第7話 美桜のサプライズ
日曜の朝、僕にしてはある意味で珍しく、太陽がとっくに昇った時間に目を覚ました。
と言うのも、夜明け前から釣りに出掛けれる様に、わざわざ金曜日から準備を済ませていたのだ。それなのに寝過ごすなんて事は普段ならめったにない。
しかし、昨晩は自らの心音がうるさくてなかなか眠りに付けなかったのだ。スマホのアラームが五時前に鳴ったはずだが、それも無意識に止めてしまったらしい。
今朝起らきれなかった事は仕方ないとしても、この睡眠不足の要因となった、近くて遠い一歩を踏み込んだ自分の勇気は誉めてやりたい。
『あなたがいい』
頭の中で既に何回再生されただろうか、美桜の鈴を転がしたかのような声が脳裏から離れない。
もしかしたら……
頭の上に置いてあった充電ケーブルが繋がったままのスマホを手に取る。
通知は天気予報とニュースアプリの朝刊、メルマガが二通だけ。昨晩なかなか寝付けなかった理由である、期待していた人物からのメッセージは今朝も届いていなかった。
ベッドの上で何度も今日はありがとう、とメッセージを送ろうとして我慢した。今もおはようと送りたくて仕方がない。
しかし、昨日のデートで話した内容から察するに、彼女は必要なとき以外、あまりLINEなどのやり取りを好まないタイプなのではないだろうか。そんな思いが僕の衝動を押しとどめた。
あの時感じた美桜の手のひらの温もりが恋しくて、僕は肌掛け布団をギュッと抱きしめる。
『ブー』
通知のバイブレーションが鳴る音に、すぐさまスマホにかじりつく。
『飛鳥隆哉: 小休憩なう。釣れた?』
部活に励んでいる幼馴染には悪いが、いま待っていた人物からのメッセージでは無い。
起き上がってからスマホのロックを解除、LINEを起動して『寝坊して布団なう』と返すと、すぐに既読が付いた。
『昼飯食ったら行くわ』
隆哉からの返信に了解スタンプを返しておく。
時刻は既に十時半を迎え、お腹はだいぶ空いている。ベッドの上でひと伸びして、縮こまった身体を解すと、僕は寝巻きのままダイニングに降りた。
「あら、あんた釣りに行くんじゃなかったの?」
ダイニングのテーブルに腰掛け、テレビを見ていた母さんがびっくりしてこちらを見てきた。
「あぁ、寝坊した。今から行ってもどうせ南風吹くからいいや……」
「あらそう、けど困ったわね」
「なにが?」
「春樹の分の朝ごはん、用意して無かったのよ」
「別にそこのバナナと冷凍庫の牛乳だけでもいいけど?」
「牛乳も無いのよ」
「マジで?」
大仰に頷いた母さんは、名案を思い付いたとばかりに、わざとらしく言った。
「あんたちょっとスーパー行ってきてよ。お釣りはあげるから」
お腹空いてるからと言って断ったところで、きっと得もない。仕方無く僕は渡された野口英世さん一人を片手に、スーパーへとむかう羽目になった。
食パンの八枚切り二つ、牛乳二本、玉子を一パック、さらにホットケーキミックスが追加され、本当に千円で足りるのか? となったが、ギリギリ不足せず購入できた。……流石主婦、つまりはそういう事だ。
それにしても、日曜午前のレジの混みようには驚いた。全員がカートに載せた買い物カゴに、山盛りの食品を積んでいて、前が三人もいようものなら、えらく待たされた感覚になる。(実際は十分程度なのだろうが)
お腹はますます減るし、待たされるしで、やたらと徒労感を覚えながら帰宅すると母さんが素麺を茹でていた。
「お昼これでいいわよね?」
今買ってきたパンは何だったんだ! とばかりに僕の徒労感は加速度的に倍増する事になった。
素麺が出来上がった時、テレビからはNHKの、のど自慢が流れ始めていた。もはや遅い朝ごはんではなく昼ごはんだ。
「結構切ったのね?」
「学割と紹介割引までしてくれてかなり安かったよ」
そんなことを話しながら素麺を頂いた。
すると、一人目の参加者が、『コーン』と、残念な落選の鐘を鳴らされているタイミングで、僕のスマホが震えた。
既に期待値激減中の僕は、ズズズと素麺をすすりながらジャージのポケットからスマホを取り出す。
『美桜: バイト終わったー(涙)』
「ゲホッ、ゲホッゲホ!」
不意打ちの彼女からのLINEに思い切りむせってしまう。
「あんたお行儀悪いわよ……」
「ごめん」
スマホにまで飛んでしまった麺つゆをティッシュで拭いてからロックを解除する。
母さんはやれやれといった感じで素麺をすする作業に戻った。
とりあえず美桜に『お疲れ様』スタンプを送信してから、『あれ、今日バイトって言ってた?』とメッセージを飛ばす。
開いたままなのかそのまま既読が付いた。
『昨日の夜いきなり電話が着て、バイト掛け持ちしてる先輩がダブルブッキングしちゃったからって、三時間だけピンチヒッター頼まれたの』
プラスして猫が涙を流しているスタンプが送られてきた。
『ドンマイ』とすぐ返信。
『お魚釣れた?』
コレは今日の予定をデート中に話したからだ。そもそもあの段階ではまだ交際に発展するとは思いもしていなかった。
『寝坊して、いま素麺食べてる』
『あらら残念。けどお昼美味しそう』
『そっちは?』
『このままお出かけするから、どこかで食べよかな?』
『そうなんだー』
テンポよく他愛もないやり取りを交わすだけで、まるで霧が晴れるかのようだ。さっきまで悶々としていたのが馬鹿らしく思えてくる。
『昨日は傘ありがとう。けど、春樹くんが濡れちゃったんじゃない?』
『家は駅から近いし、平気だよ!』
『今日ってこの後、このままお家に居る感じ?』
『どして?』
『傘返しに行きたいなって』
『学校でもいいよ?』
そう送ると、しばらく間が空いてから返信が来た。
『むーっ!』と、なにかのキャラクターが拗ねているようなスタンプだった。
彼女の意図するところがすぐには飲み込めず、思わず顔をしかめる。
「どうしたのよ、そんな顔して」
「いや、別に大した事ないんだけど……」
母さんにはそう言ったものの、大した事おおありだった。
数分間、頬杖までついて必死に考えた末、物凄く恥ずかしい結論を見出した。
『会ってくれるの?』
『言わせんな!』さっきと同じキャラがツッコミを入れるスタンプと、『もじもじ』と恥ずかしがるスタンプが連続で飛んできた。
どうやら恥ずかしい想像は外れていなかったらしい。というか、かなり嬉しい。
『夕方頃そっちに行くね』
『駅まで迎えに行くよ。待ってる』
そう送るとバイバイのスタンプが来た。思わず顔がニヤける。
どうやら母さんは僕の百面相を全て見ていたらしい。ため息をついてから、素麺、伸びるわよ、と呆れるように言った。
二時を過ぎた頃になって隆哉がやってきた。
毎度おなじみの、うぃーっす、と声を掛けて部屋に入って来る。
ちなみに、部屋に入るなり彼が発した一言は「どっか行くの?」だった。
夢咲が貸した傘を返しに来る、とだけを伝えると隆哉はそっか、とだけ言ってそれ以上の追求はしなかった。ただのジーパンとティーシャツに着替えただけだが、普段が寝間着兼用のジャージだから仕方あるまい。
その後は最近互いにハマっているFPSがあり、一緒組んで敵を殲滅していく。
数ゲームやったところで、下から母さんが呼ぶ声がした。どうやら、さっき買ってきたミックス粉でホットケーキを焼いているらしい。キリのいいところで下に降りて冷めないうちに食べる事にする。
僕らが揃ってダイニングに入って、母さんが発した一言目もまた、春樹、あんたどこ行くの? だった。
僕と隆哉が蜂蜜とバターを塗り塗りしている間に、母さんは次のホットケーキの生地を流して焼きはじめていた。
「そうだ春樹、あんた昨日折りたたみ傘使ったでしょ、ちゃんと干しておいてよね? よっと!」
母さんが器用にフライパンの上でホットケーキを反転させる。
今はバイト帰りの姉ちゃんと、釣りから帰ってくる父さんの分であろうホットケーキが同時にフライパンの二刀流で焼かれているのだ。
母さん的には、他意なく言ったのだろうが、今の僕には突き刺さる一言だった。
なにを何処までどう説明したものか、なにせ一緒に出掛けた相手が女の子なのは、察している……というか姉ちゃんが匂わせてバラした。
ナイフで切り分けたホットケーキを食べつつ、仕方無く昨日貸した傘を返しに『夢咲』が来るとだけ話す。彼女の事を友達とは言いたくないし、彼女と公言するのはもっと恥ずかしい。あえて苗字呼びにしたのはそのためだ。
すると、なるほどねぇ〜、と、意味ありげな顔で母さんは隆哉の方を見る。
「ねぇ、隆ちゃん。普通、借りた傘をわざわざ休みの日に返しに来る物なのかしら?」
「どうっすかね? 明日学校で渡せば済む話じゃない?」
我が家の母さんは、隆哉がスルーしてくれたプライベートな部分をそのまま流してくれるほど優しくはなかった。そしていちいちわざとらしい。
「もう一枚必要かしら」
「ふれふぇこふぁふぃふぁらな」
「飲み込んでからにしろよ」
僕の抵抗はあえなく却下された。
ホットケーキを半分食べ終わったタイミングでスマホに通知が入る。
『美桜:いま宮山だよー』
彼女にどう説明したものか、悩んだあげく、返信は『了解』だけに留めた。
「なんで付いてくるんだよ……」
僕は最大限に煩わしそうな顔で親友に言ってやった。
「俺に決定権はない」
悟りを開いたかの様に首を横に振った隆哉に、どこの軍隊だよ、と思うが、紛れもない事実だった。
母さんがお前も行け、とばかりに隆哉に視線を送っていたのは承知の上だ。
姉ちゃんにも、他所の家の母さん(このままいくと義理の母さんになるのだが)にもこき使われるこのイケメンとは一体。
僕らが駅に着いたタイミングで美桜の乗った下り電車がホームに入ってきた。改札口で待っていると「お待たせ〜」と、落ち着いたカラーリングの長髪をした清楚系美少女に話し掛けられた。
サラサラストレートヘアの両サイドを三つ編みにして、後ろでまとめたハーフアップにしている。僕の好みに直球ドストライクである。
「「ふぇ!?」」
親友と完全に声が重なった。
「あれ、飛鳥君も一緒だったの?」
小首を傾げた美少女は間違いなく僕に出来たばかりの初めての彼女『夢咲美桜』その人だった。
「えっ、どうしたの急に?」
あまりの劇的ビフォーアフターに僕は言葉を詰まらせる。
「うーん、心境の変化ってやつ?」
「すげー、ハルの好みドンピシャじゃん」
美桜には疑問に疑問で返されたが、ボソリと呟かれた隆哉の一言で僕は我に返った。
僕の好み……あぁ! と声をあげた僕に、隆哉は振り向き、美桜は分かったんだね? といった表情でニッコリと笑った。
「章さんか!」
「正解〜」
イメチェンだけでなく、ドッキリが成功したのも嬉しかったのか、美桜は拍手する真似をしてますます上機嫌だった。
「昨日ね、春樹くんと夕御飯食べてる時に章さんからLINEが来てたの。春樹くんの好きなヘアースタイル聞き出したから、やってあげようか? ってね」
「くそぉ、僕には仕事の参考にって言ってたのに!」
「あはははは、そんな事言って聞き出してたのか〜、わたしも最初は、何で!? って思ったもん」
「悔しいような、けど、めちゃくちゃ嬉しい」
「良かった、喜んでもらえて」
「うん、すっごく可愛い。前も可愛かったけど!」
「ありがとう。けど、いざ彼氏に真っ向から言われるのって、めっちゃハズいね……」
美桜は少し染まった頬を手でパタパタと仰ぐ仕草をした。そんな所がますますいじらしくて愛らしい!
「僕も恥ずかしい……です」
「だよね」
お互いにひとしきり笑い合う。
「けど良かったの? 僕なんかの為に」
「あー、また言った!」
少し不機嫌なフリをした美桜の人差し指が僕のくちびるを抑えた。なんだこの可愛い生き物はっ!
「うっ……ごめん」
「もぅ、しょうがないなー。あれはね、もう必要無くなったの」
美桜は自分の髪をひと房掴んで、はらりと放した。昨日は僕の髪からもしていた美容院の香りが漂う。それにしてもシャンプーのCMみたいだなぁー、と、見とれていた僕に、美桜は言った。
「今は春樹くんがいるもん!」
ハッとさせられた。身体が勝手に前に出る。
「美桜!」
踏み出し掛けた僕は、思いっきり首根っこを掴まれた。正確には着ていた薄手のパーカーのフードを引っ張られた訳だが。
「おふたりさんが仲良くなったのはいいけど場所は考えようねー」
まったく心のこもっていない隆哉の言葉に、ふたりしてハッとなる。やばい、いま僕は今何をしようとしていたのだろう。
「とりあえず、夢咲さんもハルの家へおいでよ。今ハルのお母さんがホットケーキ焼いてくれてるから。ちなみに俺は連行役なんでよろしく」
僕らふたりは有無を言う事も出来ず隆哉に連れられて歩いた。
「ごめんね、こんな事になっちゃって」
「ううん、平気。それよりわたし、おかしい所ない?」
「大丈夫だと思う」
ヘアスタイルの百八十度転換とも言うべき変わり様に、すっかり目を取られていたが、今日の美桜はゆるふわ系の水色のトップスに、白いデニムのタイトなミニスカートを組み合わせた清楚なコーディネートだった。足元も今日はオシャレなサンダルを履いている。
「良かった」
「ねぇ、バイトの時はどうしてたの?」
「向こうに更衣室あるからさ」
ということは、バイトに行くにあたって別に着替えも用意してくれたという訳で……
「けど緊張するなぁ……」
不安げな美桜の手を、思い切って取ってみる。頑張ってくれてありがとうの気持ちを込めて手のひらを握ると、すぐ握り返してくれた彼女が、ありがとうと言って微笑んだ。
「ただいまー、連れてきたよー」
そう言って僕の家の玄関を開ける隆哉。はっきり言ってどちらの家か分かったもんじゃない。(まぁ人の事はいえないか……)
「あら、いらっしゃい」
母さんがダイニングの方からいつもの様にパタパタとやってくる。
「おじゃましま……はっ!?」
美桜は挨拶の途中で固まった。母さんもその様子を見て何かに気付いたみたいだ。
「あなた、どこかで……」
今度は母さんが固まる番だった。
「昨日はお世話になりました!」
美桜が頭を下げると母さんが満面の笑みになった。
「そう、あなただったの! イメージが急に変わってしまったから分からなかったわよ。けど、なんか凄く嬉しいわ! ねぇ、あたしホットケーキ焼いたの、たいしたもんじゃないけど。ほら、あんた達も早く上がりなさい!」
何故か初対面のはずの美桜を見て、いきなり好感度マックスと言わんばかりの母さんに僕と隆哉は顔を見合わせて、首を傾げる他なかった。
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