募る恐怖と深まる疑念Ⅰ

 夜、僕は一人ベッドから抜け出し窓を開け、空を眺めていた。


 微かに吹き込むぬるい風が、幼子が手で撫でるかのように優しい感触で顔を包み込む。

 とても静かだ。


 微かに虫の音だけが鳴っている。まるで僕だけにその音色を聞かせようとしているかのように。


 静寂の中での虫たちの声は確かに耳に届いている筈なのにそのひとつ一つは明朗とせず、まるでどこか遠くの方である種の音楽を奏でているかのようであった。


 以前いた町で見るよりも星々が近い気がした。


 前の仕事では、こんなにもゆっくりとした気分で空を眺めることもなかった。

 虫の鳴く声にだって一度たりとも耳を傾けたことはない。


 夜通し眺めていたのは、色の薄い岩や、くすんだ草むらばかり。怪しい影が無いか、気を緩める暇もなかった。仮にもし空なんぞ見上げていたらすぐに上官の拳が飛んできただろう。


 まあ、先の心配事がなければより穏やかな気持ちで眺められるのだが。


「はぁ……コーヒー、飲み過ぎたかな」


 ふと呟く。


 何も感傷に浸っていたわけではない。眠れず、だからといってやることもなく、仕方なくだ。


 シエナは僕がロビーで本を読んでいるのに気が付く度、まるでそれが義務であるかのようにコーヒーを振る舞った。いや、実際本人にとって義務なのかもしれない。


 今のところシエナから見る僕は、しょっちゅうロビーのソファーとテーブルを占領するだけのただの暇人なのであろうが、そんな僕の様子を煙たがる様子もなく親切にしてくれている。

 コーヒー自体は嫌いではないし、シエナの淹れるものは特に美味しかったので迷惑に感じることもなく、ありがたく頂いていた。だが、さすがに飲み過ぎてしまったのか、眠気が全くやって来ない。


 こういう時は本を読んで眠気を待つに限る。僕はナナを起こさないようにそっと部屋を出た。


 窓の無い部屋の外は明かりが無く、真っ暗であった。


 だが、前職の経験があってか、こういう薄闇の中でも僕の眼は無駄に良く働くようだ。

 

 記憶の隅にロビーに置いてあるランタンを確認し、微かに認識できる空間の輪郭や凹凸を頼りに迷うことなく階段を目指す。


 薄暗いロビーへの階段を下りようとすると、ちょうど人が登ってくるところであった。階段を小さく軋ませながら人影は正面から近づいて来る。


 誰だろうと思い、その顔を認識しようとする頃には、相手との距離はぶつかりそうなまでに迫っていた。


「ふぇ!?」


 人がいるとは思わなかったのであろうか、僕よりもだいぶ遅れてシエナは僕の存在に気が付き、変な声を上げる。


 そしてそのままバランスを崩し、ゆらゆらと後ろに倒れそうになったので、僕は咄嗟にシエナの腕を掴んでやる。おまけに手に持っていたものを落としそうになったのでそれを反対の手で支えた。


「大丈夫?」

「だだだ大丈夫です……」


 階段を転げ落ちそうになり余程焦ったのか、シエナは酷くしどろもどろになりながら答えた。


 手から伝わる体温は熱く、感触は力を入れればどこまでも沈み込んでしまうと錯覚するほど柔らかかった。


 ちょうど両手で掴み掛るような態勢になってしまっていることに気が付き、やや水気を帯び吸い付くようなシエナの腕の感触から咄嗟に手を放す。すると少し濡れた髪が手に触れたのがわかった。

 恐らく風呂上りなのであろう、微かに石鹸の香りが漂ってくる。


「ごめんなさい、お客様にこんなところ……」

「いいよ、別に謝ることじゃない。こっちこそごめん」


 驚かせてしまった上に先に謝罪までされて、僕は余計に申し訳なく思った。


「こんな時間にお風呂?」

「ええ、消灯後でないと入る時間が無いんです。それで喉が渇いたのでお水を取りに厨房へ行っていたところで……」


 シエナが手に持っていたのは水の入ったグラスであった。


「ツルギさんは? どうかされました?」

「ああ、眠れなくてね。またロビーのテーブルを借りるよ」

 そう言ってすれ違おうとすると、

「ツルギさん、ちょっといいですか?」

 シエナは徐に僕を呼び止める。


「あ、いや……。何でもないです……」


 それは消え入りそうな声で、よく聞き取れなかった。


 何をそんなに遠慮しているのだろう。僕を呼び止めてしまってから後悔が込み上げているのであろうか、シエナは泣きそうな表情で二の句を継げずにいる。

 その様子を見て、少し笑ってしまった。


「僕にも貰えるかな? 水」


そんな僕の返答を了承と受け取ったのか、その不安げな表情がようやく笑顔になった。


「は、ハイ!」

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