天国から今を生きるあなたへ(怨の章)

 しんしんと降り続く雪が、街を白く染めていく。

 肌を突き刺すような冷気に耐えるべく、街を行き交う人々は分厚いマントやローブに身を包んで白い吐息を漏らしていた。


 石畳には氷が張って、滑りやすくなった足元に注意しながら長い金髪に雪を積もらせた少女、セイラは一歩踏み出す。

 また一歩。降り積もった雪に足を取られながら、ゆっくりと厚底のブーツ越しに足元を確かめて歩みを進める。


「はぁ……」


 ローブの裾から出した細い指に白い息を吹きかけて温めれば、霜焼けのかゆみが少し和らいだ気になった。

 寒さで感覚も失いかけているセイラの小さな手が、倉庫の大きな錠前を鍵で開いたその時――――、


「寒いね、マッチいる?」


 セイラ自身とは違う、少女の無機質な声が彼女の耳に届く。

 忘れもしないその声に、振り返ると――――そこには黒衣に身を包んだ少女の姿。

 見たところ、セイラより少し上の十代後半という黒い少女を前に、セイラは思わず息をのんだ。


(この人、覚えてる)


 薄手の黒い手袋に握られたマッチ箱から視線を上げれば、セイラを見つめる虚ろな瞳。


(この人は、関わっちゃいけない人だ)


 セイラと同じくらい長い黒髪には、やはり白い雪が積もる。

 しかし黒い少女は紅潮する顔に張り付けたような無表情で、寒さを感じているのか疑問を抱いてしまう。


 いや、疑問はそれだけではなかった。

 生きているのか。死んでいるのか。それすら疑ってしまうほど、彼女に人間味というものを感じない。


(この人に関われば、全てを奪われる)


 ひたすら自分を見つめる黒い少女の視線に怯えたのか、セイラは眉をひそめて先ほど外した大きな錠前をぎゅっと握った。

 今でも、セイラは黒い少女と関わってしまった二日間を鮮明に覚えている。

 おそらく、話せと言われれば自身の一挙手一投足を全て話せるだろう。


 それだけ一年前の出来事は彼女に衝撃を与え、彼女の人生を大きく変えた。


 *


 ――――丁度、その日と同じ寒気漂う一年前の雪の日。


「さっさと金作ってこい!」


 壁も薄く、豚小屋のような家から怒号が響く。

 男の怒号に尻を叩かれ、慌てて出て来たのはセイラ。


「あっ」


 玄関から飛び出した彼女の持ってバスケットから、幾つかのマッチ箱が白銀の地面に零れ落ちた。


「明日の飯代稼ぐまで、帰ってくるんじゃねえぞ!」


 開け放たれた豚小屋のような家の中から、暖かそうな毛布に身をくるめたセイラの義父が再び強く言い放つ。


「……はい」


 身をかがめて、冷えきった小さな手でマッチ箱を拾い集めたセイラは、小さな声で呟いて立ち上がった。

 朝も、昼も、太陽が沈んで気温がぐっと下がった今も、セイラの仕事といえば家に大量にあるマッチを街まで行って売るか、山で果実を盗んできてはそれを売るばかり。


 勿論、そんなものばかりで生計を立てられるはずもなく、働かない義父の指示で店の物を盗んだりもした。


「あの……」


 家を出て、しばらく歩いたところにある街でセイラはバスケットの中のマッチを売ろうと声をあげる。


「マッチ、いかがですか」


 幾度となくセイラの前を行き交う人々。

 しかし、足を止める者は一人としていなかった。


「あの、マッチ」


 家のランプをつけるためのマッチが切れかかってる。

 そんな理由で一箱二箱買う人は稀にいれど、セイラからマッチを買うのは十三歳の小さな彼女が頑張る姿に同情を覚えた老人ばかり。


 最初は同情を察するだけで、育ち盛りの自尊心を大きく傷付けられていたものだが、結局金を稼がずに帰れば心でなく肉体を傷付けられてしまう。


「いかがですか」


 義父に殴られない為、痛い思いをしなくていい為、彼女はまるで自分が見えていないように素通りする人々に訴え続けた。

 今日は見慣れた老人の姿もなく、一箱も売れないバスケットの中のマッチ。

 白いため息を吐いたセイラの赤くなった手がマッチ箱を一つだけ取り出した。


 気温の冷たさと、世間の冷たさと、その板挟みですっかり凍えた体をたかだかマッチ一本の火が暖めるなんてできるはずもない。

 でも不思議とセイラの擦ったマッチの火は彼女自身の心の芯の部分にぬくもりを与えた。


「あったかい」


 降り続く雪に負けそうになりながら、ゆらゆらと揺れるマッチの小さな火。

 その弱々しい温もりの中に、セイラはかつて本当の両親を亡くしてからずっと自分を育ててくれた祖母の姿を見た。


「おばあ、ちゃん?」


 口から出てきたセイラの言葉はとてもか細く、風邪と雑踏に消されてしまう。

 でも、彼女の前から祖母は消えない。

 一年前に寿命を迎えたはずな祖母が、小さな口を開いて何かセイラに語りかけている。


「なに、聞こえないよ」


 形にならない祖母の声を追っているうち、マッチの火は冷たい風に吹かれて消えてしまった。


「おばあちゃん?」


 目の前に広がった幻は消え、セイラの凍えた手から黒焦げのマッチがすり抜けていく。


「もう一度」


 そう言って、セイラはまたマッチ棒に火をつけた。

 体を暖めるためじゃなく、もう一度だけ大好きだった祖母に会うために――――。


 冷たい風に揺られる小さな火の向こう側、確かに見慣れた祖母の姿はあった。

 幸せだった日々、ぬくもりでいっぱいだったあの日、次から次に蘇る祖母と暮らした日の記憶にとうとうセイラの頬を温かい涙がつたう。


「私ね、おばあちゃんと一緒に」


 小さな火の向こう側から、自身のもとへ歩み寄ってくる祖母にセイラはゆっくりと手を伸ばす。

 まるで助けを求めるように飛ばされた凍える手。

 少しずつ、少しずつ、自身の手の甲を映した視界が揺らいでいく。


「一緒にいたいよ」


 寒さも感じなくなってしまった体は大好きな祖母のもとへと歩き出す。

 辛い思いをしなくてもいい、安楽の世界へ着実に向かうセイラの足。

 祖母のぬくもりを心に感じたセイラが安らぎを得ようとした瞬間、彼女の手に握られたマッチの火が消え、現実に叩き落される。


「えっ」


 安楽を求めたセイラの目の前に現れ、現実に叩き落したのは彼女の持つマッチの火を黒い手袋越しに握りつぶした黒い少女だった。


「誰?」


 見知らぬその少女は生きているの死んでいるのか分からない、そんな虚ろな瞳でジッとセイラを見つめた後、彼女の凍え切った体に毛布を投げつける。

 セイラの問いにも答えず、棍棒のようなフェンリルの腸で作ったソーセージをかじる黒い少女。

 ハリのある表面も柔らかい挽肉もしっかりかみ砕いた後、ようやく黒い少女は投げつけられた毛布を華奢な体に巻いてぬくもるセイラに向って口を開いた。


「いくつ?」

「え?」


 少女の思ったより低めの声が聞きづらかったのか、聞き返したセイラ。

 しかし少女は嫌な顔一つせずもう一度口を開く。


「歳、いくつ」

「歳、あっ、はい。十四です」


 多分、少女は表情のレパートリーというものを一切持っていないのだろう。

 この寒空の下、一切寒さを感じさせず、むしろ人間味すら他には見せないまま少女は同じくらいの背丈のセイラをジッと見つめていた。


「死ぬには、まだ早いよ」


 段々恐怖すら感じていた少女の口から出てきたのは、思いもよらぬセイラ自身を案ずる言葉。


「あ、えっと、その」


 そんな予想外の言葉についつい言葉を詰まらせてしまうセイラだったが、そんな彼女に少女は自分が二度ほどかじったソーセージを差し出した。


「いいんですか」


 鳴き出してやまない腹の虫の催促と、朝から何も食べていない空腹感に負け、頷いた少女に頭を下げながら差し出されたそれを手に取って口いっぱい頬張るセイラ。

 薄っぺらい草ばかり食べ続けたセイラの口に久しく入った肉。そのあまりの美味しさと、自分のみすぼらしさに彼女は大粒の涙を流した。


「ありがとうございます……ありがとうございます……」


 あまりの感動に全身の力が抜け、膝から雪の積もる地面に崩れ落ちたセイラが震えた声で何度も何度も礼を口にする。

 何度も何度も、決して言葉なんかじゃ伝えきれない感謝を無表情の少女にできる限り伝えようと声に出した。

 その感謝は届いているのか届いていないのか、零した涙で雪を解かすセイラを見下ろす少女の口がゆっくり開きだす。


「文字、読める?」

「文字、ですか」


 顔を上げたセイラの視界に飛び込んできたのは、黒い手袋に握られた羊皮紙。

 何やらずらりと文字が羅列しているものの、学のないセイラに読み解くなど到底できるはずもなかった。


「読めないならいいよ、口で説明するから」


 見せてはみたが、今の世の中で文字の読み書きが自在にできる人間なんてほんの一握り。

 そんな一握りに貧相な格好をしたセイラが該当するなど思っていなかったようで、少女はすぐに羊皮紙を懐にしまう。


「金さえ積めば、私は誰でも殺す…………セイラ・アジーナ、お前の相談を受けてやってもいい」

「殺し屋さん? どうして私の名前を」


 淡々とした口調も、虚ろな瞳も、とにかく少女の全てから微かに感じていた恐怖の正体を、セイラは垣間見たような気がした。


「お前の払える額で、その怨みを請け負うよ……それじゃ、また後で……」


 雪の積もる地面に膝をついて、不思議そうに見上げるセイラに背を向けた少女は抑揚のない淡泊な言葉だけを残して、街を行き交う雑踏の中に姿を溶かしていく。

 勿論、セイラにも思い当たる節はあった。もしも少女が本当に殺してくれるというのなら、きっと彼女は今もあの豚小屋でくつろいでいる義父を殺してくれと頼むだろう。


「私の、怨み」


 少女に告げられた言葉をなぞって自分を問いただしてみるも、やはり脳裏を過るのは義父の顔だった。

 汚らしい笑顔、真っ赤にして怒る顔、見るだけで胸を掻きむしりたくなる寝顔。


「でも」


 毛布に身をくるんだまま、セイラは立ち上がる。


「殺すなんて」


 少女との突然の出会いに揺れ動く心を抱えたまま、セイラもまた毛布とマッチ箱が沢山入ったバスケットを手に郊外の自宅へ帰っていった

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ブラックルーラーズ @nakashiwasu

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