募る恐怖と深まる疑念Ⅳ

 僕は今までに感じたことのない異様な心持ちでシエナの自室に足を踏み入れる。


 何だか女性特有のよくわからない甘い香りがしてくらくらした。正直苦手な香りだ。


 部屋の中は僕とナナの部屋と大差ない広さであったが、ベッドやランプ、その他調度品は僕たちの部屋のものとは違い、花や何かの植物を模しているのであろうか、女性らしい彫の意匠が施されていた。


 壁にはいくつか押し花が額に入れられ飾られている。その中に紫色の見覚えのある花を発見した。


「それ、このあいだ頂いたお花です」


 僕の分の椅子を準備しながらシエナは言った。


「やっぱり器用だね、シエナは」

「あまり遠くに出られない分、こんな趣味や特技ばかり増えるんですよ」


 シエナはもじもじと両の人差し指を突き合わせるようにしながら自嘲気味に微笑むと僕を椅子へ促し、自身はベッドに腰掛けた。


「ツルギさん、ごめんなさい。本当はわたし怖かったんです」


 いくらか冷静さを取り戻してくれたのか、いつもの謙虚で申し訳なさそうなシエナに戻っていた。


「良いよ、慣れないことをするものじゃない」

「違うんです! ツルギさんがじゃなくて、その……例の吸血鬼騒動が……。先程は大層なことを言いましたけど、一人で部屋にいるのが……その……怖かったんです……」


 確かに、しきりに怖いと口にしているのはわかっていたが、部屋に会って間もない男を呼んでしまうまでに思い詰めていたとは。


「お風呂から出て、一人で寝られるか不安だったところにツルギさんに会ったものだからわたし思わず……本当にごめんなさい。迷惑ですよね? 先程のことも謝ります」

「確かに、あの階段で会った時の驚きっぷりは凄かったね」

「はい、心臓が止まるかと思いました」

「仕方ないよ、あんなことがあったばかりじゃ。僕で良かったら力になるよ」

「そうですか……」


 シエナはベッドのシーツを指でくるくると弄りながら、少し恥ずかしそうに考え込んだ。


「では、わたしが眠るまで隣でお話ししてください。わたしの知らない話なら何でもいいですから」

「わかった」


 そうは言ったものの、話のネタに乏しい僕は仕方なく先程やめておいた近所のおばあさんの話をすることにする。


 最初に軽く紹介も込めておばあさんと僕の仲を説明した後に、一つの物語を話し始める。


 とある老夫婦が川で見つけた若返りの果物を口にして子を産み、その子が鬼の住む島へ退治に行くという内容。東方の島国に伝わるおとぎ話だ。

 鬼であるナナには一生聞かせられない内容なので丁度良い。


「ツルギさん、なぜその老夫婦は自分の子供をそんな危険なところへ行かせたのでしょう。人助けとはいえせっかく奇跡的に授かった念願の息子なのに」

「それ程までに正義感が強かったんじゃないかなぁ」


 そこまでは僕にもわからなかったので適当に答えておく。


「それに運良く道中味方となってくれる仲間たちに出会ったから良いものの、最後まで一人だったらどうするつもりだったのでしょう」

「もしそうなら一人でも戦ったんじゃないかなぁ」


 物語によると犬やら猿やら鳥やら様々な種類の動物を引き連れて退治に行ったそうだが、鬼の討伐隊であった僕たちが引き連れたのは犬だけであった。

 それも道端で偶然ばったり出会い、何かの見返りに仲間になったわけじゃない。最初からその為だけに訓練された狩猟犬だ。戦場で生き、戦場で死ぬことを予め運命付けられている。


 狩猟犬たちは時にその嗅覚で敵の居場所を教え、時にその牙で敵に襲い掛かった。

 僕が「やめろ」と声と仕草で合図を送るまで、執拗に首に噛み付き、肉を無理やり引き裂き、それはそれは剣で切られる以上に惨い有様であった。


 だが、その反面、何の躊躇いもなく命令に忠実に働く彼らが僕には羨ましく思えた。


「つまらなかった?」

「いえいえ、とても面白かったです。もっと他にもお願いします」


 実はこの話には続きがあって、殺された鬼たちの子供がやがてその息子や動物たちのもとへ復讐に来るという憎しみの連鎖が待ち受けているのだが、それはあえて話さず、鬼を討伐したところでめでたしとした。


 今のシエナの状況から鑑みて不必要に怖がらせてしまうだろうと判断したのだ。それで眠れなくなってしまっては僕がその分長く話をする羽目になる。


 だが憎しみの連鎖の話はそこだけ妙に現実味のある内容だと思ったのは事実だ。聞かされた当時幼い時分には何とも思わない内容であったが、それは嫌というほど経験した。


 物語の作者もそれがわかっていたのであろう。単に物語にスリルを持たせるだけの意味合いではない。正義感だけでは解決できないものもある。


 僕の今の直属の上司である国家犯罪対策局の局長だって、年中口元を竹を割ったように真一文字に結んでいて、冷厳を絵に描いたような性格だが、元来は虫も殺せないような温和な人柄であったと、噂で耳にしたことがある。

 しかし、若い頃に身内を鬼に殺されたことをきっかけに軍に入隊したそうだ。鬼に対しては並々ならぬ恨みがあるのであろう。


 それでも兵士を引退した今、主に「殺す」という仕事よりも、犯罪抑止といった「守る」仕事の長に従事しているのは、彼元来の性格が関係しているのかもしれない。

 まあ、局長がどのような人間であれ、この試みがさらに上の人間たちによる汚い思惑によるものであろうことに変わりはないのだが。


 悪者なんて本当はいなかったのかもしれない。


 あの草原で老人がナナに対して言った言葉を思い出す。

 その通りなのであろう。


 どちら側だって自分たちが悪者だと思って相手を討つわけではない。それぞれの正義があるのだ。だから解決できない。負の連鎖が続く。


 あの時、鬼を殺めていたあの時、自分自身のことを悪だと思っていたのは僕だけなのかもしれない。


 それからも思い出せる話を聞かせてやった。


 そうこうしているうちにようやく緩やかな眠気がやって来た。


 そういえば、あのおばあさんはどうしているだろう。最後に会ったのはいつだったか、どんな会話をしただろうか。


 眠気でぼんやりとしている所為か、上手く思い出せない。だが、不思議とあまり気にならなかった。


「シエナ?」

「…………」


 あくび混じりに呼んでみるが、気が付けば反応が無い。


 物語は数多くあったけれど、所どころ記憶の抜けが酷く、初めから終わりまで物語として成立させて聞かせられるものは数えるほどしか無い。品切れになる前で良かった。


 僕はゆっくり椅子から立ち上がると、シエナの枕元にあるランプの灯りをそっと消す。


「おやすみ」


 そうほとんど声に出さずに呟いて、シエナに背を向けた時であった。

 シャツの裾が何かに引っ張られた。


「まだです」

「シエナ?」


 布団から延びる白く細い腕が僕のシャツの端を掴んでいる。

 そして籠ったような声が聞こえてきた。


「まだ眠れません」

「困ったね」

「はい、困りました」


 どうしたものか。考えれば考える程頭がまとまらない。眠気で麻痺してしまっているようだ。

 

 そうこうしていると、掴まれたままのシャツがくいくいと合図するように引っ張られた。


「朝までずっとここにいてください」

「それじゃあ僕が寝られないよ」


 シエナのように毎朝時間に縛られた仕事があるわけではないので、一晩寝ずにいることくらい正直何でもなかったが、ここまでくるとシエナも少しわがままだ。

 これくらいの主張をしても許されるだろう。


 だがそれは甘かった。その返し方は盛大に墓穴を掘る結果となった。


「では、一緒にここで寝てください」


 シエナはシャツを掴んでいない反対の手でベッドをぽんぽんと叩いた。

 その拍子に薄いネグリジェの肩部分が滑り落ちるようにして肌ける。

 

 当の本人は首を反対に向けてしまっているのでどんな表情をしているかわからない。


「シエナ……」

 僕は極力迷惑さが伝わるようにと、呆れという名の溜息を声色に乗せて答える。


「さっきの意地悪のお返しです」

「はぁ……それは強烈なお返しだね」


 今度からシエナに対して軽々しくあんなことは言わないようにしよう。こうしてその後何倍にもなって返ってくるのは怖い。


「自業自得です」


 そう言うと、シエナはもぞもぞとベッドの片側を開けるようにした。


 そこへ入れという意味らしい。


「シエナ……さすがにそれは……」

「お・か・え・しです」


 何となく言動がナナに似てきた。女性とは皆そういうものなのだろうか。わからない。


 僕は未練たらしくしばらく無言で考え込み、仕方なくその空いたスペースに横になる。顔を合わせないように反対側を向いて。


 全く落ち着く感じはせず、宙に浮いたような感覚だ。

 ベッドはナナのものと同じく花のような良い香りがした。そこに風呂上りのシエナから漂ってくる石鹸の香りと微かな汗の酸味が混じって、もうわけがわからなかった。ぼんやりとした頭の麻痺に拍車が掛かる。


「おやすみなさい、ツルギさん」

「ああ、おやすみシエナ」


 今度は聞こえるように言った。


 一緒の掛布団に入るのは流石に躊躇われたのでそのまま横になったのだが、シエナは僕の体をふわりと包み込むように、自身の掛布団を分け与えた。

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