大切な気持ちⅡ

「ナナ起きて、ご飯だよ」


 ツルギがわたしの名前を呼んでいる。


「ナナ?」


 そうわたしの名は「ナナ」だ。


「うーん……あと一分待って……」

「その調子でもう五分経つよ、ナナ」


 わたしはナナ。昔は違った。


 「ナナ」とはわたしを捕えた人間たちが付けた名前だ。勝手に。手前から数えて七番目の独房に入れられたから「ナナ」。名前と言うよりは囚人番号であった。


 ただ看守たちが識別しやすように、呼びやすいように、利便性だけを考えて付けられた。傍から見れば極めて非道な呼び名だ。


 だが、わたしはこの呼び名が嫌いというわけではなかった。


 それはゴやロクよりも響きが女性の名前っぽいというのも正直重要な点ではあるのだが、恐らく、国に捕えられてそう呼ばれるようになってから間もなくツルギと出会い、その時初めて人の優しさに触れたからだ。


 暗く湿った独房での暮らしはお世辞にも良い扱いを受けていたとは言えなかったが、それでもむしろ親から貰った本来の名前を名乗っていた時の方が酷い仕打ちを受けていた気がする。今でも思い出すたびに気分が悪くなる。


 それにこの名前はツルギとの大切な繋がりでもある。


「ほらナナ! いい加減に……って、うわぁ!」


 ツルギは最終的にわたしから無理矢理布団を引き剥がしたが、暑さから無意識に服をくしゃくしゃに丸め、紙くずのように脱ぎ捨てていたわたしの恰好を見て「服を着ろ!」と呆れながら怒った。勝手に裸を見ておいて酷い言い草だ。恥ずかしいのはわたしの方の筈なのに。 


 ロビーに降りると既に食堂の方から良い香りが漂っている。

 これだけで、この町での仕事がずっと続けば良いのにと思ってしまう。


「ほらナナ、ナナが好きなオニオンスープ」

「おお! ほんとだな!」


 席に着くと器から立ち上る湯気が顔にかかり、濃厚なチーズと、きつね色になるまで炒められた玉ねぎの香りが食欲をそそった。その香りだけでたちまち幸せな気分にしてくれる。こんな料理を作れる人間はまさに魔法使いのようだ。


 確か、以前シエナにオニオンスープが食べたいと伝えていた気がする。何とも客想いの店主だ。わたしが男なら是非ともお嫁さんにしたい。


 スープをひとすくい口に運び考える。


 あの時捕えられていた他の鬼の子たちはどうなってしまったのであろう。わたしのように有用性を見出されて、こんな風に温かい朝ご飯を食べていられれば良いのだが。


 でも現実はそう甘くはない。わたしの隣の房に入れられていた八番目の子のように捕えられた時には怪我が酷く、そのまま死んでしまった子も少なくないのであろう。


 食事は好きだ。こうして美味しいものを食べられるのはこの上ない幸せだ。もちろん人としての食事はだが。わたしが鬼として行う食事に人間の味覚としての味は無い。


 だがわたしは以前ツルギに対し失恋の味は濃いと表現した。それはただ、鬼としての空腹が、衝動が満たされるか否か、その度合いだ。満たされると同時に失っていくようでもある感覚。

 とても良いとは言えない。空腹を満たしたその瞬間は確かに満ちる感覚があるが、それもすぐに引き、あとに残るのは切なさや悲しみのみ。まるで麻薬のようだと思った。


 憂鬱の気配を感じて「美味しそう」だなんて思ったことはない。いつも口にするのは、そんな気持ちでわたしに食べられる人間に対し、申し訳なく思うが故のわたしの勝手な戯言にすぎない。


「ツルギさん」

 いつものようにせっせと仕事をしながら、シエナはツルギに話しかける。


「聞きました? あの時計塔、調査が入るみたいです」

 その言葉にツルギは口に運びかけたスプーンを皿に戻す。


「調査? それは国の正式なものじゃないね」


 国の決定であるならば、ツルギに通達が無いのはおかしいからか、ツルギは決めつけたように答えた。


 その顔は妙に強張っている。本人は必死に隠そうとしているが、ずっと一緒にいるわたしにはその微細な変化がわかる。


「はい、町だけでの決定です。もし何か町で対処できない問題があるなら政府に報告すると、昨日町役場での会議で決まったらしいです」

「あの時計塔の噂っていつからあるの?」


 「町の決定」と聞き、わたしたちが無関係であることがわかったからか、ツルギは依然として強張った顔にほんの少し安堵の表情を滲ませた。


「えっと……二年ほど前からかと」

「二年も放っておいたんだ、僕たちが出て行くまでそのまま大人しく待ってほしかったものだね」

 ツルギは残念そうに言いながらスープを口に運んだ。


 この辺りの事情はわたしには良くわからないが、何やら面倒なことになるということはツルギの表情から窺えた。


「あ、シエナ」

 立ち去ろうとするシエナをわたしは慌てて呼び止める。


「ハンバーグが食べたい」

 実のところ、わたしはどこまで要求が通るものか、試してみたくなっていた。


「こらナナ」

 ツルギはまるで子供を窘めるように小声で言う。


「良いんですよ。ハンバーグですね、わかりました」

「シエナ、君の宿はレストランじゃないんだ、真に受けなくていい。それにナナの意見だけで客皆の献立が左右されてしまっては、他の客たちに対してなんだか不公平だよ」


 こういうことに関してツルギは変に真面目であった。何が出てこようと恐らく美味しいのだから問題ないではないか。


「いえいえ、毎日献立考えるの結構大変なんですよ? 意見を貰えるとかえって助かります」

 そう気持ちの良い笑顔を見せ、今度こそシエナは仕事に戻って行った。


「ツルギ、ツルギは時計塔見に行かなくていいの?」

「なんで僕が? そんな指令は受けていない。それに言っただろう、面倒ごとは御免だ」

「指令を受けたら行くの?」

「まあ、そうだな。そうならないことを願っているよ」


 やはりツルギは時計塔の件に関わりたくないようであった。普段より機嫌も悪くなっている気がする。ぶっきらぼうな物言いが際立っていた。


「ナナは僕に時計塔の調査へ行ってほしいの?」


 ツルギが苦しむことになるのであれば、わたしとしてもそんな指令は来てほしくない。ケガだって、して欲しくない。

 ただ、指令に背いて今の仕事が続けられなくなるのも困る。だからツルギの質問に即答できなかった。


「わたしはツルギと一緒にいられる方が良い」

「んん?」


 当然真意が伝わる筈もなく、伝えるつもりもなく。ツルギは間の抜けた返事を返した。


「それよりも仕事だ。次の報告書までにまた成果を出さなきゃ」

「それならまずはこの宿にいる人はどうだ? ある程度時間が掛かる場合でも宿に泊まっている以上、どこかへ行かれる心配が少ない」

「なるほど」


 ツルギは感心した様子であった。


 子供扱いする反面、わたしの意見であってもそれが正しいとわかれば素直に受け入れてくれる、それがツルギの良いところだ。


「あのじいさんみたいにいちいち向かう必要も無いしな」


 余程あのおじいさんのことを根に持っているようだ。


「シエナはどうだ? 両親を亡くしてる」

「うーん……。シエナは少し違うかな。確かに悲しい過去は持ってる気配はするけど、すごい前向きな感情ばっかだったよ」


 食べようと思えば食べられなくもないが、そんなシエナからわざわざ大切なものを奪うのは気が引ける。どうせ奪うなら、それによって楽にしてやれる人間がいい。その方が罪悪感が少ない。


「そうか、それは良いことだ」


 ツルギはようやく薄い笑みを溢してくれた。

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