第五話 色んな人から呼び出されて

5-1

 下駄箱に入っていた脅迫状には、一度目とは異なり具体的な指示が書かれていた。


 いわく「不貞の罰としてランニングを課す」ということであり、場所と時間が明記されていた。

 無視すれば写真を公表するという脅し文句も忘れていない。


 模範的な脅迫状だ。

 たとえば俺が脅迫状を書くことになっても、この形式は守るであろうと思う。


 そんなことを考えながら、日頃は観光地として賑わう城を見上げる。

 とっぷりと日が暮れた今では当然、そのような賑わいは感じられない。


 午後十時になったら、ここを走って一周しろというのが脅迫状に書かれた指示の具体的な内容だ。


 携帯電話で時間を確認する。

 残り数分で指定された時間だ。


 走り始める前に周囲を見回してみる。

 大通りに面した部分では多少の人影が見受けられるが、こちらを見張っているような人はいない。


 脅迫状をいたずらだと切り捨てることもできる。

 だが、走るだけでいいというのならその程度の要求は飲んでも差し支えないだろう。


 ちょうど十時になったので、俺は走り出す。

 すると、あっという間に息があがった。


 目的もなく走っていると、様々な考えが頭をよぎる。


 小森のこと。

 村上のこと。

 高倉のこと。


 しかし酸素が足りないせいか、どれも深くは考えられないまま思考が散っていく。


「あ、やっぱり石井くんだ」


 二十分ほどが経過した頃だろうか。


 ちょうど一周が終わるか終わらないか、というところで不意に声をかけられた。

 思わず足を止めてしまう。


 街灯の下に立って、手を振っているのは吉野先輩だ。

 俺は演劇部ではないが、すっかり顔なじみになってしまった。


 吉野先輩は見慣れた制服姿ではなく、ラフな私服姿だ。

 いつもはまとめている髪も自然におろされている。


「こんばんは」

「こんばんはー。トレーニング中? 石井くんって運動部だったっけ?」

「いえ、これは……」


 まさか脅迫状の指示に従っていたと打ち明けるわけにもいかない。


「趣味です」

「ふーん。健康的だねぇ」

「先輩はこんな時間になにを?」

「あたしはコンビニ帰りなの。ほら」


 そう言って手に持ったレジ袋を少し持ち上げてみせてくれる。


 薄いビニール越しに、色とりどりのパッケージが透けて見えた。

 お菓子かなにかだろう。


「気をつけてください」

「わかってるって。でも突然アイスが食べたくなるときってあるじゃん? こんな時間に食べると太るんだけど、でもその背徳感がいいスパイスっていうかさ」

「そうではなく、夜道は危ないという話です」

「はーい。石井くんって思ったとおりお硬い感じだね」


 じゃあさ、と吉野先輩は言った。


「うちまで送ってよ。お駄賃にアイスあげるから」


 運動によってにじんだ汗がかわき、心臓の動きも平常時に戻りつつある。


 厳密に計測すれば、俺はまだ一周していない。

 八割か九割程度というところだろう。


 しかし監視の目はないようだ。

 ただのいたずらだったとすれば、走るのはもう十分だろう。


「わかりました。ただ、アイスは遠慮しておきます」

「おいしいのに~」


 それから吉野先輩は道中様々な話をしてくれた。

 話題は彼女自身のことが多かったが、時々、小森や村上についても話が及んだ。


 見た目の印象通り、にぎやかな人のようだ。


 そうしてしばらく歩いた頃。


「まぁでも、浮気するならもっと慎重にやらないとね」

「……はい?」


 あまりに自然な流れで浮気を指摘されたため、驚くことさえ忘れた。


「特に恋人の友達に手を出すなんてド定番だから、女の子のほうもそれなりに警戒してるよ」

「誰の話ですか?」

「石井くんの話だよ。杏ちゃんと浮気してたでしょ?」


 たしかに吉野先輩には、村上と河川敷にいるところを見られた。

 あの場ではごまかしたつもりだったが、吉野先輩はあの状況を浮気と解釈したらしい。


 鋭いというべきか、あるいは空想力がたくましいだけなのか、判断がつかない。


「ですからあれは……」

「ごまかさなくてもいいって。春菜に告げ口するとか、そんなつもりはないから。でも浮気するならバレないようにもっと工夫しないとね」


 否定の言葉を重ねようとして思いとどまる。


 村上との契約――つまり契約浮気について考慮すれば、ここは否定しないほうがいいのか?

 しかし、浮気とは人に知られてしまった時点で問題になるのではないのだろうか。


 困った。

 どうすればいいのか、まったくわからない。


「どうして俺が浮気してると思うんですか?」

「あんなところに男女二人で委員の仕事、なんて言い分を信用するほうがどうかしてるんじゃない?」

「そう言われると返す言葉もありません」

「素直でよろしい。ま、本命にもきっちり優しくしてあげるなら浮気も大いに結構だよ、キミ」


 芝居がかった口調の吉野先輩は、両手を広げてくるりと一回転した。


「とうちゃーく! ここがうちなの」


 目の前に建っているのは背の高いマンションだった。

 玄関はオートロック式になっている。


 見慣れぬ建物を眺めていると、違和感を覚えた。


 なぜそんなものを感じるのかもわからない。

 さっきのランニングで疲れているせいか、考えがまとまりそうもなかった。


「送ってくれて、ありがと」

「いえ、それでは」


 吉野先輩に一礼して、その場をあとにする。


 結局、脅迫状の指示にどんな意味があったのかはわからないままだった。

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