優さを忘れない為にも

 夜。僕とナナは食事を済ませ、部屋に戻ると一週間おきに義務付けられた仕事を始める。


 国へ送る報告書の作成だ。

 特段難しい内容ではない。


 ナナがどんな人間のどんな「憂鬱」を食べたか、報告書に記し、回収した承諾書と抱き合わせて管轄する部署に送るのである。


 そしてナナはナナで、僕とは別の報告書を書いている。

 仕事内容について書くのは専ら僕の役割で、ナナは自分自身の体調等について書くのだそうだ。確か、食欲はあるか、眠れるか、といった予め決められた質問事項があり、それ沿って答えるらしい。以前ナナから掻い摘んだ内容を聞いた気がするが、あまり正確には覚えていない。


 ナナはそれを僕に見られるのが恥ずかしいのか、いつも僕の見えないところ、今回はベッドの陰に隠れて報告書を作成している。封筒に入れる時はしっかりと折りたたんだものを僕の報告書と合わせて入れるので、僕が中身を見ることはない。未記入の用紙だって、ナナの分はナナの荷物として僕のものとは分けられている。


 僕には女性のそういった部分を覗き見る趣味は無いし、いつもの意地悪で見てやろうとも思わない。曲がりなりにも仕事中なのだから。その辺りの線引きはしっかりしているつもりだ。


「ナナ、終わった?」

「ううん、もう少し待って」


 ナナの報告書が義務付けられた理由としては、ナナの体調を慮ってのことではなく、あくまでも実験対象の管理としての意味合いが強いのであろう。僕の報告書と照らし合わせて「憂鬱」の大きさと、それからくる精神への影響を知ることで、大まかな耐久度を測っているといったところか。いかにも実験道具らしい扱いだ。その熱意に最早感心すらする。まあ、こちらはその熱意を反対に利用させて貰っているわけだが。


「ツルギ、国はこんなことにお金を使ってて良いのかな? もっと困ってる人たちの為に使った方が国の犯罪は減ると思うんだけど」

 ナナが報告書にペンを走らせながら唐突に言った。


「僕もそう思うよ。でも、王様含め国の人間たちの感覚は僕たちのとは少し違っているんだ」

 でもそのお陰でナナはこうして柔らかいベッドのある部屋で寝泊まりしていられる。


「こんな奇抜な犯罪抑止の提案は喜んで受け入れてくれるけど、率直に貧しい人を国が援助してはどうかなんて提案したところで『パンが無ければケーキを食べればいい』だなんて類のセリフ、本気で言いかねない」


 それはその昔、身勝手で世間知らずな貴族が使った言葉らしいのだが、今の国王が使うとしたらそういった世間を知ったうえであえて皮肉として口にするに違いない。提案を鼻歌混じりに切り捨てる嘲笑の言葉として。国王含め今の彼らはそれが単純で根本的な解決になる内容であっても見向きもしない。解決できるかどうかではない、結局のところ興味が湧くか湧かないかでしか図ろうとしないのだ。


「それ知ってる、名言」

「ナナ、名言っていうのはそれなりに苦労している人が言うものだよ」

「そうなの?」

「そうだよ。苦労していない人間の言葉が心に残るとしたら、それは少なからずその言葉が人の心を傷つけているからだよ」


 傷つけて、刻み付けて、刻み込んでいるから。


 それは以前僕が人から聞いた話なのだが、現代に残る過去の言葉を鑑みると的を射ていると乏しい知識の中で妙に頷いていた。


「うん、良いよ」


 ナナはそう言って、しっかりと三つ折りにした報告書を僕に渡した。

 僕はそれを自分のものと重ねるとナナの目の前で封筒に入れ、封をする。

 宛先は局の名だけ書いておけば、細かい所在地を記載しなくともそれだけで無事届く。政府機関宛の届け物はそういったところが便利であった。まあ、それだけだが。


「配達所は確か駅の近くにあったね」

「うん」

「明日ナナも一緒に行く?」

「うん、そうじゃないとツルギ道迷っちゃうでしょ?」

「そうだね。助かる」


 ナナの生意気な言葉にあえて対抗してやるでもなく、そう言うと僕はベッドに横になった。それを確認してかナナも自分のベッドに入る。


「僕はナナに助けられてばかりだね」

「そうだよ、そのうち何かお返ししないと」

「例えば?」

「うん、じゃあさツルギ……」

「なに?」

 僕は部屋の天井を眺めながら答える。


「今夜はツルギのベッドで寝て良い?」

 唐突にナナが言う。


「良いよ」

 だから僕は答えてやる。いつもの調子で。


「そしたら僕はナナのベッドで寝るから」

「ツルギの意地悪」

 ナナはベッドに横になったままその小さな頬をぷくっと膨らませた。


「今更気付いた?」

「前から気付いてました!」


 やけになった声色でナナが答える。

 そしてナナは徐にベッドから立ち上がり、僕の掛布団を乱暴に引き剥がした。


「お、おい!」

「こ・う・か・ん!」


 何もそこまでやけにならなくても良いのに。


「わかったよ」


 僕は自分で言ってしまったことに責任を持つ為、一度ベッドを立ち、しぶしぶとナナのベッドに横になる。

 微かに残るナナの体温が背中に伝わった。先程まであの小さな頭が乗っていた枕からは、何だろう、微かに花のような良い香りがした。居心地が悪い。何とも名状し難い感覚だ。


 ばふっ! と、ナナは先程まで僕が横になっていたベッドにうつ伏せで飛び込む。


「どう?」

 感想を聞いてやる。


「ツルギの匂いがする」

「どんな?」

「わかんない。なんか男の人の香り」

 そう言ってもぞもぞと僕の枕に顔をうずめていた。


「なんか落ち着くかも」

「そう」


 こっちは全く落ち着かないのだが。


 同じ仕様のベッドと布団である筈なのだが、全く違うものに感じた。不思議なものだ。

 こんな僕の様子を前の仕事の同僚が見たらどう思うだろう。軽蔑されるかもしれない。


「ふぅ……」

 と小さな息を吐いて、ナナはそのもぞもぞとした動きを止めた。


 外から微かに風の音が聞こえる。それ以外はとても静かな夜だ。


「ナナ、大丈夫?」

「うん? 何が?」

「あのじいさんのこと、辛くない?」

「何で? これは鬼としての食事だから、わたしにとって必要なことでもあるんだよ? それにあのおじいさんのことはわたしがやりたくてやってるんだから」

「そうだったね」


 では何故あの時涙を流していたのだろう。何故ナナが悲しむ必要があるのだろう。

 もしナナが言うように生きる上で必要なことなのだとしても、それによって涙を流さなければならないのだとしたら、それは辛いことではないのであろうか。


「ツルギはさ、人が何で憂鬱な気持ちになると思う?」

 ナナはそう尋ねる。呟くような声色であった。


「嫌なことがあったから、とか?」

 僕は深く考えずにそう答えた。


「違うよ。何で人間の頭がそんな気持ちになるようにできているかってこと、必要ないものなら、ただ苦しいだけのものなら、長い歴史の中でそのうちなくなってもおかしくないでしょ?」


 それは人間という生き物としての進化とか退化というようなことを言いたいのであろうか。


「必要なものってこと?」

「うん。必要だし、大切なものなんだよ」


 それはどんなものであれ人を形作る一部だから、そんな持論が頭を過る。

 だが、ナナに対してそんな思いを口に出したことはなかった。それはナナ自身を否定してしまうことに繋がるのだから。僕はあえてわからないように振る舞う。


「何でそう思うの?」

「ツルギ、憂鬱な気持ちっていうのはね」


 ベッドに寝そべったまま首を横に向けると、少女のガラス玉のような大きな双眸と目が合う。


「人が優さを忘れない為に、必要なんだよ」


 ナナの瞳はどこか悲しみを含んでいるかのように揺らいでいた。


「自分を見つめなおす為にも、大切なことなんだよ。辛くてもきっと、大切なことなんだよ」


 その瞳を眺めながらも僕は、何も言うことができなかった。


「だから、なくならないんだと思う」


 そう言ったナナの表情はあの虚ろなものであった。

 その表情を見ていると悲しい気持ちになると同時に、どこか優しい温かさにに包まれるように感じた。僕の中から何か暗いものが吸い出されるような、そんな浮揚感を感じ、心地良くもあり、けれども言いようのない不安が込み上げてくる。


 不安で、不安で…………、

 それが耐えられなかった。


「ツルギ、ごめんね」


 そう言ったナナの瞳から涙が一滴零れた。


 何に対して謝られたのか、わからなかった。尋ねようとも思わない。

 僕は天井を仰ぎ、それを見ないようにする。


「ナナ、ケーキ食べに行こうか」


 なんて臆病で卑怯なのだろう。ついに耐え切れなくなり、咄嗟に話題を変える。


「良いのか?」

 案の定、ナナは目をぱちくりさせ、僕に確認の眼差しを向ける。


「良いよ、ナナは最近頑張ってるからね」

「じゃあイチゴのケーキとチョコレートのとモンブランが食べたい!」

「ほんとに食い意地張ってるね、ナナは」

「鬼だからね!」


 小さな鬼は何故か得意げにベッドの上で胸を張った。

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