第14話 初めてのキスと二回目の告白

 帰りのホームルームが終わり、放課後の喧騒に包まれる教室内。

 僕は宿題の為に持ち帰る教科書とノートをカバンに詰めこむと、後ろの席の浩介に、じゃあな、とだけ挨拶を済ませた。

「同じ学校にいるってだけでも恨めしいぜ……」

 などと言っている浩介には、敢えてニヤけた顔だけを返ししておく。

 そもそも彼女が居てくれるだけでもいいでは無いか、まったく贅沢な奴だ。

 もうすぐ美桜と付き合い始めて一週間。なんだかんだとバイトの予定があったりして、一緒に下校するという、高校生のカップルなら一番の定番とも言うべきデートをまだやっていなかった。

 それに僕たちの場合、校門を出た段階で既に帰る方向が反対なので、途中までは一緒、という訳にもいかず、なんとももどかしい。

 しかし、今日は互いにバイトがないので一緒に帰ることが出来そうだ。なんならいっそ、僕が大回りして帰ったっていい。

 カバンを持って席を立つと、僕より先に藤堂が美桜に話し掛けていた様だった。

「昼休みにLINE回したけど、美桜はどうする?」

「うーん、どうしよっかなぁ……」

「今日は女の子だけだから心配ないよ」

 藤堂がどこか自虐的にも取れるような事を言っていたからか、僕に気付いた美桜は困った様に眉を下げた表情でコチラを向いた。

「春樹くんも今日はバイト休みだよね?」

「うん、けど先約があったのかな?」

「あー、さっき百合香にね、他のクラスの子達も行くからどう? って、カラオケに誘われてたんだよね」

 美桜を困らせるのも本意ではないので、ここは僕が引き下がる事にした。

「そっか、なら僕は帰ろうか……」

 言い切る前に、まぁまぁまぁ、と藤堂がそれを制した。

「美桜、そういう事なら早く言いなさいよ〜」

 不敵な笑みを浮べながら藤堂は言う。

 いかにも気をつかってますよと、言葉にしなくてもわかる顔で藤堂は言った。

「そういうのじゃないって 」

 美桜の言っている事を聞いているのかいないのか、踵を返した藤堂は後ろ手を振りながら、さっさと行ってしまった。

「ごめんね、春樹くん」

「僕はいいけど、美桜は良かったの?」

 苦笑いをしていた美桜は、うーん、と少しばかり考えてから答えた。

「百合香なりに考えて、あの噂を早く無かったことにしよう、って誘ってくれたのかもしれないね?」

「だから敢えて他のクラスの女子を誘った訳か」

「かなぁ……けど、どちらにしろ百合香が浮気者だった彼の話が出るんだろうから、それは気の毒に思えるよ。好きな人に裏切られる辛さって、想像するだけでも怖いもん」

「それ、僕に言ってる?」

「春樹くんの事は信用してますっ! さっ、それより帰ろっか」

 美桜は僕と同じ教科書とノートをリュックに入れながら微笑んだ。

「なんなら宿題、一緒にやる?」

「あ、それいいね!」

 むしろ助かるよ、なんて話しながらふたりで教室を出る。

 そのまま廊下を横に並んで歩いていたら、ふと互いの肩が触れ合った。あっ、とばかりに、お互いに目を見てしまい、それがなんだか可笑しくて笑いあう。

 あえて離れる様なことはなく、僕はむしろ近寄って、わざとまた肩を触れさせた。すると美桜は、やったな、といった目線を向けて来る。さらには僕より強く肩をぶつけてきてから、どうだ? とばかりに鼻を鳴らした。そこからはなんとなくグイグイと肩を当てっこしながら階段まで歩いていった。

「もう、なにやってるんだろ、わたし達」

「全くだよ、階段は危ないからもうやめような」

 美桜も、そうだね、と首肯して、全く意味のないふざけ合いは終わった。

 本当にくだらない遊びが、美桜とだとたまらなく面白い。

 こうしてふたりで並んで歩く時、付き合い始めた頃に比べて寄り添い合う距離が明らかに近付いていた。

 校内と言う事で、手こそ繋いではいないが、今もまだほとんど肩が触れ合うような距離に美桜がいる。少しでも美桜の傍に居たいと思っているから、自然とそうなっているのだ。

「宿題をやるならファミレスでも寄る?」

「そうだね、わたしはドリンクバーだけあれば十分かなぁ」

 下駄箱からスニーカーを出して履き替え、また美桜と並んで駐輪場までの短い道のりを歩く。気の早い運動部は既にグラウンドで練習を始めていた。

「昼休みのお礼にパフェくらい奢るよ?」

「それって膝枕の?」

 僕はうなづいてから、チラッと美桜の足元を見てしまった。いつ見ても本当に綺麗な脚だ。さっきまであの太ももの上に頭を乗せて寝ていたと思うと、またドキドキとしてしまう。

「うわっ、春樹くんがまたエッチな事考えてる」

 わざとらしく距離を置いた美桜に、じゃあ奢るのやーめた、とこれまたわざとらしく言ってやると、美桜は、ばっと僕の左手に抱きついて、斜め下から僕の顔を見上げてきた。

 それはもちろんわかっている。今の美桜がものすごく演技している事なんて、とっくにわかっている。

 それでもなお、上目遣いに僕を見つめて来る美桜はどうしようもなく可愛かった。きっと僕の好みを把握した上でやってくれているのだ。

 よく漫画で出てくる、なんだこの可愛い生き物は! という今では慣用句になりつつある言葉があるが、今の美桜はまさにそれだった。

 まして今回はアレが腕に当たっている。

 今まで美桜の胸はあまり意識しないようにしてきた。しかし、この体勢からだと、第二ボタンまで外されたワイシャツの胸元に光るネックレスと、その下には確かな谷間までもが見えている。着痩せするタイプなのか、美桜は所謂、ボリュームがあるほうだった。

 胸元を包むブラに、柔肉の感触が邪魔されてしまうのはもったいないが、女性経験の少ない僕ごとき、一瞬にしてオーバーヒートのお手上げ状態だった。

「そんな事しなくても最初っからそのつもり」

 あまりの可愛らしさと恥ずかしさから、見ていられなくなった僕は、美桜から目線を逸らしながら白旗を上げた。それでも美桜は、うん、知ってる、と、満面の笑みを浮かべながら腕を離さないまま頷く。

 美桜にそんな追い打ちを受けた僕はもう轟沈だった。

「オーバーキルだ……」

「どういう事?」

「うちの彼女様が可愛すぎて身が持たない!」

「なら良かった!」

 ルンルン気分を隠す気も無く、彼女が見せた小悪魔的な一面はいつも僕を魅了する。

 昼休みの膝枕といい、今のこれといい、きっと朝の一幕に対する意趣返しなのだろう。

 そっと抱くようにしただけなのに、破壊力の何倍返しだ!? と言いたい。

 どうやら今朝の出来事は、美桜に変なスイッチを入れてしまったのかもしれない。

 僕の心臓には悪いが、好きな子にここまでされて嬉しくないわけがない。

 今の僕は、美桜無しには生きていけないな、とすら考えてしまう自分が恐ろしく思えた。


 校門を出てから茅ヶ崎側に自転車で十分ばかり走り、僕らはガストに入る事にした。

 僕の家とは反対側になるが、美桜を家まで送りがてら、帰りに釣具屋に寄ると話したところ、なら美桜の通学路の道すがら寄れる店として、ここが自動的に選ばれた。

 普段から美桜は、ここで友人らと話して帰る機会があったらしい。店内はちょうど人の少ない時間帯だけに、少しばかり長居しても良さそうな雰囲気があってありがたい。

「先に宿題済ませちゃおっか?」

「その方が後から楽だもんね」

 美桜の提案に僕も習って呼鈴を押した。すぐに来てくれた店員さんにドリンクバーだけを注文をしてから、それぞれアイスコーヒーとアイスティーを入れてくる。

「美桜ってご飯食べる時、好きな物を後から食べるタイプでしょ?」

「えっ、よく分かったね?」

「なんとなくそんな気がしてさ」

 互いにカバンに詰めてきた数Ⅱの教科書を取り出して、真面目に取り組み始めると、そんな会話も次第に無くなった。

 校内で比較的優秀な成績を収めている美桜だけに、宿題の進み具合は僕よりも早い。

 ふと、美桜の教科書を見ると、僕の教科書とは違い、細かい書き込みがいっぱいしてあった。これが済んだら見せてもらおうと決めて、僕は先を進める。

 今日指定されたページには、たいして問題数がある訳では無いが、僕が三分の二を終わらせた頃には既に美桜は終わっていて、ニコニコとコチラを眺めていた。

「終わったなら教えてよ……」

「じゃあそっちに行ってもいい?」

 むしろ喜んでという意味合いを込めて頷くと、美桜は一度立ち上がって僕の横に座り直した。

 この距離の近さにはだんだんと慣れてきたが、美桜がふと前屈みになったりすると、何とはなしに見えてしまうワイシャツの胸元に何度も目を奪われてしまった。しかも今は無意識だから尚更タチが悪い。なにしろ。先程それを腕に当てられていた感触が蘇り、ますます僕の集中力は削られていく。

 確かに美桜の説明は解りやすく、非常にありがたいのではあるが……脳内の作業効率は逆に落ちていたかもしれない。

 修行僧の精神など、己には欠けらも無いと分かった頃、残りの問題も解き終わり、美桜が店員さんを呼んでパフェを注文する。

「春樹くんは食べないの?」

「僕は見てるだけで良いや」

 すでに美桜でおなかいっぱいです、と言うわけにもいかず……

 そっか、と言って頷いた美桜は、それだけでお願いします、と女性の店員さんに伝えた。

 彼女が立ち去るのに合わせて周囲を見ると、僕らのように学校帰りに立ち寄った高校生のグループがちらほらと店内に増えていた。

「何か飲み物持ってこようか?」

 このまま美桜が隣に居ては身が持たないので、頭を冷やす為にもドリンクバーに行こうとすると、美桜は向かいの席に戻りながら道を空けてくれた。

「じゃあ春樹くんと同じのをおまかせで」

 渡されたグラスを受け取り、りょーかい、とは言ったものの、美桜が今からパフェを食べながら飲むには何が合うんだろうとしばし考える。

 普通に考えたら甘くないコーヒーやストレートティー辺りが無難だ。しかし、さっきもアイスティーを飲んでいて、また緑茶やウーロン茶と言うのは芸がない。

 何がいいかと、しばし黙考の末、以前に剣道部の打ち上げで発見された『アレ』を持って行くことにした。

水でグラスを軽くゆすぎ、二種類のボタンを押して中身を混合させる。

 出来上がった、不自然に白く濁ったオレンジ色の飲み物をグラスに入れて持ち帰ると、美桜があからさまに、眉を顰めた。

「えっ、春樹くんそれ、何持ってきたの?」

 とりあえず甘いパフェが届く前に戻れたのは幸いだ。

「飲んでからのお楽しみって事で。変なモノじゃないから安心して」

 なおも訝しげな美桜は、恐る恐ると言った具合でストローに口をつける。そしてすぐに、ん!? と声を出すと、美味しそうに更にそのジュースを飲んだ。

「えっ、想像以上に美味しいんだけど、何コレ? カルピスとオレンジ?」

 美桜の反応に満足した僕はうんうんと頷いた。

「正解。中学の頃、剣道部の打ち上げで悪ふざけしてて、たまたまこの組み合わせ見つけたんだよね」

「言われてみれば、季節限定とかでオレンジのカルピスとかあった様な気がする。ちょっとびっくりしたけど!」

 美桜が再びストローに口を付けた時、先程頼んでいたパフェが届いた。

「お待たせしました、まるごと白ぶどうのソフトパフェでございます」

 店員さんが置くのに合わせて美桜が、わー、パチパチと手を叩く素振りをした。

 というか、『やっぱめっちゃ可愛いなうちの彼女!』げふん。

 すぐさまスプーンで山葡萄のソースが掛かったソフトクリームを掬って口に入れた美桜は、目をギュッと瞑りながら、うーん、とか言っている。たかだか数百円でこんな可愛い姿を見せて貰えるならお安いもんだ。

 もうひと掬いスプーンを入れた美桜は、それを口にはせず、僕の方へと差し出した。

 一人で美桜を見て悦に入っていた僕は、いきなりの行動で反応に困る。

「これ、やる方もけっこう恥ずかしいね……」

 口元に手をやって俯き気味に言った美桜に、僕も一気に恥ずかしくなる。

「えっと、いただきます」

 断るのもみっともないので、はむっとソフトクリームを口に入れると、甘さの中に山葡萄ソースの酸味が広まった。

 どおっ? と首を傾げた美桜に、一言、甘い、と告げると思い切り笑われてしまった。

 冗談とは言え、これ以上からかわれても仕方ないので、僕はさっきの話を美桜に持ちかけた。

「あ、美桜の食べてる間にお願いがあるんだけど、いいかな?」

 口に入れていたパフェを飲み込んでから、美桜は、何? と言った。

「さっきちょこっと見えたんだけど、美桜の教科書って見せてもらえないかな?」

「いいけど、どうしたの?」

 不思議そうにしながらも美桜は快く一度仕舞った教科書を取り出してくれた。

「いや、教科書の書き込みが凄いなって思ったからさ、ちょっと興味が湧いたんだ」

「あー、そう言うことか!」

 納得した顔の美桜から教科書を受け取ると、パラパラと流し読みして行く。その間も美桜はパクパクと、パフェに舌鼓を打っていた。

 一方で、美桜の教科書は、先生が話した事柄の中でも、普通ならノートに写さない様な事までメモされているので、その日受けた授業の内容が思い出せるかのようだった。

「凄いなこれ……」

 感心しきりの僕に美桜が笑いかける。

「わたし一応指定校狙ってるんだ。だから内申は出来るだけ取っておきたかったの」

「なるほど、美味しいものは後からたべる派の美桜らしい考え方かも」

「でしょ? 後から楽をしたいタイプなんです、わたし。もちろん大学と行きたい学部が合ったらって条件もあるし、いざセンターとか一般入試を受けなきゃならなくなった時の事も考えてるけどね」

「それにしても凄いよ!」

「ありがとう。てか、そう言われると照れる。いっそ今日はもう使わないんだし、それは貸してあげるから自分のにも写してくれば?」

「えっ、良いの?」

 即座に食いついた僕に美桜が頷いた。

「そのかわり、忘れちゃダメだからね? あ……けど、忘れたら移動教室だし、隣に机並べる言い訳に出来るかも?」

「なんだよそれ」

 僕が笑いながら鞄に教科書を仕舞うと、不意に美桜の顔に憂愁の影が差した。

「あー、あと半年もしたら受験生だし、お互いにこういう時間も減ってくるよね?」

「正直、今はまだあんまり考えたくないなぁ。けど多分、年明けくらいに予備校の体験授業受けて、どこに通うかは決める感じかな。コンビニのバイトもいつまで続けるかは分からないし……」

「それはうちもかなぁ。お兄ちゃんの時は部活でバスケやってて、引退してから始めてたって聞いてるけど」

「どうせ通うなら美桜と同じ予備校がいいなぁー」

「あ、それは良いかも!」

 あまり暗い方に話が流れずに済んだ所で、僕は三度目のドリンクバーへ向かった。

 今度は普通にウーロン茶を入れて戻ろうとすると、僕らのテーブル席にいつの間にか三人の男子が見える。もしかしたら僕が席を離れるのを待って、美桜に話し掛けるタイミングを狙っていたのかもしれない。

 かなり嫌な予感がして、僕は慌てて美桜のもとへ戻った。

「あれ、美桜ちゃんじゃん! 奇遇だね、ひとり?」

「いや、連れがいますので……」

「何なに、女の子なら俺達も一緒にいいかな?」

 美桜の話も聞かずに、一方的に話し掛けていた金髪の学ラン男が無理やり美桜の隣に座ろうとするので、僕は慌てて引き止めた。

「待てよ、美桜に何の用だ!」

 相手の肩を掴んだまま、僕は語気を荒げる。

「おめーもいたのかよ」

 近くに来た段階で、後ろ姿から察せられるものがあったが、悪態をついたこの男は、迫田だった。

「んだよ、うっせー」

 舌打ちをした迫田が掴んでいた手を振り払う。僕はその手を掴み直して、こちら側へと思い切り引っ張り出す。その隙に美桜は咄嗟に僕の分のカバンまで持って、テーブル席から抜け出した。

「何すんだこの野郎!」

「先にお会計行ってて!」

 迫田を無視してそれだけ美桜に伝えると、彼の方を睨み返す。いくら武道の心得があったとしても相手は三人だし、店に迷惑を掛けるわけにもいかない。

「東雲のくせに最近ちょーし乗ってんじゃねーぞ」

「おめーさ、もうちょっと立場ってもんわきまえろよな?」

 迫田の横にいた二人も息巻いた言葉を発して、僕を睨みつける。

 当然そんな騒ぎが起きれば、何事かと思った周囲からの視線が集まってきて、居心地が非常に悪くなった。

 迫田の横にいる二人の声には聞き覚えがある。名前は知らないが、トイレで話していた二人と同一人物だろう。

 だとすると、宮田がいい噂は聞かないと話していた三人だろう。そうと分かった僕は、慎重に言葉を選んだ。

「こんな人目のある場所でやり合うってのかよ」

 迫田は再び舌打ちをすると、嫌そうな顔で言った。

「今日はたまたまだ。けどな、よく覚えておけよ。あいつをお古にしたてめぇは許さねぇ。後々覚悟しとけ……」

 捨て台詞の中に混じった、お古という言葉に、頭の血管がはち切れそうになるのを耐える。美桜は物なんかではない。僕の大事なパートナーだ。だから女の子をそういう目でみる奴には、絶対に美桜を近付けたくない。

 三人が立ち去ってもまだ怒りの感情はふつふつと煮え滾っていた。

 ぶつけ様の無い怒りが胸の奥底から湧き上がるが、今はそんな場合ではない。

 踵を返して慌てて美桜の待つレジまで行くと、既にお会計を済ませ、お釣りを受け取るところだった。

「ごめん、僕が出す」

「いいよ、助けてもらったし」

 こんな事で、美桜が俯いてしまったのが辛かった。

「御迷惑お掛けしました」

 僕が先程から対応してくれていた女性の店員さんに頭を下げたのを見て、美桜も僕に倣う。

 一部始終を見ていたのか、彼女は僕に、ご愁傷様だったね、と言ってくれた。

 美桜には、いい彼氏じゃない、とか言っていたが、僕は申し訳無さと恥ずかしさ故に、その場をそそくさと後にした。


 しばらくは口数少なく、さらに茅ヶ崎駅の方向に僕らは自転車を走らせた。

 どうしても重たい空気が、僕たちの間には流れてしまう。

 今は自転車を漕いでいるから、という物理的な距離ではなく、心が寄り添い合えた先程の距離感が消えてしまいそうで、全てが怖くなる。

「ねぇ美桜、公園に寄っても良い?」

 昨日の夜も訪れた公園の前で、僕は思い切って気まずい空気を払う様に言ってみた。

 すると前を行く美桜は自転車を止め、頷いてくれたので、僕らは駐輪スペースに自転車を置いてから、昨日と同じベンチに腰を降ろした。

「春樹くんまだ怒ってる?」

 どうやら彼の発した一言に対する怒りは美桜に違う意味で伝わっていたらしい。

「いや、ごめん。あいつに変なこと言われたからイライラしてた……美桜のせいじゃないよ」

「けど、嫌な思いさせちゃったね……」

 項垂れた美桜が大きく息を吐く。

「迫田は、こないだの体育の時も僕に突っかかって来たんだ。美桜はアイツらのこと知ってるの?」

 うん、と言った美桜の顔は晴れないまま、ぽつりぽつりとその先を話してくれた。

「あの人は、百合香もそうだけど、一年の時にクラスが同じだったの。百合香達に誘われて何度かみんなで遊びに行ったことはあるんだよね……春樹くん、わたしが前に言った話って、覚えてる?」

「もしかして、遊び感覚で付き合うとかその辺の話?」

「うん、そう」

 美桜が迫田の事を名前で呼ばない自体で、かなり毛嫌いしている事が伺われた。

「あの三人って、なんか節操がないと言うか……とにかくわたしにも手を出してきたからそのお誘いは即座に断ったの。そしたらやたら執着してくるようになっちゃって……」

「まぁそういう事なら、僕が付いてればいいんだろ?」

 美桜は何処か心配そうに僕の顔を見た。そんな顔をさせたくない一心で、僕は精一杯強がってみせる。

「大丈夫だよ。アイツらだって僕が居れば変な事はして来ないだろうから。それは約束する」

 昨日みたいに美桜の手に僕の手のひらを重ねると、美桜が同じ様に恋人繋ぎに変えてくれた。

「春樹くんって見掛けに寄らず男らしいところも有るんだね?」

 感心したように言った美桜に、心外だなぁ、と言ったらクスクスと笑われる。やっと少しだけふたりの空気が元に戻った。

「どう、少しは見直してくれた?」

「うんうん」

「じゃあ、もしかして惚れ直してくれた?」

「うーん、それはどうかなぁ……」

 少しは期待していた反応と違い、えー、とばかりに肩を落とす僕を見て、美桜はまたクスクスと笑った。

「ふふっ、だって惚れ直す必要ってある?」

 美桜はこっちを向いて、柔らかく笑い掛けると、すっと瞳を閉じた。

『これってそういう事だよな……』

 僕は生唾を飲み込み、覚悟を決める。美桜の肩をそっと抱いてから、目を閉じた顔を見詰めた。

 小さな顔にすっとした鼻だち、普段はキラキラと輝いている瞳が今は閉ざされていて、長いまつ毛も普段より良くわかる。 目指すべき桜色の唇をギリギリまで見て、自分も目を閉じた。

 触れ合ったのはほんの数秒。

 その瞬間には、美桜の身体が強ばって、肩を震わせたのが伝わった。きっと今まで飄々とした態度を見せていた美桜も、勇気を出して僕を受け入れてくれたのだと分かった。

 もちろん僕にとってのファーストキス。それも、とびきり可愛い大好きな女の子と、お互いに想い合った結果に結ばれた今だった。僕自身も震えていたので、少しくらい鼻先が触れ合ったことは許して欲しい。

「しちゃった、ね」

「……うん」

 僕達は極至近距離で見つめあった。恥ずかしそうに頬を染める美桜が愛しくて愛しくて、たまらなかった。

「わたし、初めてだから……」

「僕も、だよ」

「春樹くんで良かった」

「本当に? 僕なんかで良かったの?」

 今度は僕の唇を美桜の指先が押さえた。

「それはダメって言ったでしょ?」

「そうだった……」

 唇から離れた美桜の指先を視線で追いかける。

「けどね、きっとわたしも結構めんどくさい女の子だと思う訳です」

「えっ、はぁ……」

 キスでボーっとした頭のまま受けた、突然のカミングアウトに思考が上手くまわらない。

 僕が美桜の顔に視線を戻すと、ふっと美桜は力を抜いたように微笑んだ。

「だから、やり直しを要求します」

「えっ!?」

 今度は一切待ってくれなかった。そのまま、再び互いのくちびるが交わる。

 僕達のセカンドキスは、さっきよりほんの少しだけ長く、そして互いに熱を込めて。

 美桜が身を引いて、互いの熱が離れていく。そのまま、美桜はこてんと僕の肩に頭を預けた。これ以上したら止まらなくなってしまう。きっと美桜なりのブレーキだ。

「付き合ってみて少し分かったでしょ? わたしって春樹くんが思ってる程いい子じゃないし、けっこう自分勝手でわがままなの。おまけに甘えたがりだから、春樹くんが掛けてくれる優しい言葉にどんどん頼ってしまう。今だって春樹くんなら許してくれるだろうって、受け入れてくれるだろうって。春樹くんじゃなきゃこんな大胆な事出来ないし、他の人にはしたくない。こんなわがままな要求ばっかりして、いざとなれば助けてもらって……こんな都合ばっかいい女の子じゃ、春樹くんもそのうち嫌気が差して、飽きられちゃったらどうしよう、って最近ずっと思ってるんだ……」

「そんな事ない!」

 それだけは声のトーンを上げて強く否定した。

「僕の方こそ、美桜の側に居ることくらいしか出来ないから、まったく釣り合わないっていつも思ってた。さっきだってケンカなんてした事ないし、美桜を守れるかいつも不安ばっかなんだ。けど、それでも僕は美桜の側に居たい。だから美桜に何か辛い事があったら、僕は盾になる。情けないけどそれしか出来ないんだ。きっと、僕よりカッコよくて、頼り甲斐があって、美桜にふさわしい様な人が居ると思う。だけどお願い、今は僕を横に置いて欲しい。美桜が居てくれないと僕はもう……」

 僕の目からは知らず知らず涙が溢れた。すうっと張り詰めていた気を抜いたように美桜は優しく微笑んで、その指先で滴を拭ってくれた。

「あなたがいいって、前にも言ったよね?」

 駄々っ子を諭すような優しい声音が僕の心に届けられた。

「うん、そうだった。僕も美桜がいい」

 雲の合間に差す日差しのように心の靄が徐々に晴れていく。

 前にも同じやり取りをしている。あの時、僕たちの間には殆ど会話は無かった。僕が手を重ねて、それを美桜が恋人繋ぎにした。そして今と同じ会話をしたのだ。

 僕が肩にあった両手を腰に回して抱きしめると、美桜も同じ様に抱きしめ返してくれた。

 二度目の告白は、前回以上に互いの思いを言葉として伝え合えたことが嬉しかった。

 付き合う前は漠然と彼女になってもらえたらいいな、というただの希望だった。それが今は、自分を見つめた上で、一緒にどうしていきたいかという話だ。たとえそれが稚拙な事でも、カップルとして一緒に居るためには立派な進歩だと思う。

 なにより、美桜が僕に対してどういった気持ちで接してくれていたのかを知れて、胸がキュンと熱くなった。今までが単なる僕の自意識過剰ではなかったという事を、本人からはっきりと伝えてもらった形だ。

 その後は、先程のファミレスでの事件を取り戻すかのように、ふたりでのんびりとした時間を過ごした。前よりも固くなった絆が、会話の端々で確かに感じ取れる。

 安心という物が互いに出来て、つい話し込んでいるうちに、それなりの時間となってしまった。暗くなる前には美桜を家まで送ると、僕は釣具屋にも寄らず、そのまま家に直帰した。

 その夜は、美桜と離れてから時間が経ったにもかかわらず、胸の中の熱はさらに温度を増していて、それを鎮めてくれる人は彼女しかいない。

 スマホのコールボタンを押すと、すぐに鈴を転がした様な美桜の声が聴こえてきた。

 僕らはまた少しの時間を共有してから互いに眠りについたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る