第三話 また契約を結ぶ
3-1
「じゃあまたあとで」
放課後になってすぐ、小森は軽く俺に声をかけたあと教室を出て行く。
演劇部の部室に向かうのだろう。
昼休みの一件で損ねていた機嫌は、もうすっかり治ったようだ。
俺も一度教室を出る。
約束の相手との時間までにはまだ余裕があった。
図書室に移動し、時間をつぶす。
いつもなら本を読むのだが、今日は思考が空回りして一ページも前に進まなかった。
三十分ほど経ってから、俺は再び教室へと戻る。
ほとんどの生徒がいなくなった室内には一人だけ女子生徒が待っていた。
「時間ぴったりですね」
村上杏は広げていた文庫本をぱたんと閉じる。
なぜか村上は自分の席ではなく、俺の席に座っていた。
「部活はいいのか?」
「演劇部なら、クラス委員の用事があると言って抜けてきました。よくあることなので疑われていないと思います」
俺がなぜ村上と密かに顔を合わせているのかといえば、理由は昼休みまで遡る。
体育館前で小森との契約交際を指摘されたあと、放課後に話がしたいと言われた。
小森には報せず、できるなら人の少ない場所でという条件付きで。
だから俺はここにいて、村上もまたここで俺を待っていた。
「本題に入ろう。話はなんだ」
「クラス委員の用事、と言ったら納得してくれますか?」
「納得はするが、肩透かしをくらった気にもなる」
「ではご期待通り、石井くんと小森さんの話をしましょう」
案外、茶目っ気のある言葉で話すようだ。
それともクラス委員のときは、わざと固い態度を心がけていたのだろうか。
知らない相手ではないはずなのに初対面のような気がしてくる。
「まずどうしてわたしがお二人の関係に気づいたか、ということですが」
「昼休みの質疑応答が失敗だったんだろう」
俺なりに努力したつもりだが、小森の反応を見るかぎり成功したとは言いがたい。
その結果、村上に契約関係がバレた可能性がもっとも高い。
「いいえ、その前です。わたしは体育館の前で話している二人の会話を聞いていました」
村上はあっさりと言葉を続ける。
「吉野先輩が『あまりに遅いから様子を見てきてほしい』と言ったので、わたしも南館の外に出たんです。すると二人が険しい表情で話しているのがわかりました。近づくと会話の内容も聞こえてしまったんです」
「……迂闊だったな」
あのときは緊急事態ということもあって、周囲への警戒がおろそかになっていた。
おそらく小森もそうだったのだろう。
周囲に人もいたが、大声で話していたわけではないので問題ないとたかをくくっていた面もある。
まさか村上が聞き耳を立てていたとは想像もしなかった。
「それでお二人が気づく前に部室へ戻って、以降は石井くんも体験したとおりです」
ならばあのとき村上が発した質問は、契約関係を知った上でのものだったということになる。
意地が悪い、という感想を抱いても許されるだろう。
「勘違いしないでくださいね、石井くん。わたしは別に、お二人が契約している理由や経緯を尋ねるつもりはありません」
「尋ねられても答えられない」
それは小森との契約に反する。
「でしょうね。他にも契約交際の事実を公表するとか、それを武器にしてあなたたちを脅そうとか、そういうことをするつもりありません」
村上は俺の机に腰掛けてから言葉を続けた。
「ただ、石井くんにはわたしとも契約してほしいんです」
「なに?」
あまりにも想定外の言動に頭がついてこない。
「俺に村上の偽装恋人をやれというのか?」
「少し違いますね。わたしと浮気をしてほしいんです」
「浮気……」
その言葉はなぜか俺の中ではサンタクロースと強く結びついている。
そのせいで脳裏には赤い服と白い髭が浮かんでいた。
「あまりいい提案だとは思えないな」
「そうですか? あなたと小森さんとの関係がウソであるように、わたしとの浮気もウソのものです。すべてがウソならモラルにも良心にも反さないと思いませんか?」
「だとしても、なぜそんなことを提案するんだ?」
「石井くんはどうしてだと思います?」
「……わからない」
小森との契約にはまだ理解できる部分があった。
方法の是非はともかく、偽装交際が必要なだけの事情があったように思う。
一方、村上の持ちかけてきた契約にはそれがない。
それが得体の知れない恐ろしさを感じさせた。
「わかりませんか。ではそれを知るために契約を結んでみませんか?」
「契約だというのなら、俺にもメリットはあるのか?」
「もちろん。それ相応の刺激があると思いますよ。なにせ浮気ですから」
村上は自身の目的を語るつもりはないようだ。
あくまで俺に契約浮気を結ぶかどうかを確認している。
考えはまとまらず、答えは出てこない。
「結論は急ぎません」
俺の混乱を悟ったように村上は言った。
「じっくり考えてください。それじゃあ、また」
村上が教室を出て行く。
きっと部活に向かうのだろう。
契約浮気。
俺の頭の中ではその言葉がぐるぐると意味もなく回り続けていた。
***
「なにかあったの?」
放課後、いつものように小森と待ち合わせて帰宅する。
俺の悩みは表情に出ていたようで、隣を歩く小森は怪訝そうな顔をしていた。
「いつも余裕がなさそうだけど、今日は特別余裕がなさそうに見えるわ。私との契約にまつわることかしら?」
「どうしてそう思うんだ?」
「なんとなく」
「苦手な言葉だ」
理由のない「なんとなく」が的中しているのだから小森は恐ろしい。
村上に俺たちの契約がバレた。
つまり俺と小森の交際はまったくのデタラメで、周囲をだますためのものだと知られてしまった。
いっそ小森にすべてを打ち明けるのも一つの選択ではある。
村上に口止めされているが、問題は俺だけのものではない。
小森と相談して、善後策を練るべきかもしれない。
しかし、契約を持ちかけてきた村上のことが気にかかった。
「なんでもない」
まだ答えの出せないため、小森の追求をごまかすことを選ぶ。
「サンタクロースについて考えていただけだ」
「あなた、やっぱりウソが下手よね。今は六月、クリスマスは半年以上先よ」
「ごまかそうとしたのは事実だが、サンタクロースについて考えていたのもウソじゃない」
小森はしばらく俺の顔をじっと見ていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「わかった、ごまかされてあげる。で、サンタがどうしたの? 実在とか非実在みたいな話でもする? あんまり楽しくなさそうだけど」
「サンタクロースになる方法について考えていた」
「なりたいの?」
「昔、憧れていた」
「へぇ、子どもらしい時期もあったのね。今じゃ想像もつかないけど」
「小森は嫌いか?」
「高校生にもなって『サンタさん大好き』って言えるほど子どもじゃないわ」
「そうか。ではこの話はやめよう」
「やめなくていいわ。サンタになる方法っていう雑学には興味がないわけじゃないから」
やはり小森は気難しい。
イマイチ言動が読めない。
「で、どうやってなるの? フィンランドに行けば、資格が取れるのかしら」
「ある人によるとサンタクロースになるためには、サンタクロースが存在しないことを知る必要があるそうだ」
「……どういう意味?」
「俺にもわからない。これは人に聞いた方法なんだ」
「まじめに聞いて損した」
小森は不機嫌そうにそっぽを向く。
意外と熱心に聞いてくれていたようだ。
サンタクロースになる方法を教えてくれたのは父だった。
小森に教えた方法も、幼い俺に父が言ったことだ。
その意味は今になってもわからない。
そして昔と違い、今となってはもう気軽に答えを尋ねることもできない。
***
小森と交差点で別れ自宅に帰宅すると、家中がピカピカに掃除されていた。
塩素系洗剤の刺激臭がかすかにただよっている。
「あ、おかえり」
風呂場から声が聞こえたのでのぞいてみると、マスクをつけた母がいた。
手にはブラシと洗剤を握っている。
換気扇が回っているのを確認してから「ただいま」と返事をした。
こうして我が家の大掃除がおこなわれるのは、決まって父のせいである。
「お金、振り込まれてたわ」
「そうだと思っていた」
でなければ母が洗剤を大量消費する理由がない。
掃除は母にとって貴重なストレス発散手段の一つだ。
「事前連絡もなしよ。電話なんかしてきても絶対出てやらないけど」
「前からそういう人だろう」
父と母が離婚したのは三年前、俺が中学一年生だったときのことだ。
原因は父の浮気であり、離婚に向けた話し合いは一切こじれなかった。
拍子抜けするくらいあっさりと両親は離婚した。
父は慰謝料の支払いに応じたし、家を母に譲り自分が出て行くことを決めた。
今も月々の養育費をきっちり振り込んでくれる。
それ以外にも俺の学費はすべて父が支払ってくれていた。
母は、そうやって毎月お金が振り込まれるたびにかつての怒りを思い出すようだ。
俺自身は父に対する怨恨はない。
時々どうしているのだろうかと思うだけだ。
両親が離婚してから、父とは一度も会っていない。
母に直接禁止されているわけではないが、俺が父と会うのはあまり良い気分がしないだろう。
父も同じことを考えているのか、向こうからの連絡もなかった。
母は風呂場の戸口から顔を出して、マスクを下にずらした。
「悟志のそういう冷静なところ、年々あの人に似てきてイヤ」
口元をへの字に曲げて、母は心底嫌そうな顔をする。
血がつながっている以上、俺が父に似るのは遺伝子のルールだ。
しかしそう言うと母は決まって「悟志はあたしが一人で産んだ」と無性生殖説を唱え始めるのでやめておく。
「あんな大人になっちゃダメよ」
母が父の話をするたびに、幼いころを思い出す。
昔、両親は仲が良かった。
少なくとも俺はそう思っていた。
母は毎日嫌な顔もせず父に料理を作り衣類を洗っていたし、父も長い休みには必ず家族を旅行に連れて行ってくれた。
それはお互いへの愛情がないとできないことだと思う。
父は落ち着いた人だったので、母とベタベタするようなことはなかったが、それでも自分の両親は愛し合っているいるのだと信じて疑ったことなど一度もなかった。
父は幼い俺に繰り返し「人間は間違えてはいけない生きものだ」と言った。
常に正しく生きなければいけない、と。
そのためによく学べと。
そうして父は俺に様々なことを教えてくれた。
空が青く見える理由、国の成り立ち、自転車の乗り方、電化製品の直し方、宿題をする意義などなど。
俺の疑問に父はその場で潤沢な知識を与えてくれた。
だが間違えてはいけないと俺に言った父は、もうここにはいない。
荷物をまとめた父がこの家を出て行くとき、俺は尋ねてみたくなった。
父が浮気をし、離婚に至り、家を出て行く……この一連の出来事は正しいことなのかどうかを。
父はこれまでに一度も間違えたことがなかったのかどうかを。
だが結局、俺はなにも言えなかった。
嫌味や恨み言に聞こえてしまうことが怖かったのだ。
そもそもその問いを発することが正しいことなのかすら俺には判断できなかった。
「掃除、手伝おうか」
「ううん、いい」
「母さん、今日は夜勤だろう。ちゃんと休んだほうがいい」
父と離婚したあと、母は看護師として働いている。
結婚するまではずっと看護師をしていたと話してくれたことがある。
仕事は深夜勤が多いが、それでも家事が疎かになったことはない。
俺も手伝おうとしているのだが母はあまりいい顔をしない。
離婚したことによる負担を俺に負わせたくないのかもしれない。
せいぜい洗い物と、干した洗濯物をたたむことくらいしか許してもらえない。
「んー……じゃあ交代。あとは流すだけでいいから」
「わかった」
母と二人で暮らす生活は幸せで楽しいものだと感じる。
しかし、その感覚が正しいのかどうかも俺にはわからなかった。
母が風呂場にまいた洗剤をシャワーで流す。
白い泡が排水口に吸い込まれているのを見て、思い出した。
俺のところにサンタクロースが来なくなったのは中学一年の冬。
ちょうど父と母が離婚したときからだった。
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