大切な気持ちⅣ

 しばしの沈黙の後、フィリーネはゆっくりと話し始めた。


「実は昨日……、別れた彼がわたしの元にやって来て、もう一度やり直そうって言ってくれたんです。勿論わたしは彼のことが好きだったのでその場で快諾しました。でも変なんです」


「変?」


「はい、そうです。とても変です。あれだけ好きで別れた後も辛かったのに、彼が来るその時までわたし、彼のことで悲しんでいなかったんです。勿論来てくれた時は嬉しかった。筈なのに、わたしその彼のことが本当に好きだったのか、ならば何で今の今まで平気だったのか、悩めば悩むほどわからなくなって…………。で、思い出したんです。わたしあなたたちと会ってから彼のことで毎晩泣いたり、思い出したりしなくなったんだって。これってあなたたちの言う〝憂鬱を買い取る〟ってことでしょう? 今でも少し信じられないけど、この〝変〟な感覚、もうそれしか考えられなくって」


「そうだね」


 ツルギは勿体ぶることなく、肯定した。


「でもどうしてかな、君は彼のことが好きだ。今でも。悩むことはないよ。やり直せたんだからそれで良いじゃないか」

「確かにそうなんですけど……」


 恐らく自身に湧き上がる感情を上手く言語化できずに苦しんでいるのであろう、フィリーネは今にも泣きだしそうな表情で言葉を紡いでいった。


「でも、その悲しい気持ちや感情は、わたしが彼のことが好きだったていう証なんです。彼に対する気持ちの大きさなんです。そんな大切なものを簡単に捨ててしまって、以前のわたしがどんなに彼のことが好きだったか、今ではもう知ることができないんです。だから返してください」


 そこまで聞いてツルギは真実を伝える。


「フィリーネよく聞くんだ。僕たちが一度買い取った憂鬱は返せない。良いかい? 返さないんじゃない。返せないんだ。そのことで僕たちを恨んでくれて構わない」


 それを聞いたフィリーネの目からは今まで耐えていた涙が溢れ出し、スカートに斑点を作っていった。


しばらく静かな嗚咽のみになったフィリーネは再び口を開く。


「もう取り返しがつかないんですね……わたしこの先彼に顔向けできない……」


 フィリーネはとても健気で良い女性だ。

 普通振られておいてこんな風には思えない。元はと言えば最初に振った男の方に責任があると、わたしは言いたかったが、口を挟まないでおく。

 こういう時はツルギの邪魔をしない方が良い。わたしは言葉にするのが上手くない。


「でもフィリーネ、君がもしあの時憂鬱を手放さなかったら、たった今湧き上がってくるその憂鬱は存在しなかったんだ。確かに君はもう、過去の憂鬱を尺度に過去の気持ちを量ることはできないのかもしれない。でも今君の中にある憂鬱は紛れもない今の君の気持ちだ。今君がその男のことが好きだからこそ苦しんでいるんだ。今の君の、その男に対する、気持ちの大きさの証明だよ」

「…………。確かにそうかもしれませんね。でもそれはわたしが、わたしの心が決めることです。軽々しくそんなこと言わないでください」


 苦痛を絞り出すような声でシエナは言った。


「悪かった」

 謝罪するツルギの言葉とは裏腹に、その表情は溜息混じりの笑みだ。


「これがあなたたちの仕事?」

「ああ。そうだよ」

「なんだか残酷な仕事ですね……」

「そうだね、それは僕たちが一番わかってる」

「でもやっぱりこれはお返しします」


 フィリーネは手にしている銀貨を、まるでとても汚いものでも手放すように、ツルギのベッドの上に置いた。

 そのことに対してツルギは何も言わなかった。


「では、わたしはこれで失礼します」


 服の裾で無理矢理涙を拭うと、フィリーネは立ち上がった。


 目元は少し赤くなっていたが、とても凛とした表情でこちらを見据える。


「こんなところまで押しかけてしまってごめんなさい」

 来た時と同じようにお辞儀をすると扉へ向かって行った。


「フィリーネ」

 それをツルギが呼び止める。


「一度買い取った憂鬱は返せないが、新たに買い取ることはできる。もし今の憂鬱に耐え切れなくなったらおいで。フィリーネ、たった今君の中に芽生えたその憂鬱、銀貨一枚買い取ろう」


 ツルギはベッドの銀貨を手に取り、一度宙に弾くと指で挟みフィリーネに示した。


 何故に最後になってわざわざそんなことを言うのだろう。


 わたしはツルギを睨みつけてやったが、当の本人は真っすぐフィリーネを見据えているので意味がなかった。


「結構よ。これは大切なわたしの気持ちだから」


 ツルギの声に首だけ振り向きそう言ったフィリーネは、決して体を向き直らせようとはせず、そのまま部屋を出て行った。


 乱暴に開け放たれたままになった扉の先にはシエナが立っている。

 

 シエナはこちらと目が合うとハッとして一瞬固まってしまい、その場を立ち去ろうかと僅かに体を動かしかけたようだが、結局観念してばつが悪そうにゆっくりとこちらへ向かって来た。


「ツルギさん、ごめんなさい。聞くつもりはなかったのですが。」

「いいよ。こっちこそ騒がせて悪かった」

「その……さっきの人は、何を返して欲しかったのですか?」


 わたしから見たシエナの性格からして、こういったことに踏み込んでくるのはあまり性に合った言動ではないのではと思ったが、それに勝る程ツルギとフィリーネの会話がただならぬものとしてシエナには感じられたのであろう。


「とても大切なものだよ。それを僕らが奪ってしまったから」

「それはツルギさんの仕事と何か関係が?」

「そうだよ」


 そしてツルギは取って付けたような理由を答えた。理由とも呼べない理由だ。


「国って国民から奪うのが主な仕事だからね」

 そんな皮肉を込めた返答に、シエナは寂しそうに目を伏せてしまった。


「ツルギさんはどうしてそんな仕事をしているのですか?」

「それしか選択肢が無かったからさ」

「そうですか……。でもそれなら同じですね、わたしと」

「それは、多分違うよ」

 そうとだけ、ツルギは答えた。


 ツルギの「違う」という言葉が何を指しているのか、わからないが、わたしたちだって仕事上客から感謝されて終わることも多い。


 だがわたしたちは、少なくともわたしは罪悪感や後ろめたさ無しでは客に向き合えない。


 あのおじいさんのことだって実のところ、正しいことをしているかどうかなんて、今でもわからなかった。


 でも、重篤な憂鬱を食べる時は、わたし自身もある程度辛い思いを共有しなければならない。その憂鬱の原因となった話を聞き、その内容と感じる憂鬱とを照らし合わせるからだ。


 憂鬱の種が判然とすればする程、わたしの心に強く刻み込まれる。それに周りの記憶を一緒に削いで食べてしまわないとならない時は、それがまるで自分に起こった出来事のように感じる。


 人の思いは、決して消えない。消えてはくれない。

 その人の中からなくなる代わりにわたしの中で生き続ける。


 それはきっと、消えてはならないものだからだろう。


 だから、この目からその悲しみが溢れる度に、どこか安心した気持ちにもなっていた。

 それだけが救いであった。


 何とも身勝手な、救いであった。




 シエナがいなくなってから私はツルギに問う。


「ツルギ?」

「なに?」

「どうしてツルギはフィリーネにあんなこと言ったの?」

「あんなことって?」


 ツルギはわたしの言いたいことがわかったのであろう、わたしが質問に答える前に観念したかのような声色で言葉を続けた。


「ナナ、僕たちは心の傷を癒すカウンセラーなんかじゃない」


 それは重々承知だ。


「人から大事なものを騙し取っているようなものだよ。国という後ろ盾があってね」


 次に言った言葉はわたしたちに対してというよりも、ツルギが自分自身に向けた自嘲に聞こえた。


 「大事なものを騙し取っている」。そのような言い方をツルギの口から聞くのは初めてであった。恐らく、わたしを慮ってのことであろう、わたしの鬼としての食事に対して、これまでツルギが蔑むような言葉を選ぶことはなかった。わたし自身言われたところで気にすることもないし、傷付きもしない。少なからずわたし自身もそう思っているのだから。


 だが今日は違った。恐らく表面上は出さないようにしているが、先程のフィリーネのことが原因だろう。


 わたしたちの仕事は褒めらたものではない。


 重々承知。わかっている。そんなことは。


 でも何故あえて嫌われるようにする必要がある。


 もし、そうすることがツルギにとっての自身が楽になる方法なのだとしたら、随分と乱暴だ。 

 わたしよりもずっと大人のクセして、こういうところはとても不器用だと思う。

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