募る恐怖と深まる疑念Ⅱ

 シエナと共にロビーのテーブルに着く。


 消灯後であるため、シエナは簡素なランタンに明かりを点け、テーブルに置いた。


「僕は良いけど、大丈夫なの? 朝、早いんじゃない?」


 少なくとも朝食の準備をする以上、客である僕たちよりは早起きでなければならない筈だ。


「もう慣れましたから。大丈夫です。それにわたしも何だか眠くなくて」

「そう、シエナはしっかりしてるね」


 シエナは少し照れるように体を捩った。


 普段仕事中に着ている服とは違い、薄い生地のネグリジェ姿であるせいか、体のシルエットが妙にはっきり見え、正直目のやり場に困る。

 シエナは僕が想像していた以上に華奢であった。その細い体でよく働くものだと思う。


「両親の大切な宿ですから、継いだわたしがしっかりしないといけません。最初の頃はろくに仕事もできなくて大変でしたけど、一生懸命続けてようやくこうしてまともになってきたんです」

「うん。本当にすごいと思うよ」


 そう言ってやるとシエナは少し照れたように自分の髪に触れた。


 ランタンの灯りに照らされて、微かに水気を含んだシエナの髪が艶やかに輝く。

 髪を整えていないからであろうか、こうして見るとシエナは普段以上に幼く見えた。


 そんなシエナが若くして両親を亡くし、仕事を継いでいると考えると、とても立派に思えた。歳の近いであろう僕が勝手にそう思うのはどこかおこがましいと感じたが、それ以上に、純粋に尊敬できた。


 何かに一生懸命になることは、正直楽じゃない。

 

 それが使命感であったり、責任感が伴うものであるならば、なおさらなのであろう。


「シエナはずっとこの町に住んでいるの?」

「はい、生まれた時からずっと」

「良いところだね。静かで」

「そうですね、でも、両親が死ぬまでは町の外へ出たいと思ってました」

「そうなの?」

「静かで、何も無くて、今思えばとても平和で良いところなんですけど、何となく憧れと言いますか、外の世界にはもっと刺激があるんじゃないかって思ってたこともありました。いつしか外からわたしを連れ出してくれる王子様みたいな人が現れるかもって、なんか馬鹿みたい、ですよねぇ……」


 昔から子供がよく妄想しそうなことですと、シエナは口元に手を当て自嘲気味に、けれども品を崩さずに笑った。


「ツルギさんは本がお好きでしたよね?」

「ああ、まあ、好きってことになるのかな」

 自分ではまだいまいち認めきれたわけではなかったが、ムキになって否定することでもない。

「わたしも好きなんです」


 そんな僕の内心を知ってか知らずか、シエナはふっと軽く微笑むと瞼を伏せ、静かに言葉を紡ぎ始めた。


「 そこは煌々とした月明かりに照らされ、乾いた岸壁さえも艶めかしく濡らすように、その灰の肌を塗り潰す。その大らかでもあり、密かに何か暗いものを内包するかのような、恐ろしく甘美な景色に、僕は手記に記す時を忘れ、傍らの擦り切れたかばんにある乾いたパンの存在を忘れ、刺々しい岩肌に背を委ねた。意識はとうに吸い込まれ、すぐそばを通り過ぎる羽音の数さえもわからない。ひとたび朝がやってくれば黄金色の日が照らし、あのチョコレートのように規則正しい煉瓦たちが遠くの方から順番に輝き始めるに違いない。

 おぞましいものも、煌びやかなものも、黒いものも、白いものも、やがてその全容が明らかになった時、新鮮なホースラディッシュや濃厚なグレイビーと共に盛られたローストビーフを食べた時よりもずっと大きく、その眼を見開いてしまうに違いない。そこに焼いたばかりのプディングが添えられたところで、その隔たりはあの空に見える月よりも遠かろう。

 だから僕は決して眠らない。

 そこは狂気が這いずるような絶望の世界か、花の香りが漂う楽園のように堕落せしめる希望の世界か。不幸なことに僕にはそれがどんなものであれ、どんな至高の一皿よりも勝ることがわかってしまっていた。だから僕は決して眠らない。僕にはそれがどんなものであれ、僕の中に酷く執拗に絡みついた、このいばらを焼き払ってくれるとわかってしまっていたのだから。だから僕は決して眠らず、その瞬間を待つだけなのである。この幸福な不幸に乾杯。」


 声を潜め、時折かすれるようなシエナの優しい朗読はこそばゆく、けれどどこか心地良く、もう少しばかり聞いていたい気分にさせた。


 僕はその一節に覚えがあった。

 最近読んだのだから間違いない。あの本棚に収まっている小説の内容だ。


「暗唱できるの?」

「ええ、まあ特に好きなところだけですけどね。これはヘンリー・アディンセル著『壁の向こう』の中にある一節です。ヘンリーが国を出て初めて外にある町らしき集落を発見し、朝を待つ場面です。ここを初めて読んだ時はドキドキが止まりませんでした。ページをめくる指が震えた程です。恐怖と期待とが入り混じった感情は、こんなにも人を夢中にさせるんですね」


「でも何だか食べ物がやたら多いね」

「ええ、ヘンリーは食いしん坊さんだったんですね、きっと。ふふふ」

 まるで僕の小さな仕事仲間のようだ。今は恐らくベッドの中で気持ち良さそうに寝息を立てている。


 僕が適当に読んだ小説はどれも未開の地へ赴くような冒険譚ばかりであった。妙に偏っているとは思っていたが、それがようやく頷けた。


「わたしはこんな本にあるような国の外でなくても、せめて町の外でも良かったんです。でも母も父が死んで一人で宿をやっている以上わたしを連れ出すことはできなくて、密かに外の世界へ憧れるわたしの為に母が少しずつ買い揃えてくれました」


 大切な形見を僕は適当な暇つぶしに使ってしまっていたようだ。次からはもう少し敬意を払って読ませてもらおう。


「でも本当はこういう本、国に見つかったら没収対象らしいですね。出版が禁止されたものばかりです。前の国王は想像で外の世界を表現することにはいくらか寛大らしかったのですが」


 確かに、現国王は歴代の中でも特に保守的な性格であると聞く。

 国の外を知ろうとする研究者が捕らえられ投獄されるという出来事も珍しくない。でも、だからこそ外の世界へ思いを馳せる者が後を絶たない。


 人とは隠そうとされるものを余計に知りたくなるものなのだから。


「いいの? 僕、国の人間だけど」

「そうでした」


 シエナは「しまった!」と言わんばかりにその小さな口元を手で隠した。


 いたずらっぽく笑って見せるその少女の姿は、普段きびきびと宿を動き回るシエナとはどこか違う人物に思えた。


「ツルギさんの故郷はどんなところでした?」

「そうだな……」


 僕は少し考える。


「良いところだったよ。たぶん。でも、この町みたいに景色はそんなに綺麗じゃなかった気がする。何かの陰だったり、狭い路地だったり、入り組んでいて何だか日の当たらないような暗いところがやたらと多かった。夜には幼い僕にはよくわからない危険があったらしく、外出する人は少なかったな。でも、それが僕にとって当たり前の世界だったから別に嫌だと感じたことは無かった。日常の中でそれなりに良いことがたくさんあった気がする」


 あまり具体的な内容を言えていない気がするが、シエナの表情を伺うと嬉しそうに僕の話に耳を傾けている。

 話のどこかに人をそんな表情にさせるような要素があったであろうか。


「良いことってどんなことですか?」


 両親との思い出はこれと言って聞かせられるようなものが浮かばなかったので、近所の廃工場で友達とよく遊んだという話を聞かせてやる。


 友達とそこを秘密基地にしたこと、何かの金属部品を拾い集めては宝物にしたこと、怖い大人たちに見つかりそうになり必死で逃げたこと。他愛のない内容であった。


「他には?」


 こうして会話を引き出されるのはどうにも慣れない。

 

 そんな僕をよそに、シエナはやや前のめりになりながらも僕の話に食い入っていた。僕は自分自身話が上手い方とは思わないし、今の内容自体も大したものではない。

 だがシエナは熱心に耳を傾けてくれるので余計に困ってしまった。


 近所にいたおばさんの話はどうだろう。変わり者のおばあさんで家の中には僕の全く知らないものがたくさんあった。

 おばあさん曰く東方の文化のものらしい。そのおばあさんが遊びに行くとよく色々な物語を聞かせてくれた。東方の島国に伝わる昔話だ。

 だが僕はおばあさんのように上手く話せないだろうし、物語自体もうろ覚えだ。

 当時の僕は聞いていて面白かったと感じた記憶があるが、今の僕くらいの年齢で同じ物語を同じく面白いと感じるだろうか。自信が無い。それはきっとシエナにも言えることだ。やめておこう。


「シエナ、こんなことより他に聞きたいことがあったんじゃない?」

 つまらない話しかできないという自覚のある僕の方がいよいよ耐え切れなくなり、そう切り出した。


「え? ああそうですね。すみません」

 そう言うと、やや僕に近づけていた顔を引き、元の姿勢に戻った。


「こんなことわたしが口を出して良いことではないのかもしれませんが……」

 そして俯くと口ごもってしまう。だがすぐに意を決したかのようにこちらを見据えた。


「ツルギさんの仕事って、もしかして本当は吸血鬼退治ですか?」

 喉がつかえそうになり、極力冷静な所作を心掛けグラスの水を口に運ぶ。


「どうしてそう思うの?」

「だって、しきりに時計塔のことを気にされているようでしたから」

「ああ、あれはただの興味本位さ。僕の仕事内容は説明しただろう? 特定の国民からあるものを徴収しに来たんだ」


 我ながら酷く曖昧な説明である。


「…………」


 シエナは無表情で僕を凝視する。


 まるっきり嘘というのも通じないか。


 確かに僕は時計塔のことを聞き過ぎていた。諜報活動は専門外であったのである程度は仕方がないとはいえ、少しは考えた言動をせねば。


「あとは国から言いつけられている仕事として調査なんてものもある」

「調査……ですか?」


 その言葉にシエナの表情が一層曇る。


「そう、一定期間ごとに色んな町を渡って調査をしているんだ。もちろん時計塔は気にはなったさ。だから一応話を聞いて回っていた。でも変な噂があったからね。今は調査の対象から外している。僕は意外と怖がりなんだ」

「そうですか」


 僕は思い付きで当たり障りない脚色を加えた。


「でも安心しました。ツルギさんの仕事が吸血鬼の退治でなくて」

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