僕は君との未来を知りたいんだ
鮎川周喜
第1話 夏休み明けの大喧嘩
ここに着くまでに汗だくじゃないか……それがその日の僕が真っ先に呟いた事だった。
昨日で約一ヶ月半に及ぶ高校二年生の夏休みが終わりを迎え、今日は夏休み明けの始業式だ。
神奈川県の真ん中辺りにある、県立南陵高校。その校庭の木々からは、いまだ夏の名残りと言うべき、クマゼミがけたたましく鳴いている。
昔は始業式と言えば九月一日だったらしいが、小学校に入学した時から二期制であった僕らの世代からすると、始業式は八月最終週にあるというのが常識だった。
もちろん毎年古くて風通しが悪くて、途方も無く暑い体育館での始業式も当たり前だ。
まだ八時半にもならない時間だと言うのに、もう気温は三十度を超えているのだろうし、湿度も高い。
僕は学年別に分けられた自転車置き場に自転車を置き、鍵をカチャリと掛けてから昇降口へと向かう。
ワイシャツの胸の辺りを摘んでパタパタとさせ、苦し紛れに風を送り込むが、ジリジリと照りつける太陽を前に、効果などは無きに等しかった。
風通しの良い昇降口で一瞬の清涼感に浸りつつ、通学カバンから取り出した学年カラーの赤い上履きを履く。そして愛用のナイキのスニーカーをそそくさと下駄箱に入れてから、早足で自分の2-C組がある南棟四階を目指した。
階段で毎日四階まで登るのは少々めんどくさい。それでも今、足早に教室を目指すのは、そこまで辿り着けば冷房の恩恵に授かれるからに他ならなかった。
いよいよ待ちに待った冷房の効いた部屋だ! と言わんばかりに、僕が教室の後ろ側の扉を開けた瞬間だった……
「ふざけんじゃないわよ! この泥棒オンナ!」
「はぁ!? アンタがしっかり繋ぎとめて置かないからでしょう!? むしろ迷惑被ったのはこっちなんだけど!」
「いまなんつった!? あんたイキるのも大概にしなさいよ!」
涼しい風と一緒になって教室から吐き出されてきたのは、夏休み明けの女子高生が発するとは思えない刺々しい言葉と、えらくドスの利いた声だった。
冷房の涼風とは裏腹に、かなりのヒートアップっぷりである。
「そもそも自慢げに見せびらかしてきたのは百合香の方じゃない!」
「美桜あんた、開き直ってんじゃないよ! あんたが色仕掛けで
「だから、そんな事してないって言ってんじゃん!」
開いた扉を手にしたまま、まるでヤンキーのような口調で交わされる声の発生源を探すと、教室の真ん中辺りで、見下ろす格好で一方的に責め立てているのは藤堂百合香、逆に座ったまま反論しているのは夢咲美桜だった。
少し派手めなファッションを好む二人だが、共にクラスを代表する美少女だ。しかしいくら美少女たろうとも、今はどちらも般若といった形相である。
ついには藤堂がガツンと机を蹴り飛ばす音までしてきた。
「二人ともとりあえず落ち着いて!」
誰もが静観するしか無かった状況を、唯一打破出来た男子は飛鳥隆哉だった。
これ以上は殴り合いになる、という寸前で二人の間に割って入る。
彼はスポーツも出来れば、頭も良くて顔まで良い。このクラスの男子の中でも中心的な人物だ。
僕にとっては幼馴染であり、二人いる親友の片割れでもある。
彼が剣道部の朝練で、いつもより早く登校してきていたのは不幸中の幸いというやつか。
今の状況で女子に止めに入れというのは危険を伴うと思われるので、彼が行くのは最善策だろう。
しばらくはそれでもあーだこーだと揉めていたが、それもやっとこさ収まった頃、背後から肩を叩かれた。
「よっす、春樹。って……登校初日からどういう状況?」
声を掛けて来たのはもう一人の親友、神田浩介だった。
とりあえず道を空けてよ、と浩介に言われ、自分が教室の入り口を塞いでいることに気が付いた。
振り返ってみれば、人身事故が起きた山手線よろしく、教室に入ろうとしてつっかえたクラスメイト達が後にたむろしている。
「あ、ごめん。それは僕も聞きたいくらいなんだけど……まぁとりあえず中に入ろうか」
先頭が僕以外でも緊急停止は起こったであろうし、僕が教室に入ればすぐに渋滞も解消した。
しかし先程の口論の影響は周囲にも色濃く残り、困惑を浮かべた表情のクラスメイト達と目配せを交わす。そこはある種、冷房とは無関係の冷めた空気が充満していた。
席が前後同士の浩介は僕の後に続いて自分の席に座った。僕らは窓寄りの列の一番後ろ側の二つ。教師から遠く、冬ならばポカポカした陽だまりに昼寝を決め込めるベストポジションも、今の季節だと女子なら日焼け止め必須……という辺りで察してほしい。
「なぁ、藤堂さんと夢咲さんって普段仲良かったんじゃねーの?」
席に着くなり、浩介は背後から声を潜めた。
「確かにいつも同じグループだったよね。あとは大塚さんとか高梨さんなんかも」
クラスを見渡すと、高梨さんは部活の朝練があったのか、教室にはまだ来ていないようだが、見た目からしても二人に比べて控えめな大塚さんは、何も出来ないでおろおろと所在なさげにしていた。
見ていてあまりに居た堪れないので、高梨さん早く来てあげて! なんて事をお節介にも思ってしまう。
「何があったのか、飛鳥くんから聞いてこいよ」
野次馬根性丸出しの浩介に、自分で行けよと若干は思いつつ、タカに頼みもあるし……と、ため息をひとつ残して、僕は立ち上がった。
「タカ、おはよ」
いつも通りを装いつつ、同じ列の一番前に席のある隆哉に歩み寄って声を掛けると、朝から疲れたぜ……とか言いながら彼は机に突っ伏した。隆哉の周りを取り囲んでいた男子達にも、おはようと久しぶりの挨拶を交わす。
「タカ、悪いんだけど制汗スプレー貸してくれない?」
僕の頼みに、親友はめんどくさそうにカバンをまさぐって、ハイこれ、と言いながら青いスプレー缶のそれを手渡してくれた。
さんきゅ、と礼を述べた僕は全身くまなく、それこそ盛大なくらいにそのスプレーを使わせてもらう。
「ちょ、ハル、お前使い過ぎだろ!」
途中で奪い返そうとしてくる隆哉の攻撃を巧みに交わす。タコ踊りみたいな僕の動きに周りの男子から笑いが零れた。
「タカは朝練の後シャワー浴びてるんだからいいじゃん」
まだ乾ききってないタカの髪の毛を見ながらそんな事を言ってるうちに、スプレーは持ち主へと奪い返された。
「そういう問題じゃねぇよ!」
コッチの意図をとっくに察している親友は半笑いでどついてきた。僕も笑い返すと、隆哉は、あーあ、まだ買ったばっかなのにスカスカじゃん、などと言いながらスプレー缶を振っていた。
「ついでに剣道部らしくボーズにすれば髪も早く乾くんじゃね?」
「ぜってーやんねー!」
「姉ちゃんに怒られたもんな」
「それをここで言うな!」
「あ……そうだった。悪い」
じゃれ合っていた僕達の会話に割り込んできたのは周りにいた男子達ではなく、ちょうど登校してきたばかりだった隆哉の隣の席に座る中村さんだった。
「東雲くん、あなたちょっとスプレー掛け過ぎじゃない、正直クサイわよ?」
この言葉に僕はマンガのようにガクッと崩れ落ちた。普段控えめな女子から「クサイ」と言う爆弾投下で、一瞬にして僕のメンタルがゼロになったのは言うまでもない。もちろん周囲の男子諸君は爆笑だ。
けれども、そんな会話が聞こえているからか、クラスの雰囲気が若干落ち着いた気がした。
尊い自己犠牲は払ったが、僕は改めてタカに先程繰り広げられた口論の経緯を尋ねたのだった。
「おかえり、クサイ春樹くん」
「浩介、歯、食いしばるか?」
僕が自分の席に戻るなり、待ってましたとばかりに、浩介がニヤニヤしながらからかってきた。ついでの情報としてはフェイスペーパー(激爽快パウダーイン)で額を拭いながらである。
「さすがにそれは勘弁……」
そう言いながら、もう一枚取り出したフェイスペーパー(もちろん激爽快パウダーイン)で再び額の汗を拭う。小太りな彼は冷房の効いた教室内に入ってもまだ玉の汗が止まらないらしい。
僕は男の矜持をぼろぼろにしてまでして聞いて来た、隆哉の話を浩介に伝えた。
二人のいざこざは、要約すると夏休みの間に藤堂が彼氏と別れて、その原因が夢咲にある……という事らしい。
今朝、二人が久しぶりに顔を合わせて、藤堂が夢咲に文句を付けてた所からケンカ腰になったらしい。
「ふーん、それって横恋慕ってやつ?」
「それじゃ片想いのままだから、どちらかと言えばは略奪愛じゃないか?」
「逆NTR乙!」
「いやいや、そこに行き着く浩介の思考がゲスいな」
まぁ彼女らならばそんなこともありそうだ……
どう考えても二人とも男に困るようなビジュアルではないし、異性との交友関係が派手でもおかしくはない。
浩介のせいで卑猥な方向に向かいそうだった思考は放棄する事で正した。
後から登校してきたクラスメイト達が増えるにつれ、教室内の不穏な空気こそ多少和らいだが、周囲を見ればコソコソと噂話をする姿が散見される。
スクールカーストがあるとすれば間違いなくクラス内女子のツートップにあたる二人だし、昼ドラの様なドロドロな展開となれば学年中の噂になってしまうだろう。
「それはそうと、コウ。君はいったい何枚それを使うつもり?」
浩介が三度フェイスペーパー(激爽快パウダーイン)を取り出した所で話題を変えてみる。
「しょうがないだろ、この制汗スプレーは使えないんだから!」
浩介はそう言うと通学カバンからピンクのスプレー缶を放り投げたので、ひとまず受け取ることにした。
「なにこれ、フェアリーの香りって何さ?」
制汗スプレーの香りって『シャンプー』とか『石けん』辺りがメジャーじゃないの? 何よ妖精の香りって?
指先でシュッシュと吹き付ける動作をした親友の行動を察して、試しに手の甲に吹いてみる事にした。
『プシュ』
「…………」
「…………だろ?」
主語述語もありゃしない浩介の発言に、だな、とだけ首肯して返す。
「なぁ、いくら女の子にモテないからって、自分が女の子の香りを纏うって考えはどうかと思うぞ?」
くんくん。
「ちょ、おまっ! コレはおふくろに頼んだら違うやつを買ってきてだな」
くんくん。
「はいはい、浩介の言い訳はそれだけか?」
くんくん。
「現在進行形で臭いって言われた春樹さんの中和剤としては使えるじゃん!」
「混ざって余計変になるだろが!」
これは即座に却下である。
「けどよ、春樹どん。なんかいい匂いだよな?」
「確かに……」
くんくん。
「だけどそれをお互いくんかくんかするのは気持ち悪いと思うわ」
「だな………」
その光景を不幸にも見てしまった周囲のクラスメイトからは冷たい視線が注がれた。
『キンコンカンコン』
そんなふざけた会話をしているうちに、久しぶりに聞く始業のチャイムが鳴り、クラスの面々が自分の席に戻っていくと、周囲の噂話もひと段落した。
チャイムの後すぐに、おはよー、などと気さくな朝の挨拶をしながら入って来たのは生徒の間ではごっちゃんと呼ばれ、年も若く親しみやすいと慕われているんだか、舐められているんだか分からないが、とにかく人気はあるという後藤先生だった。
「とりあえず遅刻もなく全員出席か。無事に夏休み過ごせたみたいだな。何事も無くてめでたしめでたしと」
後藤先生は、教室を見渡すと、席に空きのない事だけ確認したようで、満足そうに頷いた。もちろん今後のクラスの火種となりかねない、先ほどの一件は知る由もない。
その場にいるクラスほぼ全員が夏休み明け早々勃発した二人の美少女による喧嘩の行く末を気にかけながら、始業式の行われる灼熱の体育館へと足を向けたのだった。
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