未遂の口づけ

 ユードラの人生は真っ黒に塗り潰されたものでした。幼い頃に奴隷として買われて、育てられて転売され、恥辱の限りと暗殺術を叩き込まれて、そうして貴族の家に送り込まれました。他ならぬその貴族の弟によって。


 ユードラが送り込まれた家の貴族は、殺すまでもない人物に見えました。

 蜘蛛の巣が張った灯りもない部屋で一人置かれ、部下に軽んじられている盲目の貴族、リチャード。

 蜘蛛の巣に顔をしかめながらユードラは表面上静かに口を開きました。

--どうされますか。マイ・マスター。

--すまないが夜会の服を用意してくれ。

--夜会の予定はありませんが?

 明日にも明後日にもない予定にユードラが言うと、リチャードはにやりと笑いました。

--いつ暗殺者が来ても良いようにさ。

 何よりも先に身だしなみに気を使う、それが面白くてユードラは失笑しそうになりました。これだから貴族様はというものです。

 しかしリチャードは誰よりも真面目でした。身だしなみを整えるのは彼なりの戦う意志表示だったのです。

 それに気づいてからは、ユードラはいつもリチャードの姿を探していました。

 誰にも気付かれず、誰にも言わず、ただ仕事をするメイドとして、ユードラはリチャードを傍から見ていました。

 見ているうちにユードラは一つの事に気付きました。リチャードはユードラが暗殺者であることに気づいていたのです。

 しかしリチャードはユードラを公正に扱い続けていました。捕えて拷問にかけるでもなく、殺して何もなかった事にするのでもなく、ただメイドとして使い、優秀な仕事をすれば良い給金が上がりました。


 それがいささか腹立たしくて、ユードラは誰も見もしない花瓶に花を飾りながら尋ねました。

--旦那様は何故、このようなことを?

--誰も見ていないからといって気を抜くのは真面目とは言えないね。

 まるで自分が攻撃されたような気がして、ユードラは花を切るハサミを握りしめました。立ち上がっていつでも殺せるリチャードを見ます。

--真面目な事に意味があるのでしょうか。

--ああ、君、この世には等しく意味がないんだよ。私は目を悪くしてそれを確信した。だが、それで終わっては面白くないだろう?

--誰も見ることのない花を飾る事が面白いと?

--違うな。少なくとも君はその花を見ている。

 君のためだと言外に言われ、羞恥に頰を赤く染めたユードラはスカートを翻してハサミを持った手を我が胸に当てました。

--私が、この私が花を見て喜ぶと?

--それは分からないが、そう想像するのは面白い。

 なんてキザなヤツだろうと、ユードラは思いました。さらに自分が尋ねなければ一生平然と黙っていたであろう事に気付いて、また腹を立てました。分かりにくいにも程があると思ったのです。そしてそれを気にもしていない。

 傲慢、偽善、自分勝手!! 

 心の中でそう叫びながら、ユードラはスカートをたくし上げ、リチャードの執務机の上に上に座りました。はしたなくも足首を見せて、ユードラはそれでもいつもと変わらぬ冷静な声を出しました。

--もう一つ教えていただいても?

--どうぞ。

--棘のある花を飾る事についてです。野放しにするのは危ないのでは。

--危険な花を飾った事はないが、そうだな……,

 リチャードは正しくユードラの質問の意味を掴んでいました。花のことではなく、別の事を口にしたのです。

--人は心のありようで裁かれるべきではない。ただ行動によって裁かれるべきだ。

--刺されてからも同じことが言えますか。

--言えるさ。だが、出来れば一撃で勝負を決めるべきだろうね。

--苦しまず?

--ああ、君、そこは違うんだ。僕は女性だけには親切だ。できれば死ぬまでそうでありたい。ただそれだけさ。

 ユードラは顔を窓に向けました。そうでないとネクタイを引っ張って、思いっきり悪口を述べて、そのあと口づけしそうになったからでした。

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