第15話 僕は立ち向かう

 翌朝、早朝のバイトが終わり、コンビニの前で美桜を待っていると、今朝は衣替えをして、冬服になった彼女が迎えに来てくれた。

 おはようと互いに挨拶を交わしてから、失礼かもしれないが、ついマジマジと美桜の姿を見てしまう。

「そんな見られると、ちょっと恥ずかしい」

 おかしいところないよね? とか言いながら、美桜は自分の身だしなみを確認する。

「ブレザーも可愛いなって思って」

「制服なんだから、みんな一緒じゃん。けど……やっぱりそう言ってもらえるのは嬉しいな。ありがとう」

 はにかんだ美桜は、前回と同じく、僕に付き合って自転車を押しながら一緒に歩いてくれた。

「今日の美桜見てると、本当に女子高生と付き合ってるんだ……って気持ちになっちゃうよ」

「いや、そこは春樹君だって高校生でしょうが。これ、まだ防虫剤の匂いが残ってるのよね。早く消えて欲しいんだけど」

 赤信号に足を止めた時に、美桜の袖口に鼻を近づける。確かにナフタレンの香りがほのかに漂っていた。

「あ、ホントだ。さっきタンスから出しましたったって感じ」

「ちょっと、そんな近くで匂い嗅がないでよ……いくらなんでも恥ずかしいって……」

 美桜はさっと僕から離れかけたが、すぐ元の距離に戻ってくる。

「ごめん。けど。美桜っていつもいい匂いするよなぁって思ってたんだよ?」

「もう、もっと恥ずかしいじゃない! 今朝はどうしたの? 今日の春樹くん、なんか変だよ?」

 美桜から訝しげな視線が向けられてしまったが、僕は開き直って答えた。

「まぁ、その……昨日は目の前で美桜がナンパされそうだった訳で。だからちゃんと周りに示そうかなって思って」

「示すって?」

「美桜は俺の彼女だ。手を出すな! って感じ」

 ぷっ、っと笑った美桜に、笑うなよ! と言ったが、まるで無駄だった。

「なんとなく分かってたけど、春樹くん、やっぱ嫉妬してたんだー」

 それを笑われるのは、少しばかり悔しい気もするが、僕はコクコクと頷く。

「そっかそっかー」

 美桜は機嫌よさげに言ってニヤニヤと笑っている。

「自転車が無かったら春樹くんの腕にしがみついてあげたいくらいだよー」

「登下校でそれは流石に恥ずかしすぎる!」

 咳払いをして、一旦間を置いてから、きちんと美桜の目を見て向かい合う。

「とにかく、具体的にどうしたら良いのかはまだ分からないけど、僕がもっとちゃんとしなきゃって!」

 さっきの美桜の発言が、どこまで本気かは分からないが、からかいモードが発動すれば、僕はたじたじになってしまうしかないので、それだけは真面目に伝えたかったのだ。

 美桜もキチンと受け止めてくれたらしく、柔らかい笑みを浮かべて頷いてくれた。

 少しだけ気恥しい空気になったが、やっと信号が青に変わって、僕らはまた歩き始める。

「わたしは今でも十分にちゃんとしてくれてると思ってるけどなぁ」

「まだ周りからはそう思われてないと思う」

 僕の言葉に、美桜はうーん、とか複雑そうな表情をしていたが、ふぅ、と一息を吐いて表情を和らげた。

 言葉にはしなかったが、あまり難しい事は考えないでおこうよ、って暗に伝えられたように感じた。

 それゆえか、美桜は話題を変えてきた。

「そう言えば、春樹くんはまだ学ラン着ないの?」

「こんな急に寒くなるって思わなかったから出してなかったんだよね」

 今朝はバイトに行く前にあわてて用意するにしても時間がなく……仕方なくウインドブレーカーをワイシャツの上から羽織ってバイクに跨ったのだ。

 理由を聞いた美桜は、なるほどね、と頷いた。周囲を見ると、この道から登校する生徒のほとんどが冬服に移行している。

「春樹くんが学ラン着たら、改めて制服デートしたいなー、なんて」

「そうだね、制服デートかぁ。僕もしてみたいよ」

 隣の美桜は、やったね、と言ってご機嫌だった。こうして無邪気に笑っている時、美桜は一番魅力的だと思う。

 やっぱり好きだなぁーと思いながら、隣を歩く美桜を見ていると、前回一緒に登校した時の事を思い出した。

『美桜と付き合うなら、もっと自覚を持て』

 そう言った浩介の言葉は正しかったと、今になって良く分かった。

 さっきのちゃんとする、ではないが、浩介に指摘された時は、まだ漠然と付き合っていると言う段階だった。美桜と何気ない会話を交わすのが楽しいから側で一緒にいたい。それがその頃、女子の間で孤立していた美桜の支えになればいいと考えていたのだ。

 しかし、周囲の男子の中には、美桜とお近付きになりたいと考える輩がいっぱいいる。薄っぺらな理由で美桜の隣を独占していたのでは、周囲の誰も認めてはくれないだろう。

 だからこそ、僕自身も美桜と共にいる為の努力をしなければいけないと考えるようになっていたし、その方向性は一緒に過ごす時間の中から見つけ出せたらいいと思う。だから今はまだ、試行錯誤するしかない。

 今日は邪魔も入らず、無事に校門までたどり着くと、ちょうど配られていた予備校の宣伝が入った消しゴムを受け取り、美桜が自転車を駐輪してくるのを待った。

 また互いに笑い話をしながら昇降口まで向かい、上履きに履き替えるために下駄箱を開ける。

 しかし、今朝はそこにあるべきものが無かった。

「えっ……」

 僕の異変に気付いたのか、既に履き替えた美桜がどうしたのとばかりに寄ってきた。

「いやさ、なんか上履きがないんだけど……」

「え、どういうこと?」

 困惑した表情を浮かべている美桜だが、僕も同じ気持ちだった。

 ちょうどそこに浩介が登校してきて、僕たちを見付けるや、手を挙げて、おはよう、と言った。

 しかし、動揺していた僕たちの反応を訝しんだのか、すぐに、どしたん? と言ってこっちに歩いてきた。

「あ、おはようコウ。それがさ……」

 言葉を継げられない僕を他所に、浩介は視線で、開けたままの下駄箱と、僕の靴を、交互に見やった。

「まさかさ、上履き隠された?」

 自分の事ではないのに、浩介は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。

「いや、まさか……」

「そうだよ、春樹くんがイジメを受けるような事した訳でもないし!」

 美桜のフォローにも浩介はあまりいい顔をしない。

「春樹の人の良さは分かってるけどさ、本格的に気を付けた方がいいかもしれんよ?」

「気を付けるって言われても……何をさ」

 浩介がダメだこりゃとばかりに肩を竦める。

「逆恨みってものをだよ」

 呆れた表情で浩介に言われて、美桜との関係について考えはしたが、それで誰かが変な事をして来るとは、正直思いたくなかった。

「とりあえず、事務室でスリッパでも借りれないか聞いてみようよ。靴下のまま授業受けるわけにもいかないでしょ? わたしも一緒に行くから……」

 ひとまず浩介と別れ、美桜と事務室に赴いて事情を話すと、来賓用のスリッパを借りる事が出来た。 休み時間にゴミ箱を覗いたりもしてみたが、結局、その日は購買が開くまで、午前中はスリッパのまま過ごすことになってしまった。


 昼休みになり、美桜とふたりでお弁当を食べに行く前に購買で上履きを購入し、事務所にスリッパを返してから、自販機で飲み物を買った。上履きに三千円は正直、痛い出費だ。

 美桜は場所取っておくね、と言って前回と同じ渡り廊下の隅に先に行ってくれている。

 肌寒い日だけに、カイロ代わりになる温かい飲み物を抱えて小走りに美桜の元へと向かうと、僕を見つけた美桜は、マックのときみたいに手を振ってこっちに笑いかけてくれた。

 今日は最初からぴったりと美桜に寄り添って腰を下ろす。美桜も嫌がることはなく、互いに身体を寄せ合うと、制服越しでも伝わる体温が暖かかった。

「今日はなんかもったいない事したなぁ。めっちゃ楽しみにしてたのに、買い物したりしてるうちに、美桜と過ごせる昼休みの、四分の一を使っちゃったじゃないか」

 思わずボヤいてしまった僕の足元は、既に先程買った新しい上履きに履き替えられている。

 災難だったね、と言った美桜に、頼まれていたホットのミルクティーを差し出すと、ありがとう、と言って、小さく華奢な手のひらで包んでコロコロと転がした。

 この時間になっても、今朝からたいして気温も上がらず、待ってる間は少し寒かったのかもしれない。

「まぁ、お昼休みは今日が最後なわけじゃないし、ちょっとくらいはいいじゃない?」

「そうだけどさー」

 なおも文句をたれる僕を見て、美桜は逆に面白そうだった。

「ふふ、春樹くんがわたしとの時間を大事にしてくれてる事は分かったよ。さっ、お昼食べよっ!」

「おぉ、待ってました!」

 美桜がお弁当箱を手に取り、包んでいたナプキンを解く間に、僕はさっき外に出る前に着てきたウインドブレーカーを脱ぐと、サッと美桜に掛ける。

「えっ、それじゃ春樹くんが寒いじゃん!」

 美桜は少し驚いていたが、美桜が温めてくれれば大丈夫、と言うと、バカっ、とか言いながらも素直に袖を通した。

「うん、春樹くんの匂いがするね」

 少し大きめのウインドブレーカーを羽織り、襟元をかき寄せるようにして、鼻をひくつかせている美桜の姿はとても可愛らしいが、正直恥ずかしい。

「それ、朝の仕返しか?」

「そうだね。ゲームしてた時みたいに包まれてる感じ」

 いたずらっぽく笑ってから、あらためて美桜が開いたお弁当箱には、色とりどりなおかずが並んでいた。きっと栄養のバランスとかも考えられているし、それなりに料理の腕に覚えがあると言っていたのは伊達じゃない。

 互いに、いただきます、と言って箸を付ける。色々なおかずのなかでも、甘い卵焼きは絶品だった。鶏の唐揚げも冷めてしまっているのに十分に美味しい。揚げたてを食べてみたいとすら思った。

 お弁当自体の美味しさに、彼女のお手製というスパイスが加わって、興奮のあまり僕はあっという間に完食してしまった。

 美桜のお弁当箱からも卵焼きをあーん、とばかりに一切れ頂いてしまい、ますます大満足だ。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 食後の挨拶は、僕が早々に食べ終わってしまったので、美桜を待ってから互いに言い合った。

「やっぱり男の子っていっぱい食べるんだね。次はもうちょっとご飯増やさないとかな?」

「それは美桜のお弁当が美味しいからだよー」

「もう、今日はそうやってすぐわたしが照れる事ばっか言うんだから」

「ほんとなんだもん」

「はいはい。じゃあ、ちょっと御手洗行ってくるから待ってて」

 僕の本音を軽く受け流した美桜は、お弁当箱をナプキンで包み直してから、一度その場を立った。


 幸せでいっぱいだった僕だが、美桜がなかなか戻ってこないと、だんだんと心配になってくる。

 上着を貸してしまっているのでひとりで待つのが寒い事も否めない。

 残されたお弁当箱を片手に、とりあえず美桜が向かった御手洗の方へ足を向けると、男女が言い争うような声が聞こえてきた。女子の声は明らかに美桜の物だ。一気に緊張と心配の気持ちが膨らんだ僕は、心臓の鼓動も、走るスピードも速くして美桜のもとへ急いだ。

 廊下の角を勢いそのままに曲がると、美桜の姿を視認した。一緒にいる男は。見間違い様もなく迫田だ。

 美桜は迫田に俗に言う壁ドンという状態で、追いやられたまま動けずに居る。

「いいじゃんあんな奴の事」

「なんであなたにそんなこと言われなきゃならないのよ!」

 今交わされた会話の流れこそ分からないが、迫田が無理やり手を掴もうとしたのを、美桜が避け、振り払った。

「美桜っ!」

 たまらず僕が美桜の名前を叫ぶと、パッとこっちを見た美桜が、春樹くん! と、僕の名前を呼び返して、迫田の腕の下をするりと抜けてくる。

「コラ、待てっ」

 迫田が声を荒らげるが、僕はそのまま美桜を背中側に隠し、迫田と向かい合った。

「美桜に何の用だよ!」

 強い語気で言ったところで、迫田は怯みもしなかった。

 むしろ余裕すら感じられる態度でこちら側に歩いて来る。

「いつもちょろちょろ出てきやがってうぜぇんだよ、ハエ野郎」

 迫田が僕の肩をどつくと、後ろで美桜はキャ! っと小さく悲鳴をあげた。

 迫田はそれを無視して、侮蔑的な視線で僕を見下ろしてくる。

 相手は百八十五センチ以上はある長身なので、百七十センチそこそこの僕とは十五センチ近い身長差があった。それでも美桜が側にいる以上、ここで怯んでいるわけにはいかない。

「いい加減、美桜にちょっかいを出すのは止めろ」

「へぇ、まだ彼氏ごっこしてるんだ」

「あなたに何が分かるの!?」

 僕の後から美桜が声を上げて、僕のシャツの裾をぎゅっと掴む。

「美桜、おめーも落ちたな。こんな奴に入れ込むとか趣味を疑うわ!」

「あなたに名前で呼ばれる筋合いは無いし、わたしの彼氏を侮辱される覚えも無いわ!」

 それを見た迫田が、チッっと舌打ちをした。

「まったく興醒めだ」

 投げ捨てる様に言った迫田が視線を僕に移した。

「いいか東雲、俺は借りはキッチリ返すタイプでなぁ。後ろの女共々覚悟しとけ。お前が分をわきまえねぇからだ。身から出た錆だと思え」

 捨て台詞を残し、ポケットに片手を突っ込んだ男の背中が去っていくと、美桜に後から抱きしめられた。美桜はありったけの力を使ってと言わんばかりに僕を引き寄せる。

「怖かった」

「もう大丈夫……」

 僕の腰に回されている腕をポンポンと優しく叩いてから撫でていると、美桜は少しづつ腕に込めた力を抜いた。

 人気の無い廊下にふたりで立ちすくむ。美桜がこれで満足出来るのであればこのままで良かった。

 予鈴が鳴って、やっと離れた美桜だが、教室へと戻る時にも表情が晴れることは無かった。

 少しでも美桜の支えになればと歩きながら手を差し伸べたら、思った以上に強い力で握り返してくる。

 美桜から僕と離れないという決意の気持ちが伝わって来て、こんな時なのに胸がキュンとなってしまった。

 教室が近づくと、流石に美桜も周りを気遣って表情を和らげ、多少は会話もしたが、無理をしている事が繋いだ手を通して伝わっていた。

 手を繋いで話す僕らを見て、何たる事だー! などと、悲嘆の声を上げるクラスメイトもいたが、正直、僕たちはそれどころではなかった。


 午後の授業を終え、どこか気まずい空気のまま美桜と校門で別れた。こういう日に限って、互いに夕方からバイトがあるのが恨めしい。

 ただ、日曜日にデートする約束だけは取り付けた。美桜がふたりだけになりたい、と言い出したので、バイクで遠出しようという話になったのだ。

 学校からコンビニまで、今朝は美桜と一緒だった道をひとり戻ると、はにかむ美桜の笑顔が脳裏に浮かび、ますます胸が締め付けられる思いだった。

 迫田程ではないにしろ、僕と美桜の交際にいい感情を抱いていない生徒が、校内には間違いなくいるだろう。

 ともすれば、今朝の件も浩介の言う通りなのかもしれない。

 結局、そういった輩にも認められる、と言うよりは諦めてもらう為にはどうしたら良いのか……答えを出せず、あてもなく考えているうちに、バイト先に到着し、そのまま出勤して商品の補充や接客をこなした。

 どうしても悪い方に考えてしまう思考回路は、無理やり営業スマイルの内側に飲み込む事で回避する。

 今日のシフトで一緒に入っていた大学生の先輩は、僕の様子に何か思う事があったのかもしれないが、あえてそっとしておいてくれた感じがしていた。

 その集団が現れたのは、僕がジュースや缶のアルコール類の補充を済ませてウォークインの冷蔵庫から脱出し、またレジカウンターに戻った時だった。

 ちょうどレジ待ちで並んだお客さんを隣のレジに誘導し、手早くお会計をしていると、駐車場から品のないツーストロークエンジンの原付によるマフラー音が何台か重なって聞こえてきたのだ。

 僕のありがとうございました、という挨拶をかき消すようなその音は、どう考えてもマフラーが穴あきか、それに類するカスタムがされているような甲高い耳障りな物だ。

 まして今は無意味に空ぶかししているので、暴走の爆音ではないが、非常にうるさかった。

 僕があまり好きではないマフラー音に、今接客中のお客様もそちらを見て顔を顰めている。

 やがてその傍迷惑な合唱が止み、店の中にそれと思しき人物が入ってきた。とりあえずはいらっしゃいませ、とだけ挨拶をする。

 バーコードを読む合間に目をやると、まずは大学生といった年頃の、やたらとジャラジャラとアクセサリーを身に付けた、ガラの悪い男が二人。そして最後に三人目として店に入って来た偉丈夫は、またしても迫田だった。

 その時並んでいた、何人かのお客さんのお会計を済ませ、ありがとうございました、と見送ると、見計らったかのように迫田たちのグループが僕の前へと連れ立ってやって来る。そして無造作に買い物かごをカウンターに乗せた。

「へー、お前があの美桜ちゃんの彼氏なんだって? うわー、ダッサ、マジ引くわ」

 真っ先に迫田の連れの一人が軽薄そうに笑う。

「へー、なんでこんな所でバイトしてんの? 南高ならもうちょい時給いいとこあんじゃねーの?」

 馴れ馴れしく尋ねるようにして、もう一人が後に続いた。

 どうやらこいつらは僕が居ると分かっていてこの店にきたらしい。それに美桜の名前をあげているからには、彼女と面識があるのかもしれない。

 おおかた、藤堂達と遊びに行った時に一緒に居たとかそういった物だろうと推測される。

 僕は全てを無視して買い物かごから商品を取り出しながらバーコードを読む作業だけを続けた。

「おいおい無視かよ」

「おにーさん、接客態度ってもんがなってねーんじゃね?」

 二人が煽りに掛かった所で迫田が前に出てきた。

「おまえさー、よくも横からかっさらうような真似してくれたよな」

 迫田はそのまま僕の胸ぐらを掴みあげながら睨み付てくる。

「さっきはあいつがいたから勘弁してやったけどよぉ……」

「美桜がお前を良く思って無い事くらい気付けねぇのか?」

 店に迷惑を掛ける理由にはいかないが、僕だってやられたままにする訳にもいかない。

「はぁ? バイトの店員風情が客に生意気な口聞いてんじゃねーぞ!」

 声を荒げる迫田に気付き、店内にいた二、三人の客の視線が僕らに集まった。

 すぐに慌てた店長がバックカウンターから飛び出してくるのが分かったが、迫田にそんな事は関係無かった。

「なぁお前は知ってるのか? 美桜はまっさらな女だったんだぜ。どんなに見た目を綺麗に取り繕っても中古車ってのには癖が付くんだよ。誰かさんが付けてくれた癖がな。そしたら矯正しなきゃなんねーよなぁ、わかる? この意味……今のうちならボコるのはお前だけで済ませてやるって言ってんの。なぁ、優しいだろ。ほら、言い返してみろよ。日本語通じてんのか? おっけー? ゆーあんだーすたんでぃんぐ?」

「この前から素直に聞いてれば、美桜を物扱いしやがって!」

 店長も出てきたはいいが、ただの苦情では無いと気付き、今は周りのお客様に謝る方に注力していた。

「出てくんのはそんな下らねぇ事か。俺はな、いい加減とっとと別れろってんだよ、てめぇなんかに美桜って女は不釣り合いなんだよ。どうせあいつとヤルだけの根性もねーんだろ!」

「お前にいくら言われても、僕は美桜を離すつもりはない。美桜がそう望んでくれる限りずっとだ!」

 僕は掴まれていた胸元の手を無理やり引き剥がすと、迫田の表情が消えた。

「おー、怖ぇーな。タケを怒らせるのはまじでやべーわぁー」

 それを見た取り巻きの一人が呑気に言い放つ。

「マジで殺すぞテメェ!」

 もう一度掴みかかって来た迫田の手を払い除ける。

「他のお客様のご迷惑になりますのでお引き取り願いたい」

 殴られるのを覚悟した時だった。

「お客様、大変申し訳ありませんが、私がお会計させて頂きますので」

 店長は隙を見て間に割って入ると、僕とレジを代わった。

「おいてめぇ、終わったらツラ貸せやゴラァ!」

「お客様にお貸しする理由はございません」

 他人行儀に言ってから、店長の視線を感じて、僕はバックカウンターに引き下がった。

 扉から入り、その場にひとりになると、緊張の糸が切れたのか、思わず膝から崩れ落ちてしまった。腰が抜けるとはこの事だろう。

 僕はもともと荒事に向く人間ではないのだ。それにしても今の僕は情けない。

 しばらくして、三人が店を出たのか店長がバックに戻って来た。

「東雲君、僕は詳しいことは分からないけど、事情だけは聞いてもいいかな?」

「ご迷惑おかけしてすみません。彼は隣のクラスの迫田ってやつです。最近僕の彼女に付きまとっていて、今も僕に別れろと言いに来たみたいです」

 ふーむ、と腕を組んで目を瞑り、店長はしばらく考えを巡らせてから話した。

「ここに東雲君が居ることをわかっていて、狙って来ているなら君に責任を問うことは出来ないね……」

「ご迷惑をお掛けしました」

 頭を下げる僕に店長はひとつ頷いて返した。

「彼ら、今も駐車場にたむろっているし、バイクの騒音もあったから営業妨害としてなら警察を呼ぶ事も出来なくはないが……あまり荒立てるものでもないだろう?」

「そうですね、あまり大事にしてしまうと高校でも後々大変だと思いますから」

「そうか。店としては厄介事に巻き込まれたくはないのだがね。まぁ、君も大変だろうが、可愛い彼女を持った税金だと思いなさい。心配は尽きないだろうけどね」

 ニヤリと店長が笑って少し空気が和らいだ。

「それ、友人と同じ事言ってますよ?」

 えっ、いい例えだと思ったのに……とぶつくさ言った店長がもう一度僕の方を見た。

「僕はちらりと見ただけだけど、整った顔をした子だなとは思っていたよ。大事にしてあげなさい」

「周りから僕では不釣り合いと言われ続けて、正直焦るばかりで、結局何も出来なくて、店にまで迷惑をお掛けしてしまいました」

「まぁ、あまり周囲を気にしすぎる事はないさ。付き合っているのは君たち自身なんだからね。まだ高校生だろうが。社会のしがらみとかを気にするのはもっと大人になってからでいい。今は本人同士の感情を優先しなさい」

「ありがとうございます」

 店長の大人な意見にお礼を言ってから僕は業務に戻る。

 その後、店長はいつも通り九時過ぎに帰っていったが、その時には彼らの姿もなかった。

 僕らの定時にあたる十時になるまでは、これと言ったトラブルもなく、無事にタイムカードを切ることが出来た。

 先輩からも、災難だったね、と言われつつ、こっそり店から出ようとしたところ、バイクの鍵を差し込んで、ヘルメットを被っている合間に、迫田達に気付かれ囲まれてしまった。どうやら、単純に店の裏で待ち構えていただけのようだ。

「オイ、何逃げようとしてんだよゴラァ!」

「お前と話す話なんかないよ。俺たちに近づかないでくれ!」

 それだけ言うと、僕は愛車のエンジンを掛け、無理やりだが発進させる。すこし走り出せば、彼らの原付とは違う、聞き慣れたマフラー音がザワついていた心を落ち着けてくれた。

 後ろでまだ三人がやかましく騒いでいるのが聞こえたが、もうバイクで風を切る音に掻き消され、僕の耳には届かない。

 しかし、しばらく帰り道を走っていると、後から彼らと思しき原付バイクが三台、並んで追いかけてきた。

 夜なので視認こそ出来ないが、ツーストロークのマフラー音はそれを確信させるものだ。

 さらに近付いて来ると、まだ何か叫んでいるが、相変わらず何を言っているのかまでは聞き取れる訳がない。どうせ『待て!』とかそんな事だろうが、追い掛けられている時に、待てと言われて待つバカなどいない。

 ただ、赤信号で追い付かれるのはまずい。

 僕は咄嗟の判断で目の前の信号を右折して住宅街に入る。

 迷惑甚だしいが、カーチェイスならぬ、バイクチェイスとなってしまった以上、信号のない入り組んだ道で煙に巻く事を考えての判断だった。

 しかし、この作戦は裏目になった。向こうの乗るツーストロークエンジンの原付は、ゼロからの加速力には優れていたのだ。しかもホイールベースの長短の差による小回りも向こうが上回った。

 いくらPCXがフォーストロークエンジンにおける125ccスクーターの最速クラスではあっても、細い路地の繰り返しでは、最大の武器になるパワートレーンを使い切る事が出来ないのだ。

 信号が青ならば、大通りに出ればよかったと、今更後悔しても仕方がない。

 頭の中で一番信号が無く、ストレートが長い場所を検討する。

 六十キロでスピードリミッターが掛かっている原付に対し、原付二種であるPCXならば百キロを超えるスピードまで加速が可能だ。

 もちろん道交法違反になってしまうが、この状況を打破するには仕方がないと思えた。

 現在地から一番近い長いストレートに向かい、僕はハンドルを切っていく。

 最後の一時停止を急ブレーキながらきちんと止まり足を付けて右折した。あとはここから五百メートル程が信号がないほぼ一直線の道だった。

 こちらが二車線道路に出たタイミングで対向車が三台通過し、ちょうど迫田達の行く手を遮ってくれた。

 一時停止の間に三十メートルを切っていた差が三倍以上に開くのをサイドミラーで確認し、ホットした瞬間だった。

 百メートルほど先の左手に見える駐車場に、点灯していない赤色ランプの先っぽがチラリと見えたのだ。間違いなく、駐車している車に隠れて夜間の取締をしているパトカーだろう。

 僕は慌ててフルスロットルだったアクセルを閉じ、七十キロを超えていた車速を五十キロ以下まで落とす。無理にブレーキを掛けると怪しまれるのでエンジンブレーキによる自然な減速でパトカーの前を通過する。

 制限速度が四十キロの道路だから、これぐらいならパトカーも飛び出しては来ないはず、と思った通りに、僕の事をパトカーが追尾してくる事はなかった。

 もちろん、その間にフルスロットルで追いかけてくる原付集団との距離は詰まったが、このまま行けば…………僕の予想は的中だった。

 原付集団が駐車場前を通過した瞬間、赤色ランプが点灯し、後からサイレンの音が鳴り響いた。

『前の原付バイク三台、左に寄って止まりなさい!』

 パトカーから警官が停止勧告をするが、三台は止まる気配を見せない。スピード違反に巻き込まれたくない僕は、速度を上げられないので、敢えてハザードを点灯させ、路肩に愛車を停止させた。

「ハメやがったな、畜生!」

 迫田が抜き際に叫んでいたが、僕は心臓がバクバクしていて正直それどころでは無かった。

 ここまで冷静に事故を起こさず逃げきれたのだけで精一杯だ。

『前の原付、止まれー! 逃げても録画しているからな!』

 パトカーの助手席に座る警官はそう叫びながら、僕を追い越す際にはこちらを見て、敬礼をしてから通り過ぎて行った。

 ご協力ありがとうございます、という意味だろうが、僕にとっては逆に感謝である。

 まさかバイクで追いかけっこをしていた最中とは思うまいし、迫田達こそ捕まったとて事情を言えはしないはずだ。

 まるでMMORPGで言うモンスターPKならぬ、パトカーPKのような結果になってしまったが、この状況ならば致し方なかっただろう。

 僕はまだドキドキとしている心臓の鼓動を抑えるよう、慎重にバイクを走らせて帰宅した。

 普段のバイト後と帰宅する時間にたいした差など無く、そんな事など知る由もない親が何かを言う訳でもなかった。

 しかし、どっと溜まった精神的な疲れはもろに出てしまったようで、お風呂で汗を流した後はばたりとベッドに倒れ込み、そのまま僕は寝落ち状態になってしまっていたのだった。

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