第2話 人生初のラブレター

 夏休み明けの週は駆け抜けるように過ぎていった。それもこれも始業式の翌日から、いきなり期末テストが始まるというハードスケジュールによるものが大きい。

 駆け抜けるように過ぎていくのは時間だけに留まらず、あれだけ暑かった始業式の翌日から降り続く秋雨は夏を連れ去ったかのような肌寒さをもたらしていた。

 そんな中、クラスで話題の二人はと言えば、あの衝撃の開戦劇から四日が経ち、初日の様な衝突こそ無いものの、冷戦もかくやと言った様相を呈している。

 男子はそこまで気にかけていないが、女子の噂話ネットワークは恐ろしく、話は既に学年中に広まっているらしい。

 今は二人が決裂したという話よりも、どちらを擁護するか、つまりは自分達の身の振り方のほうが話題の中心になっている……とは隆哉からの情報である。

 男子には、あまり関係のある話でもないので、異国で起こった戦争の話のように聞き流しているというのが正直なところだ。

 なによりも目下の課題は、登校時に雨によって濡れてしまった後、授業を受けている間の気持ち悪い状態を、如何にして回避すべきかである。

 対抗処置として、ジャージに着替える者もいれば、替えの靴下を用意してみたり、なかには素足で上履きを履いている生徒も見受けられた。

 なにせ自転車通学に傘は使えないし、一年以上使い込んだカッパは水漏れし始めたのでそろそろ買い替え時かもしれない。長靴は下駄箱に入らない可能性が高いし、見た目にもよろしくないので躊躇われる。

 今日に至っては昨日使ったカッパがぜんぜん乾かず、電車で通学するありさまだった。


 校門を抜け昇降口まで辿り着いた所で傘を畳んで水気を払う。

 どんよりと重たそうな鈍色の雲を湛える空を見上げ、いつになったら止んでくれるんだよ……などと呟いていると、水色の丸っこい物体……いや失礼。水色の蛍光色をしたカッパを纏った浩介が小走りでやって来た。

「春樹、おはようさん」

「浩介もおはよう」

 挨拶を交わしながら、浩介はカッパを脱いでバッサバッサと音を立てながら雨水を払っていた。

 それで濡らされてはかなわぬと、一足先に屋内に入った僕は、クラスの傘立てに自分の紺色をした紳士傘を入れる。

 続けて、下駄箱を開けて上履きを取り出そうとしたのだが…………一時の思考逃避のためにもう一度閉める。

 しばしの黙考。

「春樹さん、何してるんすか?」

 いつの間にかカッパを袋に収納し終えた浩介が不思議そうに僕を見る。

「…………今日の一限って授業なんだっけ?」

 思わず出た言葉はそれだった。

「どしたの、春樹。熱でもある?」

 咄嗟に誤魔化しただけの発言とはいえ……いや確かに普段から授業態度が真面目とは言わないけれど。

「ま、まぁ、なんか気になったんだ……」

「そか。とりま現文だよ。教科書忘れたとか、そんなとこかいな?」

「あっと、えっと、現文なら大丈夫だと思う。ありがとう」

 浩介は、そう、とだけ答えると先に教室へ向かっていく。

 僕はもう一度下駄箱の扉を開け、中を確認した。やはり先程見た光景と何も変わりはない。自分の名前が書かれた上履きが入っているので僕の下駄箱だ。それを入れた相手だって間違い様はないだろう。

 今、僕の下駄箱には、何故か上履きと一緒に、桜色の封筒が納められていた。

 その封筒を恐る恐る手に取ると『東雲 春樹 様』と宛名が書かれている。間違いない、それは僕の名前だ。

 マンガや小説と言ったフィクションの世界でしか起こりえないと思っていた状況に、どうしたって頭が混乱する。

 今すぐ開封しようとしたが、ちょうどバスケ部の朝練を終えた集団が昇降口に現れた。その中には何人かのクラスメイトも見受けられたので慌てて封筒をポケットに突っ込み、おはようと挨拶だけを交わし、ひとり教室へと急いだ。

 普段通りを装ってはいたが、やはりおかしい所があったのか、彼らは小首を傾げていたし、不審に思われた気もしたのだが……今、それに構っているほどの精神的余裕はなかった。


 一限目、現代文の授業が終わると、僕は慌ててトイレへ駆け込んだ。

 さっきのは熱じゃなくて下痢か……サボりの段取りか、なんて浩介に笑われたが、そうかもしれないとだけ言っておくことにする。

 個室に入ってから破けてしまわぬよう、丁寧にシールを剥がし、封筒の中から黄色い便箋を取り出した。

『突然のお手紙をお許しください。今日の放課後の四時半に南棟と北棟を結ぶ三階の渡り廊下で待っています。きっと来てくれますよね?  私、ずっと待っています!』

 そう書かれた文章に、差出人の名前は書かれていなかった。

 男子のいたずらか……とも思うが、それにしては女の子らしい字体だ。男子がそれを真似て書いた様な不器用さとか、不自然さも見受けられない。

 試しに匂いも嗅いでみる。さすがに普通の印刷紙と同じ匂いがした。

 何を浮かれているんだ、とは思っても、逸る気持ちを抑え込むのは難しい。

 そんな浮ついた気持ちのまま受けた午前中の授業は、まったくもって頭に入ってくることが無かった。


 四限の選択授業(数二)を終えた昼休み、僕は急いで教室へ戻ると、取り巻きの男子が集まる前に隆哉を学食へと誘い出し、例のラブレターと思しき手紙への対応を相談した。

 隆哉ならば、まがりにも彼女持ちであるし、過去にそう言った告白を受ける経験を幾度となく積んでいるのを知っていたからだ。

 もう一人の親友は恋愛マスターとは言い難く、むしろギャルゲーマスターであるからして相談相手としては対象外である。

「うわー、マジものっぽいよね、この感じ!」

 隆哉に手紙を見せた時の第一声がそれだった。慣れゆえか大騒ぎすることもなく、ハルにも春が来て良かったじゃん、などと軽く笑っている。ちなみに本物かどうかは、やはり女の子の書く様な字体から判断したようだ。

「タカもやっぱりそう思うって事は、あまり変に疑わなくても良いのかな?」

「うーん、どうなんだろ……」

 少し悩みながら頭を掻く姿すら堂にいっているのだから、イケメンは反則だ。

「なぁハル、今このタイミングで手紙を渡すって何か意味があると思う?」

「えっ、タイミングと意味?」

 僕が答えられないでいるのを見かねたのか、隆哉は両肘をテーブルに着けて手を組むと、真剣に僕の目を見て話した。

「まぁ前提条件として、ハルに心当たりのある女の子が居ないことなんだけど……」

「クリアだな」

「そこは断言かよ……まぁいいや。じゃぁまずはこれから俺達を待っている学校行事を考えてみなよ」

「なんで学校行事? テストも終ったし、来月は修学旅行と、それが終わってからは文化祭があるのかな……」

 僕の答えに隆哉は首肯した。

「その二つで考えられるとしたら、修学旅行の自由行動で好きな人と一緒に周りたいってのと、文化祭マジックでカップル誕生ってあたりだと思うんだよなぁー」

「ふむふむ、なるほど。僕には縁がなさそうな話だ」

 ガクッと体勢を崩した隆哉は呆れ顔をしている。

「それ、自分で言ってて悲しくね?」

「んー、別に今は好きな女の子とかいないしさ」

 あきらかにつまらなそうな顔をしてから隆哉は先を続けた。

「別に俺の事じゃないからいいけど……それでだ、今のうちのクラスの恋愛に対する雰囲気ってどうよ?」

 隆哉の言葉にしばし思考を巡らせる。

「雰囲気も何もあの二人がバチバチやってて、というか藤堂さんの一方的な攻勢って感じだけど……ある意味最悪なんじゃない?」

 隆哉が頷く。

 だとすると…………そう言った事に疎い僕でも隆哉の言いたい事に気が付いた。

「もし、この手紙が本物だったとしたら、クラス外の女の子の可能性が高いって言いたいのか?」

「正解! うちのクラスなら今のタイミングはないと思うんだ」

 確かに、と僕が頷くと、隆哉は人差し指を立ててその先を解説した。

「それにもう一つ理由があるよ。もしうちのクラスの女子なら、修学旅行に行く段階でハルと出来るだけ一緒になれるように根回しして、特別な雰囲気の中で告白するとか、その後の文化祭マジックを使ってハルの気を引く事も出来るじゃん。どちらにしろ、互いの親密度を上げてから事に望めば良い。余程空気を読めない限り、こんな腹の探り合いしてる時には事を起こさないよ……」

 流石は経験豊富な隆哉だ。全ての道理が通っていて、納得できる。

 僕は隆哉の話に頷くだけのマシーンと化していた。

「なぁタカ、僕が学校行事で誰かと急接近して、取られてしまう前に告白したい……って流れだったりってありえるの? これちょっと自惚れ過ぎな考えじゃない?」

 自分で言っていて恥ずかしくなり、自らの顔をしかめる。

「いや、この場合ならそのスタンスでいいんじゃないか? 何が理由で惚れられたのか分かれば……ってそもそも相手も分からないし、心当たりがあるなら、俺に相談することもないか……」

 その通りだとばかりにコクコクと頷いて返す。

 隆哉のおかげで、かなり自分の置かれた状況は確認できた。心構えも無くその場に臨むより、はるかに心強い。

 改めて僕は隆哉に礼を述べてから、二人して日替わりランチBをかきこんだ。もちろん隆哉の分は僕の奢りである。


 午後の五限、六限を受け、帰りのホームルームを済ませた後、浩介からのゲーセンへのお誘いを金欠を理由にして丁重に断わり、僕はひとまず図書室へと向かった。

 まだ手紙にあった四時半まではまだ幾ばくか時間がある。この時間指定は人通りが減る時間を待ちたいのだろうとは恋愛マスター(仮)な隆哉の談である。

 しかし僕からするとその僅かな時間をどう過ごすかが分からなかったのだ。

 図書室に入り、紙の匂いで満ちた静謐な空間に浸っていると、心に少しのゆとりが出来た気がしてきた。

 そのまま最近買った恋愛物のライト文芸を読もうかとカバンから取り出したものの、やはり今はやめておく。

 今は無の境地に至るべきだ……などと、そもそもが意味不明な心理状態であるからして、どうしても普通ではいられないという自覚があった。

 静かな空間には時計の針が進む音だけが。カチカチと聞こえてくる。

「よし!」

 四時二十分を過ぎた頃、僕は待ち合わせ場所とされた、渡り廊下へと向かった。

 女の子を待たせるのも……なんて思いがあったものの、早めに着いた約束の場所にそれと思しき人物は見当たらない。

 仕方なし、ガラスを開いた窓辺にもたれて、テニスコートの方を眺めると、ソフトテニス部がウォームアップのラリーを始めていた。近々大会があるのに、雨で練習が出来ないと嘆いていたクラスメイトがいた事を思い出す。

 いつの間にか朝から降り続いていた雨は止んでいて、下級生はまだ水たまりのあるコートを整備していたが、上級生は先に使えるようになったコートから使っているようだ。ポン、ポンと気持ちよくボールが弾き返される音がここまで聞こえてくる。

 普段ならプレイ出来る様なコート状況では無いのだろうが、無理をしてでも大会に向けて練習がしたいのだろう。

 次いで吹奏楽部も練習を始めたのか、音合わせをする音がし始めた。他にもグラウンド全面は流石に使えないためか、学校の外周を走る陸上部の掛け声や、金属バットで白球を弾き返す音。色々な青春の詰まった音たちが敷地内のあちこちから聞こえてくる。

 高校に入ってからは帰宅部の僕も、中学まではずっと隆哉と剣道部に在籍していた。放課後の喧騒は久しぶりに感じる懐かしい雰囲気だ。

 そんな事を思っていたら、不意に背中から声を掛けられた。

「東雲君、だったんだ」

 慌てて後ろを振り返ると、そこに立っていたのは思いもよらない人物ではあるが、見知った人物でもあった。

 窓から吹き込む風がふいに彼女の柔らかそうな長い髪を靡かせた。

 ゆるくパーマをかけているのであろう栗色をした髪が、雲の切れ間から僅かに漏れた太陽の光を反射して、彼女自身が輝いて居るのかのように魅せる。

 風で乱れた前髪を耳の後ろにかきあげる動作ひとつですら、やたらと高貴な動きに見えた。

 けれど、その時にチラリと見えた彼女の瞳には憂いの陰が見て取れる。もちろんそれでも目の前の少女が人形のように美しい事に変わりはない。

 だけど、どうしてそんな顔をするんだろうと僕は思った。

 彼女の整った顔立ちがますますそうさせるのかもしれないが、儚い光のようなものが、今にも目の前で失われてしまうのでは無いか……そう思った時、心が震わされるような感情が僕の身体中を満たした。

 その瞳を見ただけで今からこの子にとか、そういう一切の邪念が吹き飛んだ気がする。

 クラスの中という括りで知った顔とはいえ、彼女の事を何か知っていると言うわけではない。

 それなのに彼女にそんな顔をして欲しくないと思ってしまうのはきっと僕のエゴだろう。

 不甲斐ないというべきか、やるせないというべきか、そんな気持ちになった僕の困惑は、すぐに彼女にも伝わった様だった。

「えっと、わたしに話したい事があるってのは、東雲君であってるよね?」

 誰にでも分かる作り笑いを浮かべながらそう言ったのは、僕らのクラスで渦中の人となっている『夢咲美桜』その人だった。

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