第18話 失ったもの

 暖かい陽だまりのなか、僕が目を覚ますと、あっ、起きた? と、鈴を転がすような声で美桜が言った。

 起き抜けの寝ぼけた頭のまま、辺りを見回す。どこかの公園だろうか、芝生に座った美桜に膝枕されている僕はどうやらそのまま眠ってしまっていたようだ。

 美桜は僕が寝てしまっている間、手持ち無沙汰になっていたのか、手にしていた文庫本にしおりを挟んで閉じると、カバンにしまう。

 吹き抜ける風と触れ合う肌の温もりが心地よくて、これ以上なく幸せで。

 僕はそのままもう一度、美桜の膝に頭を預けて目を閉じた。

「もぅ、そろそろ起きなよー」

 美桜は優しい声音で僕に語りかける。彼女にそう言われては仕方なく、僕はゆっくりと目を開く。美桜はほわんほわんとした笑顔を向けたまま、しょーがないなぁ、と言って、人差し指で僕の頬を指先で突っついて遊んでいた。

「ずっとこのままが良かったのにね」

 柔和な眼差しだった美桜が急に表情を硬くし、意味深な事を言った。

 えっ? と、僕が答えに迷っているうちに美桜が続ける。

「この世界を壊したのは春樹くん、あなたなんだよ」

 美桜の寂しげな声と共に世界が暗転する。

 すぐそばにいたはずの美桜はいつの間にかいなくなっていて、気付けば、一寸先も見えない暗闇の世界に僕は一人で立っていた。

「これはあなたへの罰。そのまま一生一人の世界に閉じ込められたままでいればいい」

 真っ暗な世界に、責め立てるような美桜の険しい声音か響く。

「待って、待ってくれ美桜! 僕を見捨てないでくれ! 」

「これでお別れ。さようなら、春樹くん」

 美桜の声がだんだんと遠くなる。

「美桜!!!」


 …………僕は実際に彼女の名前を叫びながら現実の世界で目を覚ました。正直、最悪の寝覚めだった。

 おまけに勢いよく起き上がったが為に、ギブスを巻いている左手がズキンと痛み、思わず顔を顰める。

 辺りは暗くなっていたが、夢の中でいた場所のように、一寸先も見えないような暗黒ではない。単純に寝ているうちに日が暮れていたようだ。

 いまだ荒い息を落ち着けながら、電気の付いていない自分の部屋を見渡す。

「なんてザマだよ……」

 そんな声に、まだ夢を見ているのかと思いつつ、僕はベッドの下を見た。

「タカか……いるなら電気くらい付ければいいじゃないか」

 ベッドを背もたれに、床に座ったままの親友はこちらを見ようともせず、自らのスマホをいじっていた。

 暗い部屋で唯一の光源であるスマホが彼の顔だけを青白く照らす。

 僕はひとまずベッドに腰掛けるようにして座った。

「晩飯に呼んでも降りて来ないって、お前のお母さんが言ってたぞ……」

「そっか。それで起こしに来てくれたのか?」

「そのつもりだったけどやめた」

 はぁ? 真意が分からず僕は言葉に詰まる。

「ハルがうなされてたのを見て、そのままでいればいいって、みゆちゃんに言われたからな」

 隆哉のつっけんどんな対応に僕が困っていると、彼はため息を吐いてから、ネタばらしをした。

「お前、みゆちゃんに口すら聞いて貰えてないんだろ……」

「まぁ、うん。姉ちゃん、なんかすっげー怒ってる」

 隆哉の言う通り、先週の日曜日から、姉ちゃんはずっと口を聞いてくれないままだった。

 あの夜、美桜から話を聞いた姉ちゃんは、自分勝手な事をした僕にかなり腹を立てているらしい。

 僕の心境としては、今は放っておいてもらいたいのだが……

「かれこれ一週間もハルとみゆちゃんの板挟みにされてる俺の身にもなってくれよ」

 マジで勘弁だぜ、とか言っている隆哉に、僕は乾いた笑いを返すしか無かった。

「あと、藤堂さん。あっちもぶちギレてたぞ」

「やっぱり?」

 隆哉が頷く。

「今日の放課後、夢咲さんの家にハルを強制連行するつもりだったらしいからな」

「マジか……」

 ため息を漏らした僕に、隆哉はやっとこちらを振り向いた。

「なぁハル。そろそろ話してくれないか?」

「なんの事をだ?」

「夢咲さんと迫田の事だ」

 迫田の名前に僕が思わずハッとなる。それを見た隆哉は、やっぱりな、と言って僕の目を見た。

「いつから気付いてた?」

「迫田の停学を教えた時に、ハルは驚く様子が無かったからな。何か知ってるんじゃないかって思った」

「感の良すぎる親友を持つと隠し事も出来ないのか……」

 僕の言葉に隆哉は笑った。

「それはお互い様だろ?」

 まぁな、と言ってから、僕は事故が起こる前にあった事を全て隆哉に伝えた。

 美桜と迫田は以前、藤堂を通じて何人かで遊びに行ったことがある事。そして最近になって迫田が度々美桜にちょっかいを出していた事。

 彼氏として僕がそれを阻止していたら、バイト先まで乗り込んできたあげく、美桜と別れることを脅迫まがいに迫ってきた事。

 バイト終わりまで待ち構えていた迫田と、バイクでの追いかけっこになり、奴らが速度違反でパトカーに摘発されていた事。

 そして事故の日、迫田に似た体格の運転手が乗った原付に、追い抜き際に車体を蹴られでもしたのか、僕がバランスを崩して今回の事故を起こしてしまった事。

 話を進めるごとに隆哉は眉間に皺をよせどんどんと表情が険しくなっていった。

 そして最後まで話を聞いた隆哉は、クソっ! と叫び、自らの拳を思い切り床に叩きつけた。

 階下にまで響くほど大きな音がして、僕の方が驚いてビクリとしてしまう。

「なんで、なんでお前はそんな大事な事を俺に話してくれなかったんだよ!」

 隆哉は僕の肩を掴んで揺さぶりながら言った。

「あの時、なんかあったら言えって言ったじゃないか!」

 隆哉は悔しそうに言って、自分の事でも無いのに涙を滲ませた。その姿に僕の方がたじろいでしまう。

「この事、夢咲さんは?」

 僕は首を横に振った。

「いいか、タカ。絶対にこの話は美桜に漏れたらいけないんだ」

「なんで……」

 そう隆哉が言ったタイミングで、姉ちゃんが部屋に飛び込んで来た。

「なんかすごい音がして、タカくんの大声が下まで聴こえてきたんだけど……」

 姉ちゃんは暗いままだった部屋の電気をつけながら言った。

「えっ、何があったの……」

 涙する隆哉に姉ちゃんも言葉を失った。

「みゆちゃんごめん、何でもないから、下に戻っててくれないか……」

「えっ、でも」

 隆哉が険しい表情を姉ちゃんに向けた。

「いいから!」

 隆哉の言葉に、姉ちゃんは自らの彼氏ではなく、僕を鋭い目付きで睨みつけてから、素直に部屋から出ていった。

 足音が階下に消えるのを待って隆哉は話を再開した。

「俺はハルがひとりでそんな問題を抱えたままだった事が悔しい……」

「言えるかよ。こんな締まりのない話」

「ハルのくせにカッコつけんなし」

「そんな事より、美桜にはくれぐれも迫田の話はしないでほしい。僕らが別れれば、美桜には危害を加えないと言っていたし、なにより迫田が今回の事故の原因だと知ったら美桜自身が責任を感じてしまう。まぁ分かってたら、きっと僕からが別れようって言わなくても、美桜から切り出してきてたんじゃないかな?」

「いや、そんな……」

 隆哉は言葉に詰まり、唾と一緒に色々な感情を飲み込んだのだろう。

「短い付き合いだけど、分かるんだ。美桜ってそういう所は僕と似てるから」

「ハル、お前は全て分かった上で警察にまで嘘を言ったのか? これって刑事事件になる案件だぞ」

「分かってるよ。分かっていて石で転んだ事にしたんだ。第一、僕はあいつの未来を奪いたい訳じゃない。それに美桜に変な十字架を背負わせるなんて以ての外だ!」

「そりゃそうだけど……」

「第一、美桜って言いたい事はハッキリ言うタイプだろ? 迫田に文句のひとつでも言いに行って、返り討ちにあうのが一番怖い。女の子があの体格の男子の本気の力に勝てるわけ無いだろ?」

「それでハルは納得出来るのかよ?」

「あぁ……それが未来の美桜の為ならば」

 僕は断言したが、なおも隆哉は苦虫を噛み潰したような表情を崩さなかった。

「ダメだ……俺にはお前の考えが理解出来ねぇ。ただ、事故の件については約束する。他にこの事実を知っているのは誰かいるのか?」

「警察から僕の証言が目撃証言と合わないと言われたみたいで、それを知ってるのは父さんだけだよ。僕の意志を尊重して刑事事件にしないよう計らってくれたらしいけど……」

「わかった。なら、あとひとつだけいいか?」

「なに?」

「俺が心配なのは、夢咲さんがこの先、また迫田にちょっかいを出されないかだ。手を出さないなんて言っても約束を守る保証はないんだぞ?」

「それはそうだけど……」

 言葉に詰まった僕を隆哉はやれやれとばかりにあきれ顔で見てくる。

「実は、迫田については俺も調べてみたんだ。プライドが高い奴で、自分に靡かなかった女の子に対しては、虐めにも近い嫌がらせをしていた事もあるみたいだから、それを心配していたんだ。コレをもっと早くハルに伝えていたら……」

 奴は来週いっぱい登校してこないが、その先、僕という邪魔者が居なくなった美桜に何かして来る可能性が無きにしも非ず、隆哉が言いたいのはそういう意味だ。だが、この情報から逆に分かったこともある。

「多分だけど、タカの話が本当ならその心配はないよ。今になって迫田が美桜にちょっかいを出したのは、まだ美桜に固執してるからじゃない。僕のせいだと思う」

「なんで分かるんだ?」

「美桜は多分、過去に迫田をフッた時にその嫌がらせを受けてるんだろうな。かなり迫田の事嫌ってたから、何があったのか気になっていたけど、タカの話で辻褄が合ったよ。今更、過去にフラれて、腹いせから嫌がらせまでしていた女の子に構うのはおかしいだろ?」

「ハルが言いたいのは、自分が逃がした得物を、自分より下に見ていた男が釣り上げた事自体にイチャモン付けているとか、そういう事?」

「そんな気がする。ガキじゃあるまいし、好きだから嫌がらせをするって歳でもないだろ」

「まぁ、一理あるが……」

「美桜はアイツの事をファッションみたいに女子を乗り換える奴だって言ってた。それにただオラオラしているだけで、美桜を靡かせようって口説き方じゃない気がしてたんだ。だったら、あれも単に僕への嫌がらせなんじゃないかって。今頃、大怪我していい気味だ、とか思ってるんじゃない?」

 なるほどな、と言って腕を組んだ隆哉はしばし黙考した。

「やっぱバカだなお前は……」

「なんだよいきなり」

 隆哉は、あーもう、とか言って自分の頭を掻いた。

「それだけ周りが見えててなんで、口車に乗せられて別れるって結論が出るんだよ! 意味が分からねぇ!」

「原因は迫田だけじゃないんだ。僕はもう自分に自信が無かったんだよ……」

「そんなもん必要ねーし、俺だってねーよ!」

「隆哉には分からないよ!」

 僕は思わず大きな声を出した。

「お前と姉ちゃんは誰が見たって美男美女のお似合いカップルだ。年の差だって学生時代はある程度感じたとしても、社会人になればたいした問題じゃない」

「待てよ、ハルに俺たちの何が分かるんだ!」

「ああ、わからないよ。だけどもう『美桜はお前には勿体無い子だ』ってのは聞き飽きたんだ! なんでこの子にこんなダサい彼氏なんだって目でみんなが僕を見る。ただでさえその度に美桜には申し訳ない気持ちになるんだ。それなのに美桜はあんなにも僕に尽くしてくれる。だから美桜にふさわしい男になろうって頑張ろうとした。やり方は分からなかったけど、少しづつでもって。けど無理だった……こんな怪我までして、美桜に心配ばかり掛けてる。今回、どう努力したって、僕なんかの力では美桜を守りきれないって自覚したんだ。なら、もう僕は美桜に何一つしてやれない。美桜を幸せにするどころか、悲しませるばかりだ。そんな僕が美桜の隣に居るべきじゃない。美桜を一番幸せにしてくれる人が彼女の隣に居るべきなんだ」

「このヘタレ春樹!」

「ヘタレで悪かったな!」

 隆哉が叫び、僕もそれに叫び返した。

「お前、それだけ夢咲さんの事想っていて……」

「当たり前じゃないか。美桜が大切だから僕は距離を置いたんだ。頼むよ、これ以上蒸し返さないでくれ。せっかく決まった覚悟が揺らぐんだ……」

「揺らぐくらいの覚悟だったら、さっきの話をする相手は俺じゃねぇよ!」

 はぁはぁと、互いに荒くなった息を整える。隆哉の言うことはご最もだった。それでも僕は信念を変えるわけにはいかなかった。

「タカじゃなきゃ、こんな事は話さないよ……」

 僕の言葉を受けて、そうか、と言った隆哉は立ち上がった。

「やっぱりお前の考えは分からない。だから俺は認めない」

「別にかまわない……」

「ハル、お前の机の上に今日の授業のノートを置いてある。それ、写しておけよ。来週から毎日持ってきてやるから。本当はそっちの用事でお前の所に来てたんだ……」

「悪いな、変な話に付き合わせちゃって」

「いや、なんだかんだでハルの本音が知れてよかった。授業の選択が被らない分は神田にでも頼んでくれ……」

 そう言って隆哉は僕の部屋を後にした。

 隆哉との会話と、夢によってぶり返された胸の痛みは、きっと美桜を失望させた僕に与えられた罰なのだろう。

 僕はその日、結局晩飯を食べることも無く、風呂に入る気力すら湧かず。

 たたベッドの上に横たわり、時計の秒針がカチカチという音だけを聞いて過ごした。


 僕がどんな心境に有ろうとも、この週末はやらなければならない事がふたつあった。

 まずは救急車を呼んでくれた方への御礼だ。

 僕にとっては幸か不幸かわからないが、警察に目撃証言をしてくれたのもこの方だった。

 きっと救急車が去った後も、事情聴取などで貴重な土曜日の夜という時間を取らせてしまったに違いない。

 救急車が来るのが遅れれば、当然手当も遅れていたかもしれず、感謝の気持ちは非常に大きいが、善意で証言してくれた事を自らが覆している自覚もあり、僕としては複雑な心境でもあった。その点は心から申し訳ないとしか言いようがない。

 今日は警察を通じて御礼をしたいという話をしてもらい、菓子折りを持って父さんと一緒に昼からその方の自宅に伺う予定だった。

 昨晩はなんだかんだと白々と夜が明ける頃まで時計の秒針の音を聞き続けていた為に、寝不足のままベッドから起き上がる。

 洗面所で見た自分の顔は、クマがはっきり出ていてえらく酷いものだった。

 遅めの朝食と、ギブスによる着替えにくさを今日も味わい、父さんの運転する車で家から五分と離れていない、その方の自宅へとお邪魔した。

 通報してくれたその人は、父さんと同年代の男性だった。今日は奥さんと二人で応対してくれたが、部活で不在の僕よりひとつ下の息子が居ると話していた。

 幸い、その場では事故の真相に関する話にはならず、『君の命に別状がなくて良かった。将来の為にも、身体は大事にしなさい』との言葉をもらい、深々と頭を下げてお暇させて頂いた。

 次に向かうのはバイト先のコンビニだった。

 仮に腕が治っても、停学の間はバイトが禁止されるので、迷惑を掛けた事の謝罪と、責任を取って辞意を表明するつもりだったのだ。

 父さんには駐車場で待っていて貰い、店先でパートのおばさん達に入院中は大変だったでしょ、との労いの言葉を掛けられつつバックカウンターへと入った。

「おぉ、東雲君!」

 この時間なら発注の為に間違いなく居ると分かっていたので、アポ無しで訪ねた事もあり、店長はかなり驚いたようだった。

「もう退院出来たのか。若いと早いのかな? で、怪我の具合は……って、その様子だとまぁ骨折だよね」

 店長は矢継ぎ早に尋ねてきたが、僕は真っ先に頭を下げた。

「ご心配とご迷惑お掛けしてすみませんでした」

「いやいや、こちらこそお見舞いのひとつも行かなくて悪かったね。まぁそこに掛けなさい」

 ありがとうございます、と言ってから、勧めてくれた事務椅子に僕は腰掛け、店長と向かい合った。

「今回の事故についてはご愁傷様だったね。バイクで石を拾ってしまったらしいじゃないか。スピードの出しすぎとか、君の無謀運転のせいではないと聞いているよ?」

「店長、情報が早いんですね」

「一応、ここの管理職なもんでね。さて、こちらも話したい事が多いんだ、重要な事からやっていこう」

 店長はガサゴソと引き出しから、何かの書類を取り出した。

「まずは君に労災の申請をしてもらいたい」

「えっ、労災ですか?」

 予想外の言葉に僕は尋ね返す。

「一応、出退勤の途中で起きた事故だからね。寄り道もしてないから、労災保険の適用範囲だろう。はいこれ……」

 店長が差し出した書類を受け取る。

「あの、今日は迷惑掛た上に、停学の間は働けないので、このまま辞めさせて貰おうと話に来たんですが……」

 僕の言葉に店長は渋い顔をした。

「うーむ。確かに同僚のみんなには謝っておくといいよ。休みの子に急に入ってもらう事になったりもしたからね。で、停学になっちゃった件だけど、どの位かな、二週間程度かい? 」

「二ヶ月だそうです」

「二ヶ月ぅ!? また随分と長いな……まぁ、それでも私から君に辞めて貰うように言ったりするつもりはないからね?」

 店長から、辞めるように勧告される前に辞意を示そうと思っていた僕は、予想していなかった話に、どうしたらいいか分からない。困った表情を読み取ったのか、店長が先を続けた。

「ぶっちゃけるとさ、今のコンビニ業界って、人手不足は否めないし、業務によってはめったにやらない仕事もあるだろ? 今から新人さんを雇って育てるのも大変なんだよね……まぁ受験の間はまた休む事になるとしても、近くの大学に通うようなら、大学生になっても、続けて貰えると私は嬉しいんだけどねぇー」

 店長の話が仮に怪我をしている僕への心遣いが含まれていたとしても、必要としてくれる場所があることが素直に嬉しかった。

「分かりました。二ヶ月間お休みさせて頂かますが、またよろしくお願いします」

「はいはい、それじゃ二ヶ月後からはよろしく頼むね。それにしても、バイクの自損事故だけで二ヶ月って長くない? 過去にも高校生でバイクで怪我した子はいたけれど、そもそも停学にはならなかったしなぁー。二回目とかならまだしも、東雲君が他に悪い事するとは思えないし……」

 そう言った店長は首を傾げる。

「やっぱり、他の生徒へのみせしめの為に、ですかね? こないだの彼があの日、バイクのスピード違反と深夜徘徊で補導されて、二週間の停学になったばかりなんです」

「なるほど、三人目は出さない様にってか。そりゃまたとんだとばっちりじゃないか……東雲君もツイてないなぁー」

 私まで頭が痛いじゃないか……とか笑った(本心はシフトを組むにあたり、困っているに違いない)店長から労災申請書の書き方と、必要な診断書の類を教えてもらってから店を出る。

 帰りの道すがら、労災申請の話をすると、父さんも高校生のバイトでも労災が下りるのは意外だったらしく、びっくりしていた。


 二ヶ月の停学の間、僕は自宅謹慎という事である意味時間がたっぷりある。

 ならばと、日曜日からはリハビリの一環として、出来る範囲の家事を僕が引き受ける事にした。

 なので今は母さんから主婦? 主夫? になる為の修行の真っ最中だ。

 もちろんギプスによる制限があるが、いまのところ包丁を使った料理を除く、掃除、洗濯、買い出しと、ほとんど出来ないことは無い。

 母さんは、これならしばらくパートに入る回数を増やそうかしら、などと言っているくらいだ。

 家族の役立たずが、ひたすらベッドに寝転がる二ヶ月にしたくはないので、その方が僕としても多少なり気が楽だった。

 ある一名を除いた家族の洗濯物の畳み方を習っている間に、着信があったらしい。

 スマホが手元に無かったため、気付けなかったが、不在着信になっている番号は、電話帳に入っている物ではない。十一ケタの数字で記されている番号を見るからに、相手は携帯のようだった。

 さすがにイタズラとは思えないが、番号を知らない相手に、こちらから掛け直すのも躊躇われる。

 本当に用事が有るならまた掛かって来るだろうと判断し、あえて僕からの掛け直しはしなかった。

 夕方、船釣りから帰ってきた父さんの釣った魚をこの状態では捌けないので、近所への配り役をしていた時だった。全ての配達を終え駅前話歩いていると、隆哉の後ろ姿を見つけた。きっと部活の練習試合の帰りだろう。

「おかえりー」

 キャスター付きの防具入れを転がして歩いていた隆哉の背後から、僕は声を掛けた。

「おう、ハルか、ただいま」

 家はすぐそこだったが、僕らは並んで歩いた。

「なぁ、今日なんだけど変わった事は無かったか?」

「はぁ? タカは何の事を言ってるの?」

 要領を得ない質問に僕が聞き返すと、隆哉は、やっぱいいや、と何かをはぐらかした。

 それを特段気に止めることもなく、さっきまた魚を届けたとだけ伝え、互いの家の前で分かれる。

 夕食は、久しぶりに三枚下ろししたわよ、と言った母さんの魚料理を満喫させてもらった。

 これは母さんと僕の共通見解で、魚を捌いてから食べるのと、他人が捌いた魚を食べさせて貰うのでは、味の感じ方が変わるのだ。自分が生臭さくなるのか、魚を捌いたすぐ後に食べる夕飯の刺身は、なんだか味がよく分からなくなる。

 夕飯の後、だんだんと慣れてきたビニール袋をギプスに付けての風呂から上がると、またスマホに同じ番号から着信があった。

 二度目の着信に少し悩んだが、試しにこちらから掛け直してみることにした。

 数コールしたところで、すぐ相手は電話に出たようだ。

「もしもし、東雲です。申し訳ないけど、どちら様でしょうか?」

『ふぇ?』

 多分女の子のだろうか、びっくりして息を飲むような声がする。

「もしもし、どちら様?」

 僕がもう一度尋ねたところ、すぐに通話が切られた。まったくもって意味がわからない。

 多分間違い電話だったのだろうと、気にしないことにして、その日は早めに床についた。


 週の初めである月曜日。登校しない平日の一日は、朝ごはんの支度から始まった。

 パンを焼いて出すのとコーヒーをペーパードリップするくらいだから、片手でも出来るだろうと言われての事だ。デザートの用意だけは母さんがやってくれた。

 まだ相変わらず姉ちゃんは口を聞いてくれない。だんだんと、それすら慣れてきてしまった。

 午前中に家事をこなし、母さんが昼からパートに出た後は、リビングでテレビを観ながらダラダラと過ごす。そのままウトウトとしているうちに夕飯の買い出しに行く頃合いの時間になっていた。

 母さんから渡されていたメモを握りしめ、いざスーパーに出掛けようとしたタイミングで玄関のインターフォンが鳴る。画面越しに、どちら様、と返事をすると、そこに立っていたのは予想外の二人だった。

 僕が慌てて玄関を開くと、訪問者からはいきなりビンタをくらったあげく、胸ぐらを掴み上げられる事になった。

「東雲、てめぇ!」

 激怒しながら、女子らしからぬ物言いをしたのは、高梨彩華だった。その横には同じく険しい表情をした藤堂も控えている。

「お前、美桜がどんだけ勇気出して電話掛けたと思ってるんだ!」

 高梨はなおも僕に詰め寄る。

「ちょ、待ってくれ、一体何の話だよ!」

 情けなく言う僕に、今度は藤堂が抗議してきた。

「美桜のLINEをブロックして、しかも昨日は、美桜に電話掛けておいてどちら様ですか? とか抜かしといてすっとぼけんな!」

 藤堂の言葉に僕は頭が真っ白になった。

「あの電話は……美桜、だったのか……」

 僕の身体から自然と力が抜ける。

「「はぁ?」」

 やっと手を離された僕は、むせりながらも事故で壊れたスマホを新しくした時に、LINEを引き継げなかった事、美桜の携帯番号だけが更新を怠った為に、キャリアのアドレス帳に保存されてなかった事を伝えた。

「あー、クソ。お前本当に間が悪い奴だな!」

 そう言った高梨に藤堂も頭を抱えた。

「あたし達の説得が水の泡じゃないか……」

 その後、多少は冷静になった二人から聞いた話だと、土曜日に美桜に会いに行き、まずは今日からまた登校するよう説得したそうだ。

 渋った美桜を、最後は彼女が指定校を狙うなら、欠席日数が嵩むのは良くないと、今の感情的になっている二人からは想像もつかないような、きちんと筋が通った理由を言って押し切ったらしい。

 その時にもう一度、僕とキチンと話し合うよう二人がすすめ、ちゃんと美桜も納得したらしい。

 LINEはアカウントそのものが消えたのをブロックと勘違いし、そちらで通じないからと、電話をしてみれば、どちら様ですか? と言われた美桜。

 確かにこの状況からなら、既に僕のアドレス帳から自分の番号が消されているんだ、と勘違いするのも頷ける。

 今朝はそのショックで落ち込んだまま登校し、それを聞いた二人は僕に対して激怒し、隆哉に聞いた我が家に押し掛け、今に至る……という事らしい。

 ちゃんとその事は美桜に説明して謝っておけ、そう言って二人は家を後にした。

 しかし今更なんと言って謝ったら良いのだろうか?

 僕は玄関に腰掛けると、ポケットに入っていた自らのスマホの着信履歴を開いて、その番号を見詰める。

 今回の事故で、僕の意図が入る余地もなく、美桜との連絡手段は絶たれたと思っていた。

 またそう思う事で、美桜とは縁がなかったんだ、と自らに言い聞かせたのだ。

 しかし、またその糸は繋がってしまった。

 たった親指一本、いますぐこの画面の番号に触れるだけで、僕の心を掴んでやまない、鈴を転がしたような声を聞くことが出来るかもしれない。

 頭の中にほわんほわん笑いながら僕の名前を呼ぶ美桜の姿が浮かぶ。

 けれど、もう二度と電話に出てくれない可能性もある。むしろ、こんなにひどい事をした僕なんかもう大嫌いになっている可能性の方が高いのではないか?

 悪い思考が膨らむにつれ、スマホを持つ右手が震え始めた。本音を言えば今すぐに電話がしたい。僕がしてしまった酷い行いを謝りたい。僕の事で美桜が傷つく必要は無いと伝えたい。

 けれど、どうしても僕は彼女に電話をする事が出来なかった。

 今もしも美桜の声を聞いたら、美桜が僕にやさしい言葉を掛けてくれたら……間違いなく僕は美桜に甘えてしまうだろう。そしてまた美桜を悲しませる事をしてしまう。そんな連鎖は嫌だ。

 潤みかけていた目を鼻をすすりながら堪え偲んだ。

 そうだ、僕は夕飯の買い出しに行かなければならない。あまり遅くなると母さんが帰ってきてしまう。今、僕に出来るのはこの家の留守番だけ。それすら怠る様では僕の居場所などない。

 僕はリビングに置いたままだった財布を取りに戻ってから家を出る。

 スーパーまでの道で見上げた茜色の空には、ゆっくりと巣へと帰っていく二羽の鷺が飛んでいた。

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