後悔とそれからⅣ
それから早くも三日が過ぎた。
ここイサリースにおける追加任務を受けて、僕がまず何をしたかというと、実はまだ何もしていない。
開き直るわけではないが、本当に、驚くほど何もしていない。
ただ、何も考えていないわけではない。
むしろ考え過ぎて読んでいる本の内容が頭に入らないほどだ。
期日を設けられているわけではないので、そのことを国からどうこう言われる筋合いは無いのだが、それでも限度というものがあるのはわかっている。
コーヒーの香りと共に柔らかいソファーに身を任せ、思案気な首の体たらく、そんな毎日であった。だが、思案によって圧縮された時間は掛け値なしに何倍もの速度で過ぎ去って行く。
取りあえず、時計塔の中を確認しないことには何も始まらない。まだこの町における吸血鬼の話は噂の域を出ていないのだ。希望的観測かもしれないが、もぬけの殻でしたという落ちの可能性はゼロじゃあない。
まあ、その時は女子供を狙う誘拐犯が町に潜んでいる可能性という新たな問題が浮上してしまうのだが、自分勝手ながらそちらの方が幾分かマシに思えた。とにかくこの一件が僕の管轄外になることを願っている。
僕はまず、追加任務の額面通り時計塔を調査して、それから後のことを考えることにする。特に予測が付く事柄に対して思考を先延ばし先延ばしにするのはあまり建設的とは言えないが、こんな状態で無理やり考えても妙案が浮かぶとは思えなかった。
いや、妙案ではない。覚悟といったところか。
「元気ないですか? ツルギさん」
その様子を案じてか、シエナが不安げにこちらを覗き込んでいた。声を掛けられてからそれに気が付く。
「ああ、いや、ちょっと考え事」
「そうですか。コーヒーのおかわり、いかがですか?」
「もう大丈夫。ありがとう」
まったく、こんな寧日がない日々に戻るのはうんざりだ。
僕はさらに今から三日後を時計塔の調査日に定め、一旦この任務を忘れることにする。
そうでもしないとストレスでどうにかなりそうだ。ナナにはあえて話してやる必要は無いだろう。その時は僕一人でこの任務を終わらせる。それで元の自分勝手で悠々自適な任務に戻れるのだから。
シエナは一度離れたかと思うと再び僕のも元へやってきてテーブルに何かを置いた。
それはグラスに入れられた蝋燭のようであった。シエナは徐にマッチでそれに火を付ける。するとすぐに花の香りが立ち上る。
「シエナこれは?」
「ラベンダーのアロマキャンドルです」
よくよく見るとそのグラスは普段食堂で出されるものと同じものであった。
「もしかしてこれ……」
「はい、わたしが作りました」
「器用なものだね」
「いえいえ、材料さえあれば難しくありませんよ。考え事は大事ですけど、少しはリラックスできるかと思いまして。ラベンダーの香りには気持ちを落ち着かせる効果があるんですよ?」
僕に褒められたシエナは恥ずかしそうにはにかんだ。
「何から何までほんとに悪いね」
「先日頂いたお花のお返しです」
「いや、色々良くしてもらい過ぎだよ。シエナ、僕に何か手伝えることがあったら何でも言ってくれ。料理はまだまだ手伝えそうにないけれど」
昨日の厨房でのこともあり、心の底からそう思った。割の合わない好意を貰いっぱなしというのは性に合わない。
「そ、そんな! 大丈夫ですよ! ツルギさんは大切なお客様なんですから」
シエナは両手をぶんぶんと振って焦ったように答える。
「そう、僕もその方が気が楽なんだけど」
気が楽というよりも、何か別の仕事でもして気を紛らわしたかった。
「そ、そうですか……」
少し考え込んでから、
「実は一つ困っていることがありまして、夕方になれば雇っている人たちが来てくれるのでそれまで待とうと思っていたのですけど、もしツルギさんにお手伝い頂けるなら……」
ようやく言いにくそうに切り出した。
「良いよ。どんなこと?」
内容を聞くより先に僕は了承した。
シエナは厨房から元は食材か何かが入っていたであろう木製の箱を持ってきた。それを階段脇の本棚の前に置く。古びた木の箱は底が歪んでいるのか、ぐらぐらと不安定であった。どうやら手の届かない高さにある本を取りたいらしい。
「本当は木製の脚立があったんですけど、場所を取るので外に出して置いたら雨に濡れて腐ってしまいまして。私が乗って本を取るのでツルギさん、箱を押さえておいて頂けますか?」
料理の手伝いとまではいかないまでも、もう少し僕のできる範囲で難しいことを期待していたのだが、本人が躊躇う割には簡単な仕事であった。
「なんだそんなこと。良いよ、いつでも」
僕は箱を両手で押さえた。
「では、いきます!」
シエナはその箱に乗り、ぎしぎしと音を立てながら本棚の最上段を確認する。箱の幅がそこまで大きくない為、仕方なく近づいてしまっている僕の鼻先にスカートの裾がシエナの動きに合わせて触れ、とてもむず痒かった。
「あ! ありました! ツルギさん! これです!」
そして目当ての一冊を見つけたのか、大きな本を両手で引っ張り出そうとした。
だが、いかに掃除の行き届いている宿であっても、さすがにそのような場所まではマメにできないのであろう、本を引き出した瞬間細かい埃が舞った。
「「くしゅん!」」
僕はスカートの端に鼻をくすぐられ、シエナは舞った埃を吸い込み、もはや奇跡とも思えるタイミングで僕たちは同時にくしゃみをした。
不意に出たくしゃみの反動でシエナはバランスを崩し、後ろ向きに倒れてしまう。
「きゃっ!」
シエナの短い悲鳴を聞くより先に、僕は木箱から手を放し、両手でシエナを抱きとめる。
自身の身に何が起こったか理解できていないようで、シエナは大きな本を胸元に抱えたまま僕の腕の中にいた。それなりの衝撃を予想覚悟していたのだが、拍子抜けするほどその体は軽かった。
手にある本のタイトルを見る限り、それはハーブの調合に関するものであるようだ。
「大丈夫? シエナ」
数秒経ってようやく思考が追いついたのか、シエナがはっとした表情をしたので。僕はゆっくりと地面に下してやった。
「大丈夫?」
一言も発しないのが気に掛かり、もう一度訪ねる。
「大丈夫じゃないです…………。いえ! 大丈夫です!」
そう言って小走りに逃げるように去って行った。
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