第11話「東日流外三郡誌」奇説の顛末  

「東日流外三郡誌」奇説の顛末                川村一彦

古史古伝とは、日本古代史で主要資料とされている「記紀」などの資料と異なる内容の歴史を伝える文献を一括してさす名称とされ、種類も多い。また超古代文献文書ともいう。

いずれも根拠も乏しく、学会の主流派からは偽書とみなされている。

 古史古伝の特色として①写本自体が私有されていて非公開である、などの理由で史料批判が成される予定がなく、資料として使えない。②超古代文明について言及されている。③漢字の伝来以前の日本にあったという主張がある神代文字で綴られている。④上代特殊仮名遣いに対応していない。⑤成立したとされる年代より後の用語や表記法が使用されている。

 上記の特色を見ても古代史研究の歴史的価値が非常に低く、古代から伝来である可能性は無いと考えられている。

 説話の中身は荒唐無稽で奇想天外の発想で興味深い部分があるものの、非現実的で信憑性に疑いを持たざるを得ないが、今尚、奇説を熱狂的支持、没頭し、正統性を主張する団体、知識人も少なくない。

「古史古伝」の名称由来は戦前の「神代史」「太古史」などに使われ、「古史古伝」の分類上、吾郷清彦氏が使用、自身は「超古代文書」と呼んでいた。その後1980年代に佐治芳彦氏が「古史史伝」を使用したのが始まりという。

その後、「古典四書」「古伝四書」「古史四書」「異録四書」と分類した。あくまでも分類上用語として「古伝四書」「古史四書」といったものを、1980年代「古史古伝」と呼称するようになった。

中でも「異録四書」の『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)は奇想天外な説話に賛同者が肯定的論説を展開し、大きな話題と共感者を得た。

この『東日流外三郡誌』は和田家文書として、自称発見者としているが、近年「制作者」との評価が定着している。

和田喜八郎氏の、その経歴は1927年生まれで、古物商、『東日流外三郡誌』『東日流六郡誌』の発見者という。

1948年自宅の改装中に天井裏から大量の古文書が落ちてきたという。これが「和田家文書」と言われるものであった。その原本は、1789年から1822年までの34年間に、陸奥国三春城主の義理の子にあたる秋田孝季と和田喜八郎の先祖の和田吉次の二人が日本全国を巡って収集したものを編纂したもので、これを1870年から1910年までの期間に、全巻を和田家の子孫である和田末吉(和田喜八郎曽祖父)が写本したものとされている。その「写本」は6600巻以上に及ぶ膨大なものとされている。(和田家文書の成り立ちの経緯をどう継承されたかは不確実で、証明するものはない。全国を巡って収集した文書の説話の詳細な説明がなされていない。)

1948年大量の古文書が発見から、翌年には、炭焼き窯を造成中に偶然に、仏像、仏具、古文書を発見。同年、金光上人に関わる仏像、護摩器、経筒などを発見、発見の経緯に不審な点多く学会では認められていない。

(金光上人(1155年~1257年)は浄土宗の開祖・法然上人の高弟。浄土宗布教のため奥州に、やがて津軽外ヶ浜に入りました。 その後、浪岡の五本松に草庵を営み、浄土教に一生を捧げたといわれています。 この金光上人の墓は、東奥念仏の布教後入寂した場所と伝えられている。)

1979年より4年間まで青森県警友会の自称会員(元皇宮護衛官、宮内庁これを否定、1969年和田を無銭飲食の容疑で逮捕したと公表し偽証が発覚し退会処分になった。(和田自身の出自、履歴も嘘で綴られて人間的にも不審な点が暴露された。)


 

うさん臭い奇説として、世論からも疑念を持たれた和田家文書は、1975年から1977年にかけて「市浦村史」(資料編上巻東日流外三郡誌)として刊行された。世に広く歴史界に刊行することによって、奇抜な説話に話題をまき紛糾したが、似非ものとして、無視、一蹴されたが、支持され賛同する学者も現れ、大論争になっていった。

その代表的な対立軸となったのが、元昭和薬科大学教授古田武彦氏が真書として主張した。反して元産業能率大学教授安本美典氏は偽書として両者の主張は対立し、大々論争になっていった。

古田氏は和田喜八郎氏の元職の偽りに、古田氏の口を通じてボランティアとして皇居に警備していたと擁護した。

肝心の和田氏所有の『東日流外三郡誌』の「原本」は未発表のまま1999年死去した。和田氏の死後、和田家をくまなく調査されたが発見ができなかった。

調べていくうちに、薬剤が保管され、古紙に見せかけるための薬剤に使用された形跡に、益々偽書の疑いが確実視されていった。

だが問題は中身の説話が古田氏が納得、支持する筋書と、理論に符合する説であれば古田氏にとって資料の存在の信憑性はどうでも良かったのかもしれない。

それでは和田家文書『東日流外三郡誌』の説話とどういった筋書きか、数百に及ぶ膨大な文書は、古代の津軽地方に大和朝廷から弾圧された民族の文明が栄えていたと主張する。

説話はアラハバキ(荒羽吐日本、日本の民間信仰の神の一種)と書き、遮光器土偶によって広めた本書「震源」である。(遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)は、縄文時代につくられた土偶の一タイプ。一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である。目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器のような形をしていることからこの名称がつけられた)

筋書きの内容は荒唐無稽な続く中、邪馬台国の中に邪馬壱国があったという。紀元前7世紀の日本の各地に津止三毛族など15,6の民族に分かれ、その内機内大和には安日彦と長髄彦の兄弟が治めて平穏に暮らしていたのが邪馬台国で、日向で暮らしていたのが「日向族」(神武天皇の一族)であった。

邪馬一国(邪馬壱国)、邪馬二国、邪馬三国があった。日向族は台湾の高砂族が北上してきたもので、一族を支配するのが巫女で、火を操るヒミコ、水を操るミミコ、大地を操るチミコの三姉妹で、その出自はアリアン族だったという。

つまり卑弥呼は九州の女王で、機内にあった邪馬台国とは別な国で無関係ということになる。日向族は筑紫の「猿田族」を酒と美女でだまし討ちにして滅ぼし、破竹の勢いで機内に向かって東進、この時、兄弟の父邪馬台彦は長門に二万の軍勢で対峙したが敗れ、日向族は破竹の勢いで機内に向かった。

迎え撃つ大和軍と日向軍の戦いは熾烈を極め、安日彦は片目を射られ、長髄彦は片脚を切られ、激戦の末、遠く津軽に落ち延びたという。(安日彦・長髄彦は『古事記』に出てくる兄宇迦斯・弟宇迦斯によく似ている)

『東日流外三郡誌』の説話は古事記を脚色し、大和の末裔が津軽に展開する筋書きで、邪馬台国を複雑な構成にし、日向族が大和を征服し今日の朝廷となった風に展開している。

日向族が台湾の高砂族に設定する奇抜な物語に、日本列島以外からの支配に意外性を持つ展開である。

また従来からの『記紀』の説話から遥かに逸脱した奇妙な設定で『魏志倭人伝』にも影響されたものと思われる。

日向族に敗れた大和の邪馬台国は津軽に落ち延びるが、その前から先住民族の阿曽辺族(アソベ族)という文化程度の低い未開の部族が平和に暮らしていたところに、岩木山が噴火して絶滅寸前のところに、津保化族(ツホケ族)が海から渡ってきて阿曽辺族を虐殺され、津軽は津保化族が平定をした。

その後、中国から晋の献公に追われた郡公子がやってきて、津保化族を平定したが、時同じくして、神武天皇に追われた邪馬台国の一族も津軽にやってきた。

郡公子の娘秀麗、秀蘭の姉妹を安日彦、長髄彦にめとらせ、融和、融合し冒頭に述べた「荒羽吐族」の誕生となった。

この「荒羽吐族」が蝦夷と呼ばれる種族となった。大和に居住していた「邪馬台国」と中国の晋から逃れてきた郡公子の子孫が代々「津軽丸」を襲名した。

神武天皇が崩御後、荒羽吐系の手研耳命が大和を支配すること三年。懿徳天皇崩御後、荒羽吐軍が南下し、荒羽吐系孝元天皇を擁立し、大和を間接的に支配をした。

事態はそれだけでは収まらず、不老長寿の秘薬を求めて秦の始皇帝の使いとして徐福が津軽に訪れた。

徐福は津軽の文化が中国に似ているので驚いたという。津軽丸は荒羽吐族と中国人の混血だと教え徐福にカモメの金玉を授けたという。

その後、朝鮮半島から「カラクニ皇」なる者(崇神天皇?)がやってきて、襲われてしまったと言う。

しかし、このころに中国の史書に出てくる「倭の五王」とは日本の天皇ではなく、津軽丸のことである。

奈良時代には荒羽吐系の孝謙天皇を擁立。その後も津軽は万世一系を続き、安倍貞任を経て、安東氏(安藤氏)に至るのである。

万丈波乱の『東日流外三郡誌』は嘘八百で綴られ、不合しない部分あるようだが、説話の筋書きは稀にみる興味を覚える展開は驚天動地の奇策で小説でも作れない傑作である。

一から十まで嘘で綴られていうことはできない。十三湊を見れば多少の根拠もあるかも知れない。


十三湊(とさみなと)は、日本の中世から近世にかけて、青森県五所川原市の十三湖の辺りにあった湊である。近世以降、「じゅうさんみなと」と呼ばれるようになる。

また、十三湊の遺跡である「十三湊遺跡」は2005年(平成17年)7月に国の史跡に指定されている。本項ではこの遺跡についても述べる。天然の良港のため、鎌倉時代後期には豪族安東氏の本拠地として北海道のアイヌと和人との間の重要交易拠点であった。

また、『廻船式目』では三津七湊の1つに数えられる、当時の博多湊に並び称される港湾都市であった。その後、朝鮮半島、中国などと貿易が行われていたことは、国立歴史民俗博物館、富山大学、青森県教育委員会、市浦村教育委員会、中央大学などによる十三湊遺跡の発掘調査によって明らかになりつつある。

遺跡は東西に延びる土塁を境に、北側には安東氏や家臣たちの館、南側には町屋が整然と配置されていた。主に出土品の分類などから現在では3つの地区に分けられており、荷揚げ場跡や丸太材、船着場と思われる礫層などが出てきた北部が「港湾施設地区」、出土量が多く中心地と思われる中部が「町屋・武家屋敷・領主館地区」、南部が「檀林寺跡地区」とされる。

南部には奥州藤原氏の藤原秀栄建立の檀林寺があることから、平泉との交流もうかがえる。十三湊より北東方に二,三キロ程離れた位置にある山王坊遺跡はや福島城については安東氏の居城とであったとの見方もされている。


安倍貞任(1029~1062)平安後期の武将、奥六郡俘囚の長。安倍頼時の嫡子。通称厨川二郎。武勇をもって鳴らし、1057年(天喜5)父頼時の戦死後は安倍一族の総師として前九年の役の戦いを指揮した。

同年冬、黄海の戦いで陸奥守源頼義を大破、以降数年間政府軍を圧倒したが、1062年(耕平5)出羽山北の俘囚主清原氏の参戦後は敗戦が続き、同年9月、最後の拠点厨川柵が陥落、敗死した。なお津軽の安東氏は貞任の子孫と伝える。

出自に巡る諸説に安東氏の末裔に旧子爵秋田家には、家祖の安倍貞任を長髄彦の兄である安日の子孫とする系図が残っており、このため安東氏を蝦夷とする見解とそうでない見解との対立があるが、家系伝承については蝦夷の祖を安日に求めた室町期成立の『曽我物語』の影響を受けている可能性高いため信憑性がは低いと考えられている。


和田家文書の『東日流外三郡誌』は世に知られていく中、あまりにも奇抜で突拍子もない説話は現実離れで、相手にされなかったが、古田氏が興味をもって推奨した。

当初『東日流外三郡誌』はうさん臭いものとして相手にしなかった。古田氏は和田氏に会見する際、自らが主張する『邪馬台国』『九州王朝説』の傍証とも読める記述を和田家文書に見出し、共感を覚えて、『東日流外三郡誌』に傾斜、没頭するようになり『東北王朝説』を提唱するに至った。

ただし和田喜八郎氏が写本のみ見せて公開し、原本を公開しなかったために『東日流外三郡』信憑性については「現段階で仮説に過ぎない」と断りをつけていたが、非難する側に問題があると擁護主張をしていった。

古田氏は昭和薬科大学の「紀要」に論文などに記載するなど、積極的な研究を進めた。それをきっかけに市民の古代研究会の分裂を招くに至り、運営にあたっていた関西を中心とした一部会員に古田離れた。

1996年(平成8)3月、昭和薬科大学を定年退職後は、京都府向日市に戻り、執筆、講演を続けた。2006年(平成18)5月には雑誌『なかった真実の歴史学』を創刊、直接編集にあたった。

大学の文化史研究室は、古田氏退官後廃止され、市民の古代研究会として存続したが、雑誌は終刊となり解散をした。

その後、古田史学の支持者は分散し複数の研究会を形成していった。古田氏自身は『邪馬台国はなかった』『失われた九州王朝』など古代史関係の書籍が刊行された。

古田氏は和田喜八郎氏の1999年の死去に際し「古田史学会報」に「和田紀初郎氏に捧ぐ」を掲載、その中に「和田喜八郎氏の訃報に接し言葉もない。その日が何時かは来ることを、お互いに知っていた。

古田氏は振り返るように、和田氏を斜めに見上げるようにしながら、言った。「絶対に・・裏切るなよ」あれから十年、私は今日まで裏切らなかった。と書いている。

その古田武彦氏は2015年(平成27)10月14日、京都市西京区の病院で死去した。



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歴史短編集 川村一彦 @hikoiti

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