新歌集から 折れた塔

 心は昔のままなのに、二一世紀の産物、スマホを取ると院生の声がした。

「佐々木先生、十条ナントカ教会というとこうから連絡きてますよ」

「連絡……、分かりました。でます。転送してください」

 十条の教会と言われてもピンとこなかったが、とりあえず電話には出た。

 はじめまして、私牧師でうんぬんという声を半ば聞き流しながら瞬はどぶ川沿いを歩いた。昔の名残が、どぶ川に意識を向けさせた。今じゃもう、鞄でこっちを見ろという女の子もいない。

「実はラテン語かロマン語を使える方を探しておりまして」

 急に現実に引き戻された。

「俗ラテン語、ですか。中々、普通では聞かない単語だと思うのですが、どうされたのですか」

「実は当教会に通われている方がロマン語話者のようでして……」

「イタリア語かフランス語ではないのですか?」

「それが、かなり違う感じらしくて……。もしかしないでも昔の方かもしれません」

「昔の方、ですか」

 目をさまよわせたあと、相手は何歳だろうと考える。一〇〇歳でも全然足りない。三〇〇歳でもつらいだろう。でも牧師さんは、真面目そのものだ。そもそも牧師さんと言えばカトリックでもない。

「にわかに信じがたい話です。申し訳ないですが」

「はい。それはもう、重々承知しております」

 つまり、その上で連絡を取っていると。瞬はどぶ川のあたりに今もいるかも知れない女の子にまたねと心の中で呼びかけると、気持ち急いで駅の方へ向かった。

「その人がまあ、なんらかの事情でそういう風に演じておられるのではないかと思うのですが」

 そう推理を伝えると、困ったような返事が返ってきた。

「私や、周囲の人間は到底そのように思えません。また日常生活にも支障をきたしておられるようでして、それで知り合いのつてをたどっているのです」

「なる、ほど。そういうことなら、零の概念があるかどうか聞いてみれば分かるかもしれませんね」

「零、ですか」

「イタリア語に零はあるのですが、ラテン語がもっぱら使われていた時代にはまだ零の概念がなかったのです。ロマン語は使われていた期間が比較的長いので必ず、とまではいかないのですが、あー」

 瞬は苦笑した。

「正直に申し上げれば、中々面白い話です。ドッキリだとしても」

「よろしければお会いして話を聞いていただけないでしょうか、あるいは録音のデータを聞いていただければ幸いです」

「十条でしたら、すぐにお伺いできます。帰り道に寄れますよ。一九時半頃になりますが」

「分かりました。今日、お手すきというお話でしたら、先方の保護者の方にご連絡いたします」

 電車移動しながら、瞬はストーリーを想像する。母語を忘れてしまった老人……しかし後で覚えた言葉を忘れることはあっても生まれつきの言葉を忘れられるだろうか。


 急に電車の中が騒がしくなった。窓を見て皆が騒いでいる。

 瞬が人だかりの隙間からまばゆい光が空に出ていたのがわかった。

 花火? とか、爆発、というどよめきの直後、悲鳴のようなものがあがって慌てて外の様子を見ようとする。

 東京スカイツリーの上部が折れたと聞いて、車内が衝撃を受けたようになったのはそれからすぐのことだった。

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