本当の任務Ⅰ

 ナナは人の「憂鬱」を食べる。


 鬼として、人を成す大切な一部を食べるのだ。


 ではその「憂鬱」とは何か、と改めて聞かれれば、僕もナナも困ってしまうのだろう。実際よくわかってはいないのだから。


 言葉とは人間が勝手に決めたものだ。


 そして勝手に使うものでもある。その利便性を求めて。


 鬼はそんな「言葉」というものが生まれるずっと以前から人を食べていたのだから。


 実際にナナが食べるのは人間の「負の感情」、「暗い想い」、そういった類のものである。


 それは深い悲しみであり、憤りであり、絶望であり、はたまた色んなモノへの諦めであり、あるいは寂しさでもある。とても一言では言い表せない。


 だから、そんなものをひっくるめて僕たちは「憂鬱」と呼んでいる。


 そういうことにしている。利便性を求めて。


 おかげで毎回の報告書を書く時に、言葉を選ぶ作業が省けるくらいの役には立っている。


 人のそんな大切な感情を、作業的にあるいは業務的に一まとめにすることに対する後ろめたさが無いかと言ったら嘘になるが、そんなことをいちいち考えていては身が持たない。いや、心が持たないといった方が正しい。


 僕たちがやっていることは、決して人助けなどではないのだから。


 いずれにせよ、今も過去も、僕は悪人だ。


 宿の入口に着いたころには沸騰しそうだった僕の頭も全身を濡らす雨水のお陰か、いくらか冷め、こんな感じにいつも通り心の中で自分を貶めることができるくらいには落ち着いていた。


 いや、そうでもしないと頭がおかしくなってしまいそうであったのかもしれない。「負の感情」、「暗い想い」、そんなものに苛まれている人間を何人も見てきて、それを僕はさんざん踏みにじってきた。ナナの為に。そして何よりも自分の為に。


 僕という一人の人間が、一人の悪人が、人としての心を無くすことくらい、些末なものだったのだ。今更何を一人前にくじけようとしている。腐ろうとしている。僕にはそのような仕打ちを受けるだけの罪を、それでは足りないくらいの罪があるではないか。そう言い聞かせた。


 この世界の神は、たとえたった一つであれ、犯した過ちには相応の罰を与えるのだから。


「まあ大変!」


 室内に入った僕を見つけるなり、ずぶ濡れの姿を見たシエナは口を押えてそう叫ぶと、奥からタオルを持ってきてくれた。ふわりと頭に被せられた生地の柔らかさが心に痛かった。


「大丈夫です? ツルギさん」


 そうか、僕はツルギか。


「うん、大丈夫。ありがとうシエナ」


 そんな身を案じる言葉すら、今は胸に刺さるようであった。


「いえいえ、すぐに温かいコーヒーを淹れますから部屋で着替えていてください。ナナちゃんも部屋にいるはずです」

「シエナ。悪いけど、君の部屋を貸してくれないか? 少しの間でいいんだ。一人になりたい」


 もっともらしい理由を考える余裕もなくそんな急な要望を言った僕に、シエナは少し驚いたように目を見開いていたが、


「ええ、どうぞ。ちょうど鍵は掛かっていませんから」


 特に何も聞こうとはせず、快諾してくれた。


 本当に客想いというか、人想いな店主だ。そんな相手に対して消え入りそうな掠れた声で「ありがとう」と一言しか返せない自分が情けない。


 とにかく今はナナに顔向けできない。ナナに対して直接あのような酷いことを言ったわけではないが、すぐにはとてもじゃないが心が向かない。それにナナは人の感情に対して敏感だ。加えてこんな姿も相まってしまえば余計な心配を掛けてしまう。


 シエナの部屋は昨晩一度行っているから場所はわかる。

 僕は足早にナナのいる二階を通り過ぎ、三階のシエナの部屋へ行った。幸いナナには出会さなかった。


 部屋の扉を閉じると、あれだけ居心地の悪かった室内の甘い香りが気にならないばかりか、徐々に心が落ち着くのが分かった。ベッドを濡らしてしまうと悪いので、椅子に腰かける。


 特に意味は無く、周りを見渡す。女性らしい調度品、壁に掛けられた押し花、どれも昨日見たばかりであったが、明かりを点けず窓からの曇った明かりだけの景色は色褪せていて不思議と酷く懐かしく感じた。


 もう一度この部屋を出てしまえば二度と戻って来られないと感じてしまう程に、どこか遠い景色に思えた。


 深呼吸を一回。


 そして確かめるようにすっかり雨水でふやけてしまった手を数度握っては開いた。そして、しばしその手のひらを見つめる。


「よし、大丈夫だ……」


 大丈夫、僕は正気だ。自分に言い聞かせる。


 握る手に力は入るし、もう視界もぼやけてはいない。


 これから何をしなければならないか、それもちゃんとわかっている。


 明日の朝、とにかく僕はもう一度あの時計塔へ行かなければならない。


 僕が僕である為に。


 再び僕の首を絞める恐怖だけがただただ鮮明で、それとは矛盾する懐古の情景が時間的な感覚をかき乱す。僕は半ば無意識に未だ濡れたままの足で、感覚の鈍くなった足で、床を踏みしめることによって、どうにか今の居場所を確認しようとしていた。

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