シュレディンガーのきつね

桜枝 巧

シュレディンガーのきつね

「『でも、それはつまり、そろそろ生きだす時って意味じゃないかしら』」

「『死者の代弁者』――っておい」


 僕は顔を上げた。急に首をひねったせいで変なところが嫌な感じに鳴く。痛みに再び顔を伏せた僕を、奴はからから音を立てて笑った。


「なーにやってんだよセンセイ」

「いや、うん、ケイ、言って良いことと悪いことがあるだろ」


 頬を掻きながら応える。

 小説の台詞当てなんて提案した僕が悪いのだけれど、奴も奴だった。


 出題の条件は「この部屋の中にあること」。ここには大量の本があった。食器棚には『グレート・ギャッピー』が割れた大皿の上に乗っていたし、ゴミ箱は『銀河鉄道の夜』のブックエンド代わりにされていた。


 そして、ケイは屋敷に住みつく「幽霊」だった。


 季節は7月中旬。とある無人邸、元はダイニング・ルームだったところ。屋敷と言ってもガラクタや本が散乱しているせいでそこまで広くは感じない。

 何故かまだガスだけは通っていて、毎日のおやつに利用させてもらっている。

 今日は、カップうどんだった。赤い、きつねのやつだ。お湯を入れて五分で食べることができる。


「なあ、センセイ」


 呼びかけられ、じんわりと汗が背中を伝っていく。人を敬うような言い方ではないが、「イ」まできっちり発音される。


「もう一問やろう、ケイ。そしたらおやつにしよう」

「……わかったよ」


 ケイは苦笑して、まだ空けられていないプラスチックのどんぶりを見る。僕はうつ伏せになって、早くしろよ、と言った。


『センセイ、そのうどんが出来たら、ちょっと話をしようか』


 真面目な顔をしてケイがそう言ってから、どれくらい経っただろうか。

 僕は、うどんが出来上がるまでの五分を始められずにいる。


「じゃあ、最後の問題だ、センセイには簡単すぎるかもしれないな」

 目を瞑る。暗闇の中で、ケイの言葉だけが浮かび上がる。



「――さよならだ」



 僕は顔を上げた。生憎今度はもう首を捻らなかった。

 その代り、視界の端にしか廊下の奥へと消えていくケイを捕らえることができなかった。


「ケイ!」


 僕が叫ぶのと同時に、玄関のドアがしまる、バタン、という音が聞こえた。


 僕は知っていた。本当はケイが生身の人間だってことも、幽霊と偽らなきゃいけないくらい、何か重い事情を抱えてこの屋敷に閉じこもっていたってことも。

 母によれば、ケイは隣町の子どもで、近いうち他県の親戚の家に引き取られるらしかった。

 そこまで全部、聞いていた。


 ただ、怖かったのだ。今の、この生温い、麺がゆっくりと伸びていくような時間が壊れてしまうっていうのが、とても怖かった、それだけなのだ。


 僕は俯いた。額から汗だけがぽたりと滴り落ちた。



 あれからも僕は、屋敷で本を読んでいる。

 ケイの最後の問題は、未だに解けない。いつでもやり損ねた五分を始められるよう、カップうどんとお湯は用意してあるのに、どこの本にもあの台詞は載っていないのだ。

 僕は今日も、ページを繰る。

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