鬼としての食事、人としての食事Ⅲ
町を散策しながら、シエナから教えられた方角へ向かってしばらく歩くと、次第に建物の並びが途切れ、やがて一面緑の草原が広がる場所に辿り着いた。
「とても綺麗だな、ツルギ」
「ああ、とても綺麗だね、ナナ」
とても広く、見渡す限り緑が広がっている。ところどころ鮮やかな赤や黄色の花が密集するように咲いていて、確かに綺麗であった。
その場に腰掛けると、草花の香りを含んだぬるい風が優しく頬を撫でる。
ふと見れば、牧畜か何かに使われていたのであろうか、牛舎のような建物が悠久の時を経たかのごとく朽ち果てており、その外壁を緑の蔦が覆っている。得も言えぬ哀愁を漂わせていた。
遠くの方では一人の老人が景色を眺めながら、気持ち良さそうに葉巻をふかしている。
こういうところに足が向く人の気持ちはわからないでもなかった。何も考えない時間。それほど貴重なものは無い。シエナのように毎日忙しなく働く者にとってはなおさらだ。
仮に金で買えるとしたら、前の僕なら大枚をはたいていただろう。
「あの時計塔、止まってるのかな」
横に並んで座るナナが正面にそびえ立つ時計塔を見て言ったが、その手に目をやると既にしっかりと袋から取り出したクッキーがあった。
「たぶんね、だって時間がでたらめだ」
時計の時刻を読んで僕は答える。
いくらか近づいたからか、草原を越えた先、丘の上の時計塔は余計に大きく見え、何とも筆舌しがたい荘厳さ感じる。古びてなお、その威厳を失っていないようである。
その上で針が止まってしまい時を刻めない、生まれた時の使命をまっとうできない様は、見る者をどこか悲しい気持ちにさえさせると思った。
それと同時に時間にとらわれない、ゆっくりとしたこの町での生活を映し出しているようで、不思議と和やかな気分にさせた。
時間に追われ、使命に縛られた過去を風化させたような、まるで今の僕の心を具現化したかのような景色だ。
「ツルギはあの中が気になるか?」
「まさか、僕は自分から厄介ごとに首を突っ込んだりしないよ」
「いるのかな、吸血鬼」
「さあね。それよりナナ、それ一人で全部食べる気?」
クッキーの次にマドレーヌを手にしたナナに僕は尋ねる。
「やっぱりツルギも欲しいの?」
「違うよ、太るんじゃないかと思って」
僕は悪戯っぽい笑みを浮かべ、言ってやる。
「…………」
ナナは黙って手に取ったマドレーヌを袋に戻しすと、わざとしくそっぽを向いて見せる。
「冗談だよ、ナナ」
頬を膨らまし、拗ねてしまったナナに慌てて取り繕おうとするが、手遅れのようだ。
僕はナナに限らず、女性に対してこういった意地悪をよく言っていた気がする。性格に少し問題があるのかもしれない。だがそれはずっと以前の話だ。
そこで思い留まる。
僕はそんなに女性と接した経験があったであろうか。何となくそう感じたのだが、具体的に思い出そうとすると上手くいかない。どうも僕は記憶力が乏しいらしく、昔の思い出も断片的にしか思い出せなかった。
だが、前の仕事に就くまでは比較的良い思い出が多かった気がする。辛うじておぼろげに頭にあるものも、このまま少しずつ忘れてしまうのであろうが、でも、不思議とそのことが気にならなかった。
「ツルギは意地悪だ」
ようやく口を開いてくれたと思ったが、拗ねていることに変わりないようだ。
「そうだよ、今更気付いたの?」
「前から気付いてた……」
ナナはそう言うと、草の上に倒れ込み、仰向けになった。
僕も真似をしてそのまま仰向けになる。乱暴に倒れ込んだが為にナナのスカートが捲れてしまっていたので、僕の手がナナの太ももに触れないよう注意を払いながら、布地だけ摘まんでをそっと直しておく。
僕はナナに対して余程意地悪な言動を取ってきたらしい。
「悪かったよナナ、許してくれ」
「うん」
空は雲一つ無く、日差しが眩しかった。
思わず目を閉じる。
風に揺れる草の音だけが耳に入り、ずっとそれに耳を傾けていると、どこかに吸い込まれていくような心地良さを感じた。
瞼の裏に残る残光は次第に治まり、微かに赤い色がちらちらと揺らめいている。
その揺らめきの形を瞼の裏で追っていると、だんだんと時間の感覚がなくなっていくようであった。
しばらくこうしていよう。そう考えて思考を停止させる。
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