雨の景色と、吸血鬼の願いⅠ
「ツルギさん! 起きてください! ツルギさん!」
翌朝、僕は耳元で騒ぐシエナの声で目を覚ました。
まだ外から鳥の声も聞こえない。カーテンの隙間は微かに明るいが、まだ薄暗さを残している。
普段起きる時間よりも大分早い時間のようだ。
それに昨日のことがあって睡眠時間も普段より極端に短かった。体が重い。
「ツルギさん! お願いです! お願いですってば!」
ついには僕の肩を掴み揺さぶり始める。
「シエナ?」
そういえば、先日草原眠ってしまった時のナナといい、最近はよく人に起こされる。
「そうです! わたしです! ツルギさん! その…………大変です!」
ようやく僕は上体を起こすと、ぼやけたままの視界からシエナらしきシルエットの方を向く。
「あぁ、おはようシエナ」
「おはようございます……」
すぐに目が慣れ始め、シエナが顔を真っ赤にして必死に布団の端を引き寄せ、体を隠している様子がわかった。
朝になってすっかり酒も抜け、幾分か明るさを取り戻した部屋の中で我に返ったのであろう。目には薄っすらと涙を浮かべている。これではまるで僕が悪いみたいだ。
だがその存分に背徳的な立ち位置も、ぼやけた頭が感覚を麻痺させてくれているお陰で、自分でも驚く程僕の心は平静であった。
「起きてそうそう申し訳ないのですが……」
「わかってる。すぐに出て行くよ」
シエナの涙声に、僕はふらつきながらもベッドから立ち上がり扉の方へ歩き出す。
「ツルギさん、すみませんでした」
シエナの不意の謝罪に振り返る。シエナは律儀に頭を下げてはいたが、引き寄せた布団は頑なに体を隠したままであった。
「何が?」
「何がって、迷惑じゃありませんでした?」
「うーん……。正直、少し」
そう言ってやるとシエナは自身の言葉に反して、少し頬を膨らませた。
「でもしょうがないよ、僕だって怖いんだから」
「それだけじゃないんです。やっぱり少し意地悪でした。わたし」
シエナは心底反省しているようで、その目を伏せた。
「お花のこと、わたしもわかっていましたが、ツルギさんがあそこまではっきりと言うものですから少しムキになってしまったというのもあります」
「僕も気を付けるよ。シエナのお返しは怖いからね」
「………。ツルギさんったら……もう……」
シエナは顔を赤らめたまま不機嫌そうにベッドの上でそっぽを向いた。
僕はその子供じみた様子に満足すると、部屋を出てナナのいる自室を目指す。
さて、あの寝坊助を起こすのは僕の役目だ。
* * *
午前中はナナと共に宿で過ごし、昼食を取ってから一人外へ出た。
今日のナナはどこか元気がない様子で、何かあったのか聞いてみたが、何でもないとのことだった。少し気にはなったが、既に僕の頭は別のことでいっぱいで、他のことを気に掛ける余裕が残されていなかった。
そう、今日は自分で定めた時計塔の調査日だ。
ナナがいなくても時計塔は目立ってくれるので迷うことなく歩を進めることができる。僕の心情とは裏腹に。
早朝を過ぎても空は依然薄暗さを残していた。
空は重い雲が掛かった暗い灰色で、まるで僕の心中を投影しているようだ。
外に出てから宿に引き返そうか、真剣に悩んだのは言うまでもない。
だが、一度それをしてしまうと僕は僕の決めたことに対して信用ができなくなってしまう。そう自身に言い聞かせて重い足を無理やり進めた。
ナナには外出の理由を生活必需品の調達と伝えてある。いつもなら一緒に行くと言い出しそうであったが、妙に聞き分けが良かった。だがやはりあまり元気がなかったように思う。
時計塔へ行って何事もなかった時は、帰りにあのお菓子屋でクッキーでも買って帰ろう。そんな単純なことしか思い付かないが、許してほしい。
町は心なしが人通りが少なく、いつにもまして静かだ。だが、歩いているとところどころで話し声が耳に入る。
道行く人々の声を潜めた会話の内容までは詳しく聞き取ることはできなかったが、それでも吸血鬼騒動について話してるであろう者たちは表情から窺えた。
それ程までにこの町は狭い。
しばらくは、あるいはこの件が解決するまでは話題から消えることはないのであろう。
時計塔へ近づくにつれてだんだんと人はいなくなっていった。
やがてすんなりと、何事もなく時計塔の下まで辿り着く。
何事かあってくれればまだ自分に言い訳ができたものだが、不幸にも時計塔の入口付近には真新しく建てられたであろう、立ち入り注意と記載のある木製の看板が立てられているだけであった。
近くで見れば遠くから眺めた時のような荘厳さはほとんど薄れ、ただ灰色の石材を押し固めて造られた建造物が巨大な壁のように立ちはだかるだけであった。
まるで遺跡のように風化したその様は、それでも確かに、僕に必要以上の緊張感と不安感を擦り付けようとしてくる。
そこだけ世界が違うような気がした。
きっとこの扉は、この世と異世界とを隔てる何か。
僕は扉の前で昨晩シエナが暗唱していた小説の一節を思い出していた。
まったく共感できない。
狂気が這いずるような絶望の世界が広がっている可能性が1パーセントでもあるならば、こんな扉開く理由が無い。落ち着く室内で美味しい食事をしていた方がマシに決まっている。
僕は心の中で顔も知らないヘンリーさんに対して口を尖らせた。
こうしていても仕方がない。
呼吸を整え、最近はすっかり癖のようになってしまった仕草で後ろのシャツに隠したナイフに軽く触れる。そして指先で感触を確かめる。
そして僕は扉に手を触れた。ひやりとする金属の質感が肌に伝わる。力を入れると扉は驚くほど軽く、軋む音もほとんど出さずに開いた。
見た目の古さからそれなりの重さを覚悟していただけに肩透かしを食らったような感じだ。
しばらく使われていない筈の扉にしては妙に軽い。拒絶しようともそんな穿った考えばかりが頭をよぎる。
中に入ると、等間隔にはめ込まれた円形の曇ったガラス窓から日が差し、思いのほか明るく、隅々まで見渡すことができた。
それでもあくまでも思いのほかであり、限られた光源ではお世辞にも人が通常生活するに値するまでとはいかず、薄暗いことに変わりなかった。それに今日の天気だと普段入る筈の明るさにも届いていないに違いない。
四角形の空間には中央の太い支柱と壁を這うようにして上る錆びた階段以外には何もなく、階段を行方を追って天を見上げれば、時計の複雑な機械のある最上部分とその中間地点に踊り場があるのが確認できる。
踊り場はある程度広さを有しているように見えるが、斜め下から見上げただけではそこに何があるかはわからなかった。
僕はゆっくりと階段を上り始めた。密閉された空間に階段を踏む音だけがこだまする。
反響する靴音はどうしようもなかったが、その音が得も知れぬ化け物を呼び起こしてしまいそうで、僕は往生際悪く極力足音を弱めようとする。
そして踊り場まで登り切る前にその姿は視界に入った。
溜息を吐く暇もなかった。
それくらいに、あっけなく、勿体ぶることもなく、ただそこにソレはいた。
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