独裁者のどーなつ

雪丸仟

独裁者のどーなつ


 とある屋敷のエントランスホールに、手紙を握りしめた男が駆け込んだ。


「ああ、お嬢様。おいしたかった!」


「……手紙、読んで下さったのね」


 かつてこの屋敷の使用人だった男は、

 手紙を握りしめたままの手で少女を抱きしめる。

 少女もまた応えるように彼に身を預けた。


「この街を出ましょう。たとい城壁の外、

 どこまでも続く荒れ野にふたりきり彷徨うことになろうとも、

 たとい両親に呪われ親子の縁を絶たれようようとも! 

 ただ貴方の愛さえあれば、私は他に何も要らないわ……!!」


 少女の言葉に、こくりと頷く男。


「馬車は手配してあります。今は一刻でも惜しい。

 さあ、すぐにでも発ちましょう!」


 少女の手を引き今にも飛び出さんとしていた男は、しかし、

 突如内側に向けてはじけ飛んだドアにその鼻っ柱をへし折られた。


「うが……っ!? な、な……っ!?」


 ぼたぼたと血を滴らせる鼻を押さえながら男は尻もちをつく。


 ぱち、ぱち、ぱち、と控えめな拍手が三度。


 室内に立ち込める埃を踏みしめて現れた軍服の女性は、

 嗜虐的な笑みを浮かべて元使用人と、

 そして気遣わしげに彼の肩を抱く少女を冷たく見下ろした。


「さて、さて。お寒いお安い三文芝居はどうやら終劇かな。

 いずれにせよ、役者の鼻が潰れては最早格好もつくまい」


「ブリジット・ガーランド……っ!」


 少女は深い怨嗟のこもった目でブリジットを見上げる。


「ふむ、つまり貴様らは私の名を覚えてはいても、

 肝心の法はその皺の少ない脳髄から綺麗さっぱり消し飛ばしたということか」


 問いかけに答えはなく、ブリジットはただ小さく「ふん」と鼻を鳴らした。


「それでは貴様らを――」


 白い手袋の手がもう一度ぱん、と打たれる。


「粛清する。……イアン、拘束しろ」


 後ろに控えていたイアンら親衛隊は、速やかに叛逆者二名を後ろ手に縛り上げた。


 騎士の時代の城壁が未だ残る、古色蒼然とした城塞都市。

 ブリジット・ガーランド……イアンの姉は、

 この小さな都市国家の――独裁者だった。


「お嬢様ッ!」


 女と引き離され、叫ぶ男。


「お放しなさい! こんなこと、他の誰が許しても

 天におわします我らが神がお許しにならないわ!」


「ならば地獄で縋ることだな。その神とやらに」


れたことを! 

 裁かれるべきはあなたよ! ブリジット・ガーランド!!」


 呪いの言葉を吐き続ける少女に背を向け、

 ブリジットは床に落ちた手紙を拾い上げてポケットに収める。

 その唇の端が、にぃ、と満足気につり上がるのが見えた。


「……ガーランド少佐」


 叛逆者の積み込みを終えた仏頂面の兵士が

 馬車の御者台の上から声をかける。


「ご苦労、いつものように処理しておいてくれ」


 イアンの命令に敬礼を返すと、兵士はぴしりと鞭をひるがえし、

 馬車は中央広場前の四つ辻に向けて走りだす。


 四つ辻を西に折れる馬車は、やがて窓のない殺伐とした建物にたどり着くだろう。

 高い塀と鉄条網に囲まれ、施設というよりむしろ

 『窯』とでも呼んだほうがしっくりくるであろう煉瓦造りの代物。


 あの処刑場こそがこの街で最も優れた技術の粋であるというのは、

 なんとも皮肉極まりない事実だ。


 叛逆者は厚く鉄扉の向こうに押し込められ、処刑人は重いレバーを下ろす。

 城壁の内側中に響く断末魔は、ブリジットの威権を全ての市民たちに知ろしめ、

 腹の底から震え上がらせるに十分だった。


 処刑場の鉄扉の向こうに消えて、帰ってきた者は今まで誰一人としていない。

 銃殺するにも、罪人を飼い殺しにするにも、人を殺すにはとにかく金がかかる。

 これはそういった諸問題を解決してくれる、至極合理的なシステムだ。


 イアンは街の中央にある広場、その中央を横切る石碑の前を闊歩かっぽする。


・以下の条文を読まざること、諳んぜざること、心置かざること、遵守せざること全てこれをかたく禁ずる。


 ある日ブリジットは門を出ようと番兵の様子を伺う男の後頭部に銃を突きつけた。


「粛清する」


・みだりに広い見聞を求め、一民草に相応しい範疇を超えて徒に空論を巡らすことは堕落である。よって城壁の外に出ること全てこれをかたく禁ずる。


 ある日ブリジットはお菓子作りに勤しみ、

 味見に舌鼓を打つパン屋のもとへ踏み込んだ。


「粛清する!」


・日々の暮らしに自他を甘やかし、

 軟弱な慣習にその身を浸すことは言うまでもなく堕落である。

 よって酒・菓子・煙草等々嗜好品の類全てこれをかたく禁ずる。


 ある日ブリジットは愛しあう恋人たちのベッドサイドへ踏み入った。


「粛清するッ!!」


・一時の劣情に身を焦がし、理性を喪わせることは

 広く人民の利益を阻害する堕落である。よって自由恋愛全てこれをかたく禁ずる。


 ――エトセトラ、エトセトラ。

 全てこれをかたく禁ずる。全てこれをかたく禁ずる。


 四つ辻を駆ける馬車。閉ざされる処刑場の鉄扉。

 ブリジット・ガーランドの法律をつづった碑文は

 長々しくも中央広場を東西に横断し、

 もはや石碑ではなく壁と呼んだ方がしっくり来るような代物だ。


 事実これは人々を彼女のてのひらのうちに留め、

 また彼女の王国を守るための、文字でできた壁なのだろう。

 そう、せっかくの青空を息苦しく狭めるあの城壁と同じ。


「ガーランド少佐、ガーランド大佐が――」


 一人の少年兵が、歯に物が詰まったような表情で駆け寄ってきた。


「……呼びづらそうだね。僕のことは『イアン』で構わないよ」


「い、いえ。そういうわけには……」


 少年兵は軍帽のつばをぐい、と下げて、慌てた表情を隠す。


 ……彼は確か、今年親衛隊に加わったばかりの新兵だったか。


「では命令だ。これからは僕を『イアン』と呼びたまえ」


「……い、イアンさん、ガーランド大佐がお呼びです」


「ありがとう、今行くよ」


「あの、場所は……」


「大丈夫、分かってるから」


 少年兵の敬礼に見送られ、イアンは姉のもとへと歩きだした。


 ◆◆◆


「うむ、本日も晴天――雲ひとつ、一点の異常もなしだ。

 私の庭はやはりこうでなくてはな」

 

 城壁の上の物見に立つブリジットは、額に手をかざし、

 実りの少ない荒野の果てに地平線を眺めながら満足気につぶやいた。


 巡回の途中、必ずこの時間にここへ立ち寄り、外の様子を窺うのが彼女の日課だ。

 ブリジットはそれ以外のいかなる時にも、あえて城壁の外を見ようとはしないし、まして城門から足を踏み出そうともしなかった。


「姉さん、そんなに身を乗り出して、落っこちても知らないよ」


「何を言う! 万に一つでも敵影を見逃すことなどあれば、落ちるのは私の首だ」


「ここから落ちても死ぬのは一緒だろ。

 城壁の外が怖いくせに、無理はしない方がいいんじゃないか」


「『怖い』!? 『怖い』だと!? 私は為政者としての責務をだな……ひっ」


 遠くに荷馬車の列の影を見とめたブリジットは、

 僕の袖を掴み真っ青になってそちらを指した。


「い、イアン、あれはっ。あの馬車はなんだっ。敵かっ」


 これだから彼女は、イアン以外の者を決して城壁の上に伴わせないのだ。

 氷の美貌と圧倒的カリスマで鳴らす大佐殿の、

 こんな醜態を部下たちに見せられるものか、と。

 

 弟のイアンにしてみれば、ブリジットは心配性で小心なくせに

 変なところで無謀な、ただの世話の焼ける姉なのだが。


「落ち着いて姉さん。ごらん、あれは食料を売りに来た商隊だよ。

 城門を開けてあげないと」


「くそ、何故よりにもよってこんな時間に来て水をさすのだ。

 紛らわしいにも程がある……。

 次に同じことをしたら、奴からは二度と買ってやらんからな!」


 自ら外に出ることを禁じる以上、外から食物を運んでくれる彼らを拒めば

 飢えて死ぬのは僕らの方だと、無論彼女は知っている。

 だが愚痴り先など、イアンの他にもないのだろう。


 まぁこれも、ひとつの可愛げか……。


 城壁の下で指示を待つ部下に、イアンは大きく手を振って合図を送る。


 これから半刻の間だけ城門は薄くその口を開き、

 無数の銃口が囲む中でブリジットの法に背かない商品だけが取引される。

 何者も逃げ出さず、何者も潜り込まないように。


 ……用心深いことだ。


「……姉さん、外には姉さんが言うような敵なんていやしないよ。

 貴族どもは首都で起こった革命の鎮圧に躍起だ。

 こんな辺境までわざわざ足を延ばす余裕なんてないさ」


「ふん、甘いなイアン。奴らはそうやって油断させて、

 いつかこの私の寝首を掻くつもりなんだ。

 お前もせいぜい夜道には気をつけることだな」


「この街の夜道で姉さんと親衛隊以上に恐れられてるものなんて何一つないさ」


 僕の答えに、ブリジットは虚をつかれたように目をしばたかせた。


「……ふむ、それもそうだ」


 小さくうなずき、それから不安げに、


「なあ、イアン。真に裁かれるべきは私だと、お前もそう思うか?」


「この城壁の内側にあって、姉さんを裁く者は誰ひとりいない」

 

 苦笑交じりの答えにブリジットはふふん、と満足気に鼻を鳴らし、

 再び傲岸不遜な支配者の笑みを取り戻した。


「――行くか。そろそろ日が暮れるというのに、巡視はまだ半分も終わっていない」


 軍服の裾を翻し、軍靴が石段を鋭く叩く。

 姉から独裁者へと纏い直したブリジットに、イアンは影のように付き従う。


「粛清する!」


「粛清する!!」


「粛清するッ!!」


 白い手袋が左右に空を切る。没収品は右の馬車へ。叛逆者は左の馬車へ。


「分かってるね、いつものように処理してくれ」


 イアンの言葉に御者は敬礼し、二台の馬車は走りだす。

 二台の馬車は中央広場前の四ツ辻で、左の馬車は処刑場へ。

 右の馬車はブリジットの屋敷へと進路を分かつ。


 閉まる鉄扉の音、下げられるレバーと響く断末魔。


 市民たちは肩寄せあって噂する。

 ブリジット・ガーランドは遠からず全ての民を刈り取って、

 いずれこの街をがらんどうにしてしまうだろうと。


 ◆◆◆


「……ぷはぁ」


 密造酒の瓶から離れた艷やかな唇から、

 このうえなく幸福そうな吐息が漏れる。  


 ブリジットは酒瓶を手に持ったまま、

 赤いベルベットのソファにだらしなく身を横たえていた。

 着崩れた軍服の襟元からのぞく仄かに紅潮したうなじと細い鎖骨には、

 乱れた黒髪がしどけなくかかる。

 

 イアンは向かいの椅子で呆れながら彼女の姿を眺めていた。


「……なぁイアン。そこの皿を取ってくれないか」


 脱力した指先が、二人の間に横たわるテーブルを指した。


「ほら、それだ。ドーナツが三つ載っている……」


 ブリジットの目は胡乱うろんだ。


「ドーナツはひとつだよ、残念ながら」


 イアンはため息混じりに立ち上がり、皿を差し出す。


「……はて、そんなに食った覚えはないんだが」


「だけど、呑んだ覚えはあるだろう?」


「イアンお前、つまみ食いしなかったろうな」


 ブリジットは口惜しそうに皿を受け取ると、テーブルの上に置かれた紙片を指す。


「イアン、それを読んだか? 

 今朝のご令嬢が使用人の男に宛てたラブレターだ。傑作だったぞ。

 『あなたに逢えない日が続き、枕が乾くいとまもございません』

 ばかめ、ヤツの枕はメイドが毎日カラッカラに乾かしておるわ」


 ブリジットは喉の奥でくつくつと笑いながら手紙を読み上げる。


  取り上げた恋文とドーナツをさかなに大酒、か……。


「厳格なあなたに憧れて親衛隊に入った少年たちが、

 あなたのこの醜態を見たらさぞや幻滅することだろうね」


「幻滅されたっていいさ。ああ、一向に構わないとも!」


 ブリジットは半ばやけくそ気味にドーナツに齧りつきながら声を荒げた。


「親に見放されて軍に入り、その軍に見放されて故郷を追われた。

 だが私は、お前にさえ見放されなけりゃ……それでいい」


 最後のドーナツをたいらげたブリジットは、

 砂糖のついた指を名残惜しそうに舐める。


「……イアン、お前だけは――私を裏切ってくれるなよ」


「あなたは僕の上官でこの街の支配者だ」


 冷たい答えに、ブリジットはどこか寂しげにイアンを見上げた。

 イアンの頬が、ふっ、と緩む。


「……そして僕にとって、ただ一人の肉親でもある。裏切れやしないさ」


 ブリジットはふふ、と小さく笑むとまた酒瓶に口をつけた。


うまいかい」


「ああ、格別だな!」


「そんなに酒が好きなら、

 行商人たちから余所で作った正規品のワインを買った方がきっとよほど旨い」


「分かってないな、イアン。お前はまったく分かってない!

 知っているだろう? 

 私は昔から、禁じられたものにほど手を伸ばしたくなるんだ」


 悪戯っぽく笑うブリジットに、イアンも思わずくすり、と笑いを漏らす。


「子供の頃、炎の色が綺麗だからって

 カンテラに手を触れてしまったときは酷かったね。

 あのときはふたりともまだ小さくて、姉さんがあんまり泣くものだから、

 僕もつられていつまでも大泣きしたっけ」


 イアンはブリジットが脱ぎ捨てた軍服のコートを拾い上げ、

 毛布代わりに彼女の肩にかけてやる。


「ほら、そんな薄着で寝転がっていたら風邪を引くよ。今夜は冷えるようだから」


 ブリジットは不意に手を伸ばしイアンの頬に触れると、顔の近くへ引き寄せた。

 人差し指に、わずかに残る火傷の痕。


 ブリジットは決して人前で手袋を外そうとしない。

 その小さな瑕疵かしが彼女の美しさをわずかでも損なうことなど、

 あろうはずもないのに。


「……あのときもお前は、私が泣きやむまでいつまでも傍にいてくれたのだったな」


 甘い酩酊感を伴った吐息がイアンの鼻先をくすぐる。

 イアンの頬に触れたまま、ブリジットはソファの上で身を起こした。


「なぁイアン、暗く冷たい秘密の奥に閉ざしてこそ、葡萄は甘く熟す。

 恋心、それにさっきのドーナツだって。

 厳しく戒め締めつける鎖の中で、それでも密かに抗おうとするその仄暗い情熱が、全てを美酒に変えるのだよ」


「それは魅力的な理論だけど、幾分根拠が疑わしいね。

 味を決めるのは何よりも素材と製法だ。それ以外の何物でもない」


「ほう、この姉の言葉が信じられないと?」


 ブリジットは面白そうに片眉を上げた。


「以前から思っていたが、お前は少々頭が固すぎる。

 どうだ、机上の空論を巡らす前に、一口味見をしてみては」


 大げさな身振りで問うと、ブリジットはまた一口酒をあおる。


「いや、僕は――」


 イアンの言葉を遮るように、ブリジットは彼の首根っこを捕まえて、

 酒を含んだままの唇を、イアンの唇に押し付けた。


「――っ!?」


 生ぬるい酒がイアンの口の中に流れ込む。

 入り込んだ舌が、それをさらに喉の奥へと強引に流しこむ。

 口の端を伝う酒。イアンの喉仏がぐびりと嚥下した。


「……どうだ? うまかったか?」


 酒が? それともキスが!?


 手の甲で口元を抑え、耳まで赤くなりながらイアンは後ずさる。


「ふん、答えられんか。……たった一口で酔いが回るとは情けない。

 町娘たちの王子様も所詮はこの程度か」


「ね、姉さ……」


 言いさしたイアンの唇を、今度はブリジットの人差し指が塞ぐ。


「考えてもみろ。自ら定めた死の掟に背いて、弟の唇をむさぼる。

 これに勝る背徳の美酒があるだろうか! 

 ……白状しよう。この甘露をだれよりも危うい場所で味わうために、

 私はこの街を手に入れたんだ」


 ◆◆◆

 

 夜更け、イアンは処刑場の塀の外を一人歩いていた。


「……ん、交替か」


 寝ぼけ眼の見張り兵がイアンの足音だけを認めて、闇の中へ問いかける。


「悪いけど、代わってあげることはできないな」


「こ、これはガーランド少佐。し、失礼致しましたッ」


 ガス灯の明かりの下に入ったイアンの姿を見て、

 兵士は即座に居住まいを正し、敬礼のポーズをとる。


「楽にしていていいよ。夜中までご苦労様だね」


「少佐こそ、こんな夜分に処刑場に何のご用事でありますか」


「決まってるだろう。叛逆はんぎゃくの罪を犯したから、処刑されるのさ」


「な……! 何故、少佐が一体どんな……」


「大佐と……姉さんとキスしたんだ。自由恋愛どころの騒ぎじゃない。

 これが彼女の法への叛逆でなくてなんだろう」


「――!?」


「どうだい、羨ましいだろう」


 見張りの兵士は慌てふためいたように顔を赤くする。


「……じゃあ、レバーは頼んだよ。いいかい、これは命令だ。

 いつものように――間違いなく処理してくれたまえ」


 もの言いたげな兵士をよそに、イアンは自ら鉄扉を押し、処刑場に入る。


 重い金属がぶつかり合う重苦しい音とともに訪れる、粘りつくような暗闇。



 この音を内側から聴くのは初めてだな。さあ、レバーもそろそろか。


 さん、に、いち……。

 

 ガシャン。


 レバーが降ろされる音を聞いてすぐ、

 イアンは固く目をつぶり、両手で耳を塞いだ。


 それでも否応なしに響いてくる、まるで断末魔のような身の毛もよだつ高音。


 まったく、何度聴いてもこの音だけは慣れないな。


「……この音、もう少しなんとかならないのかい」


 薄目を開けて、差し向けられるカンテラの明かりに目を慣らしながら、

 イアンは地下から現れた男に苦言を呈した。


「しょ、少佐……!? どうしてあなたがここに」


「少し長くなる。積もる話は下で」


 処刑場の床面に黒々と口を開けた巨大な穴。

 持ち上がった金属の覆い蓋がぱらぱらと砂塵を落としている。

 穴の中には苔むした石段が、地下深くへと続いていた。


 ……昔から、似たもの姉弟だった。

 ブリジットが秘密と禁忌の甘露に焦がれるならば、イアンもまた。


 兵士とイアンは連れ立って、石段の先へ降りていった。

 ねずみがうろつく湿った地下道を抜けると、

 やがて目の前には上りの石段が見えてくる。


 石段を登り切ったイアンの頬を、暖かい、橙色の街明かりが照らした。

 酒場から漏れる声、何処かの家の夕食の匂い。

 やや控えめながら、確かに息づく生活の気配。

 街からうしなわれて久しい、夜の街の温もりだった。


 イアンが背後を振り返ると、そこには馴染み深い城壁がそびえ立っている。

 だがそれは、城壁の内側からは決して見えない外側の姿だった。


 城壁の内側で日々刈り取られる『叛逆者』たちはみな、処刑場へと運ばれる。

 レバーを下げれば断末魔の軋りと共に地下道への入口が開き、

 カンテラを持った兵士が現れる。

 そうして城壁の外へと導かれた彼らは、新たな生活を営み始めるのだ。

 古びた分厚い城壁の、脆くなった石をノミでくりぬいて。


 痛快じゃないか。叛逆者に怯えながら遠くを見やるブリジットのすぐ足元には、

 彼女が殺したはずの叛逆者たちが仲良く暮らしている。

 『思えば私たちの裸の王様も、そんなに悪い子じゃなかったね』

 『次はいったい誰を、私たちの“輪”に加えてくれるのかしら』

 なんて囁きあいながら。


 鉄扉の閉まる音、重いレバーの落ちる音、空をつんざく断末魔が響く度、

 市民たちは肩寄せあって噂する。

 ブリジット・ガーランドは遠からず全ての民を刈り取って、

 いずれこの城壁の中身をがらんどうにしてしまうに違いないと。

 だけどそうして繰り抜かれた中身は、城壁の外に輪を作るのだ。

 まるで真ん中だけが空っぽの、ドーナツを形づくるように。

 

 あの城壁の内側で、ブリジットを裁けるものなんて誰ひとりいやしない。

 だから彼女が最後に裁くのは、きっと彼女自身になるのだろう。





 屋敷のソファで空の酒瓶を後生大事に抱きしめ、

 幸せそうに眠りこけていたブリジットは不意に、目を開ける。 

 そこに弟の姿が無いことを知ると、ブリジットは何度か不安げに彼の名を呼んだ。


 応えのない屋敷をうろたえて探しまわる彼女の目に、

 ふと、置き手紙が映る。

 それはイアンが自らの処刑を知らせる手紙だ。


 城塞の街の独裁者は、寝間着のまま屋敷を駆け出した。

 処刑場の見張兵の元へたどり着くとブリジットはその胸ぐらを掴み、

 半狂乱に泣きじゃくりながら叫ぶ。

 兵士は困ったように地下への階段を指さした。





「……あの地下道を降りて外の光を浴びるとき、彼女はどんな顔をするだろうか。

 思い浮かべるだけで、思わず笑みが零れてしまうんだ。

 僕の愛しいあの人は喜んでくれるだろうか。


 僕が作った、秘密のドーナツを」





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独裁者のどーなつ 雪丸仟 @yukimarusen

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