後悔とそれからⅤ

 気分転換に僕は一人町へ出た。


 今日もナナは一人であの老人のいる例の草原へ足を運んでいる。


 何度も足を運んだところで承諾書のサイン一名分が増えるわけでもないので、そろそろ他の取引相手を探した方が賢明かもしれない。


 局長含め、国の連中に適度に仕事をこなしているアピールをするのは大切だ。ナナに対する彼らの興味が削がれないように。


 だが、かといって過度なアピールも良くない。


 ナナは、時間をかければ「殺意」や「憎悪」といった、強く、極めて重篤な負の感情なんかも食べることができる。それこそ関連する記憶の大部分を削ぐ形になっても構わなければ。


 だがあえてこのことは局長含め、政府への報告を怠っている。ナナが使い物にならないと判断されれば簡単に見限られてしまうであろうが、使え過ぎてもそれはそれで良くないのだ。


 彼らには本物の犯罪者のような人間に対処できる力ではなく、あくまでも犯罪者予備軍に対する未然防止程度の力と思わせておく必要があった。程よく、中途半端に。


 中途半端だからこそ、今の任務内容を言い渡されているのだ。鬼としての力の度が過ぎると、それはそれで過酷な運命が待ちうけるであろうことは想像に易しい。こんな風に呑気に散歩すらできなくなるに違いない。


 僕はあえて時計塔とは反対方向の道へと進んだ。


 目的も無いのでどこまで歩くか決めているわけではなく、僕は道の続く限り適当に歩を進めた。帰りに迷うといけないので、極力曲がらずにひたすら真っすぐと。


 いつしか家や何かの店らしき建物は少なくなり、代わりに木や、いつしか僕の進行方向へ沿って流れる水路だけの景色になった。

 

 途中水路が曲がって僕の進行方向と交差した所に、短い石製の橋が架かっている。それを越えると、程なくして僕は木々が生い茂る森の入口へと辿り着いた。


 日の遮られた木々の間には闇がどこまでも続いて見えた。


「別に何も無かったな……」


 もちろん森に入るわけにもいかず、僕は踵を返し、来た道を戻ることにする。


 そして来た時にも渡った橋の中腹あたりに差し掛かると、僕は立ち止まり、少し考えてから欄干に腰掛ける。


 そこは程よく風が吹いており、流れる水の音が涼しげで心地良かった。


 空は相変わらず青い。


 しばらくぼーっとしていると、一人の男が橋を渡ってきた。

 そして徐に僕の斜め正面、反対側の欄干に向かい合う形で腰掛けた。


 若い男だった。

 何らかの力仕事にでも従事しているのであろうか、その体格は小奇麗なシャツの上からでもわかる程逞しかった。顎には髭を蓄えていたが、レナードのようなだらしない印象は無く、綺麗に手入れがされているようだ。短く切り揃えられた髪にはポマードが塗られており、日の光で微かに輝いている。


「はぁぁぁ…………」


 男はこちらまで聞こえてくるような大きな溜息を吐いた。

 

 何やら憂鬱そうだ。だが今は僕一人、どうすることもできないのでその場から離れようと腰を浮かしかけたその時であった。


「兄ちゃん見ない顔だね。旅の人?」

 予感はしていたが、案の定男に話し掛けられてしまった。


「え? うん、まあね」

 仕方なく浮かしかけた腰を再度欄干に落ち着ける。

 まあ、することもないのだし、良しとしよう。


「兄ちゃんさぁ、人生で後悔したことある?」

 あまりにも唐突だ。


「あるよ、数えきれないくらいね」

「そっかぁ。兄ちゃん見かけによらず大人だなぁ。俺はさ、まさに今、壮絶に後悔してんのさ」

「聞くだけで良ければ聞くけど?」


 あまり聞きたくはないが。


「悪りぃな。落ち着かなくてよ」

 そう言うと男は立ち上がり、僕の隣に腰掛けた。


「俺さぁ、付き合って二年くらいになる彼女がいたんだ。美人でよぉ、それに優しくて、誰に見せても恥ずかしくない自慢の彼女だった」

「別れたの?」

 何となく想像が付いたので先に言ってしまう。


「俺から別れを切り出したんだ。他に気になる人ができてよぉ。最低だろ? でも彼女のことは好きだったんだ。その時も、今も。でもなんだろうな、考えちまったんだ、俺には合わないんじゃないかって、いつか長く一緒にいるうちに俺の方が嫌われるんじゃないかってな」


「で、その気になる人ってのは? 合いそうだったの?」


「まあな。そいつとは仕事で出会ったんだ。性格は彼女と比べると大ざっぱで男勝りだったけど、どこか気を許せるようなやつだった。そういうやつの方がこの先長く一緒にいる上で良いんじゃないかってな、そう思ったんだ。逆に別れた彼女の前だと緊張しちまうんだ。笑うだろ? 二年経つ今でもだぜ?」


「それでその人に告白したのか」


「いいや、してない。俺は二股なんてそういうのが我慢ならなかったから、まずはキッパリ彼女と別れようとした。でもな、別れを告げた後も彼女は俺に会いに来た。何度も何度もだ。俺は正直驚いたよ。そんな必死な彼女の姿初めてみたからよぉ。あいつはいつだって綺麗で清楚で大人しくって、そんな必死になる姿なんて想像もしてなかったから。それがさ、何日か前からぱったり会いに来なくなったんだ。何故だかな。そしたら急にあいつへの想いが大きくなり始めてよぉ」


「それで今後悔してるって?」


「そんなところだ」

 男は自嘲気味に笑った。


「だが言っちまった手前、どの面下げてまた元の恋人のとこに戻って良いかわからねぇし、こんな酷いことした男なんかよりもっと良いやつ探した方があいつの為だとも思う。だから、壮絶に後悔してんだ。一度でも俺と一緒じゃない方がだなんて考えちまったことをよ」

 男の話は大体わかった。わかって、それだけだ。


「兄ちゃんはどう思う?」

「知らない」

 聞くだけという約束だったので、それについて真剣に考えてやる義理は無い。

「そりゃそうだ!」

 僕の無責任な回答に男は声を上げて笑った。


「でもよ、話したら何だか少し楽になったぜ。ありがとよ兄ちゃん」

「どういたしまして」

 僕は特に何もしていないのだが、お礼を言われたので取りあえずそう返しておく。


「ところで兄ちゃんはいねぇのか? 良い相手」

「いないよ。今は特に欲しいとも思わないし」

 そんな相手がいては今の仕事は難しいだろう。

「まあそんな相手がいちゃぁ旅人はできんわな。悪かった、変なこと聞いた」


「まあ、この先僕にもそんな人ができるのか、わからないけど、そういうのって無理に探すものじゃないでしょ?」

「確かにな、彼女との出会いも運命的だった。ダメもとの告白も受け入れられて、あん時は奇跡の連続だと思ったな………………。そうだよ……奇跡だった……」


 そこで男は黙り込んでしまう。


 だが、少し間があって急に男は立ち上がって叫んだ。


「決めたぜ兄ちゃん! 俺彼女とやり直すわ!」

「そう」

「おうよ! ホントにありがとよ! 兄ちゃんのおかげだ!」

 何もしていない。


「兄ちゃん気に入ったぜ、今度酒でも飲もうや。奢るぜ?」

「遠慮しとく。酒、苦手なんだ」


 僕が好意を断ると、それを大して気にする様子もなく、「じゃあな」と威勢よく一言、去って行った。


 僕は一緒に歩くことになるのが嫌だったので、もう少しここに座っていることにする。特段あの男のことが嫌いなわけではない。

 

 ただ、ああ真っすぐな人間を正面から受け止めることを僕が苦手としているだけだ。どうしても変に角度を付けてしまう。そうしてしまうことが褒められたことではないとわかっているからこそ、耐えられなくもあるのだ。


 賑やかな男がいなくなって、辺りは再び静寂に包まれた。

 流れる水の音が思い出したかのように耳に入る。


「後悔なら…………」


 後悔なら、数えきれないくらいした。

 それがいつしか後悔だとは感じなくなる程に。


 でも、もしその後悔が無かったとしても、僕の人生にはまた別の後悔が待ち構えていたに違いない。そういうものだ。


 そう考えでもしないと心を上手く保てなかった。あの時は。


 僕は前の仕事で鬼と呼ばれる者たちを殺した。


 それも数えきれないくらいたくさんだ。


 そういう仕事だった。


 命令するのが専らの仕事である上官様たちは、鬼は人ではないとしきりに、あるいは熱心に僕たちに講義していたが、実際に戦場に立つ僕にはとてもそうは思えなかった。熱心な教えは一瞬で無に帰した。

 

 怒り、恐れ、自らの為に、仲間の為に抗う彼らは、どうしようもなく人間だった。少なくとも僕の目にはそう映った。


 彼らの首筋に刃を食い込ませてやれば、その顔は苦悶に歪み、やがて血を噴きながら倒れる。血と憎悪と悲しみにまみれた死に顔は、その度に僕の目に焼き付いた。深く深く、まるで呪いのように。


 だからその時思った。


 ああこれが人を殺す感触なのだと。


 だが、それも最初のうちだけだ。すぐに慣れた。


 後悔と罪悪感からくる吐き気は日を追うごとに次第に少なくなり、やがて、その日殺した者の顔を覚えなくなった時、僕は毎晩のように便所に籠る必要がなくなっていた。


 それに気付いた時、後悔しない代わりに今度は言いようのない恐怖に襲われた。


 僕はもう人間ではないのでは、と。


 だから僕は自ら退役を申し出た。そんな新たに生まれた恐怖すら薄れてなくなってしまう前に。


 でもその時僕は、不本意ながらも隊の中でも極めて優秀な方だったらしく、引き止めたかった彼らから半ば無理やり別の仕事を割り当てられることとなった。


 捕らえた鬼を収容する施設の刑務官だ。


 他に行くところも無かった僕は仕方なく、その仕事を受けることにした。戦場に出さえしなければ、もう何でも良かったのかもしれない。恐らくその時はそんな気持ちだった。


 そしてその仕事がナナと出会うきっかけとなった。


 僕はもう辞めたいのに。もう殺したくないのに。


「それなのに」


 欄干から飛び降りる時、背のシャツで隠しておいた腰のシースナイフが淵にぶつかり、かちゃりと音を立てた。

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