雨の景色と、吸血鬼の願いⅣ

 ツルギ。ツルギ。ツルギ。ツルギ。ツルギ…………。


 頭の中で自身の名を繰り返す。

 繰り返し、繰り返し…………。


 そうか。思い出した。


 そのことに胸を撫で下す。


 ツルギという名は国から与えられた名前であり、僕が仕事をする時に使うものだ。


 そして今は正式に任務をこなしている最中。

 

 あの時、感情に任せて破り捨ててしまったけれど、正式な文書だって届いている。そのことはしっかりと記憶に焼き付いている。

 忌々しい国の紋章に、国璽だってキチンと押されていた。


 だから僕は間違っていない。

 間違ったことを言ってはいない。

 僕は正しい。


 たった今、こんなことを、考えていること自体が可笑しいんだ。


 だって、仕事を終えれば皆僕のことを本当の名前で呼ぶ筈なのだから。


 ナナだって、シエナだって、皆。


 いつもみたいな笑顔で出迎えてくれる筈だ。


 僕の名は…………、


「僕は…………僕の名前は……」


 言葉が出ない。


 必死に言葉を紡ごうとするが、首を絞められたかのように弱々しい喘ぎが喉の奥から漏れるばかりだ。


「僕は…………」


 何故? 

 せっかく何かを掴みかけたことによる安堵も僕を嘲るように霧散し、消えていく。


 いや、最初から何も掴めてはいない。


 それは最初からただの幻想であった。あると思い込んでいた。

 触ることのできない、存在しない。


 存在しない? では僕は……。


「僕は…………」


 僕は…………誰だ?


 急に目の前が暗く陰る。


 今度は体から一気に血の気が失せ、そこに根を張った植物のように動けず、ただ浅い呼吸だけが繰り返されるのを頭だけが感じる。


 けれどもふらつきはせず、目に映る景色は変わらないまま意識だけが倒れそうになる。


 瞼は震えるだけで目を閉じることもできない。


 僕は…………いや、何故…………。

 思い出せない。


 徐々に景色が歪むように変化する。視界を塞ぐことさえできないのに、目の前はもやがかかったように陰り、灰色の風景に、そこだけ絵具を溢したかのような女の鮮やかなキモノだけが、幾重にも重なって見えた。

 それがどうしようもなく気持ち悪く、胃液が込み上がりそうになる。


「どうした?」


 吸血鬼の声はもはや耳に入らなかった。それよりも……。


 歪に分かれた枝の先を追うごとに空白にぶつかる。

 

 何も無い。


 それでも惨めに辿る。未練たらしく。惨めに。惨めに。



 こっち。

 







                   次はこっち。








         何も無い。





                    いや、そんな筈は無い。



 焦る気持ちを無理やり落ち着け、今度はもっと丁寧に……、でもやはり駄目だ。



                      こっち。

      







 次はこっち。








            何も無い。





 思い出そうとすればする程、疑問が新たな疑問を呼ぶ。


 おかしい。


 でも一つだけ判然としてくる事柄。

 

 砂煙のように陰った思考の中で唯一、けれども明らかに判る感覚。


 色々と思い出せないことがあることを、僕は今になって自覚していた。

 ひとたび自覚すると、その勢いはやがては奔流となり、溢れ返るように僕の脳髄を埋め尽くした。


「何故……」


 何故、シエナに話をした時、実の両親との思い出すら一つとして思い出せなかった。


 そもそも、何故僕は故郷を離れた。


 何故、あんなにも酷い仕事に従事していた。


 何故……。


 故郷の町で子供の頃一緒に遊んだ友達はどうなった。


 近所のおばあさんは、どうなった。


 夜になると起こる悪いことって一体何だ。


 僕はよく女性に意地悪を言っていた。果たしてそれは誰にだ。


 僕の本当の名は何だ。


 僕は誰だ。


 何故、僕はそれがわからなくて今まで平気だった。疑問にすら思わなかった。


「っ!?」


 それ以上考えようとすると、今度は激しい頭痛が僕を襲った。


 そこで初めて体を動かすことができたかと思うと、そんなことを意識する間もなく僕は両手で頭を抱え、膝からその場に崩れていた。


 声を出している意識はあるのに、自身の口から出て耳に入るものはわけのわからない呻きばかりだ。


 気持ち悪い。


 口の端から粘つく唾液が滴るのがわかる。

 考えようとすればするほど、頭が膨張し、破裂しそうになる。


「おい、おぬし、大丈夫か?」

「僕に……何をした!」


 荒い呼吸を何とか抑え、絞り出すように吸血鬼に言い放つ。


「何も。おぬしが勝手にそうなっただけじゃ」

「僕は誰だ!!」


 体中にまとわりつく感覚を振り払うように、僕は力の限り叫んだ。


 空間に反響して幾重にも僕の耳に返ってきた。


「さあな、おぬしが知らなければわしにもわからん」

「僕は誰だ……」


 次に出た言葉には、もう時計塔内を反響させるだけの強さは残っていなかった。


 苦しい。


 息を吸ってもまったく肺が満たされる感覚がしない。


 現実の感覚か疑ってしまう。まるで悪夢の中にいるようだ。


 僕のまわりに見えないねっとりとした何かがまとわりつき、溺れさせようとしている。ここから出たい。どうすればこれを振り払える。どうすればこの苦しみから逃げることができる。



 この女を……、吸血鬼を殺せば……どうだろう……。



 震える手で自身の体を這うようにして、もう一度ナイフに手を伸ばした。

 まるで自分の中の何かをいっきに吐き出そうとするかのように……。


 そこまで思い至ったと同時に、僕は自分が酷く人間とはかけ離れた思考をしていることに気付く。


 口にこそ出さなかったが、今僕は確かに目の前の女を殺そうと考えた。ただただ自分自身が楽になる為だけに。


 命令でも使命でもない、ただ、自分の心の波が少しでも静まってくれるかもしれない、そんな薄汚い望みにかけて、縋って、ナイフを握ろうとした。


 吸血鬼はもう話しかけてはこなかった。


 ただ瞬きもせず、真っすぐに僕を、僕の瞳を見据えている。


 彼女を殺そうかと思い至ったあの瞬間、恐らく彼女は僕の瞳に殺人者の狂気を見たに違いない。


 その上で覚悟を、ただならぬ覚悟を決め、身動き一つしない中で呪詛にも似た思いでその眼差しを形作っているに違いない。


 わずかな光源を反射し鋭く光るそれは僕の体を突き刺す。


 やめろ。そんな目で見るな。


 僕は…………。

 

 耐え切れず、まるで這いつくばるように駆け出していた。


 時間の感覚が押し縮められ、どこをどう進んでいるのかさえわからない。恐怖は鬼の眼光ではなく、僕の、僕自身に対するものであった。

 だから、逃げようともずっとそこに付いて来る。


 執拗に、醜悪に。絡みついてくる。逃げようとも。逃げようとも。


 気が付けば時計塔の外にいた。


 その状態の足でどうやって階段を下ったのかは覚えていない。

 ただ体中が痛むことからすると、途中無様に転げ落ちたのかもしれない。


 時計塔の外は雨であった。


 ばたばたと、見上げる僕の顔を容赦なく濡らしていく。暗く濁った雨雲が打ち付けるように強く振らせている。雨を防ぐものを何も持っていない僕は仕方がなく、雨水に身をさらす。足に伝わる泥の感触が不快だ。

 

 ばたばた、ばたばたと、僕の身体を打ち付ける。


 見慣れた景色だと思った。


 後悔? 馬鹿馬鹿しい。


 僕はもう、手遅れだったんだ。


 人としての名前を思い出せない程に、他人を自分の為に殺めようと考えてしまう程に、人を殺め続けたことしか思い出せない程に、どうしようもなく、本当にどうしようもなく、僕は人間ではなくなっていた。


 ナナ、僕はもう、駄目みたいだ………。

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