのはその特集記事だった。


「性感染症の話題が書かれてますね」

「そう。保健室と協力して書いた記事になってるけど、問題はそこに掲載されたアンケート結果のほうだね」


 吉野先輩が画面を操作し、問題の箇所を拡大する。


 そこには男女別で、性経験についてを問うたグラフが掲載されていた。

 参考文献から引用したもののようだ。


「見てもらえばわかるけど、男女ともに高校一年生の時点で八割は性経験があるという結果が出てる。三年生では九割超えだよ」


 本文ではグラフの結果とからめて、性感染症の危険性について説明しているが必要なのはそこではないのだろう。


「これを見て〝フツー〟の価値観をもつみんなはどう思ったんだろうね?」


 吉野先輩の問いかけに、俺は答えを出す。


「焦り、ですか?」

「そうだよ。みんなもうとっくに〝経験〟してるんだ。だったら自分も早く〝経験〟しないと……ってね。じゃあどうすればいいんだろう。手っ取り早いのは恋人を作ることじゃない?」

「先輩はこれがカップルの増えた原因だっていうんですか?」

「うん。だって言葉は力を持つじゃない? だから情報は強くて、女の子は噂話が好きなんだよ」


 このデータから「恋人がいなくてはならない」という焦りを感じたことが、今回の現象につながったと考えることは不可能ではない。


 だが、吉野先輩に言われたことがすべて正解だとも思えなかった。


「納得のいかないことがあります」

「ん?」

「もしもこの結果に大多数の生徒が焦りを感じたというのであれば、そもそもデータが正しくなかったということになりませんか?」

「情報が正しいかどうかなんてどうでもいいんだよ。そもそもこんなの、自己申告でしか調べられないことじゃん。ウソかホントかなんて、そんなことはどうでもいい」


 吉野先輩の口調は、物覚えの悪い生徒に優しく話しかける教師のようだった。


「ある情報が正しいものとして広まった時点で、それはもう〝正しい〟んだよ」

「予言の自己成就、ということですか」

「難しい言葉は知らないよ。もっと優しい言葉で話してって言ってるでしょ」


 予言や噂も、人々が信じるならばそれは現実になる。


 今回のデータは正しいのかもしれないし、そうでないのかもしれない。


 だが目にした生徒の多くが〝正しい〟のだと解釈した時点で、このデータはすでに現実になろうと動き始めている。


 吉野先輩の言い分を信じるなら、このグラフにより実在の不確かな同調圧力が発生することはありうる。

 そうした周囲にあおられ、新聞記事を目にしなかった層も影響を受けることは十分に考えられることだ。


 そうすれば男女問わず「恋人がいないことはおかしい」「この歳での性経験は普通のこと」という認識が当たり前になっていく。


 誰も具体的なことを口にはしなかったかもしれない。

 けれど言外にそういった圧力は生まれてしまう。


「その結果、カップルが増えたということですか」

「じゃないかなー、ってあたしは思うよ。男子の間ではどれだけ早く経験したかとか、経験人数を自慢したりするって聞くよ」

「そういう風潮があるのは否定できません」


 実際、性経験がステータスとして語られることはあるだろう。


 禁じられている行為。

 一人ではできないこと。

 あとは本能的な欲求か。


 そういった風潮が今回のカップル増加に一役買ったのは事実なのかもしれない。


「女の子も早さはステータスになるかな。やっぱりどんなことでも知らないより、知ってる方がいいでしょ?」


 反論は思いつかない。

 そもそも俺はなぜ反論したいと思っているのだろうか。


 無意識に自分の考えのほうが正しいと思い込んでいたからか。


 だとすれば傲慢だ。

 そんな考え方は正しくない。


 不意に背後で椅子を蹴飛ばすような音がした。それにより思考の混乱が一時的に打ち切られる。


 振り返ると、小森がいた。


 なぜここにいるのか、再び俺は混乱に叩き込まれる。


 立ち上がった小森はこちらを一瞥するとどこかへ向かって早歩きで去ってしまう。


 とっさに俺も立ち上がったが混乱していて次の行動が出てこない。


「あれー、全部聞かれちゃってたみたいだねー」


 吉野先輩は楽しげに笑っていた。


 こんな偶然があるわけがない。

 まず間違いなく、この人の差し金なのだろう。


「追わないの? ここの会計が気になるなら奢ってあげるけど?」


 挑発的な言葉だった。


 それには返事をせず、俺は走って小森を追った。

 なにもかもが吉野先輩の思うつぼなんだろう。


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