第3話 偽物の恋文

 彼女が作り笑いと共に発した言葉で、僕は現実に引き戻される様な感覚を覚えた。

 夢咲の笑顔が作り物で、困った様な感情がたっぷりと含まれているとしても、僕の事を魅了するのに充分すぎる効力を発揮している。

 その中でも現実に立ち返ることが出来たのは、夢咲が発した、『手紙をくれたのは、東雲君であってるよね?』という言葉の持つ違和感のせいだ。

 僕がここに来たのはからだ。だが、彼女の言い方だと向こうも様に受け取れる。

 ここにきて少し嫌な予感がした。僕が逡巡するうちに夢咲の表情は曇っていく。

 君にそんな表情をして欲しい訳じゃない! と喉から声が出そうになったが、そんな大それたことを言う資格が僕にあるとは思えなかった。

「ちょっと待って、状況を整理させてほしい」

 僕はかろうじてそう言うと、右のポケットをまさぐり、朝受け取った桜色の封筒を取り出した。

 夢咲の案の定、驚きを隠せないといった反応を示した。そして彼女も通学カバンから同じ封筒を取り出す。

 そちらにはあまり丁寧とは言えない文字で『夢咲 美桜 様』と書かれている。

 お互いに中に入っている便箋を取り出して交換して読んでみた。書かれている内容はほとんど同じだ。

 先に口を開いたのは夢咲の方だった。

「この字なんだけどさ、わたし知ってる……」

「えっ、それは差出人が分かるってことだよね?」

 僕の言葉に夢咲は悲しそうな瞳で頷いた。

「多分、夏希の字だよ」

 夏希と言うのは、先日の事が起きた時、教室でひとりおどおどしていた大塚さんの事だ。

「そっか、夏希も向こうに付いたんだ……」

 そう言葉にした途端、夢咲の瞳から光るものが零れたように見えた。

 しかし、僕がそれを確認するよりも早く夢咲は膝を抱えてうずくまってしまった。

「お、おい……」

 どうしたものかと声を掛けたものの、彼女から反応はない。

 つい先程まで輝いているように見えた少女から、今はその光そのものが失われている。

 女の子って小さいんだな…………こんな時に失礼かも知れないが、今の膝を抱えた夢咲を見て真っ先に思った事だった。

 誰もが認めるであろう美少女の顔は、膝に埋められ窺い知ることが出来ないが、女の子の華奢な身体から細く伸びる腕、そして美しい脚線美。まして今日は朝の雨で靴下を濡らしてしまったのか、素足で上履きを履いているので、やたらと肌色が目に付く。

 無造作にしゃがみ込んでしまったからだろう、ただでさえ短い彼女のスカートは一部が捲れあがってしまっている。

 たまたま膝に回された腕によって視界が遮られていたが、少し動けば角度的に見ては行けないものが見えてしまいそうだった。

 男としてそういった衝動に駆られない訳ではない。しかも相手はクラスでもトップクラスの美少女だ。

 けれど、人としてその様な行為はしたくなかった。まして、今この場に夢咲ひとりを残して立ち去ると言う選択肢も有り得ない。

 しばし考えた末、僕は彼女の隣で壁を背にして座り込んだ。それに気付いていないという事はないと思うが、そのまま彼女が言葉を発することは無かった。

 座り込んで幾ばくか、ずっとどうしたものかと思考を巡らせていたものの、気の利いた事を言えるほど、僕は人生の経験を積んでいる訳ではない。

 おまけにすぐ右側にはすべすべとしていて柔らかそうな、毛穴とは無縁とも思える夢咲の生足が曝け出されている。

 顔だけでなくスタイルも抜群に良い彼女の脚線美は、美脚モデルもかくやという程に美しかった。程よく肉付きのある太ももから美しい曲線美を描くふくらはぎ。そして男性の物とは明らかに違う細くて華奢な足首に至るまで、人間が創造した造形ではありえない美しさを感じる。

 さらに、通称スカート焼けと言われる肌の色の境までもが見えてしまう程、太ももは際どいラインまで露出してしまっている今の状況だ、どうしたって健全男子であり、脚フェチな僕の目が行かない訳がない。

 そうだ、変な気分になってしまうのは全ては時折窓から吹き込んでくる風が良くないのだ。

 たしかあれは週のはじめ、浩介とフェアリーの香りする制汗剤の話をした時の事だ。

 あの制汗剤は確かに女の子の纏ういい香りであり、男が使っていい代物ではなかった。

 ならば、今まさに風に乗って僕の鼻腔をくすぐるこの香りを一体なんと名付けよう?

 向こうが妖精ならば、妖精の女王タイターニアだろうか。

 無理やり目を逸らそうとしても夢咲の纏う優しい香りが風によって運ばれて来るたび、隣でうずくまる少女の存在を意識してしまう。

 人間の五感のうち、視覚は目を閉じれば見ることが出来なくなる。聴覚は耳を塞げば聞こえなくなる。味覚はものを口に含まなければいい。触覚は……夢咲の柔らかそうな太ももに触れてみたいと思ってしまったが……もはや逮捕案件だ!

 残る嗅覚に至っては、息をする限りどうしたって感じてしまうのだ。

 嗅姦なんて言われたら、息をしないで死ねと言っているのと同じ事。だから僕が隣を見てしまうのは仕方が無い。

 無理やりな自己弁護を組み立ててから、なんて馬鹿な事を考えているんだと自己否定をする。

 時間と共に少しは心が冷静さを取り戻してくると、今までは気にしていなかった、クラスの中で普通に笑っていた頃の夢咲の姿をふと思い出した。

 直接話した事は多くなかったが、クラス分けから間もない頃の合唱祭に始まり、テストが勉強めんどくさいと友人らと話す夢咲、先生に当てられても落ち着いて答えを出す夢咲、友人からイタズラをされて膨れつつも笑っていた夢咲。

 意外と普段から自分は彼女の事を見ていた事に気が付いた。

 今ここに僕が呼び出された理由はまだ分からないが、悪戯を仕掛ける相手が僕だったのには、何か関係があったのではないかと勘ぐってしまう。

 更に数分が経ち、北棟の方から女子の話し声が聞こえてきた。

 こちらが目を向けると、見てはいけないものを見てしまったかのように逃げていった彼女らは、フルートと思しき楽器を持っていたし、履いている上履きが緑色だった事から、吹奏楽部の一年生達だろう。

 パート練習のために人気の少ない場所を探していて僕らとかち合ったと思われる。

「東雲も行っていいのに……」

 その足音が遠ざかるの待って、夢咲が掠れた声で呟いた。

「いや、もう少しここに居るよ」

 僕の答えに夢咲は、そう、とだけ答えた。

 相変わらず放課後の校舎は各部活から聞こえてくる青春の音で溢れている。

 どこからともなくフルートの音色がそこに混ざった。きっと先程の後輩達も練習場所を見つけたのだろう。

 しばらくすると今度は男子の声が聞こえてきた。それはチューバを抱えた男子の二人組だった。

 きっと先程の一年生と同じ理由でこちらに向かってくるのだろう。彼らの上履きの色は青、ならば三年生だ。

 もしかしたら後輩達に場所を譲ってこちらに来たのか、などと勘ぐってしまう。

 夏に予選敗退すればそこで引退する運動部と違い、吹奏楽部の三年の引退は文化祭の後、つまりもう少しだけ期間がある。

 実際、近付いてきた彼らは、暗に視線で場所を譲れと言っていた。夢咲の事はそっとしておいてあげたいと思うが、上級生に対してわざわざ刃向かう状況でもない。

「場所を変えよう、話したくなければ別に話さなくてもいいし」

 僕は立ち上がりながらわざとらしく音を立ててズボンのお尻を払った。

 それでも夢咲が動くことは無い。

 参ったなぁとばかりに頭を掻いた僕はふと気が付いた。もしこのまま先輩達がこちらに来れば夢咲の隠されているべき布が彼らに見えてしまうのでは無いかということに。

 彼女の貞操観念は彼女のものであって自分の預かり知るところではない。しかし今この場に於いて、それを護れるとしたら僕しかいないであろう。しかもタイムリミットは足音と共に刻一刻と迫っている。残された時間は僅かだ。

 えい、ままよ!

 僕は勇気を振り絞って耳元に囁いた。

「夢咲、怒らないで聞いてくれ……頼むから立ってくれ。先輩達にスカートの中が見えてしまう」

 こうかはばつぐんだった。

 ばっ、とスカートの裾を抱え直すと、一瞬でこちらを睨み付けた。

 夢咲のまぶたはずっと涙を流していたのか赤く腫れていて、瞳には羞恥と怒りの色が込められている。それがはっきり分かるくらい近い距離だった。

「見たの?」

「僕は見てない」

「嘘、こっち見てた」

「見てないってば」

 確かにソレを直接目にした訳では無いが、際どい場所までは見えていた訳で……僕は後ろめたさ故、視線を逸らしてしまった。

 その間に夢咲はなんとか立ち上がってくれた。

「やっぱり見てたんじゃない」

「いや、そういう意味じゃ!」

「じゃあ、どういう意味よ?」

「あの……」

 僕らの言い合いを遮ったのは例の先輩達だった。

「俺たちここを練習に使いたいんだけど、構わないかな?」

 二人のうち声を掛けてきたのは優しそうな雰囲気をした先輩の方だった。

 方や、先ほどの強烈な視線を向けてきた先輩は、『痴話喧嘩なら他所でやれ』と言外に言っている。

「すみません」

 僕がひとまず謝ってから歩き始めると夢咲も後を付いて来た。

「絶対見てた」

 後から呟かれる。

「なら、どうしたら許してくれるんだよ!?」

 困り果てた僕の言葉は。質問というよりも懇願に近い。

「マックシェイクで許してあげる」

「ま、マックシェイク? まぁそれくらいなら構わないけど」

「期間限定の大きいサイズで」

「お、おぅ……わかったよ」

 僕が頷くと夢咲は、やった! と言って、笑顔を見せたその瞬間、胸の鼓動が一際大きく跳ねた。僕にとって初めての感覚。

「ちょっと、直してくるから先に行ってて……」

 言うなり近くの女子トイレへと夢咲は小走りに向かった。それを僕はただじっと見送る。

 「あれ、なんだこの感覚……」

 呟いてから我に返り、胸の高鳴りを押さえるようにして昇降口に向かって歩きはじめるも、輪郭のつかめないもやっとした感覚が消える事はなかった。

 急ぐ必要もないのに、慌てて靴を履き替え、傘を片手に校舎の外へ出て夢咲がこちらに来るのを待つ。

「僕はどうしちゃったんだ?」

 雨は降りやんだものの未だに雲に覆われている空を見上げながらひとり呟く。

 この時の僕は、まだその答えを持ち合わせてはいなかったのだった。

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