第四話 契約浮気と脅迫状について
4-1
現代文の授業に集中できないのは、指先が痛むせいでもなければ、ヒヨコが描かれた絆創膏が気になるせいでもない。
俺は右手の人差し指を見つめたまま、左手を机の中に入れる。
今朝そこに入っていたガラス片はすでに処分している。
薄い水色をした破片には見覚えがあったが、思い出せないまま不要となったプリントに包んで捨てた。
今、机の中に入っているのは教科書とノート、そして脅迫状だ。
今のところ、これについて知っているのは俺と村上だけである。
ガラス片と脅迫状のことは村上にはすぐバレた。
同じ教室にいるのだから隠しようもない。
公にして犯人探しをしたほうがいい、と村上は言ったがそれは断った。
ただでさえ小森とのことで注目を浴びている。
これ以上目立つと、契約交際がバレる危険がある。
それでなくとも一週間ともたずに村上にバレたのだ。
これ以上のリスクは避けたい。
脅迫状とガラス片は問題だが、ただちにエスカレートするとも思えなかった。
村上も納得してくれたようで、雑誌のおまけでもらったという絆創膏だけをくれた。
次の問題は、この脅迫状について小森に報せるかどうか、というところにある。
脅迫状の文面から察するに、犯人の狙いは俺だ。
ということは小森に危害を加える恐れはほぼない。
それならば黙っていてもいいような気がする。
そんなとりとめのないことを考えていると、先生に指名されて村上が立ち上がった。
すらすらと教科書の朗読をする姿を見て、ふと契約浮気について思う。
契約恋愛はなんとなくやるべきことがわかる。
恋人関係を偽装し、周囲にそうだと誤解されるのが目的だ。
しかし契約浮気とは具体的になにをするものなんだろう?
浮気とは基本的に隠しておくべき関係のはずだ。
それを偽装する意義や方法がよくわからない。
考えているうちにチャイムが鳴り、授業は終わった。
先生が出ていくと同時に教室には喧騒があふれる。
俺は板書を消すために壇上へ向かう。
自分の書いた文字を消していく先生もいれば、クラス委員に任せる人もいる。
現国の先生は後者にあたる。
同じようにして村上が俺の隣に来た。
村上はそのとき自然な動作で、俺のポケットへとメモ用紙を忍ばせた。
「あなた、なにか隠しごとをしてない?」
放課後、下校中に小森は唐突に言った。
思い当たることが多すぎて、俺は息が詰まったような錯覚に陥る。
「どうしてそう思う?」
「先に質問したのは私よ」
「秘密はそれなりにある。誰でもそうだろう」
「ええ、そうね。でもみんな、あなたよりは隠すのが上手だと思うわ」
「俺はそんなにわかりやすいだろうか」
「ほとんど毎日顔を合わせていれば、知りたくなくてもわかるわ。で、なにがあったの?」
「大したことではない」
「あくまでしらを切るつもり? なら具体的に訊くわ」
小森は信号待ちで立ち止まると、俺の顔をじろりと見上げた。
「右手の絆創膏、それどうしたの?」
言葉に詰まった。
「少し切っただけだ」
「絆創膏に血がにじんでいるわね。昨日ケガしたならそうはならない。そしてあなたは朝からそれをつけてるわ」
「今朝ケガをしただけだ」
「あなたの家にそんなファンシーな絆創膏があるとは考えにくいし、仮にあったとしても性格的にわざわざ選ぶとは思えないわ。ケガをしたのは学校でのことね」
「……ああ」
「保健室に行ったとしても、そんな柄の絆創膏はもらえそうもないわね。じゃあ誰からもらったのかしら」
「村上がくれた」
「そうでしょうね。でも杏なら、普通は保健室に行くのをすすめると思う。でもそうしなかった。早朝のうちになにかやるべきことがあって、保健室に行く時間を取れなかったのね。他のクラスメイトが登校してくる前に、済ませることがあった」
「俺が悪かった。事情は説明する」
「最初から素直にそうすればいいのよ」
小森は勝ち誇った笑みを浮かべて、俺から視線を外した。
推理力が優れていると言うべきか、観察力に敗北したと言うべきかわからない。
ともかく秘密を明かすときが来たようだ。
「今朝、机の中にこんなものが入っていた」
カバンから脅迫状を取り出して見せる。
赤い字で書かれた文面を見た瞬間、小森は顔をしかめた。
「悪趣味ね」
「それと一緒にガラス片が入っていた。それで指先を少し切っただけだ」
「私には重要なことに聞こえるけど、どうして隠していたの?」
「大事にすると俺と君の関係が今まで以上に注目を集める。そうなれば、契約関係が発覚するリスクが高いと考えた」
「それなら私には教えてもいいと思うけれど」
「小森が知れば、犯人探しで事を荒立てると思った」
「それは正しい予想ね。こんなことをされて、黙ってるわけにはいかないわ」
「だから一人でやるつもりだった」
相手の目的はどうあれ、脅迫状やガラス片を使うという方法は正しくない。
犯人を見つければ、それだけで自衛の手段にもなる。
「あなたの心配はわかった」
小森はつまらなさそうに言って、脅迫状を返してきた。
「だからこっそり調べる。本当なら犯人を吊るし上げてやりたい気分だけど、あくまで見つけて注意するだけにするわ。それならいいでしょう?」
「ああ、助かる」
「それにしても、なんの権利があって人に『別れろ』なんて指図するのかしらね。あなたと別れたら、私が自分のものになるとでも思ってるのかしら。これも恋愛至上主義の弊害よね」
「そうなのか?」
「そうよ。そもそも最近、恋愛関係の噂が多いと思わない?」
特に思わない、と言いかけて気づく。
そういえば高倉が似たようなことを言っていた。
「友達からそういう話を聞いたことはある」
「そうよ。誰が大学生と付き合ってるとか、あの子が彼氏と別れたとか、そんな話ばっかり。学校全体で色ボケが強いと思うわ。発情期なのかしら」
「ヒトに発情期はない。いつでも性交できるという点で万年発情期だという比喩もあるが、定期的な発情期をもたない生きものだ」
「……セクハラなの?」
「なぜそうなる」
「デリカシーに欠けるってことよ。とにかく近頃、カップルが増えたと思わない?」
疑問文だったはずだが小森は俺の答えを待たずに話を続けた。
「はっきり言って変よ。いくら学校が恋愛至上主義と言っても、自然とここまでのことになるとは思えないわ」
「みなが恋愛に対して強い興味を持ったのは、なにか特別な理由があるということか?」
「ええ、たとえば裏で糸を引いている黒幕とかいるでしょうね」
「陰謀論めいてきたな」
「じゃあ、あなたはただの偶然だと思うの?」
「もしも急激に変化したとすればなにか原因はあってもおかしくはない」
それが人為的なものなのかどうかまではわからないが。
「なんだか不愉快だわ」
そう話しているうちに、いつもの交差点に着いた。
「じゃあまた明日」
小森は強引に話を打ち切るようにして、俺に背を向ける。
その背中が見えなくなるまで、俺はその場から動かなかった。
小森の姿が見えなくなったことを十分に確認したあと、俺は今歩いたばかりの道を引き返す。
高校からほど近い場所にある公園が待ち合わせ場所だった。
「思ったよりも早かったですね」
屋根のあるベンチの下にいた村上は、広げていた文庫本を閉じる。
そうして微笑む村上は、普段の姿よりも楽しげに見えた。
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