第17話 色の消えた世界

 美桜が去った病室で僕はひとり、嗚咽を止めることが出来なかった。

「美桜…………」

 彼女のそばに居ることを諦めてもなお、僕の胸を締め付けてやまないその名前。

 それを一度声に出してしまったら、もう止めることなど出来なかった。

 たったふたつの音を口にする度、この一週間の間に、そばで見てきた美桜の色々な表情が脳裏に浮かぶ。

 堰を切ったように溢れ出すとめどない涙と一緒に、彼女の名前を何度も、何度も、何度も……まるでうわごとかのように口にしてしまう。

 互いに呼び出されて出逢ったあの日、彼女は見た目とは裏腹に、純粋な少女の一面を僕に見せた。

 初めは憂いを帯びた表情で、よそよそしい笑顔をつくっていた美桜。悲しみや悔しさから涙を流していた美桜。僕との初デートで無邪気に笑う美桜。互いの手を重ね、想いが通じあった事に恥ずかしそうに頬を染めた美桜。急なイメチェンで僕にドッキリを成功させて。イタズラっぽく笑う美桜。僕が美桜をからかった事で、拗ねたり怒ったりしてしまった時だって可愛らしかった。

 そして初めてのキス。瞳を閉じて待っていた美桜。互いに緊張していたのは間違いなくて、唇が離れてからも幸せそうに笑う顔は艶めかしくて、ブレーキを掛けなければどうにかなってしまうのでは無いかと思うほどに色っぽかった。

 美桜もあれがファーストキスだと言っていた。と言う事は、あの顔はきっと僕以外まだ誰も知らない美桜だろう。

 けれどこの先、その表情を向けてもらえるのは……受け取る事が許されるのはもう僕では無い。

 きっとこれからは美桜に相応しい誰かが彼女の側で一緒に笑っていて、他人には見せない美桜の表情を僕以上に受け取るのだ。

 その事実が一番辛かった。もう彼女と一緒にいられないことよりも、他の誰かと笑っている美桜の姿を想像する事の方が、遥かに胸に刺さる。

 離れる事を選択したのは自らなのに、そんな考えばかりしてしまうのは、やはり僕が未練がましく、女々しい男だからなのだろうか。

 ならばせめて、美桜の隣に立つ男は、僕の全く知らない男であって欲しいと願う。

 時間と共に増す、心が抉られるかのような痛みは、既に事故で負った傷よりも遥かに深い物になっていた。

 こんな思いをするくらいなら、いっそ美桜を好きになんてならなければ良かった。そうすれば辛い思いなどしないで済んだのに。

 僕の中で美桜という存在はそれだけ大きな物へとなっていたのだ。だからこそ、今の僕が望むべくは美桜が幸せである事、それのみだった。


 自分でもどこからそんなに湧いてくるんだと思う程の涙を流し続ける僕の元へ、慌てた様子の隆哉が飛び込んで来た。

 涙で滲んだ視界では隆哉の顔まで確認することは出来ないが、彼の仕草には怒りの感情が見て取れる。

「何があったんだ! 夢咲さん、すごい勢いで走っていったぞ!」

 夜の病院である事を忘れさせるような強い口調だった。

「今は話したくない」

「ハル!!! お前っ!」

 滅多に聞くことのない隆哉が本当に怒っているときの声。

 隆哉が感情をむき出しにしてこちらに歩いて来るのが足音だけでも良く分かった。

 そして、きっと酷いことになったままだろう僕の顔を隆哉は睨んだ。

 その先に続くべき言葉に詰まっているところをみると、きっと隆哉の中で何かがせめぎ合っていたのだろう。

 しばらくの逡巡の末、隆哉は諦めたような大きなため息を吐いた。

 ガチャリとやたら大きな音がして、隆哉はさっきまで美桜が座っていたパイプ椅子に、半ばやけっぱちになったかのように腰を掛けて、足を組んだ。

 そして、何か言うより先に、ろくに手が使えない僕に代わって、ティッシュで涙を拭ってくれた。

「あーったく、お前はなんつー顔してんだよ」

 ティシュをごみ箱に放りながら隆哉が言った。

「悪いな。で、姉ちゃんは?」

「夢咲さんを追いかけさせた」

「……そうか」

 それっきり、僕達の間には沈黙の時間が続いた。隆哉とこんな空気になるのは幼い頃に大喧嘩した以来かもしれない。もう喧嘩の原因すら思い出せないが。

「明日、というかもう今日だけど。朝から部活あるんじゃないのか?」

「あったよ。もう顧問に休むってメールしてあるけどな」

 不機嫌そうな隆哉に、そっか、とだけ言うと、また沈黙が戻った。

「ハルは、きっと聞いても答え無いんだろ?」

 隆哉が諦めた様な物言いをする。

「悪い。今はタカにも話すわけにいかない」

「別にかまわない。お前が話す気が無いなら、俺は少し寝かせてくれ」

「わかった。おやすみ……」

 隆哉の返事は無かった。そのかわり、しばらくすると隆哉の寝息が聞こえてきた。

 長い付き合いだ。語らずとも、僕の気持ちを察してくれる親友の存在はありがたいものだった。

 

 先程までの涙は止まったが、胸を突く痛みはそう簡単に収まるものでは無い。目を閉じれば、また美桜の顔が、美桜の声が、美桜の匂いが、頭の中に浮かんではすぐに消えてゆく。

 さっきまで手のひらに残っていた小さな手の温もりは、もう感じる事が出来なくなっていた。

 本当に、美桜と歩む未来は無かったのか、もっと僕にスマートなやり方は無かったのか?

 いくら考えたところで、分からなかったからこの選択をしたのだ。いまさら簡単に答えが出る訳がない。

 結局その晩、僕は寝ることすら許されぬまま、朝を迎えることになった。

 そして、朝の八時を過ぎた頃、僕はベッドに乗せられたまま、看護師さんの手によって六人の大部屋へと移動させられる事になった。

 僕の移動と同時に、もうすぐ両親が来るとの連絡が入り、隆哉と姉ちゃんは家へと戻る事にしたようだ。

 姉ちゃんによれば、美桜は朝まで姉ちゃんと一緒に待合室で休んで、先程帰って行ったらしい。

 僕に言いたい文句が山ほどある様子の姉ちゃんだったが、隆哉がそれを制して連れ帰るという形になった。

「なんかあったら呼んでくれ。エロ本以外なら届けてやるよ」

 姉ちゃんを先に病室から追い出した隆哉がニヤッと笑いながら言った。

 おかげで検温に来ていた若い看護師さんに、あらあら、と笑われるハメになる。

「馬鹿な事言うなよ!」

 僕の言葉を無視するように背を向けた親友は、後ろ手を振りながら帰って行った。


 午前中はもう一度CTによる精密検査を受けけた。そして、両親が同伴してくれた診察では、昨晩とほぼ同じ診断結果を伝えられた。肩関節が脱臼していなかったのは不幸中の幸いらしく、左上腕骨折は手術する事なく、ギプスで少なくとも三週間の固定をするそうだ。

 これで絶対安静も解かれた。日常生活に支障が無ければ、今週中にも退院できるそうだ。

 折れた左手のリハビリは痛みが引いてから早めの段階から行うらしい。

 ただ、ムチ打ち症状により強ばっている筋肉は、退院後も整形外科に通う事になる。

 慌ただしくしているうちに、昼を過ぎていて、あまり美味しいとは言えない昼食の後、警察官二人が事情聴取に来た。

 もちろん用件は事故の事後処理の為である。

 母さんはひとまず帰宅したが、病室での未成年の取り調べという事で、父さんが同席してくれる事になった。

 誰かにバイクを蹴られた可能性があることは伏せ、転がっていた石にハンドルを取られ、誤って自爆したとだけ伝えると、少し疑わしい顔をされたが、一瞬の事でよく分からないままだという結論で、警官の二人はそのまま引き上げてくれた。

 帰り際に免停覚悟で、免許証への加点についてを聞いたところ、周囲に影響のない単独の自損事故なので加点や罰則は一切ないらしい。

 それを聞いて、他人を巻き込まなかった事にホットする。

 しばらくして、警官を見送りに出ていた父さんが病室に戻って来た。

「大変だったな」

 父さんはパイプ椅子に腰掛けながら言った。

「心配掛けてごめん」

「あぁ、心配はした。最初に知らせを聞いた時は生きた心地がしなかったからな」

 父さんは色々言いたい事を飲み込んだ上で話しているのだろう。それに対しては申し訳ない気持ちでいっぱいだが、どうしても気になることがあった。

「あのさ、ちょっと聞きたい事があるんだ」

「なんだ?」

 僕は生唾を飲み込んでから父さんに尋ねた。

「僕のバイクはどうなった?」

「なぁ、ハル……先に聞いておく。お前がそれを知りたがるって事は、またバイクに乗りたいって思っているのか?」

「いや、そういう意味じゃ……」

 父さんの険しい顔に言葉が詰まる。

 それでも、父さんは頭ごなしに怒るような事はなく、落ち着いた口調で僕に話した。

「これだけの事故をして、周りに心配を掛けて、それでもまだ乗りたいって言うのは、お前らしくないと思ったんだ……」

「ちょっと待って、それどういう意味?」

 父さんはどこか遠回しに尋ねていたが、ついに核心を突くような一言を言った。

「あの事故は本当に単独の自爆なのか?」

「えっ……」

 一瞬、言葉の意味が理解できないでいた僕に、父さんはため息を吐いてから、苦々しく話した。

「実はな、さっきの事情聴取の前に警察から聞かされていたんだが、救急車を呼んでくれた人は、おまえが転ぶ瞬間を見ていたそうだ」

「それって……」

「暗くてよく見えなかったらしいが、原付バイクに至近距離から追い越される瞬間、お前の車体が不自然に横に倒れたってな。つまりは当て逃げ、もしくは故意に横から車体を幅寄せされたんじゃないか、って警察の人は話していたよ」

「…………」

「現場検証では石の話なんか出ていなかったし、ハルの話と目撃証言は異なっている。向こうさんにはどうするか問われたんだが、おまえの意見を尊重してもらうよう、図ってもらったよ。もしそれが事実なら事件にしたくない何かの理由があるんだろ?」

「父さん……」

「母さんにはまだ話してない。もちろん親としては許し難い話だ。なんせ一人息子の命に関わる。だからこれだけは言っておく。お前はよく誰かの為に行動しようとするが、自分の事をもっと大事にしなさい。自分を大切に出来ない奴が、他の人間を大切にする事は出来ないからな」

「…………」

 僕は返す言葉が無かった。確かにバイクの事も気になっている。だが、懸念材料がもうひとつ。それはコンパートメントに入れたままだったスマホがどうなったかだ。

 何かしらの連絡を取りたくなった時に手元にスマホが無いのは不便だし、何より美桜が残したというLINEのメッセージの事だって気になる。いまさらどうこう出来る訳ではなくても、最後に貰ったメッセージくらいは確認したかった。

 しかし予想外の父さんの話に、今はそれを聞けるような空気では無くなってしまった。

「今日はもう帰ろう。おまえが何を考えているかは分からないが、何か言いたくなったら言いなさい」

 立ち上がった父さんは少し悲しげな背中を見せながら病室を出て行った。

 それから四日後、日常生活に不自由のない程度に動ける様になった僕は病院から退院した。



 金曜日、この日は左手にギプスを付けたまま、約一週間ぶりの登校となった。

 自転車にはまだ乗れないので、今日は母さんが車で送ってくれた。

 朝礼前の教室では、クラスの男子が集まってきてくれ、ものすごく心配してくれたのだが、この扱いには驚きを隠せない。

 こんな事故を起こし、クラス内でどんな腫れ物扱いを受けるのか、と思っていたが、そこはどうやら隆哉の根回しがあったようだ。

 結局フロントフォークが歪んでしまった僕のPCXは廃車となり、コンパートメント内で充電していたはずのスマホも見つから無かったらしい。

 恐らく事故の衝撃でカバーが開き、どこかに飛び出してしまったようで、恐らく既に車などに踏まれているだろうという見解から、遺失物届を出すこともしなかった。

 仕方なく昨日は病院の帰りに新しい機種を購入する事になり、電話番号こそ引き継ぎの契約をして貰えたが、内部のデータは殆ど残らなかった。

 家に帰れば、PCのバックアップから簡単に復元可能かと思いきや、OSのアップデートを長らく更新していなかったが為に『バージョンが合いません』というメッセージひとつで万策尽きてしまったのだ。

 連絡先は少し前にキャリアに保存していたデータがあり、直近で連絡先を交換したばかりのひとりを除き、ほとんど復元が出来た。

 しかし、LINEはそうはいかなかった。電話番号から自動で再登録された友人以外、つまりLINEでだけ連絡先を交換していた友人は、全てを入れ直す作業が必要で、これはえらい手間だ。

 今もクラスメイト達が代わりにふるふるをやってくれていて、分かる範囲の身近な所から空白を埋めている。

「それにしても東雲がバイクとか意外すぎるぜ。いつの間に免許取ったんだよ!?」

 一番ガツガツと話してくるのはやはり内田だった。

「入学してすぐ免許取ったんだ」

「まじかよー、美桜ちゃんと二人乗りとかうらやまー」

 僕と美桜が分かれたとは露とも思っていないのだろう。

 それ以外にも質問攻めをしてくる彼だが、僕が事故を起こした事を忘れさせるような明るい反応には、精神的に救われる面もある。だから僕としては非常にありがたいものだった。

「あんた、後でちょっと話があるわ」

 そんな中、男子の輪をモーゼの如く真ん中から突破して来たのは藤堂だった。

 登校するや、一部の女子からは鋭い視線を向けられているのにも気づいてはいた。もちろん藤堂もそのうちの一人だった。

「あ、あぁ……」

 僕は濁すような返事しか出来ない。藤堂の要件は間違いなく美桜関係の話だろう。

 病院で別れを告げて以降、顔を合わせていなかった美桜だが、風邪を引いたという理由で、あれ以来登校して来ていないらしい。

 朝のホームルームが終わると、僕は担任と共に、すぐに校長室に呼び出された。

「まったく、Dクラスでは深夜に原付で補導された生徒が出たと思ったら、今度はCクラスでバイク事故! こんなものは学校史に残る恥辱だ。私は頭が痛い!」

 机に手を叩きつけながら言ったのは校長ではなく、傍に控えていた教頭で、僕には二ヶ月の停学という処分が下された。

 ただし、月明けに行く、修学旅行だけは特別に参加を許されるらしい。

 Dクラスで補導された生徒とはもちろん迫田だ。あの日、奴は速度違反で逮捕となり、高校生だった迫田のみ、深夜徘徊として警察に補導されていったらしい。

 美桜が登校して来ない件と、迫田が停学になった件は、お見舞いに来てくれた隆哉や浩介を通して耳にしていた。

 僕も停学は免れないだろうとは思ったが、二週間とされた迫田に比べ、僕の二ヵ月は四倍の長さだ。見せしめとしたい学校側の思惑が明らかにみてとれる。

 校長室から教室に戻ると、僕は荷物を片手でカバンに詰め込む。気の毒そうに見つめる男子の視線と、睨みつけるような藤堂の視線を背に、僕は教室を後にした。

 駅までは歩き、そこからは電車で誰も居ない自宅に帰宅すると、すぐにベッドに仰向けになって横たわった。それ以外何をしたら良いのか全く分からない。

 帰宅を指示されたとは言え、藤堂の話をろくに聞かず帰って来てしまったのは後々あとを引きそうで末恐ろしい。

 なんとはなしに、前のものとほとんど見た目が変わらないスマホを開いてみたが、まだろくにアプリすら入れていないので初期状態に等しい。

 やる事もないので、ストアからアプリをダウンロードしつつ、ログインが必要なものはそれぞれIDとパスワードを入力していく。これもなかなかにめんどくさい作業だが、幸か不幸か時間ならたっぷりある。

 しかしだんだんとやっている事に意味を見い出せ無くなった僕は、途中で作業に飽きてスマホを放り出した。

 瞳を閉じ、僕は何をやっているんだ……と呟く。

 あの日から、僕を取り巻く世界はいつの間にか色を失っていて、既に無味な物になってしまっているように思えた。

 生まれてこの方、ずっと彼女なんていなかったのだから、美桜と知り合う前の状態と何ら変わらないハズなのに、ぽっかりと空いた胸の穴は当分埋まる事がなさそうに思える。

 僕は色のない世界にいる自分自身になんら意味を見い出せ無いまま、惰眠を貪ったていた。

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