第16話 僕の選択
昨晩は早々に寝落ちしてしまった為か、翌朝は夜明け前に目が覚めた。
先週が特殊だっただけで、いつもの週末なら釣りに行く時間だ。
人間の脳とは不思議なもので、眠る事で色々な記憶が整理されるらしい……
今回の事も例に漏れず、迫田によって美桜との間に生まれてしまった気まずい空気も、明日ふたりきりで過ごす時間があるのだから、ゆっくり話せばすぐに元に戻れる様な気がしてきた。
そしてその原因となった迫田の方とも、最後は一対一で向き合ってキチンと話すしかない。
奴が向こうから来る時は多人数で押しかけて来るというならば、週明けにでも、こちらから迫田が一人でいる時にアプローチしてやろう。やられてばかりでは男が廃る。僕はそんな決意をした。
状況が何か変わった訳ではないが、自分の取るべき行動方針が決まると、ある意味で現状を楽観視出来るようになるものだ。そもそもいつまでもクヨクヨしていた所で仕方が無い。
ちょうど先週行かなかった釣りの支度がそのままにしてあるし、今日のバイトは夕方からだ。なら今から僕の取るべき行動は決まっていた。
そそくさと着替えを済ませ、いつの間にかベッドの上に転がっていたスマホをポケットに突っ込む。
釣り道具を玄関に下ろしてから、キッチンでインスタントコーヒーを入れ、目覚めの一杯と決め込んだ。たかだか先週やらなかっただけなのに、やたらと久しぶりに感じるから不思議だ。
流しの洗い桶には父さんのマグカップが入っていて、きっと父さんも目覚めの一杯を飲んでから、既に釣りに出かけたのだろう。
同じように僕も飲み終わったマグカップを水に漬けると、バイクに荷物を積み込んで家を出た。
秋も深まりをみせ、早朝のバイクはだんだんと寒くなってきた。昨日の登校前、早朝のバイトに向かう時もそうだった。
天気予報によると今日はこれでいて昼から暑くなるという。そうなると着るものに困るのは釣り人というか、アウトドア愛好家のあるあるだろう。
自宅から十五分ばかり走って、海辺の釣具屋さんで餌を仕入れがてら近況を聞く。教えられたポイントに向かうと、既に何人かがその場所で竿を並べていた。
「おはようございます」
一声掛けてから隣に入ろうとしたところ、声を掛けた相手はよく見知ったオジサンだった。僕がこの釣りを始めた頃、釣り場で良く会ううちに仲良くなり、初心者の僕にも懇切丁寧に指導してくれた、ある意味師匠に近い存在だ。
「お、ボウズじゃねえか、久しぶりだなぁ。まーたこんなとこ来て。釣りなんかしてないで彼女作れ、彼女!」
気さくなオジサンは、いつも通り、挨拶代わりの冗談を言ってくる。
「あ、今はもう間に合ってます」
いつもなら『いやー、シロギスが恋人ですから!』と返して、『糸を垂らす場所が違う!』と言われる流れが定番になっていたのだが。普段と違う回答に気づいたオジサンが目を丸くしてこちらを見た。
「なんだ!? ボウズ、陸でもちゃんと釣り上げたのか?」
「一応、はい……」
この場でなら隠すことでも無い。正直に首肯すると、おぉー! とばかりに、本気で驚いたような顔をしたオジサンが、僕の肩をバシバシと叩いた。
「やるじやねぇか! で、どんな子だ、可愛いのか?」
「正直、僕が気後れする程……」
「なんだ、なんだ、情けねえ。どれどれ、写真くらい持ってるんだろ?」
野次馬根性丸出しだが、悪い人で無いのは常々分かっているので、先日の体育の前に撮って、美桜が送ってくれた写真を見せた。
「あらま、こりゃ驚いた。あれだな、えーけーなんとかのなんとかちゃんみたいなかんじだな!」
「いやいや、メンバーいすぎてなんとかちゃんとか言われても、全く誰かわかりませんから!」
僕のツッコミにオジサンは、アイドルなんかコジレイしか分からんわ! などと言って一人で笑っていた。ちなみに、コジレイとは釣りガール? 釣りアイドル? の元祖ともなった人である。
「とにかく、ボウズにはもったいねーべっぴんさんじゃねーか。あとはせっかく掛けたキスも、釣り上げる前にヒラメに食われちまったら仕方がないだろ? 横からカッ攫われない様に注意しねーとなぁ!」
冗談めかして言うオジサンは、日焼けで真っ黒な顔から白い歯をのぞかせ、ニカッと笑う。
「なんでも例えが釣りになるのは流石です。座布団一枚で良いですか?」
「座布団の用意より、ボウズも早く支度しないと、俺がここの魚釣りきっちまうぞ?」
あんたが写真見せろだの妨害してたんだろ、とは流石に年長者に対してつっこめず。まぁ僕も今まで散々言われてきて、美桜を自慢したい気持ちが無かったとは言い難い。
隣がこの人ならとクーラーをもう少しコチラに寄せ、オジサンと話せる距離で自分の釣り竿を継いだ。
釣りをしている時は全てを忘れ、ひたすらに目の前の魚を追い求める。その心は子供から大人まで全ての釣り人で平等。それこそ、魚釣りの醍醐味だ。
昼過ぎまて、オジサンと一緒に小移動を繰り返しながら砂浜で釣りをし、帰る前に釣れた魚たちの写真を撮ろうとした時だった。
スマホの電源ボタンを押してもカメラどころか本体自体が起動しない。どうやら昨晩、充電をしないまま寝落ちてしまった為、とっくにバッテリー切れになってしまっていたようだ。どうりで朝からバイブによる通知すら入らない訳である。
仕方なし、そのまま道具の片付けを済ませ、オジサンに挨拶をしてから先に釣り場を後にする。
バイクに戻れば、シガーソケットから繋いだスマホの充電器が付いているので、帰宅しながらでも充電すれば良い。
昼を過ぎた海辺は、朝と違って既に暑いくらいの陽気になっていた。それでも真夏のジメジメした暑さでは無いので、カラッとしていて気持ちがいい。帰り道にコンビニでアイスでも買って、眠気を覚ましてから帰るのも良いだろう。
家に着いてからは、釣れた魚の下処理をしたり、お風呂に入ってそのまま道具を洗ったりと、慌ただしくやっているうちに、夕方のバイトに行く時間が近付いてきた。
本当は。ひと眠りする時間くらいは残して釣りをやめるつもりだったが、ついついあと一投、あと一投を繰り返してしまい……結局はやたらと時間を引き伸ばして釣りを続けてしまった事は、反省しておくべきだろう。
再びバイクに跨り、バイト先への道を走っていると、ふと昨晩の事が脳裏に過ぎった。
あの後、彼らはどうなったのだろう……
普通に考えれば速度違反の切符だけで済むのだろうが、逃走したともなれば、その間に違った交通違反を積み重ねるかもしれないし、下手をすれば、公務執行妨害とかそういった別の罪まで追加されるのだろうか?
逃げ切ったとして、ドライブレコーダーが高性能な今、警察が本気を出せばあっという間に検挙は免れまい。
まぁ、既に僕が何を考えたとて詮無きことだ。
朝から釣りをしていて、身体が疲れているのは否めない。ならば余計な考え事でバイト中に無駄なミスを誘発するべきではないだろう。僕は今キチンとやるべき事は、やらなければなるまいと、己の気を引き締めなおした。
その日のバイトはこれと言った問題も無く退勤時間を迎える事になった。
店長とは、迫田がまた店に来た時のために、その場から離れる等の対応を話し合ったりもしたが、心配は無用に終わったように思われた。
一緒に勤務していた後輩と店先で別れ、バイクに跨って走り出した時、ふと自分がスマホを携帯していない事に気が付いた。
釣りの帰りに充電の為、バイクのコンパートメントに入れてずっとそのままだったのだ。
家に着いたら忘れないで出さないとなぁ……などと思いつつ運転をしていると、後からこちらより速いバイクが走って来る。
昨日の彼らでは無いが、甲高い排気音からしてツーストの原付か原二だろう。
朝から動いていて正直疲れ切っている僕は、追い抜くなら勝手にどうぞ、とばかりに車線を少し左に寄せ、後ろのバイクに道を譲る。
追い抜きざま、フルフェイスを被ったやたら図体のデカい運転手がコチラを向いた。車線を譲ったのに気が付いて頭を下げていくのかな? そう思った時には、自分のバイクが傾き、進路はあらぬ方向を向いていた。それこそ声を出す間すら無い。
一瞬の時間がやたらと引き伸ばされたかのように感じる。
フロントタイヤは車道の左端である白線を超えた。それだけでは収まらずに路側帯のアスファルトをも超え……時速五十キロ近いスピードを維持したまま歩道の縁石に突っ込む。
行き場を失った運動エネルギーはフロントタイヤ一点に集中し、リアタイヤを跳ね上げる。自分のお尻がスクーターのシートから離れ、前宙をした様な状態になって空中に放り出され、次の瞬間には身体の左側から地面に叩き付けられた。
同時にガシャンという落下音とザーッと地面を擦りながらバイクが転がっていく音が聞こえてきた。
口の中には鉄の味が広がり、全身が麻痺したかのように痺れて動かない。アスファルトの先に赤いテールランプだけが視界に入った。
『これは、やばいやつだ……』そう思っているうちに、だんだんと目を開いていることすらも困難な状態になり、瞳を閉じる。
脳裏には『春樹くん』と呼びかける美桜の笑顔が浮かんですぐに消えていく。待ってくれ、行かないでくれ。いくら心で叫んでも、もう何もする事ができない。
誰かに呼びかけられている様な気もするが、次第にそれすらも分からなくなり…………僕はそのまま全ての意識を手放した
僕が目を覚ました時、真っ先に見えたのは無機質な白い天井と、瞼を泣き腫らした美桜の顔だった。
「ここは……」
「春樹くん、分かる?」
「美桜がどうしてここに……」
「良かった。春樹くんの目が覚めてくれて」
美桜の言葉を不思議に思った僕は、周りを見渡そうとしたが、予期せぬ痛みから顔を顰めるだけになってしまう。
「無理しちゃだめ」
ひとまず美桜の言葉に従って、その場で大きく息を吐いた。
「僕は、どうなったんだ……」
現状、やや胸のあたりが痛むが、話をする分には支障なさそうだ。
「春樹くん、バイクで転んで救急車で運ばれたの、覚えてる?」
「あぁ……そうだ。その後すぐ気を失ったのか」
今、右手だけが暖かいのは、どうやら美桜がずっと手を握っていてくれたからのようだ。
「俺、お医者さん呼んできます」
隆哉の声に目線を向けると、彼の背中姿だけ確認できた。
僕が気が付いたと分かり、父さんや母さん、姉ちゃんまでがベッドの周りに集まる。東雲家一同が一つの病室にそろい踏みだった。
正直、申し訳ない気持ちがいっぱいで、いたたまれない。無理にでも体を起こそうとすると、身体中から鈍い痛みが走った。
「だから、無理しちゃダメだって!」
美桜に手で制されて、今度こそ素直に従い、身体から力を抜く。
今更気付いたが、首はハーネスみたいなもので動かせないようにされていて、左手はギプスに覆われていた。
「明日、もう一度精密検査が終わるまでは絶対安静だそうだ……」
「あなたって子はみんなに心配かけて……」
父さんと母さんは今まで張り詰めていた気が少しだけ緩んだのか、涙を零しながらも、いくらか目を細めた。
病室の窓から見える外が暗いので、まだ夜は明けていないようだが、どのくらい気を失っていたのだろうか。
今が何時なのかを聞くと、深夜の二時半との答えが返ってきた。つまりは、四時間ほど気を失っていた事になる。
自らが置かれた状況を理解し始めた頃合で、隆哉が当直の若い男性医師を連れて戻ってきた。
「目が覚めたばかりで申し訳ないんだけど、わたしは東雲君の主治医になった高木です。よろしくお願いします」
研修医から上がりたてと言われてもおかしくない年格好の高木医師は、首から下げた名札をコチラから見えるようにして見せた。真面目な好青年を地で行くタイプの人で、患者さんに好かれそうな人当たりの良い話し方だった。
「すみません、お世話になります」
僕の言葉に優しく笑みで返す高木医師を見て、美桜が慌てたように手を離した。
「わたし邪魔になっちゃうから離れるね」
手を離して、座っていた椅子から立ち上がろうとした美桜を高木医師が手で制した。
「君は東雲君の彼女さんでいいのかな?」
はい、と美桜は躊躇いなく頷く。
「なら、そのまま彼の手を握っていてくれるかい? きっとまだ目が覚めたばかりで不安だろうからね。その方が東雲君も落ち着くだろう」
「わかりました」
美桜がパイプ椅子に座り直し、僕の右手は再び優しい温もりに包まれた。
それを確認してから、高木医師が診察を始める。
「では東雲くん、頭を打って気を失っていたという事で、簡単なテストをしてもいいかな? あっ、頷くと首に負担がかかるから言葉で答えてね?」
「はい」
「じゃあまず、この指は何本?」
ピースマークをされた手が向けられる。
「二本です」
「では2+1は?」
「3です」
「お名前と家族構成をいいかな?」
「僕は東雲春樹、父さん、母さん、姉ちゃん、あと手を握ってくれてるのは彼女の美桜です」
家族と言われて、最後に美桜の名前を入れたのは、少しでも彼女に安心して欲しかったからだ。実際美桜もそれに気がついていて、目を細めているのが見て取れた。
「君がここに運ばれる前の記憶はあるかな?」
「バイクで転びました」
「その原因は?」
僕は頭の中で状況を整理する。あの瞬間、僕のバイクは不自然な挙動をしていた……そう、何かを踏んで車線がズレたのではない。
まるで横から押されたような……
導き出された答えは抜き際の原付になにかされ、故意に転ばされた、という事だった。
「…………」
正直、あのガタイの良さと、ツーストの原付バイク。ミラーシールドのフルフェイスを被っていて、顔こそ見えなかったが、あれはアイツだったのではないか?
御礼参り、という単語が脳裏に浮かんだが、もちろん確信はない。疑わしきは罰せずともいう。
結局、僕は何も答えられなかった。その証言をしたらどうなるか、先を考えたら恐ろしくなったのだ。
これは立派な傷害事件、下手をすれば殺人未遂という可能性もあるのではないか。そしてその犯人に心当たりがある。
だが、決め付けるには時期尚早だ……
「少し整理してから答えてもいいですか?」
高木医師は頷いた。
「後日、警察も事情聴取に来るだろうから、それまでに思い出せばいいよ」
声音は優しく話し掛けてくれているが、出てくる警察という単語には恐怖を感じた。
「今わかるのは、気が付いた時にはもう地面に転がっていて、離れた場所に倒れたバイクのテールランプが見えていた、と言うのが最後の記憶です」
後ろめたさから、僕は高木医師から目を逸らす。そばにいた美桜が不自然な様子に気が付いたのか、何か言いだ気な表情をしたが、それより先に高木医師が言葉を継いだ。
「わかりました。ひとまず、東雲君の現状ですが、内蔵器はCT検査で無事が確認されています。脳内出血も現状確認されていません。フルフェイスを被っていたのが不幸中の幸いです。事故の衝撃で強く頭を打ってますから、脳震盪で気を失ったんでしょう。恐らく鞭打ちの症状もありますね。内出血や裂傷も複数箇所ありましたので、今は止血してありますが、明日以降、何針か縫う事になるでしょう」
「お手数おかけします」
母さんが頭を下げると、高木医師はいやいやと首を振る。
「記憶や脳の機能なども大丈夫そう見えますね。左の上腕は骨が折れている可能性が高いので、明日の検査の後、整形外科の先生から今後の治療方針を話してもらってください。それと交通事故の後遺症は後からわかる場合もありますから、何かあったらすぐにこ言って下さい」
「ありがとうございます」
父も頭を下げると、では、と言って高木医師が病室を後にした。
手続きや着替えの話を済ませると、準備の為に両親は先に帰ることになった。
隆哉や美桜も両親が車で一緒に送ると申し出ていたが、美桜が自転車で来ていた事もあり、今晩はここに残りたいと言うと、彼女だけを残すのは……と言った両親に気を使って、姉ちゃんと隆哉も残ってくれることになった。
両親を見送って四人になった病室で、僕は真っ先に謝罪を口にした。
「三人とも迷惑掛けてごめん」
「まったく、みゆちゃんからハルが事故ったって聞いた時はびっくりしたぜ」
隆哉が頭を掻きながら言うと、姉ちゃんは冗談じゃ済まされないわよ、と言ってから後を続けた。
「あんたって本当に鈍臭い子なんだから……まったく、何してんのよ!? お母さんなんかヒステリック寸前だったのよ?」
姉ちゃんからの叱責には返す言葉がない。
「素直にごめん。美桜にはタカが伝えてくれたのか?」
「あぁ……お前と連絡が取れないって言われてな」
「そうだよ、春樹くん。昨日の夜からまるっきりLINEの返信来ないし!」
美桜が少し怒った様に言う。
「みゆちゃん、喉渇かない?」
「えっ、あ、うん」
美桜の様子を見た隆哉は、僕らに気を使ったのか、姉ちゃんを連れて病室を出て行った。
ずっと握ったままだった手に少し強めの力を込めると、本当に心配したんだから……と言った美桜が、僕の胸に顔を埋める。
たまに鼻を啜っているようなので、泣き顔を見られたくないのかもしれない。
左手が使えない今、泣いている美桜の背中を抱く事すらままならない自分が不甲斐ない。
「謝る事しか出来なくてごめん。昨日は疲れて寝落ちしちゃったから、スマホの充電忘れててさ。朝から電源落ちたままで釣りしてたみたいなんだ」
「じゃあ、LINE送ったのに既読付かなかったのはそういうこと?」
「あぁ、ごめん。それまだ読めてないや……」
美桜のくぐもった声に答えると、彼女は大きなため息をついて顔を上げた。
「もうっ、わたしがどれだけ心配したと思ってるの!」
泣きながら怒る美桜に僕は動揺を隠せない。
「未読スルーとか、わたし嫌われちゃったんじゃないかって。ものすごく悩んだんだから! こないだは優しい言葉をくれてたけど、やっぱりこんな春樹くんを振り回してばかりの女なんか、嫌われて当たり前なんだって……」
泣き腫らした顔のまま、美桜は僕の目見据えた。
「女の子に心配ばかり掛けて、あげく泣かせるなんて、男としては失格だな」
「バカ春樹……」
体育館で応援してくれた時以来、美桜に呼び捨てにされた。
彼女に怒られているという、今の状況に似つかわしくはないが、なんだかむず痒い気持ちになる。
「夜になっても連絡つかないままだから、流石におかしいと思って飛鳥君に聞いたら、バイクで事故して意識不明とか言われるし!」
「それは、驚くよな……本当にごめん」
「もう、わたしの頭のなかはぐちゃぐちゃだよ! 今だってどうしたらいいのかわかんない」
唯一動く右手で美桜の手をキツく握る。今の僕にたったひとつ出来ることだった。
「けど、なにより春樹くんが無事で良かった……」
「ははは、僕も転んだ瞬間、美桜の顔が浮かんだよ」
「笑い事じゃないわよ! 運ばれた病院を聞いてからすぐ自転車に乗って、漕ぎながら、もう会えなかったらどうしようとか……間に合わなかったらどうしようとか、悪いことばっか思い浮かんでくるんだから! どれだけ無事でありますようにって、神様にお祈りしたと思ってるの?」
目を腫らして泣く美桜がベッドに身体を預け、もう一度僕の胸に顔を埋めてきた。
「もうこうやって話すことも出来なかったら、美桜って名前を読んでもらえなかったらって……」
くぐもった声音で言った彼女を、僕は見てはいられなかった。美桜にこんな辛い思いをさせてしまった犯人が自らである事が許し難い。
そしてこの先も僕が美桜の隣に居ることによって、美桜を悲しませてしまう事が起きるのが怖かった。美桜の泣く姿など見ていられない。
美桜守るなんて言葉は、もう簡単に使える訳がなかった。
今回のざまを見れば明らかだろう。自分の身すら守れない人間がどうやって彼女を守るというのだ。
僕は自らの無力さを知ってしまった。きっと僕は、美桜が彼女になってくれてから調子に乗っていたのだ。今なら何でもできる、そう思い込んでいたに違いない。
だが、事故を起こしたという現実を目の当たりにして、その実、本当の自分は何も出来ない人間だった事に気付かされた。仮に犯人が迫田であったとして、僕は奴に屈したのだ。
こんな僕では、美桜に必要とされる理由はない……これが僕の決断にとって、最後の決定的な判断材料となった。
繋いでいた手を離し、唯一動く右手で美桜の背中をとんとんと、優しく叩いてからそっと撫で続ける。
正直、腕を動かすだけでも反対側の肩や胸にかけて、重たい痛みが走った。
それでも今、この時にやらなければ、もう二度と美桜に触れる事は叶わないかもしれない。自分勝手かもしれないが、その事実だけが僕の右腕を動かし続けた。
「美桜は大丈夫だよ。僕が居なくても、もうひとりじゃない。みんなが美桜の傍に居る」
「えっ、春樹くん何言ってるの? それとこれとは別でしょ?」
美桜が顔を上げてこちらを睨んだ。困ったような怒ったような、複雑な感情が入り交じったぐしゃぐしゃの涙顔だった。
あぁ、彼氏として最後に見る美桜が、こんなに泣き腫らした顔なのは忍びない。
それでも美桜が涙を流すこと無く、いつも笑っていられる事、それが僕にとっては最優先事項になのだ。だから、僕はきちんと彼女に伝えなければいけない。
「ねぇ、美桜」
「なによ?」
「僕達、別れよう……」
泣くことも忘れたかのように美桜の両目が見開かれた。信じられないという顔のまま時が止まったかのように、彼女と見つめ合う。
「嘘……だよね」
僕の言葉が信じられないといった視線が真っ直ぐ僕を射抜く。首を動かせない僕は、何もすることも出来ず、目を瞑り、沈黙を保つことで肯定の意とした。
「お願い、嘘だって言って……」
縋るように顔を寄せた美桜の瞳から、大粒の雫がとめどなく流れ落ちる。
「僕なんかと一緒に居るのは美桜の為にならない。それに僕はこれ以上、君を傷付けたくない」
美桜の背中にあった右手を降ろす。これで本当に美桜とはお別れだ。
それを察した美桜が何も言わずに立ち上がる。
しばらくの間俯いた美桜が鼻をすする音だけが病室内に聞こえていた。
美桜はゆっくりと部屋の出入口に向かう。
「ねぇ、あなたにとってのわたしの為って、何?」
美桜は立ち去り際に、その一言だけを発して病室を出て行った。
開かれた扉がゆっくりと戻っていく。それを見送る事しか出来ない僕の視界は徐々に滲んでいく。けれど、今の僕はそれをろくに拭うことすらままならない。
『これでいい、これでいいんだ』
こんな無力な僕では、もう美桜の隣にいる権利などない。これが正しい道筋だった……
そう思い込もうとすればする程、僕の瞳からは、ひたすら涙の雫がこぼれ続けていた。
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