鬼としての食事、人としての食事Ⅶ

「ツルギ? 起きて」


 ぺし、ぺし、と何か柔らかいものが頬を叩く。その感触で目が覚めた。


 すっかり重くなった瞼を開くと、ぼんやりとした視界の端に僕を見下ろすナナの顔が目に入る。


 柔らかい感触の正体はナナの小さな手のひらであった。


 いつもは僕が起こす側なのに、反対のことをされるのは幾分新鮮な気分だ。それでいて少し面映ゆい。


「ああごめん」

「すごく気持ち良さそうに眠ってたね」


 そう言って微笑むナナの目元は、泣き腫らしたようにほんのり赤くなっていた。


 空はすっかり日が落ちかけ、夕焼けの草原は静かに揺れている。昼間と違ってどこか物悲しい景色に見えた。

 

 遠くの時計塔は夕日に照らされてその荘厳さを増しており、ぼんやりとした僕の頭は、どこかの絵画で見たような情景と錯覚してしまう。希薄な意識の中で夕日の中を飛ぶ黒い鳥の影が現実の風景だと証明してくれた。


 ナナの顔に視線を戻すと、ガラス玉のように揺らぐ右目から不意に一滴、小さな涙が零れ落ちた。


 ナナはそのことを全く意に介していない様子で僕に手を差し伸べる。


 僕もナナに向かって手を伸ばすと、自力で体を起こしながらそのまま差し出されたナナ

の手を通り過ぎる。そしてそれに少し戸惑うナナをよそに一筋に濡れた頬を拭ってやる。


 僕の手が触れると、ナナはびくりと小さな体を揺らした。


「悲しいの?」

「うん」


 頬に手を添えられながらナナは小さく頷く。柔らかく、それでいて張りのある感触が僕の手に伝わった。


「とても悲しかった。色んな悲しいことがあったの。それをたくさん見てきた……。でもね、おじいさんの心はどこも温かくて、優しくて、それが余計に……」


 悲しかった、と言って俯く。しかしナナのこんな表情は初めてではなかった。重度な「憂鬱」を食べた時はいつもこうだ。

 そうでなくても、ふと思い出してしまうのだろうか、僕と一緒にいるだけの時にも時折見る表情である。理由はわからない。何と表して良いかわからない。

 まるで虚空を掴むような、そんなどこかやりきれない表情。


 僕があの老人を食べることに反対したのは、厄介事以上にこれが理由であった。


 僕は立ち上がるとナナの頭を優しく撫でてやる。

 それくらいしか、僕にはできなかった。


 僕には何もすることができない。


「じいさんは?」

「もう行っちゃったよ、昼間はいつもここに来るんだって」

「そうか」

「ツルギ? また会いに来ようね? おじいさんに」

 当初反対していた僕にナナは不安げな眼差しを送る。そんな表情をされてはどうしようもない。何度も頭の中で反芻する。僕には何もできない。


「そうだね、書類のサインも貰い忘れちゃったし」

 僕は懐から取り出した承諾書をナナの前でひらひらと主張した。


 そういえば了承すら得ていなかった。これでは強奪と何ら変わらない。

 本人が気付いていないだけにたちが悪い。強奪というよりもスリや盗みに近いだろう。そんなこと、今のナナには口が裂けても言えないが。


「うん!」

 ようやくナナの顔に笑みが戻る。


 心配が無いといえば嘘であった。いくら鬼として必要なこととはいえ、あの老人のような重度な「憂鬱」を食べ続けて大丈夫なのであろうか。ナナの心が壊れてしまったりしないであろうか。


 夕暮れの帰路。横を並んで歩く少女の小さい体を確認する。


 ナナは「憂鬱」に対し「美味しそう」だと言うことがあるが、顔を見ればそれが人間としての食事とは全く異なる感情だということくらいわかる。


 鬼は人を食べて何が満たされるのであろう。その反面、もし何かが満たされる代わりに何かを失ったりしていたら、その分僕はナナに対して何をしてあげられるのであろう。失ったモノの代わりに僕が何かになれるであろうか。


 町は夕日色に染まり、地面には街灯が規則正しく長い影を落としている。見渡せばせっせと店仕舞いをする人々が目立つ。


 不意に隣に視線を戻すと、ナナの雰囲気が変わっていた。雰囲気というか、具体的には髪型だ。昼間に買ったお菓子の袋に結ばれていたリボンで髪を結わいている。


「どうしたの? 急に」

「どう? 大人っぽくなった?」

「そうだね」


 長い髪がまとめられて普段よりも露わになった少女の丸い面は、三割増しくらいで余計に幼く見えたが、せっかく得意げな顔をしている本人をがっかりさせてしまうと思って黙っておく。

 

 僕だって意地悪のタイミングくらい心得ている。


 宿を目指してしばらく歩くと、前から来た若い男女二人組とすれ違った。恋人同士であろう、仲睦まじく手を繋いでいる。すれ違う二人組に合わせて微かにナナの首が動いていた。


「なんか、良いね。ああいうの」

 二人組との距離が十分に遠ざかった頃にナナはそう呟いた。


「そう?  僕たちも繋いでみる? 手」

 元々目元を赤かくしていたナナの顔は、みるみるその頬まで染まっていく。それが夕焼け空の下でもはっきりとわかった。


「ツルギが繋ぎたいならいいよ」

 ナナはよくわからない対抗意識をぶつけてきた。


 それが面白くて言ってやる。

「いや、僕は別に繋がなくてもいいよ」

「…………。わたしも別にいい……」

 ナナは顔を赤くしたまま、頬を膨らませる。


 それを見て見ぬふりをしていると、しきりにナナが僕の方へ体を寄せてくる。何事かとナナに視線を送ろうとするが、こちらを見ようとしない。

 正直歩き辛かった。

 ついには何度か互いの手の甲が触れ合い、根負けした僕はナナの手を握ってやった。


「ふへへへ」


 自分から身を寄せてきておいて、ナナは照れくさそうに笑う。先程よりもずっと顔が赤くなっている。


 こうしてナナの手を握ったのは初めてかもしれない。その小さな手の柔らかな感触に、力の入れ具合がわからなかった。

 それ以上にこういう時ナナに対してどんな感情を抱いて良いのか、わからなかった。恥ずかしいような、嬉しいような、後ろめたいような……。

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